学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

説明と説教

言葉の対比ということで、学生や研修先でよく話すことを挙げよう。それは「説」という漢字で始まるけれど、大きく意味が異なる、説明と説教という言葉だ。

説明は、二つ以上の変数の関係を述べることであり、そこに観察者の主体性が入り込む余地はない。「地球から見て、太陽は毎朝、東から昇るように見える」と観察の結果、結論を出すことが説明であり、それをどうこうしようとか、どうあるべきと言うことはできない。

これに対して、説教は、関係者を観察者ではなく当事者として、主体性を発揮すべき立場と位置づける。「校長としてのリーダーシップを発揮すべき」と、校長がはたしてそう振る舞えるのか、そもそもリーダーシップとはどういう行動なのかを脇に置いて、声高に喧伝されるのが特徴だ。

私の見るところ、学校教育の議論はこの二つが混線している。「生徒が校則を守るなど秩序が維持されている学校では、学力が高い傾向にある」と説明をしたかと思えば、「だから、生徒に校則を守らせるなど、秩序維持に励まなければならない」と説教になる。この両刀遣いは、論理的に誤っている。

生徒が校則を守っているということが、①「元々そうである、つまり学校を離れたところでの経験からそのようになっている」のか、②「学校での働きかけの結果、そのようになっている」のかが明らかでないのに、「生徒が校則を守っていれば、学力が高くなるのだから、生徒に守らせなければならない」というのは、非論理的である。

なぜなら、この言い方は①の可能性を何の断りもなしに排除しているからだ。①か②かそれともまだ推測できていない③について、どのような説明がより現実と整合的なのか、を問うことなく、②に違いないと決めつけているからだ。どうしてある説明の可能性を「何となく」排除するのか。それは、当事者が観察者に留まっていては「さあ、やっていこう」と彼らを駆り立てることができない、「教育実践は素晴らしい」教へ誘うことができないからだ。複数の変数の関係を説明すると、次にはそれぞれの変数がなぜそうなっているのかの説明がさらに必要になる。自然科学における元素や特定物質に相当するものに、人間や社会は必ずしも還元できないからだ。このため、説明を続けようとすると主体性の余地が減っていき、結局のところ「どうしようもない」と諦めにつながってしまう。このことを避けたいから、と解釈できる。

もっとも、「生徒が校則を守る学校では学力は高い」というのは、限定的ではあれ、説明的である。こうした最低限の説明すら省いて、自身のスローガンをぶち上げる御仁も決して少なくない。「子どもの人権より大切なことは学校にない」、「いじめは決して許されない」と吠えるのは、二つの変数の関係を説明する段階にすら至っておらず、「言いたいから言う」以上のものではない。「君が好きだ~」と学校の屋上から叫んでいた、かつての民放「学校に行こう」のノリと何ら変わりはない。

かくして、学校教育の議論は説明と説教が入り交じっており、状況に応じて遣い分けられている。けれど、研究者を自認するのであれば、それはできるだけ説明的でなければならない。そのための思考体力やある意味で根性を伴わないときに、説明から説教へと転落する。説教をするのは簡単だ。自分ではなく他者に何かをさせようとするときはなおいっそう。
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by walk41 | 2016-10-14 08:45 | ことばのこと | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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