大阪府下の小学校に勤める教員から、これまた興味深い話を聴くことができた。
クラスの児童を新たに担当することになったが、授業にて子どもが発表する際に椅子を押し出し、立ち上がり、発表の前に椅子を引くという動作を、何度言っても止めさせることができず、もう諦めたと嘆いていた。
この教員は、こうした一連の動作が床に対して立てるギーギーという騒音の煩わしさと時間の浪費の点から、「そうしなくていいのよ」と子どもたちに言い続けてきたが、前の学級担任がこうすべきだと児童を指導してきたことの影響力がいまだ強くて、子どもたちを変えることができないのだ。「前の先生はこうしなさいと言ってたから」というのが理由である。
教育委員会やその筋の「研究者」は、「学校教育目標の実現のために、教員の個業性を排して、協業しなければならない」と、PDCA論、リーダーシップ論などを駆使して説教するけれど、現実はこんな感じだ。翌年に担当する教員のことなど微塵も考えず、信念にもとづくマイルールにしたがい「自分らしい」学級経営をする。それが強烈であればあるほど、子どもを感化することになるから、後に残る影響も小さくはない。この「後始末」は誰がするというのだろうか。
こと小学校での学級や授業の経営については、教員間の連携はもとより、一貫など夢想に近い。それぞれが自分の好きなスタイルで児童に働きかけ、「いいクラスだったね」と学級担任を終えると、その後のことは関知せず「我が亡き後に洪水は来たれ」となる。教員にこうして翻弄される児童は、まったく気の毒なことである。