学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

生きる力を奪う人

ある院生から大学院の様子を聞く(京都教育大学の学生ではない。念のため。)

その君の指導教員の対応が恐ろしくまた貧しく、大学院生活を続けるかどうかを悩むほどだという。授業に15分から30分ほど遅れてくるのは茶飯で、この間は、授業前日の深夜、Lineで「休講にします」と連絡があったらしい。それを読むことなく大学に来た学生は当然のことながら脱力する。その後、その教員と会った際も「ごめんねぇ」と説明なく済まされたとのこと。なぜ休講だったのかの説明がないままに。前日の夜に「疲れたから、明日の授業は休講にしよう」と決め込んだということか。

ゼミの様子も同様で、無断で遅れて来ては、学生が用意したレジュメとはおそらく関係しないだろうお喋りに時間を費やすそうだ。論文指導の時間は文字通り、論理に関わる話をしなければならないのに、「私は感性の人だから」「ネガティヴなことは考えず、楽しくやりましょう」と嘯くとも聞いた。授業回数の半分を学生の自己紹介に使ったり、シラバスとは全く違う卒論の紹介やこれからの論文構想について話して、と進めるような教員も別にいるとのこと。どこかの教科書にある目次を写したかのようなシラバスと実際の授業とが違っていることは「臨機応変な対応」とは異次元であり、二重帳簿そのものだ。

さて、先の教員に戻ると、授業回数を確保するために土曜日にも当てられている授業について学生が尋ねると、「やらない、やらない。土曜日なんて」と返したという。おぞましき「教授」である。

学生を論理的に鍛えずに、何が論文指導なのか。「名目上の時間だから」と話すとも聞く。自らが所属する組織に対する、入学する学生に対する不誠実さ、さらに公的資金を使っている点で納税者に対して給料泥棒といってよい。

こんな人と時間を過ごすことで、関係する学生はいたく生きる力を奪われることだろう。論文への展望が開けず、その「問題教員」と会わなければいけないと思うだけで滅入るような精神的ダメージを受けつつ、学生を続けなければならないという理不尽を与えられるのだから。いったい何の罰ゲームなのだ。

先の拙ブログで「なるほど」と記したが、生きる力は学校教育業界では教育を通じて獲得するべき/できるものと措定されがちだ。けれど、実は自らの生きる力は他者によって促され、また潰される。自分だけで生きる力を得ることは難しい。だから、自分の生きる力がより高まるように、自身の周りの環境を整えるべきだが、それでも叶わないことは少なくない。

この君のように、不本意に不幸な環境に置かれた場合、ほとんど為す技は残されていない。大学の自治や教育の自由は、厳しい自律性に支えられる。それに耐えることのできない「教員」をどうすればいいのか。おまけにそういう教員はまま、自分を客観視できない。「いい教員」だと思っていたりするのだから。

これに対しては、情けないことであるが、学長や学部長、あるいは校長でも答えられない。難問である。どうすれば、「学校教育の質保証」は成り立つのだろうか。

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by walk41 | 2017-07-21 22:25 | 身体 | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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