「車のトランク、足でも開きます 両手ふさがっても大丈夫」(朝日新聞、20170208)を、楽しく読んだ。
子どもを抱えていたり、荷物で両手が塞がっているときに、クルマのトランクを開けるのはやっかいだろう。そんな困りに、車体後ろのバンパー下にセンサーを搭載、鍵を持っていれば、足を差し出すと数秒後にトランクが開くのだという。すごいなあ。
子どもの頃、そんなことを足でやってはいけません、と親や大人からたしなめられたことはないだろうか。たとえば、冷蔵庫の野菜室や冷凍室の開閉、扇風機のスイッチ。手が塞がっていて足でやったら、叱られたことが。もちろん、本を足でどけるなど論外だ。
これらから、足を用いるのは、対象を自分より低位に見ていることの現れと捉える考え方がわかる。「足蹴にする」という言い方もそうだ。対象を軽んじていることの意味なのだから。
けれど、面白いことに、サッカーほか足を使ったスポーツに、少なくない人は興じる。決して、蹴られるボールを軽んじている訳ではなく、サッカーボールが優勝のシンボルになったり、それに口づけする選手もいるほどである。
足に対してどのような意味づけやイメージを抱くのか。それは、すぐれて相対的な文脈に置くことができるのだろう。だとするならば、問題は足だけでなく、手や肩、腹や胸といった部位も同様だろう。なぜかはわからないけれど、同じからだなのに、部位によって時に矛盾する意味を与えられながら、それぞれが並立しているということを、とても興味深く思う。