現在のいじめ認知は、いじめられたと感じた側からの訴えが起点である。窃盗や傷害など、おおよそ誰が見ても同じように認知される場合と違ってこれは、事実が存在するか否かの確定から調査を始めなければならない点で、学校の負担を増大させる。
さらにややこしいのは、訴えに当てはまる事実があったとしても、加害者とされる側に、いじめに類する意図がなかった場合、それを問題とはしにくいことだ。そこで、まず訴えがあった状況を第一段階、次にそれが深刻、重大と見なす状況を第二段階などど区分けするが、第一段階と第二段階の落差はきっと大きいはずだ。それは望ましいとも見なせるけれど、学校や教育委員会という最前線では、藁の山から針を探すごとくの膨大な作業を求められることになる。
「部活動、教育相談よりもいじめ対応を」とも言われるけれど、そのためのコストについてはどう考えられているのだろうか。経営学では、優先順位をつけることの重要性が言われもするが、何かを一番に持って来れば、他は二番以下になる。すべてはできない。このことを忘れると、全てに傾注せよ、心頭滅却すれば火もまた涼し、へと至る。21世紀の声を聞いて既に久しいのに、まだこんな根性論が跋扈するなど、まことに酷い話である。