15年くらい前に小学校時代を過ごした人から、当時の悲しい思い出を聞く。
習字も習っていたその人は、流れるように「氵」を書くと「冫」のようにも見える習字の先生の筆致を真似して、学校のテストプリントの氏名欄に、自分の名前を書いたそうだ。後日、プリントの返却時、その氏名欄に赤ペンで「×」が記されていたという。教員に尋ねると、「それは大人の書き方だから(子どものあなたが)書いてはいけない」旨を言われたとのこと。
いかがだろう。今なら児童から保護者、次に管理職か教育委員会に連絡がいって、教員が事情を訊かれることが十分に想定される。けれど、当時の当人は辛い思いを抱えて、そこで終えてしまったそうだ。問題にならなかった。
驚くべき行為と発言かと私は思う。氏名欄に何と書いてあるか判別できないのならまだしも(その場合でも、「?」マークをつけるまでが関の山だ)、そうではなく、私の辞書では好みのレベルに過ぎないことに、目くじらを立てて注意することで、「指導者」としての自分をまずは自身で確かめ、そして他者に知らせようとする。
教員は自分で存在照明ができず、他者に認められることで初めて教員になることができる故である。そんな自分の存在を確かめるために、その人を示す優れて象徴的な氏名に対して赤ペンで×をつけるなどまったく無神経なことをする、何と恐ろしいことだろう。
この人は、その後、テストプリントの氏名欄に、ひらがなで自分の名前を書くようになっていたとも聞いた。漢字について指摘された悲しみを避けるように、気づいたらそう記していたのだという。このエピソードは、指導の効果や結果というものが、その場においてとか1時間の授業内で現れるといった教育実践論がいかにいい加減なものか、を示す事例でもある。