学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

コストだけを考えるわけではないという難しさ

中島隆信『子どもをナメるな-賢い消費者をつくる教育』(ちくま新書、2007)を斜め読みした。「モラルを損得で教える」ほか、経済活動としても世の中が成り立っていることを伝えながら、情報の収集と判断に優れた人間を育てることが、よりよい社会を作ることにつながると論じている。

設定した枠の中で選択させるという方法(制約付き最大化)が、より意欲を高めるというのは説得的だが、いじめに関する指導を損得で、すなわちコストがかかりすぎて不経済と教えればよい、という説明はいただけない。なぜなら、そこでは①子どもが学級あるいは学校という場を離脱不可能と捉えるか否か、②人間は非合理的な行動をまま取るのではないか、の吟味を経ずに話が進められているからだ。

まず①について、子どもが、その学級で生きていくことが不可欠で、それ以外の場はないと観念するとする。そうなると、いじめをすることが「居心地の悪さ」(p.83)につながるという教えは意味を持つかもしれない。けれど、まあ一年くらいのつきあい、あるいはたとえ同じ学級にいても(利害)関係の薄い奴と思えば、いじめは横行する。

大人だって同じだろう、一つしかない地球に住んでいて爆弾をぶっ放すなど最大の環境破壊なのに、「自国を守るため」には仕方ない選択だと、いまアメリカ合州国と北朝鮮がにらみ合っているではないか。ごみの分別ルールを守らなければ、回り回って市民税アップになるとわかっていても「まあいいかな」といい加減なことをしがちなのも同じである。全体で見れば自身の損になるのに、そう振る舞うわけではないという社会的ジレンマは、至る所で観察される。

もう一つ②については、コストよりも大切なものを人は掲げる場合もあるという点だ。名誉や伝統といったメンツはその最たるもので、こだわるほどに心象は肥大化される。過度なナショナリズムが愚かなのは明らかであるにもかかわらず、そのためには人を死に追いやっても責められないことも起こりうる。健康オタクが「健康のためには死んでもいい」と懸命にるならば、それは本末転倒だがそうした行為も散見される。

コスト意識を持たせて、それに準拠した行動を取ることの意義を述べるのは大切だが、それだけで行動するほど合理的でもないのが人間ということだろうか。
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by walk41 | 2017-04-16 10:22 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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