学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

紅葉に心洗われます

ここ数日で一気に冬模様、寒くなりましたが、みなさん、お元気に過ごされていますか。

京都は残り少ない紅葉を楽しみにと、いつも以上の多くの観光客を迎えていますが、本キャンパスにも見所があります。

何かと慌ただしい時間が流れがちですが、しばし立ち止まり、紅葉の見事さに飲まれました。みなさんにもご覧いただきたいシーンです。

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# by walk41 | 2017-11-20 13:03 | 身体 | Comments(0)

「~以外は不可」

学校の文書を読んでいると、「~以外は不可」という表現にまま出合う。論理的には、「~は可」と等価だと思うのだが、この両者は学校ではちょっと違うのではないか、とは家人の弁だ。

たとえば、「水とお茶以外は不可」という表現は、「水とお茶は可」と同じ意味かと思う。けれど、学校においては次のように解釈されるのではないかという見立てだ。すなわち、「水とお茶は可」とは、他の飲み物はどうなのかという質問に答えなければならない。これは大変な面倒だ。ジュースはどうなんですか、コーヒーはどうなんですか、と。この徒労を避けるために「~以外は不可」とした方がよいという考え方が成り立つ。

だったら、「~のみ可」としたらいいのではと思うが、邪推をすれば、「不可」というおっかなさ、強い感じをアピールしたいのではないかと思う。だって、「~はいいよ」よりも「~はいけない」と言う方が、偉そうでしょう。いわゆる上から目線になっているもの。

論理的には等価であっても、感情的にはそうではないという両者間にズレがあるとすれば、このケースはそのことを説明するのに適っているかもしれない。「静かにしましょう」よりも「話を止めてください」、「~は持ってきていい」よりも「~以外は持ってきてはいけない」の方がより暴力的な感じがするのではないか、という問いである。

その一方、肯定的に表現する方が協力を得やすいという報告もなされている。「トイレを汚すな」ではなく「トイレをきれいにつかってくれてありがとう」はその一例だ。「~はできない」ではなく、「~だったらできる」という言い換えも可能だろう。「不」や「非」といった強い言葉を避けて、より受容的さらには共感的な言葉を用いることが、人を元気づけるという経験も今後さらに広がっていくことだろう。

学校が基本的に人に強いる装置としてあるのだから、それを和らげ、覆い隠す工夫は意味がある。にもかかわらず「~以外は不可」(大阪府の高校生が起こした裁判に即せば、「黒髪以外は不可」となる。「黒髪は可」「黒髪のみ可」よりも、いっそう暴力的に聞こえることだろう)という表現が今なお少なくないとすれば、学校が人間の生理や情動にまだまだ適ったものになっていないことを一つ示すものである。

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# by walk41 | 2017-11-16 22:43 | ことばのこと | Comments(0)

そんな構図ではない

髪「黒染め強要」、人権侵害か指導か、波紋を呼ぶ(読売新聞、20171114)を読んだ。

人権侵害と批判する立場と、強要は問題だが一定の指導は必要とする立場、この両者の対立が見られるという書きぶりだが、そんな構図は論理的ではない。

侵害と表現するとおどろおどろしいが、人権が制約されることは学校が存立する上での基本条件である。労働の対価を受け取るわけでもないのに、ほぼ毎日決まった時間に行かなければならない、好みかどうかを尋ねられることもなく制服を着用しなければならない、授業がつまらないからといって教室から出て行く訳にもいかない、意に反して教員から呼び捨てされても、呼び捨てで返すこともできない。これらは、いずれも「一人前」ならば許されない人権問題である。

ところが、教育されるべき存在すなわち子どもだという視線を浴びると、「教育的配慮」や「指導の必要」といった言葉で人権が制約される。「しつけ」を理由とした家庭等での児童虐待はその著しい例であり、学校でも「行きすぎた指導」がまま見られる。「指導」は人権保障に抵触するけれど、それを押して子どもを保護・管理することがより大切と、社会的に承認しているからこそ生じる問題だと確認したい。

「地毛証明書」発行や「黒染め強要」、あるいは「給食強要」といったことは、「それはあまりに極端な」という反応を引き起こすから注目されるけれど、極端ではない人権の制約はあまねく見られるといってよい。それが、やんわりと大げさでなく行われているから、「仕方ないや」と諦められている、ときに主体的に従い、表面化しないだけである。

そもそも、保護者に対して子どもを学校に通わせるように求める学校教育法じたいが、保護者の養育権と葛藤している。かといって、正面切って「学校にやりません」と保護者が異議申し立てをした際、明らかな児童虐待が疑われるのでなければ、学校・教育委員会が罰則規定を行使するまでに対立するといったことは避ける。不登校生徒宅を家庭訪問した教員が「卒業式くらい来いよ」という台詞が美談として扱われがちなように、法的には適切でも、「そこまで求められない」と今度は学校側が「仕方ないや」と諦めることになる。

だから、「行きすぎた指導」から逃れたいのならば、限られた戦術としてあり得るのは「学校から逃げ出す」ことである(なお、間違ってもこれは「学びからの逃走」ではない。人は学びから逃げ出す生き物ではない)。それは全面的でなくても構わない。学校で味わいたい部分もあるだろうから、部分的にサボタージュする、本音はともかく従順なふりをする、「阿呆らしい」と頭の中で呟く。賢くたくましく「生きる力」を身につけることが大切である。

もっとも、今回の「黒染め強要」に対して、この策は意味を持たない。文部科学大臣なり知事、あるいは判決といった「外圧」をもって、社会的承認の水準を修正するほかない。学校もこれで大義名分を得ることができる。「そうしたい訳ではないけれど、上から言われるから仕方がない」と安堵もすることだろう。

学校におけるおせっかい、もっと自由=自己責任に委ねればいいと思うんだけどなあ。


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# by walk41 | 2017-11-14 09:52 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

求めている次元が違う

佐賀県教委は今月から、県内の公立中学校で、毎月第3日曜日を部活動の一斉休養日とする取り組みを始める。

 生徒が部活動以外の多様な体験をできるようにするとともに、教員の負担軽減につなげることが狙い。適切な休養を確保しつつ成果を上げる、効果的な指導への転換も促す。(読売新聞、20171112)

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「働き方改革」とも見なされるけれど、これで「改善」とは、学校を変えることの何と難しいことだろうか、とため息が出る。月に一度だけ、しかも日曜日を一斉休養日とするとは。


日曜日は「キリスト教の安息日に由来し、官公庁・学校・一般企業で休日とする。」(goo辞書)と、文字通り休みの日である。無い物ねだりをすれば、休みの日は「多様な経験をできるようにする」ではなく、休みなの、何もしてはいけないの。これを休養日と命名するとは、現在いかに休みがないか、休みを理解していないかを告白するというものだろう。


月あたり土曜日または日曜日が8、9日あるとすれば、これで一日休みになり残る7、8日間は変わらず部活動を行う学校が少なくないということだろうか。いわゆる文化系部活動など、土日なしの部もあるだろうから一部かもしれないけれど、月あたり30日近く出勤する教員のいることが恒常化していること、他に形容詞が思いつかないが、すごいことではないだろうか。


この点は「隣の芝生」になるけれど、ドイツではたとえば、週あたりの勤務が28時間(ここで1時間は45分間を意味する)ならば、これを超えて働く教員はまずいないと思う(授業準備、生徒のノートの添削、試験問題作成、会議、保護者との面談などがあるので、この時間数で週40時間相当の労働と見なされている)。もちろん、これ以上の時間を働くことはできなくはないけれど、そうする人が実際にいないと思われるのだ(この点、もっとちゃんと確かめないといけないと、条件つきで)。もっとも、自宅で仕事をすることについてはわからず、教員組合などが過重勤務だと主張する部分は残るけれど。


その一方、学力向上、学校評価と情報公開、地域社会との連携、キャリア教育と、多くの課題が学校には降りてくる。仕事をするにはマンパワーが必要、一人あたりの上限があるのだから、数を増やすしかない、こんな論理がなぜ通らないのか、摩訶不思議なことこの上ない。ああ。






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# by walk41 | 2017-11-12 18:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ゴアー

コンサート・ゴアーなる言葉があることを初めて知った。コンサートによく行く人、辞書を引くと、concertgoer である。和製英語かとも思ったが、churchgoer, theatergoer という言葉もあるようで、英単語だった。

面白いのは、家人は久しくこのコンサート・ゴアーという言い方と意味を知っていた、にもかかわらず、ゴアーがgoer(go-er:行く人)とは認識していなかったことだ。

NHKクローズアップ現代で、小学校を実質的に卒業していない人が2万人に上るというテーマを扱っていることをインターネットで知った。「書けなくても、話せるから大きな問題はないのでは」とか「書けなくても、読めるならばある程度は対応できるのでは」とも思っていたが、話し言葉ではわかっていても、なぜそう言うのかと問われれば、この場合、英語のスペリングが分かっていなければならないことに気づかされる。

20171110の朝日新聞の天声人語で、読書がもともとは、時の読める人が読めない人のために音読する様を指すと読んだ。明治時代の電話の中はさぞかし賑やかだっただろうとは、かねてより聞いていたが、この言葉の意味のように知らないことは山ほどあるものだ。その頃と比べれば、今の電車の静かなこと驚くべきだろう。ほとんどの人が黙読できるという世の中はいかに生まれたのか。また、その中で識字が十分にできないことの困難を想像する。

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# by walk41 | 2017-11-11 19:45 | ことばのこと | Comments(0)

パラ・シアター

家人と話す。劇場、シアターの元の言葉であるギリシャ語のテアトロンとは「見物する場所」の意味だったそう。

ならば、これからの文化芸術のあり方として、「場の理論」(K.レヴィン)にも関わるが、観客(見る側)と演者(見られる側)に限らない、その場(空間と時間を合わせ持つ)をいかに豊かにしていくか、という発想がありうると思う。

シアターがいろいろなものと繋がる、パラ・シアター(para-theater)は、公演や演奏だけでない、そこで休み、くつろぎ、思い出に浸り、これからに思いを馳せることができるような、文化芸術に関わる人的・物的・財的そして情報、さらには環境を包括する「豊穣な場」を意味する概念たりうるのではないか。そんな直感を得たことだった。

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# by walk41 | 2017-11-10 19:10 | ことばのこと | Comments(0)

宣伝です

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大学院生を主な対象としたテキストができあがりました。編者が相当に練ったコンセプトをもとに、執筆者がそれを受け止め、記したものと自負しています。この中で私は「意思決定とリーダーシップ」を著しました。

ぜひご一読をお願いしたく、お知らせする次第です(高見茂・服部憲児編著『教育経営』協同出版、2017.10)。




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# by walk41 | 2017-11-09 20:30 | 研究のこと | Comments(0)

卒業論文中間発表会

卒業論文もいよいよ佳境に入っている、はずなのだが毎年のようになかなか難しいようだ。学生にとっては初めての論文、レポートとは大きく違う課題に面食らっているに違いない。

そんなことを思っていたら、ふと思い出した。自分が学部生の頃、教育学専攻では学生が自分たちで卒業論文の中間発表会をしていたことを。

4回生が発表し3回生がきく、という格好だったが2回生以下でも参加できた。もちろん司会も学生である。そんな学生の中で、教員では唯一、後の指導教員(当時は指導教官と称されていた)を引き受けて下さった恩師がおられ、学生に質問をされていたシーンが甦る。

そして今日、発表会は教員が設定して学生に周知し、学生はまあ受け身である。学生の中に、自らのことを生徒と呼ぶ者がいても不思議ではないのかもしれない。

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# by walk41 | 2017-11-08 07:57 | 大学のこと | Comments(0)

エチケットつづき

きっとそうだろうなぁ、と思いました。調べるとやはりそのようです。

エチケットと言う言葉が、宮廷儀礼を示した札から転じて、マナーや作法を指す言葉になったとは先に記した通りですが、このエチケットの札と言う意味が、英語のチケット(切符や札)になったということ。面白いと思われませんか。

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# by walk41 | 2017-11-07 18:41 | ことばのこと | Comments(0)

クリスマスイブの開店をめぐって(ドイツ語記事)

クリスマスイブの開店をめぐって-いくつかのスーパーマーケットは開店 20171105 Stuttgarter Zeitung

労働組合Verdiは、今年のクリスマスイブの開店があり得ることを攻撃している。スーパーマーケットAldiはすでに閉店を決めているが、他のスーパーマーケットチェーンは開店を検討中だ。

多くのスーパーマーケットはクリスマスイブに開店を考えている。今年は日曜日に当たる。

Essen/Berlinから/労働組合Verdiは、今年のクリスマスイブの日曜日に買い物をしないように呼びかけている。「個人営業主は他の人と同じように、クリスマスの準備と家族とともに祝うことを望んでいる。今年のクリスマスイブが日曜日であるからと日曜日の営業時間を適用するなど、信じられない皮肉だ」とVerdi連邦代表メンバーのStefanie Nutzenbergerは話す。

労働組合は消費者に対してもこう呼びかけている。(買い物をするクリスマスイブの)この時間は、営業に従事している人にとっても人間である時間だということを。「私はお客に対しても、12月24日は買い物をしないように諫めるつもりだ」とVerdiのOrhan Akmanは言う。「個人営業主はクリスマスイブに働くことに対して、自分を守る術を持たない」とも。

店の閉店時間に関する規則は州事項であり、クリスマスイブの営業時間はそれぞれの州が、たとえばNordrhein-Westfalen州では食料品やタバコといったものに限って開店を認めていることを決めている。スーパーマーケットやパン屋といった店の開店時間についても州により様々だ。

「クリスマスイブは第一に従業員のことを考える」
ディスカウントストアのAldiは、かき入れ時のクリスマス週の最終日、12月24日は引き続きドイツ全体で閉店すると伝えている。「クリスマスイブについては、長く忙しい週のあとの休みとしてクリスマスを祝うべき従業員のことをまず考える。」巨大業者はこう決定した。

同じくディスカウントストアのReweは、5000店以上のいわゆるチェーン店については引き続き閉店するが、約1200店のReweネットアークに属する自営業者については自分で決定できると言う。「開店するつもりの店はある」とReweのEdekaは強調した。市場の多くは個人営業の人々によっていると。彼らは自分で開店時間を決められる。同様にディスカウントストアのLidlは今のところ、このことについて明らかにしていない。

Nordrhein-Westfalen州の商業連盟Simone Schwan,は、約80パーセントの店はクリスマスに開店しても需要がないと見ている。「今のところ、大抵が閉店したのと同じようになるだろう」と述べた。(http://www.stuttgarter-zeitung.de/inhalt.umstrittene-sonntagsoeffnung-an-heiligabend-wollen-einige-supermaerkte-oeffnen.5f3648d1-85ea-4f43-b0c9-dd19889c2f33.html)

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# by walk41 | 2017-11-06 11:47 | Comments(0)

地域社会にとっての学校

学習発表会が開かれるということで、小さな小学校にお邪魔した。すべての学年の児童がいるわけではない、しかも複式学級の学校である。

うかがうと、参観席には、保護者の方ではないだろう高齢の方を含む地元の方が多く座られている。保護者を合わせれば、児童の数を優に上回る、その3倍近くの方が見に来られたのではないかと思う。舞台上の児童の様子に、盛んに拍手を送っていらっしゃった。そんな様子に接することができ、私もほのぼのとした気持ちになった。寒い朝だったが、温かな空気が流れていた。

体育館には、「学校の元気は地域の元気、地域の活力は学校の活力」と大きく示されていた。まさに、地域社会にとって学校が重要な位置を占めることをアピールするものだ。

学校は「子どものため」にある一方で、その子どもが暮らす地域社会にとっても、きわめて大切な存在である。少子高齢化の社会にあって、子どもの「適正」人数、教育効果や財政効率など、考えるべきこともたくさんあるが、こうした場があり続けることの高い意義も実感した日だった。

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# by walk41 | 2017-11-05 13:55 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

若者の国際学力テスト批判(ドイツ語記事)

Der „schiefe Turm von Pisa“ – vor dem Einsturz Foto: Lichtgut/Leif Piechowski

宮殿広場でのアクション-「ピサの斜塔」が崩れ落ちる
20171103 Georg Linsenmann記者

あらゆる人が教育政策について口にする。そして今、生徒たちが発言している。宮殿広場で彼ら/彼女らはアクションを起こした。それは通行人に大きな反響を呼んでいる。生徒たちは崩れ落ちるピサの斜塔を教科書で作っているのだ。これは何を意味しているのか。

シュツットガルト:生徒たちはたくさんの教科書を持ってきた。「アビトゥア数学の成功」「人間の生物学」「若者が知りたいこと」はタイトルのいくつかだ。少しずつ荒れた教科書の塊がまず広げられ、人の背の高さほどの塔に積み上げられる。もっともそれは僅かな時間である、というのもこの「ピサの斜塔」はすぐに崩れ落ちてしまうからだ。これは「学校で私たちは試験の後すぐに忘れてしまうような事柄をシャワーのように浴びている」ことを示す象徴的なアクションだと、Simon Marian Hoffmannは言う。彼はこのアクションを企画したシュツットガルトに設立された「若者の民主的な声」の代表である。PISA(OECDの国際学力調査)では、生徒の学力が比較される。

学校では何が傾いているか?
このパフォーマンスに示されるアクション主催者の主張は、白いオーバーオールの生徒たちが、セロファンに覆われた様々な箱に追いやる「不安な行列」にいる、ということだ。頭と肩を縛られ何も聞こえないようにされたグループがそこにいる。スローモーションで見ると、床でもがき、肩をすくめ、あるいは隅で縮こまっており、バラバラにされて不安に押しつぶされそうになっている。「学校にいると病気になる」と11年生のKönigin-Katharina-Stiftは言う。あるいはWagenburgギムナジウムの10年生のある女子生徒は、「良くあるべきという圧力は、恐ろしいこと十分だ」とも。

20歳の政治学を専攻する学生Malina Bar-Levが、このパフォーマンスを発案した。「学校には自由がない。学校は成功だけが大事という変形された人間像に基づいている。最初から人は引き出しにしまい込まれ、そこからもはや出ることができない」と彼女は話す。
Hoffmannは「教育を新しく考えること」と強調する。「若者の潜在力を破壊し、無駄にしてしまうようでは、私たちの社会は立ちゆかない。私たちは、エゴイズムで飾り付け、良心の呵責を失ったエリートを生み出すのではなく、学力以外の、連帯する社会の共感や社会的感覚を促すような学校を必要としている。」

ある女性教員は賛同
そして展望は? Hoffmannは言う。「考えてみましょう。みんなが喜んでいくところ、それでこそ学校です。」このアクションでは多くの通行人が注目した。ある女性教員は立ち止まり話した。「学校では実にたくさんのことが失われていく。とくに学ぶ喜びが。若い人たちが言うのはもっともなこと。こうした行動をするのは良いことだ」
(http://www.stuttgarter-zeitung.de/inhalt.aktion-auf-dem-schlossplatz-schiefer-turm-von-pisa-stuerzt-ein.abf24e2c-734d-4abe-9392-45fec3e1fe81.html)

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# by walk41 | 2017-11-04 15:54 | ドイツのこと | Comments(0)

エチケット

家人と話す。ハッシュタグのハッシュってどういう意味かしら。

hash を引くと、「細切れにした」の意味なことがわかる。だから、細切れ肉料理はハッシュドビーフ、さらには、hashed beef with rice、とご飯か付いて日本語化、「ハヤシライス」になったのか、へー。じゃあ、残るタグって。tag は付け札、下げ札の意味、これで了解できた。ハッシュタグとは、内容を細かく刻んだ札のことなんだ。

転じて、札tagを引くと自分の中でつながる発見があった。tag(英語)はEtikette(ドイツ語)、このドイツ語が札、ラベルを指すことは知っていたけれど、なぜそうなのかは知らずじまいだった。語源を引くと、 étiquette(フランス語)、興味深いのはここからで、このエチケットは宮廷に招かれた際に守るべき儀礼を示した札のこと、転じて、宮廷儀礼を指すのだと。なるほど、だからエチケットは、札、儀礼なんだなあ。

色々なところでつながっている言葉、知らないことが山ほどあるね。




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# by walk41 | 2017-11-04 11:33 | ことばのこと | Comments(0)

セルフ

香川県を訪れると「セルフ」という看板の多いことに気づく。さてあなたは何を思い浮かべるだろうか。

香川県は「うどん県」とも自称するように、讃岐うどんが有名だ。ここで、セルフとはセルフサービススタイルのうどん屋さんのこと、セルフうどんである。

セルフと見ると、例えばセルフガソリンスタンドを思いつくかもしれない。これが文脈に依存して理解しているということ、同じ言葉を見ているのに、思い浮かべることは必ずしも同じではない。とても面白い事実ではないだろうか。

ちなみに、香川県のセルフうどんは、私の経験の限り、自分で麺を茹でる、お湯を切る、ネギや天かすを入れる、めんつゆを入れる。けっこうセルフだなあ。

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# by walk41 | 2017-11-02 16:25 | ことばのこと | Comments(0)

教育者の悲しい存在証明?

学部生への授業で、学校経営の基本テーマ、教育-学習と経営との関係を取り上げる。その中で、小学校において「どく書」(読書)などの、まだ「教わっていない」漢字は遣わずに平仮名にしている場合があることについて学生に問うたら、次のようなエピソードを記してくれた。

その一、小学校5年生の時に、「私」と書いたら、二重線で訂正されて、「わたし」と記されて返ってきた。なぜいけないのか納得できなかった。

その二、教員に「習っていない漢字は平仮名にしようね」と言われて、戸惑った。

いかがだろうか。「教える、だから、学ぶ」の他に、「教える、ところが、学ぶ」や「教える、と関係なく、学ぶ」というスキーマ(構造)を持たない教員が、「教えていないのだから、学んでいてはいけない」と倒錯した結果の言動が、上のような話である。教わっていなくても学ぶことはあるし、そもそも、「学校の教員」にではない人たち(大人や子どもの人間関係から)教わることもたくさんある。「教育」と「学校教育」の違いすら踏まえない場合があるのだ。

こんな経験を伝えてくれた学生もいる。高校の頃、授業者が話している間はノートをとらずに顔を上げて話を聴けと、強い口調でいう教員がいた、という。生徒個々の授業におけるスタイルを無視されて、みんな嫌な気持ちで授業を受けていたことを思い出したそうだ。

このような教えることの絶対視(教える立場は無前提に権力的に振る舞ってよいから、時間的・空間的あるいは内容的に統制できるという)は、確固とした教師像を維持する上で不可欠である。なぜなら、相手がそのように従ってくれなければ、教える人、つまり教師という自身の存在証明ができないからだ。自分を教師と思っているのに、相手がそのように扱ってくれないことは、まったく恐ろしいことである。「王様は裸だ」とやっと子どもが叫んだお話を引くまでもなく、自身は他者によって存在する。そこで、自分が思っているように相手が思ってくれないという事態は、まさに危機である。

いわゆる子どもから「教えてほしい」と乞われてそこにいる訳では必ずしもない教師にとって、自身の存在証明とのつきあい方は厄介だ。その不安が常につきまとうからこそ、「先生は思うんだけれど」と自身を述べたり、挙手の仕方を決めたり「背筋を伸ばして挨拶するものです」など、相手の身体表現を拘束したりと、相手が少なくとも自分を教師として扱っていることを形にしたい。けれど、こうした枠決めは、必ずしもそう思わない、従いたくない子どもとの葛藤を引き起こす。それを抑止するべく、「顔を上げて人の話を聞くのは当たり前のこと」「マナーを守ろう」と、前提を要しない「常識」論を持ち出すに至る。つまり、説明を必要としない、いわば定言命法の様相を呈することで乗り切ろうとするのである。

もっとも、教師の挙げる常識はさほど普遍性を持つわけではない。それは、ときに自己都合の合理化の域を出ないほどのものですらある。こうした自身の限界や矛盾に向き合うことではなく、「毅然とした態度」や「揺るがない信念」が大切と強調するような教員の養成や研修の担当者がいるとすれば、大いなる罪と言うべきだろう。それらが「リフレクション」や「コーチング」「メンターシップ」などのカタカナで目新しさを強調しようとも。



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# by walk41 | 2017-11-02 06:45 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

いじめ定義の難しさ

先日、「いじめ」件数が増加と報じられたが、これは訴えに丁寧に耳を傾けた結果と基本的に肯定的に捉えるべきだろう。「こんな多くいじめが起こって由々しき事態」とは見なさないのが賢明だろうということである。

「いじめ」定義は変遷しているが、現在はいじめ防止対策法(2013)に示される「第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」が採用されている。

客観的な事実の確認が難しいこの種の行為に、受け手の主観であっても「いじめ」と見なすことで、いわば網の目を細かくする意義のあることはわかる。けれど、それが主観であるために、「言ったもん勝ち」の面も持ち得ることは踏まえなければならない。

すなわち、「いやだ」「辛い」と感じるのは、いわゆるいじめられる側だけにあるのではない。いじめるとされる側も、同様の受け止めをしている場合のあることを忘れてはいけない。

たとえば、家庭事情も影響してか清潔とは思えないクラスメイトがいる。近くになると異臭を避けられない。小学校低学年で、自分の鼻水を周りに擦り付けようとする実例は、以前の拙ブログに記した通りだ。あるいは、発達特性が関わっているのか落ち着かず物を投げたりして、周りにいるとヒヤヒヤさせられるケースもありうる。

これらは「汚い」「怖い」ゆえの、ある意味で当然とも言える反応、逃避行動を取っているのである。それが当該の子どもに「心身の苦痛」を与えることになりえるけれど、はたしてこれは「いじめ」だろうか。困っている周りも「嫌や」「辛い」のである。「こっちがいじめられてるみたいなもんや」との声は聞こえないだろうか。

かくも、定義することは難しく、それゆえに変わってもいくのだろう。そこで大切なのは、これが定義と誦んじられることではなく、この定義が持つ強みと弱み、効用と限界を考察できるように、事実と論理の往還運動という「頭の体操」ができることだろう。

思考体力がなければ、頭でっかちあるいは経験の羅列に留まる。ちょうどサーカスでの綱渡りのように、不安定な中でバランスを取りながら歩き続ける力を養い保持することが必要と、重ねて思わされる。




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# by walk41 | 2017-10-30 15:56 | ことばのこと | Comments(0)

「日本における裁判」(ドイツ語記事)

「学校が生徒に髪を染めることを強要(ドイツの雑誌、Spiegel Online 20171027記事)」

茶色の髪? それはだめだ。女子生徒はこれゆえに髪を黒く染めなければならなかった。いま、彼女はこの強要に対して訴えを起こした。

彼女は、通う学校の規則により、髪を黒く染めなければならなかったために、大阪府の裁判所に損害賠償を求める訴えを起こした。この公立学校は彼女に複数回にわたり、自分の茶色の髪を黒く染めるように強いたと、18歳の女子生徒は言う。これを拒否すれば、彼女は学校を去らなければならないのだ。

この生徒の行動は馬鹿げているように見える。というのは、羽曳野市のこの学校規則は、ブロンド髪や染められた髪を禁止しているからだ。金曜日の日本のメディアによると、裁判所への訴えの中で生徒の母親は、学校に入学時に娘の髪はもともと茶色だということを伝えていたと述べている。彼女が髪を染めていると疑いをかけられないように、事前に対処しようとしたのだ。

教員たちは彼女に髪を黒く染めるように何度も強い、4日ごとにチェックをしてはさらに黒く染めるように強要した。生徒は毛染めによる「痛みと痒み」に苦しみ、2016年9月から学校に行っていない。

日本の学校における高い圧力その直後、彼女は学校祭から締め出されたと母親は証言する。母親によるとさらに、ブロンド髪の交換留学生さえも黒く染めさせられており、例外はありえないという。訴えによりこの家族は220万円の損害賠償を求めているが、大阪府教育委員会はこれを拒否している。



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# by walk41 | 2017-10-29 12:52 | Comments(0)

「わかる」と文脈依存

京都に限らないだろうが、外国の人を当たり前のように見る。観光客だけでなく、居住している人もたくさんいるだろう。京都の人口に占める外国人の割合は、全国平均を上回るのだから。

そんな風景の中で思った。グローバル化と言われる多様な人々との関わりが加速していくのならば、「わかる」ことに抑制的であるべきことを踏まえておかねばならないのではないか、と。

すなわち、知識の多いことに加えて、複数の事実の関係を了解している意味での「わかる」とは、素早く理解して対応できるようになること、つまり、認知、理解、判断、行為をよりエコノミカル(節約的、功利的)に行えることである。そこでは、「無駄」少なく、反射とも言えるほど迅速、正確であるために、思考しないことが重要だ。なぜなら、悩み、迷う思考は、時間的、労力的にコストがかさみ、エコノミカルと正反対だから。こうして、知識・理解の文脈化(暗黙の了解)が進む。これは、「言わなくてもわかるでしょう」ということである。

だから、グローバル化への対応とは、ある「わかる」に執着しないこと、自分が見につけているいわゆる文化を絶対視しないで、常に相対感をもっていること、この意味で「軽い身体」でいること、自由であることが重要と導ける。よって、多様な人々とのスムースな関わりを促すには、「わかる」ことに過度に傾かないこと、わかっていないかもしれない、といわば恐々と振る舞い、既存の知識や理解で「武装」しないことが肝要と言える。

「わかる」喜び、できたという成就感、自己肯定感が大切とも言われるが、その反対のこと、自分の小ささをいつも知らされ、自己変身すべきことを覚悟させられること、たとえば中等教育では、この辺りが主眼となってもいいのかもしれない。

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# by walk41 | 2017-10-29 10:56 | 身体 | Comments(0)

労働の変化と信仰

香川県にある瀬戸内海歴史民俗資料館を訪れた。県立施設とのことだが入館料は無料、大きな実物と見応えのある資料が多かった。

かつての農業、林業、水産業(この地方では塩業も含まれる)に関わる諸々、今はなくなってしまった仕事、すっかり機械化された仕事を思い起こさせる展示が続く。「柴刈り」が「芝刈り」と勘違いされる現代には、驚くべき事実ばかりだ。

こうした労働のもとで、信仰が位置づいていたことを知れたのが、大きな収穫だった。その一つは恵比寿さん(エビスサン)のことである。漁が盛んだったこの地で、恵比寿さんが大漁を願う神様とされていたことを初めて知った。だから、恵比寿さんは鯛を抱いているのか。また、水不足に悩まされてきた讃岐地方では、雨乞いに関わる神様がまつられたり、麦わらで作った大きな龍が昭和10年代までも練り歩いたという。

科学技術の発展と「見える化」の進行により、こうした信仰も今では歴史的なものになりつつあるが、「見えない」ものへの想像力、ひいては畏れや慎みも忘れてはならないと思わされた。

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# by walk41 | 2017-10-29 08:33 | 身体 | Comments(0)

読み方

本州と四国を結ぶ三つの橋の一つ、しまなみ海道を北から南に進むと、尾道から今治に至る。

その今治に波止浜(はしはま)という地名があり、離島への船が出る港もある。

さて、この波止浜をインターネットで検索しようとするも、なかなか見つからない。ほどなく、その理由がわかった。それは、波止場(はとば)という漢字の並びに馴染んでいるために、最初の二文字を「はし」とは読まずに、「はと」と読んでしまう癖が自分に付いているからだと。

思い返せば、山梨県に住んでしばらくは、「やまなし」と京都の地名、山科(やましな)をよく言い間違えていたが、山梨県にひとたび馴染むと、反対に山科を「やまなし」と言うことになった。そして今は、再び「やましな」派だ。

言葉の表記は客観的だが、それをどう読むかは、読み手の経験にもとづく偏り、傾きにも依っており、この点で、文字を読むことは文脈依存的である。これが話し言葉や非言語となれば、その表出と変化のスピードの早さから言って、より各主体の文脈に沿って把握されることになる。「コミュニケーション能力が大切」などと、のっぺりと捕まえるのではない、より分析的な姿勢が求められるゆえんである。


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# by walk41 | 2017-10-27 16:07 | ことばのこと | Comments(0)

漢字しりとり

小学校の授業を見せてもらった。テーマは漢字しりとりだ。

それはこんな感じで言葉をつなぐものだった。季節→接続→属性→正義、と漢字は異なる一方、音が同じものを探すのだ。

教室を見渡すと、進まない児童が多いよう思われた。表意文字である漢字を扱いながら、これを表音文字かのように取り上げるって、ちょうど、赤い紙に白と書いてあるものを、赤と読むように求めるくらい、労力を要するのではないだろうか。

学校を後にしてからインターネットで「漢字しりとり」を検索すると、もう一つあった。それは、対面→面会→会社→社会、のように、同じ漢字でつなぐものだ。これならば、私はわかる。漢字のしりとりなんだから、音のしりとりと違わないとね。

さて、この学校の教員は、少なくとも2種類の漢字しりとりがあることを知っているだろうか。また、いずれを扱うかで授業での狙いも変わってくるだろうから、今回のテーマは何だろうか。たとえば「漢字に親しむ」というだけでは駄目だろう。一時間で扱えることは限られるのだから、もっと焦点をはっきりとさせた授業を。そのためにも、漢字ならこれについての学習と考察によりエネルギーを費やしてほしい、と思う。

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# by walk41 | 2017-10-26 05:23 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

話し合うことの面倒くささ

20170908の朝日新聞、多和田葉子「ベルリン通信」を遅ればせながら読んだ。同月末に行われたドイツ連邦議会選挙前の記事である。

原子力発電所、移民受け入れ、同性婚の合法化など、新たな課題に柔軟に対応するドイツ首相、アンゲラ・メルケル氏が、自分とは異なる立場の人やテーマにも、基本的に臨んでいることを述べるものだ。記事中でも言及されているが、こうした言動は、話し合うことに対する彼女の価値観の現れだと私も思う。

ときに、いやしょっちゅう自分とは違うものの見方・考え方、行動をとる人たちと、うまくやりとりすることは実にやっかいだ。まず相手の言い分を理解することにくたびれる、くわえてこれを自分の「辞書」に当てはまるように解釈することも必要だ。そして、相手との話し合いがやってくる。これに感情が伴い、多くは不満、怒り、さらに不信すら生じうる。アドラーも言っているが、人間の悩みはまさに対人関係からこそ生じる。

これらを続けるためには、忍耐力、翻訳力、表現力、表情や非言語の制御など、いろいろな能力を要する。つまるところ、体力だが、これを養い、維持・管理し、向上させていくための、いわば総合的な力が問われる。

かたや、日本の学校ではいま「コミュニケーション能力」「話し合い活動」などと喧伝されるけれど、それは語彙力や知識・理解に留まらない。むしろ、知っていることが相手とのやりとり上、障害になることすらあり得る。いわゆる「上から目線」は感情的な葛藤を引き起こしやすいし、なまじ「わかっている」と思うことは、相手を理解する意欲を欠く。カウンセリングなどで言われる「傾聴」、さらにはソクラテスの言う「無知の知」の大切さは、この辺りにあるのかもしれない。

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# by walk41 | 2017-10-24 09:35 | コミュニケーション | Comments(0)

「指導死」の背景

福井県の公立中学校で起こった、教員らによる叱責を原因とする生徒の自殺、「指導死」とも新聞にあったが、いたたまれない。教育というものが暴力的な性格を持つことを思い起こさせるものである。

「学力日本一」とも言われるこの県だが、そのことは「優れた」授業方法や三世代同居といったことによるのではなく、やれと言われればともかく懸命に臨もうとする「素直な生徒」「従順な生徒」たちに支えられているのではないか、とすら思わされる。

敢えてステレオタイプ的に述べるならば、同じ中学生でありながら、いわゆる全国学力テストは成績に影響しないと聞くや、クラスの生徒の半分くらいが休んだ学校の現れた大阪府の中学生と、暴言や恫喝とも言える言葉による暴力を浴びてなお学校に通い続けた中学生がいかに違うか、を示す事案ではないだろうか。

今から10年少し前、フィンランドの教育が世界一と持ち上げた研究者たちがいたが、彼の地の「学力」ランキングが低下した現在、話題にできなくなってしまった。彼らはかつて発表したことを、どう総括したのだろう。

同じように、福井県の教育がなぜ優れているかと持ち上げる研究者が今いる。彼らはこの事件を聞いて、どんなことを思っているのだろうか。

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# by walk41 | 2017-10-22 21:46 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

気づかなかった

人様に対しては、「気づいていないことがこんなにあるでしょう」などと、息巻いて話しているのに、自分も同様にそうであることを、またも知らしめられた。

「時速100キロ以上で『キンコン、キンコン♪』なぜ速度警告音は無くなったのか」(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171017-00010001-autoconen-bus_all)の記事を読み、すでに久しく1980年代に、クルマにこの警告音の規制がなくなっていたことを、なんと実に遅ればせながら知ったのだ。

思い出せば、その昔、クルマを運転していて時速100キロ(正確には105キロとのこと)を超えると、この音が鳴り、不快なために速度を落とすということがあった。警告音が鳴り続けても、飛ばす猛者もいただろうが、気にならない訳にはいかない音だったと記憶している。

ところが、クルマを変えていく中で、そうしたものがあったことがすっかりと頭から抜け落ちてしまう。驚くほどに。

毎日のように乗っているクルマのはずなのに、その装置が変わったことに気づかない。むしろ、頻繁に接するからこそ気づきにくいのかもしれない。教育談義ではないけれど、通じることもあるのではないだろうか。それなりの年齢以上のみなさんは、このことをご存じだっただろうか。


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# by walk41 | 2017-10-19 21:56 | 身体 | Comments(0)

人文・社会系学問のミッション

基礎・基本を身につけるべきだからと、高校生まで「正解探し」に追われてきた学生が、大学に入ったのだから「正解」なんてないんだよと、逆方向に近いようなスタイルを求められるのは、少しかわいそうにも思う。けれど、大学生(最近、聞いたことだが、某大学院生たちは、自分たちのことを「生徒」と話すという。世も末である。)であるためには、その負担や痛みに耐える体力が必要だろう。

自然現象を対象とする理科系についてはわからないけれど、大方が人間の生み出した、人為的なものを対象とする人文・社会系については、人為的な行為や所産はこれまでどのようであり、またどのように捉えられてきたのか、それはどんな価値観や規範等に支えられてきたのか、それはいかに変えよう、変わりようがあるのか、を主な問いにする。

そんな作業がなぜ必要なのか、という質問に答えるならば、私たちは生物的ほか自然科学的に規定されているだけでなく、自身が作り出した文化、芸術ほか社会と呼ばれるものに大きく影響され、また影響を及ぼしているからだ。自分たちを理解したいという欲求から、私たちは人間に関わる諸々を捉え返し、分析、評価、新たに構想するといった作業を繰り返している。

だから、学問をするとは、問いを学ぶ、ともすれば馴染んだ言葉や事実を取り上げ、いわばマナ板の上に載せて、分析することである。開発や応用という分野もあるけれど、そのためにも、なぜ今そうなっているのかを知る必要がある(たとえば、キーボードの配列)。

当たり前に見えがちなものを問い返す作業は、相当の労力を伴うし、それを続ける自身を保つためのマネジメントも求められる。だからこそ思考体力とも言うのであり、根気強さや我慢強さが重要でもあろう。こうした体力を学生にはぜひ養ってほしい。大して勉強もしておらず、ましてや考えもしていない一方、知ったかぶりの決めつけをするようなことをできるだけ避けて、慎重に丁寧に手間に臨んでほしい、と言う所以である。

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# by walk41 | 2017-10-18 23:02 | 研究のこと | Comments(0)

nation

学部生への授業で、「国民教育の歴史を乱暴に述べれば」と授業者は話したのに、なぜか「乱暴な国民教育」と聞いた「元気な学生」が、感想文の行で、ナショナリズムという言葉を記していたので、いま一度、確認しておきたい。

ナショナリズムはナショナルな考え方を重視するものだが、このnationはフランス語のnatus「生まれた」を語源にする。「生まれたことをきっかけに自然に結びついている人々」と理解すればよい。今でこそ、これは国家と同義的に考えられがちだが、範疇が即、国家に限られるわけではない。

nationとは、家族や親族、村落共同体は狭いかもしれないが、市町村や都道府県が単位であってもかまわない。故郷(くに)は多くの場合、近江国、薩摩国と生まれ育った地域を指しており、「お国はどちらですか」と尋ねられて「日本です」と返すのは、知識が足りないか、ちょっとした冗談の類である。あるいは、「全国地図」とあるけれど、これは決して世界地図を意味するわけではないことは小学生でも知っているだろう。はたまた、国盗り物語も、外国との戦争を描いたものではない。国とあれば国家だと捉えるのは、シンプルに過ぎるだろう。

また、おそらくは多くの国家の場合、その中に、複数の小さな国家を抱えた、いわば同心円的な構造を取っている。日本ならば、日本国-都道府県-市町村、であり、ドイツならば、Bund-Land-Gemeinde、である。言わずもがな、すべてを国が扱うわけではなく、都道府県や市町村の所轄事項も少なくない。さらには、市町村ではあっても、政令指定都市や中核都市ならではの業務もある。

また、ドイツの場合は連邦国家だから、人々の日常感覚としての国は州(Land)であり、各州の法律にもStaat(国家)は州のことを指すと示されている。教育行政について言えば、16の州それぞれにいわゆる文部省があるし、それらの調整役としての常設文部大臣会議(KMK)は1948年に創設、70年近く前から、州ごとに公教育が異なることを前提に「ドイツの教育」を行っているのである。

こうした「わかったようなつもり」の言葉についてこそ、慎重に丁寧に考え扱うべきことを学ぶのが大学生だろうに、「本来のナショナリズム」などと記して、権威主義に乗じるかのような知的貧困な様子を残念に思う。

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# by walk41 | 2017-10-17 12:45 | ことばのこと | Comments(0)

好みの幅広さ

秋も本格化、各地で行われているだろう祭りの一つ、ジャズフェスティバルに出かけた。広場でのステージを覗いたあと、小さなお店に入ったところ、これまた小さなスペースにジャズライブができるようにしつらえてある。

二人組みのライブが終わり、今度は三人のグループが演奏の準備を始めた。すると、このグループ目当てのお客さんが一番近くに席を取って、写真を撮り始めたのだ。

もちろん、ファンの心理はそうでない人におよそ分かるものではない、とは知っているつもりだ。それでもなお、グループをいわば激写続ける、30代半ばと思しき女性ファンの様子を見て、はなはだ失礼ながら、まるで映画のワンシーンかのように、つまりとてもユニークな構図に感じたことだった。

そのグループは30代、40代と思われる男女で、いわゆるビジュアルが際立つ訳では全くなく、かといって演奏が上手い、歌に惹かれるとも思われない。MCもボソボソで、これだけ小さな場なのに話し声がしっかり届かないほどである。演奏中、周りを見渡しても、聴いていると思われる人は、その追っかけ女性の他にいたかどうか。

30分ほどが経ち、持ち時間が尽きたのだろう。カンパ用の入れ物が用意されたけれど、入れたのは彼女ともう一人の男性のみ。その他の客は曲が終わっても拍手すら起きなかった。私個人としては、これまた失礼だが、演奏を聞かされ続けるのが辛かったので、やっと終わったとホッとしたくらいである。

趣味はまさに人さまざまだと言うけれど、多くの人が関心を持たない、恐らくは冴えないこのグループが、一人の女性に元気を与え、励ましたことも事実である。そしてこのグループにとっても、きっと同様だろう。

自分の物差しでわかったような気になるなと、これまたわかったようなことを思うけれど、事実はもっと深く広い、そんなことを思わされた夜だった。


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# by walk41 | 2017-10-15 12:43 | 身体 | Comments(0)

スクールソーシャルワーカー

ドイツの友人が、学校ソーシャルワーカーに関する年次報告書(Förderung derJugendsozialarbeit anöffentlichen Schulen)を送ってくれた。彼女はスクールソーシャルワーカーとして10年以上働いており、ソーシャルワーカーとしての経験は20年以上になる。私が以前から、この分野の勉強をしてみたいと話していることを覚えてくれているからだろう(申し訳ないことに、言っているだけに留まっており(^^;))。

そこで今回「少しは勉強します宣言」として、以下、彼の地での学校ソーシャルワーカーに関するデータのごく一部を、皆さんに紹介したい。

ドイツの南西部の州、Baden-Wuerttemberg州は人口およそ1088万人(2015.12.31現在)、3627の普通教育学校、309の職業学校が置かれている。これらのうち、学校ソーシャルワーカーSchulsozialarbeiter(SSA)が配置されているのは、普通教育学校の2051校、職業学校の202校、全体の6割弱に相当する。また午後も学校での活動が行われる全日学校(Ganztagsschule)での配置率は約75%、学校の開かれている時間が長いほど、SSAの配置の高いことがわかる。

スクールソーシャルワーカーは、同州の約52.7%の市町村に置かれ、働いているのは2060人(2016.7末現在)、100%勤務のスタッフが16.6%に留まることもあり、フルタイム勤務相当に換算すれば1341.29人になる(ドイツでは教員もパートタイム勤務が少なくない。ご興味のある方は、榊原禎宏「パートタイム労働としての教職像-ドイツにおける教員の検討から-」『京都教育大学紀要』117、201009)もご覧下さい)。SSA配置に関わる費用は約2228万ユーロ(1ユーロ=133円換算で、約28億9640万円)、6歳から18歳までの青少年1000人あたり、1.07人(フルタイム勤務に換算して)である。ただし、この値は0.66から1.90と郡市間の差が約3倍に上る。学校種による配置率の違いも2倍ほど見られる。

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日本のスクールソーシャルワーカーの全体の配置数、青少年あたりの配置数、行政区や学校ごとの配置率、費用などはどんな様子なのだろうか。これらは、教員の「働き方改革」とも関わることだろう。まずは量的な把握をしたい。

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# by walk41 | 2017-10-14 10:59 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「奏を功する」

ある教育委員会の会議にて聞こえた言葉だ。

「このことが、奏を功したと言ってよいでしょうか…」。いやいや、功を奏するなんだけれど。まあいいよね、みんな黙っていたし…。

思い起こせば、鉄筋コンクリートを「鉄コン筋クリート」といった類いの言い間違いは、いそらく枚挙にいとまがない。だから、どうしてそう言ってしまうんだろうって、笑うのが「正解」だよね。


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# by walk41 | 2017-10-12 20:20 | 身体 | Comments(0)

付いた力は自分ではわからない

今は文化芸術系の分野に進んだが、学生時代は教育系の大学で過ごした君が思った、という話に触れることがあった。私の聴いた限り、こんな感じだ。

劇場の業務の一つとして、小学生たちと接する機会が最近あり、多くの子どもたちと楽しく過ごした。が、ふと周りを見ると、ぎごちない同僚たちの姿が目に入った。いつもは、東京の旧帝国大学卒業生だからと恐れおののいていた人や、外国で調査をしてきた人なんだと、ちょっと怖々だった同僚たちが、子どもとうまく接することができない様子に驚かされたのだ。誰もが、子どもといわば自然に関わることができるわけではない。これはいったいどういうことだろうか。

振り返れば、大学時代の教育実習や座学を含む教育-学習に関わる経験が、それなりの子どもとの接し方を導いているのではないか、と。学生時代は、大学でいったい何を学んでいるのだろうと思わなくもなかったが、後になってみれば、知らないうちに、子どもと関わるいわゆる力量のようなものが身についていたのではないだろうか、と。

教育-学習に関することだけでなく、学んだことは実は自分にはよくわからないのだということは聴くに値すると思う。もちろん、振り返りや自己評価も大切だろうけれど、自分では捉えきれないものがどうしてもあって、それがふとした機会に気づかされることがあるという構図だ。

翻ってみれば、学んでいる当人ですらどうなのかがわからないのに、第三者の一人でもある教員がいかに「子どもの学び」を捕捉できるのだろうか。つまるところ、教育や学習といったものは、当事者も掌握できない「ロマン」の世界に属すると見なした方が適切ではないか、とも思わされるのだ。





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# by walk41 | 2017-10-11 23:31 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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