学会にて興味深い報告を聴いた。教員の受け持ち時間と業務負担感との相関がそれなりに認められる、という趣旨である。
もちろん、受け持ち時間といっても教科による業務量の違いは容易に想定できる。たとえば、事前・事後の準備がより必要な教科とそれほどでもない教科の違いは、大きいだろう。たとえば、生徒のノートチェックや添削などの機会が多い国語や英語の教員と、授業時間でほぼ教育業務が終わる体育や美術の教員の業務量はどうだろうか。くわえて、一回の授業あたりの生徒数についても考えなくてはいけない。たとえば10数人のクラスと40人に近いクラスでは、授業中もさることながら、授業前後の負担もかなり異なるだろう。持ち時間が多いから業務負担感が強いと言ってよいのだろうか。
とまれ、学校教育のより実際に即した研究発表がなされたことは素晴らしいし、こうした報告を一つのきっかけに、教員の労働の実際について量的バラつきや質的違いを踏まえた丁寧な議論が進められることを願う。授業だけでなく、部活動指導、生徒指導、学校行事、地域行事と、学校段階だけでなく、各学校によって異なる。間違っても、「いま学校では‥」と言うべきではない。
さらに難しいのは、ある業務がその教員に及ぼす負荷やしんどさに幅がある点だ。ある教員は部活動指導が嫌で仕方がないが、別の教員は放課後を心待ちにすらしている。客観的な従事時間と主観的な満足感が負に相関するわけでは必ずしもない。こうした主観というフィルターを通して教育業務がなされていることを踏まえれば、それぞれの教員が持っている意味世界への接近が不可欠になる。
「やらされ仕事」は辛いが、趣味に類する仕事は楽しい。教員がどのように仕事をしているのか、と同時に、彼ら彼女らがどのように受け止めているのか、を知ること。対人サービル労働の一つである教育労働がもつ特性をより明らかにする必要をより感じている。