家人から、小学校時代の思い出話を聴く。
高学年だった時の給食の時間、担任だった教師は、牛乳瓶の紙キャップを置くためのザルをどこから持ってきたのか、班ごとに用意する一方、牛乳が滴れることからそこにティッシュを敷くように言ったという。また、誰がティッシュを用意するかは、それぞれの班の「自治」に任せるべく、児童につもりさせていたのだと。
4人ほどの班だが、いつの時代も同じかどうか、多くの男の子はティッシュなど洒落たものを持たないから、勢い女の子がティッシュを出すことになる。さらに、女の子の中でも、いつも携えている子とそうでない子に分かれるから、家人は結構な確率で、ウサギの図柄が入ったような可愛い系のティッシュを提供することになった。毎日のことだから、子どもには結構な負担だったことだろう。今は言う。「そういうものを子どもに出させるのは、おかしいと思う。」
加えて、誰もティッシュを出せなかった時、担任は児童を叱ったとも聴いた。それって本末転倒だろう。ジャムやマーガリンの包装容器と同じように、食器を下げる時に一緒に片づければ済む話じゃないの。なぜそうしなかったのだろうか、うーむ。
こんな儀式があったのはこの学年だけだった、ということは、学校の方針でも何でもなく、学級担任教師の「好み」に過ぎないことを、児童に押し付けたものだったこと、要らない(この教師にとっては必要な)儀式のために、自らの認知的、感情的資源を浪費し、しかも児童に徒らなストレスを与える点でも、無駄なことであった。そんな拙い意思決定をしたのも、担任教師である。
この教師は、他の教員たちと情報や意見の交換しなかったのだろうか、学校管理職はこのことに気づかなかったのか。学校では副校長、主幹・指導教諭と職位が増えて、統制が強まった、教員評価が入って窮屈になったと言う人もいる。けれど、裏を返せば、どれだけ個々の教員が裁量を持ち、言わば好き勝手にしていたのか、今なおそれを謳歌しているのか、を見つめる必要もあるというべきだろう。