現職の教育関係者への研修でおおよそ一日を過ごす。
新たな教員免許状を取得するための機会なこと、そのための費用を(サポートもあるかもしれないけれど)自分で払っている、ということが初期条件であっても、みなさんの熱心さ、懸命さは十分に余りあると思わされた。
何かを得ようと思っておられるからだろう。講師の一言一句とは大げさにしても、ちょっとした小話にもうなずき、笑ってもらえる。こちらが冗談で言おうものならば、けっこうな反応をしてくれる。授業の間に教室を回り様子をうかがうと、こちらが配ったレジュメ(ハンドアウト)にしっかりと書き込みをされている方、あるいは、それには手を付けず、持参したルーズリーフに逐一書き込んでいる方も多く見られた。いずれも、過言ではなくびっしりと記されている。すごいなあ、こんなに一所懸命に授業に臨んでくださるなんて。
こうした数時間を経て「今回はこれで終わりです」と述べた次の瞬間、参加者から拍手が起こった。また、退室の際も多くの人が講師に声を掛けて下さり、快く次回を迎えることができると思う。
かくも、参加者、学習者、被教育者の様子が、研修や授業に決定的ともいうべき位置を占めているということ、これを踏まえてどのような「授業論」(学習論ではなく)を構成しうるかを考えるべきだろうと強く、重ねて強く思わされた。「授業は授業者ではなく学習者が相当に決める」という命題が成り立つのではないか、とすら感じさせられる時間だった。