スポーツ庁が出した「スポーツ嫌いな子どもを半減」という目標に反論が挙がっているという(朝日新聞、20170601)。
自分を振り返って、子どもの頃、スポーツが楽しいと思ったことはあまりない。なぜか、それはスポーツではなく体育だったからであり、求められるようにうまくできなければならないというプレッシャー、できないときに注がれたであろう周囲の視線が不快だったからだろう。
榊原禎宏・尾見康博「学校暦にもとづく時間リズムがプロスポーツ選手になる上で及ぼす影響」『山梨大学教育人間科学部紀要』7巻 2号、pp.189 ~ 192、2006年、で述べたように、体育は座学と違って、できる、できないが明確で、できる子どもは楽しく、得意げになれるけれど、そうでない子どもにとっては辛い、恥ずかしい時間でもある。体育に限らず、運動会とそのための練習の時間もそうだ。頑張っているつもりでも、駆けっこが遅い子どもはだいたい決まっている。なぜか、「速い方がえらい」と思われる文化のもと、結果が明らかな「運動の時間」は子どもに大きく異なる心象風景をもたらしている。
さて、仮に「スポーツが嫌いな子どもが望ましくない」として、それを変えるためにはどれだけの時間が必要なのだろう。それは、いつまでにこの目標を達成するのかという問題でもある。同記事中に出てくる、子どもの頃は嫌いでもいいのではないか、大人になったら運動をやりたくなってくる、と語る人の話が印象的だ。
でも、大人になるくらいまで時間がかかるような事柄ならば、教育目標に馴染まないかも。だって、教育目標は、一つの授業が終わったら、一学期が終わったら、卒業する時までにはと、とってもせっかちなシロモノだからね。 そもそも、教育目標って、いつくらいまでに達成されればいいのかしら。そして、一度達成されたものは、もう変わらないと見なしていいのかな。以前はできたことが、今はさっぱりできないということが、たくさんあるように思うのだけれど。