学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

感動と感想

Web上のお喋りで、面白い対比をしていたコメントがあった。それは、「感動と感想は違う」というものだ。なるほど。

同じ「感」から始まる単語なのに、意味がけっこう違う。感動は情動的なのに対して、感想は冷静で分析的な感じが私はする。前者は言葉になりにくいが、後者はより言語的だろう。

さて、学校教育の世界はいま、コミュニケーション力の育成と賑やかだが、これは感動と感想とどう関わるだろうか。言語的に言えば、感想を言える、書ける、聞ける、読めることになるけれど、感動はこうした方法では伝えにくい、伝えられにくいのではないだろうか。

あるいはこうも言えるかもしれない。コミュニケーション力とは、自分と自分の周りからの直接的・間接的なメッセージを受け止め、これに答える力だと。そうだとすれば、美しい音楽を聴いていいなあと感じた自分の様子に驚いたり、道ばたに咲くコスモスをきれいだなあと感じることができるかどうかが、この力のいかんを示すことになる。こうした瞬間に心を向けず、どこかから借りてきた言葉を連ねるのは、コミュ力が低いとも言える。感性の高いこと、いわば感受性の高いことが、コミュ力に秀でているとも言えるだろう。

コミュニケーション力に限らず、「~力」という表現は学校教育で好まれる。そして、そんな表現に馴染むと違和感が薄れ、あたかも実在するかのような勘違いをしてしまいがちだ。この点で教育学の果たすべき大きな役割は、教育や学習に関わる語りを解剖、分析することを通じて、語りが持つ神話性を解体すること、もってより怖々と児童・生徒や関係スタッフに臨むような、いわゆる教育実践を提案することだろう。

感動はいかに言葉で伝えられるか。言葉にされた感動はどのように相手に伝わるか。こうしたお喋りがたとえば校内研究でなぜなされないのだろう、どうして授業を見て、その後で話し合いをというパターンから離れられないのかなと、不思議に思う。
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by walk41 | 2016-10-14 08:39 | 身体 | Comments(1)
Commented by イケ at 2016-10-15 08:29 x
授業を見てその後で話し合うスタイル、変わりませんね。
某大学の附属小学校にて教育実習をした時、もう20年以上も前になりますが、その時の研究会は違っていました。

複数台のビデオカメラで授業を録画し、研究会ではそれを再生しながら、教師や子供の姿についてディスカッションしていました。

これならば、子供を見世物にすることもなく、大勢に囲まれる異常空間を作ることもなく、他のクラスが休みなのに授業学級だけ登校させられる理不尽さも与えず、日常的な授業や教師の立ち振舞いについても具体的に議論できると今でも思います。

主事も交えディスカッションすることで、言われっ放しの歯がゆさも無く、効果的効率的な時間を持てます。

前例を踏襲しているだけの最初から形だけの結論ありきな研究会など、何の価値もありません。
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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