自然科学の分野の特徴を踏まえて、この教育や学習にいかに臨むかについて先に記した。
ちょうどこの反対のことが、人文・社会系の分野についても当てはまると思う。
データを量的に多くを集められるテーマならば、法則的とまではいかないまでも、傾向として捉えられることがある。たとえば、女性の学歴が高くなるほど、出産年齢が遅くなり、結果として出産数は少なくなる。児童・生徒が学級担任に持つ肯定的・否定的イメージは、学級担任が児童・生徒に持つイメージと正に相関する。子どもの貧困率と虫歯の罹患率も正に相関するだろう。
この一方、傾向から外れる事例もたくさん存在する。担当教員を好きな方がその教科も好きという場合が多かったとしても、教員は好きだけど教科は嫌い、あるいはその逆もある。少人数指導によって学力が伸びる子もいれば、そうではない子もいる。勉強と部活動を両立させる生徒もいれば、片方で手一杯の場合もたくさんあるだろう。必ずと言っていいほど、例外の存在するのがこの分野の基本原則である。
だから、この分野では、「〜すれば、〜になる」と言えないのはもちろんのこと、そうならない事実があるのに「〜すべきだ」とか「〜でなければならない」と鼓舞や説教にも努めて禁欲的でなければならない。やってもできる公算は低い、そもそもできないとすら言い得るのに、「そうなるはずだから、そうならないのは、意識が低いからだ。意識改革が必要だ」などというのは、古くは竹槍でB29爆撃機を落とせというが如し、無理である。こんなことをまことしやかに言う輩は、誠実さを持ち合わせてはいない。
この点で、人文・社会系における誠実さとは、せいぜい傾向までのことをあたかも、相当の確率でそうなるかのように語らないこと、と導ける。まるで予言者のような物言いをするのは、思い込みの激しい人か詐欺師である。こうしたお喋りがあちこち巡っている様子は憂うべきだし、こうした「危ない人」に出会ってもうまく逃げおおせるような力を身につけることが大切だ。