学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

誠実さ

教育実習中の学生の授業を見た。

先の拙ブログに記したように、教科内容の知識や理解が乏しかったり、教職経験の中で多分に身につけていく技術的な面がお粗末なのは、致し方ないと私は考える。けれど、授業を通じて間接的に伝わる学問の論理を蔑ろにするという態度は、決して認められない。

理科の授業である。自然科学は、実証主義、客観性、計測性、再現性などを前提とし、これらに反するものを基本的に除外する。地球から見て、東から太陽が昇るように見えるのは、普遍的なことであり、そんな気がするとか、どの角度から登るか測れないとか、明日のことはどうだか、といった話にはまずならない。この点は、人文・社会系の領域が、解釈、主観、測定困難、一回性といった傾向を帯びることと、好対照である。

だから、理科の授業をするとは、生徒に自然科学の論理、いわば掟を知らしめることでもあり、それが崩れては授業そのものが成り立たないと心すべきである。実証的でなければ理科として扱えないというメッセージを送っているのだから。

なのに、その学生は、授業の前半に「〜すれば、〜となる」と説明を繰り返したのち、いざ、実際にやってみると、そのようにはならなかった。実験上の不具合があった、つまり、条件をうまく制御できなかったのだろう。だとすれば、「先に〜と説明しましたが、実際には違ってそうなりませんでした。どうしてだと思いますか」と生徒に投げかけても良かっただろう。

けれど、その学生はこう言ったのだ。「実験に失敗はつきものなんだよ。」
これが自身の授業のみならず、理科さらには自然科学を否定する、あるいは弄ぶ言い草だとは、気づかなかったのだろうか。

成功や失敗などということは、最初から何が正しいのかがわかっていたことになる。どうかわからないから、授業の中で問いかけ、実験をしているのに、それが失敗だった/成功だったと言うのは、いわば「出来レース」と告白しているようなものではないか。

実証的であるかのように生徒に話していながら、そうでないことも当然かのように言って憚らない、この感性を恐ろしいと思う。「白を黒と言いくるめる」ことに躊躇しないのではないかとの懸念も持つ。何でもいいのか、何だそりゃ、と回りの反応が見えるようである。

一回生に話すことがある。「上級生の中には、手遅れの人もいるかもしれないけれど、大学の試験では決してカンニングをしないように。カンニングができる授業が問題なのかもしれないけれど、そのこととカンニングをしてよいということが繋がるわけではない。もし、カンニングをしたならば、やがて教員になって児童・生徒の試験監督に当たるとき、彼ら/彼女らをチェックさらには指弾できない。その上で試験監督を、したり顔でするようならば、自己矛盾の塊だからね。そんなことに耐えられる?」

自分が聖人君子などと夢にも思いはしないけれど、(最低限の)誠実さを持つことは、教育者に限らないだろうけれど、多くの場合に当てはまると思う。教員は、教育内容だけを扱っている(実質陶冶)のではない、その場を通じた態度や姿勢さらには信条をも扱うことになる(形式陶冶)。このことも想像しながら日々に臨みたい。

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by walk41 | 2017-09-15 20:05 | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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