学校教育が公共事業であり、政策意志を受けて、制度、運営、実践と児童生徒に向かって具体化されることは、仕方のないことであるし、だからこそ、公教育が実現され、児童生徒の「教育を受ける権利」が保障されてもいる。
だから、時代ごとに流布される政策用語が、倫理的に適切か、論理的に整合するか、実践的に効果があるかどうかはわからないことで、これらがどうなのかを、教育思想、哲学、社会学、経営学として問い、吟味することが、学術的な使命である。
にもかかわらず、政策用語が学術的にも正しい、すなわち、思想的に発展しており、論理的にも整合的であり、実践的にも効果が確かめられるものと、無前提にあるいは「何となく」思ってしまうとコトは厄介である。なぜなら、政策用語を振りかざし、教育委員会と学校そして主に管理職を困惑させ、窮地に追い込む、「この紋所が目に入らぬか」と水戸黄門張りの勢いで押し寄せるからだ。
カリキュラムマネジメントという用語もその一つである。カリキュラムとは教育ー学習と親和性が高いのか、PDCAサイクルは教育ー学習の過程をうまく説明できるのか、各学校のレベルで実際的にカリキュラムのマネジメントが成り立つのか、といったことの吟味がなされないうちに、あるいは疑問を呈する格好で議論がなされているのに、正しいことかのように扱われることは、とてもリスクをはらむ。
マネジメント(管理、運営)が、自身のコントロールの範疇に収まる(
span of control)のであれば、どうすればいいかを考えて試せばいいけれど、そもそも児童・生徒という直接にはコントロールできない存在を含まざるを得ない教育ー学習という活動において、どれほどマネジメントの見込みがあるのだろうか。カリキュラムを最前線で担う教員ほか人的資源ですら、年齢、経験、性別、信条と多岐にわたり、揃えることができないというのに。
こうした一時的に流行る言葉に踊らされずによく考え、吟味すること、そんな態度と能力が、とりわけ「研究者」を自認する向きには求められる。