ある大学院生から聞いた(念のため、京都教育大学の学生ではない)。
ある授業で大学教員がこういう話をしたそうな。
「学生が授業を取りにくいようにと、原書講読にした。それでも英語ならばまだ取る学生がいると思ったので、ドイツ語にしたけれど、まだ授業を取る学生がいた。来年はラテン語にする。」
呆れる話である。何という体たらく、自分の専門を通じて学生を育てようとする意欲の欠落だろうか。こんな教員にも血税が遣われているという嘆くべき現実。まさに給料泥棒である。残念ながら、立場の弱い学生になす術はない。
大学も中期計画やあれこれの評価を通じて縛られるように、また色々と説明をしなければならなくなっている。けれど、授業は最終的に教員に大幅に委ねられている。だからこそ、とりわけ授業については、強い自律性を担保する必要があるが、それは各教員の良心、誠実さ、熱意に依っている。このことを繰り返し肝に銘じなければいけないと思う。