「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年公開)を観た。
3時間を越える長編で、「赤軍派」や「革命左派」が1972年2月のあさま山荘事件に至るまでを描く。このテーマを映像化したスタッフと出演者の技量と努力に圧倒されたのもさることながら、具体を伴わない「社会を良くする」という教条的な思考が、困難な環境でいっそう先鋭化し、リンチ(内ゲバ)そして自己崩壊していくさまを見て、ショックを受け、また消耗した。
「銃による殲滅戦」を通じてこその「共産主義化」、しかも世界戦争を通じてという当事者の論理にも驚かされるが、その戦士に値するかどうかの基準が一握りの「指導者」によって決まり、そこから外れると「自己批判」と「総括」を求められ、最後には死に至るという構図は、こうした事例に限らない、どこにでも起こりうると学ばなければならない、と思わされた。
分類を試みれば、たとえば、
①一つの可能性に過ぎない命題が金科玉条となり、これを疑うことが許されない状況がある(「学力向上」「いじめ撲滅」「常識として」…)。さらには、命題そのものがよく理解できないにもかかわらず、問いかけること自体が反対の立場ゆえと扱われ、保身から沈黙が支配する。(「主体的、対話的な深い学び」ってどういうこと?)。
②この命題をもっとも理解すると奉られる/主張する人物が登場し、それへの恭順さらには服従が直接・間接に求められる(政治家や官僚、「〇〇大学教授」…)。
③情報、身体、感情が統制・制御され、実は方向づけられ、強いられているにも関わらず、自らが判断したかのように錯覚する。(「恐れ多くも…」「~に示されているように」。なお、これを主体的な行為として語ると、「自ら進んで~させる」という表現になる)。
④文書主義が軽視され、官僚制が機能しない権限と責任が不明確なままに、ある意志が貫徹するようになる。(「首相官邸の意向で」…)。
程度の差はあれども、権威への積極的/消極的な服従、自発的な情報の遮断、出所不明な「声」による事態の進行など、どこにでもありうるとは、果たして言い過ぎだろうか。