学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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全体主義を支えるもの

南ドイツのある街の比較的小さな博物館を訪れた。常設展に加えて行われていたのは、魔女狩りをテーマとした特別展だった。

恥ずかしながら勉強不足で、何となくしか知らなかったテーマだが、今回わずかでも学ぶことがあり、大いに刺激を受けた。というのも、歴史的な出来事ではあるけれど、そこに流れる物の見方や行動は、現在にもすぐれて通じると思われたからだ。

1480年あたり、南ドイツや北フランスを中心に天候不順が続き、作物が壊滅的な打撃を受けた。あるいは、犯罪者の増加が顕著であった。いわゆる異常気象や気候変動を説明できない状況にあっては、その原因を以前から存在を信じられていた魔女によるものと結論づける可能性が高まったのだろう。カトリックの司祭が、魔女狩りを始め、わずか数年の間にこの街では、46人もが処刑された。その多くは生きたまま火あぶりにされたと伝えられる。

この凄惨な出来事は、多くの研究者の対象となっているが、次のような着眼ができるようだ。それらは、説明できないことを何かにこじつけて説明しようとするメンタリティ(認知的不協和を解消しようとする傾向)、裕福な女性、あるいは美しい女性に対する嫉妬や不安といった、驚きべき女性蔑視に裏打ちされた人間観、自白が唯一の根拠とされた時代にあって、本人がそう言っているのだからという合理化などである。

この特別展に行ったとドイツ人の友人に話をしたところ、次のようなエピソードを紹介してくれた。魔女狩りの被害にあったのは女性が多かったが、男性も例外ではなかった。ある男性の妻が魔女として捉えられた際、彼は妻に家族のことを話をしてはいけないと手紙を送ったそうだ。というのは、家族に関わる出来事は魔女の仕業によるものだという論理が強かったために、そう結論づけられる、つまり妻が魔女と認定されることを恐れたのだ。

ところが甚だ皮肉なことに、その手紙が魔女裁判の中で発見され、家族のことを話すなということは、何かやましいことが家族にあるからだ、つまり、家族の問題を知っている夫は魔女(魔男というべきだが)であり、その妻も同様であると結論されたのだという。結局2人とも、処刑されたのだと。

このさまは、事実が何であれ、捉えた人物が魔女であると言う結論が先にあり、それを合理化するための論理が形成されたことを示している。つまり、ある論理の推論の仕方によって、結論は大きく異なり得ることを学べる。

拷問の道具、例えば鋲でできた椅子なども展示されていたが、これに15日間も耐えられる人間はそうはいないだろう。このほか、水責めなどもあったとか。自白すれば、「本人がそう言っているのだから、間違いはない」と結論づけられてしまう。

かつて、拙ブログに記したことを思い出す。ある学生が小学生の頃、クラスメイトのものがなくなったと騒ぎになり、たまたま同じものを持っていた彼女が盗んだのではないかと学級担任に疑われた。驚き、涙を流す彼女に、その教師はこう言った。「泣くってことは、本当のことを言われたからだよね。」魔女狩りや魔女裁判は、現在も生き続けている。

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by walk41 | 2017-09-20 06:01 | Comments(0)

誠実さ(2)

自然科学の分野の特徴を踏まえて、この教育や学習にいかに臨むかについて先に記した。

ちょうどこの反対のことが、人文・社会系の分野についても当てはまると思う。

データを量的に多くを集められるテーマならば、法則的とまではいかないまでも、傾向として捉えられることがある。たとえば、女性の学歴が高くなるほど、出産年齢が遅くなり、結果として出産数は少なくなる。児童・生徒が学級担任に持つ肯定的・否定的イメージは、学級担任が児童・生徒に持つイメージと正に相関する。子どもの貧困率と虫歯の罹患率も正に相関するだろう。

この一方、傾向から外れる事例もたくさん存在する。担当教員を好きな方がその教科も好きという場合が多かったとしても、教員は好きだけど教科は嫌い、あるいはその逆もある。少人数指導によって学力が伸びる子もいれば、そうではない子もいる。勉強と部活動を両立させる生徒もいれば、片方で手一杯の場合もたくさんあるだろう。必ずと言っていいほど、例外の存在するのがこの分野の基本原則である。

だから、この分野では、「〜すれば、〜になる」と言えないのはもちろんのこと、そうならない事実があるのに「〜すべきだ」とか「〜でなければならない」と鼓舞や説教にも努めて禁欲的でなければならない。やってもできる公算は低い、そもそもできないとすら言い得るのに、「そうなるはずだから、そうならないのは、意識が低いからだ。意識改革が必要だ」などというのは、古くは竹槍でB29爆撃機を落とせというが如し、無理である。こんなことをまことしやかに言う輩は、誠実さを持ち合わせてはいない。

この点で、人文・社会系における誠実さとは、せいぜい傾向までのことをあたかも、相当の確率でそうなるかのように語らないこと、と導ける。まるで予言者のような物言いをするのは、思い込みの激しい人か詐欺師である。こうしたお喋りがあちこち巡っている様子は憂うべきだし、こうした「危ない人」に出会ってもうまく逃げおおせるような力を身につけることが大切だ。

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by walk41 | 2017-09-16 13:09 | Comments(0)

誠実さ

教育実習中の学生の授業を見た。

先の拙ブログに記したように、教科内容の知識や理解が乏しかったり、教職経験の中で多分に身につけていく技術的な面がお粗末なのは、致し方ないと私は考える。けれど、授業を通じて間接的に伝わる学問の論理を蔑ろにするという態度は、決して認められない。

理科の授業である。自然科学は、実証主義、客観性、計測性、再現性などを前提とし、これらに反するものを基本的に除外する。地球から見て、東から太陽が昇るように見えるのは、普遍的なことであり、そんな気がするとか、どの角度から登るか測れないとか、明日のことはどうだか、といった話にはまずならない。この点は、人文・社会系の領域が、解釈、主観、測定困難、一回性といった傾向を帯びることと、好対照である。

だから、理科の授業をするとは、生徒に自然科学の論理、いわば掟を知らしめることでもあり、それが崩れては授業そのものが成り立たないと心すべきである。実証的でなければ理科として扱えないというメッセージを送っているのだから。

なのに、その学生は、授業の前半に「〜すれば、〜となる」と説明を繰り返したのち、いざ、実際にやってみると、そのようにはならなかった。実験上の不具合があった、つまり、条件をうまく制御できなかったのだろう。だとすれば、「先に〜と説明しましたが、実際には違ってそうなりませんでした。どうしてだと思いますか」と生徒に投げかけても良かっただろう。

けれど、その学生はこう言ったのだ。「実験に失敗はつきものなんだよ。」
これが自身の授業のみならず、理科さらには自然科学を否定する、あるいは弄ぶ言い草だとは、気づかなかったのだろうか。

成功や失敗などということは、最初から何が正しいのかがわかっていたことになる。どうかわからないから、授業の中で問いかけ、実験をしているのに、それが失敗だった/成功だったと言うのは、いわば「出来レース」と告白しているようなものではないか。

実証的であるかのように生徒に話していながら、そうでないことも当然かのように言って憚らない、この感性を恐ろしいと思う。「白を黒と言いくるめる」ことに躊躇しないのではないかとの懸念も持つ。何でもいいのか、何だそりゃ、と回りの反応が見えるようである。

一回生に話すことがある。「上級生の中には、手遅れの人もいるかもしれないけれど、大学の試験では決してカンニングをしないように。カンニングができる授業が問題なのかもしれないけれど、そのこととカンニングをしてよいということが繋がるわけではない。もし、カンニングをしたならば、やがて教員になって児童・生徒の試験監督に当たるとき、彼ら/彼女らをチェックさらには指弾できない。その上で試験監督を、したり顔でするようならば、自己矛盾の塊だからね。そんなことに耐えられる?」

自分が聖人君子などと夢にも思いはしないけれど、(最低限の)誠実さを持つことは、教育者に限らないだろうけれど、多くの場合に当てはまると思う。教員は、教育内容だけを扱っている(実質陶冶)のではない、その場を通じた態度や姿勢さらには信条をも扱うことになる(形式陶冶)。このことも想像しながら日々に臨みたい。

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by walk41 | 2017-09-15 20:05 | Comments(0)

自分の仕事を大切にする

南ベトナムでの短い滞在の中で感じたことの一つは、自分の仕事を大切にすることの意義です。

自分が扱っている商品に自信や誇りがあれば、客に値段を決めさせるようなことはしないでしょう。ところが、観光客目当てのマーケットなどに行くと、いくらならば買うかと言う話を持ちかけられます。

売っているものの値段があってないようなのも変ですが、それ以上に奇妙なのは、その商品の良さを話すのではなく、何個を買うかというところから始まって値段の交渉に行く流れについてです。この基調は「この商品はこれだけの価値があると思って売っています。よかったらどうぞ買ってください」とは、ずいぶん異なるように思うのです。

もちろん日本でも、家具屋や電化店で値段の交渉がありますが、自国びいきでしょうか、違うように思います。店側から提示される金額と実際に購入する金額の違いが数倍とあまりに違うこと、「じゃあ要らない」と答えると、「ここまでやったのに、買ってくれないと私、死んじゃう」と芝居を打つこと、「商品に誇りはないんか!」とつっこみたくなるあたり、まだまだ考えがまとまりませんが、違和感を感じるというに留めます。

贅沢な話かもしれないけれど、「いい仕事をしている」と、まずは自分がより思えるようにありたいものです。

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by walk41 | 2017-09-14 08:17 | Comments(0)

物価はどう決まる?

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南ベトナム話が続きます。

小洒落たカフェのアルバイト大学生から、時給が20000ドン(約100円)と聞いたとは記した通りですが、その他、いわゆるアルバイトでどんなものがあるかとhttp://careerbuilder.vn/en/search-job/ほか、Webで検索したところ、次のようなものがありました。

○ベビーシッターの手伝い(英語が話せなくても可):月給600万ドン(30000円)⇒22-23日勤務とすれば、時給160円ほど。
○レストランのいわゆるボーイ:時給18000ドン(90円)
ネットワークに関するサポート(要、日本語能力):月給300-500万ドン(15000-25000円)⇒同様に、時給80-140円ほど。
○フィットネスクラブでの顧客サービス:月給300-400万ドン(15000-20000円)⇒同様に、時給80-110円ほど。
コンサルティングサポート従業員:月給200万ドン(10000円、ただし1日4時間勤務)

一方、ファストフードの値段を見てみました。ベトナムの通貨、1000ドンは約5円なので、円表記をすると、

マクドナルド(ビッグマック)約325円
ケンタッキーフライドチキン(オリジナルチキン)約170円
Baskin Robbins(クリームシェイク)約240円
Pizza Hut(コンビセット)約245円(写真にあるように。同社HPより拝借。)

どうでしょう。賃金に比して、ものの値段がずいぶん高いと思いませんか。だとすると、ファストフードは決して気軽な食べ物に非ず、となります。だって、ビッグマックを一つ食べるために、3時間ほど働かなければならないなんて。高嶺の花と言っていいでしょうから。

それでも、こうしたお店は2010年以降でしょうか、どんどん出店しており、賑わってもいるようです。また、日本に戻ってから知ったことですが、なんとAEONモールもできています。日本と似たような雰囲気で、違うのはバイク置き場の広さでしょうか。とても広いのです。利用者の多くがバイクで来ることの証ですね。

とまれ、物価はどのように決まるのか。この賃金水準で誰が買いに来るのか、どのように営業できるのか。謎は深まるばかりです。


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by walk41 | 2017-09-12 18:17 | Comments(0)

身近な死者は傍に?

南ベトナムの道中、お墓らしきものが見えたので、現地ガイドさんに尋ねる。こちらは土葬ですか、火葬ですか、と。すると、伝染性の病気で亡くなった場合などを除き、土葬なのだという。

歩いていると、通りに面した家の側にお墓があり、墓標を読んでもらうと、数年前に40代で亡くなったその家の男性のものだそうだ。一般には、地下2メートル掘ったところに棺を置き、コンクリートを流して密閉するのだと聞いた。その上に三段ほどのタイルを組んで飾ってある。こうして家の敷地内にお墓を作れば、すぐにお参りに来ることができるとも。

死者を土葬にするか火葬にするかもすでに論争的だが、加えて、墓を身近に置くか遠くに置くかも、違いが生まれる点として興味深く思う。関係する業者などは「ご先祖を想う心の大切さ」などと墓の意義を説くものの、だからと言って残された者が住むまさに近くにとは提案しない。死者は「あの世」の住人であり、「この世」と隔絶されていなければならないという考え方から来るのだろう。

けれど、死者を想うならば毎日のように会えるところに墓を設けるべきとも言えるならば、わざわざ出かけなければいけないような所に墓があるなど、言語道断ではないか。遠くに追いやっているのに、大切にしているなんて、変な言い草だなあ。

自分がこの世を去ったら、火葬にしてもらって骨を残してもらう必要もない。笑顔の(真剣な顔つきではなく)写真を一枚、傍に置いてもらえれば十分だ。お供えも法事ももちろん要らない。思ってくれる人の心に生き続けるならば、肉体をはじめ物理的な事柄の面倒さを、何ら求めることはないだろう。



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by walk41 | 2017-09-11 09:37 | Comments(0)

格差の大きな社会主義国?

あくまでもあくまでも、ごくごく限られた見聞きしか持ち合わせない。けれども、現在のベトナムが社会主義国だというのは、どうも当てはまらないように思う。

私の理解の限り、社会主義とは、最低賃金が生活上のベーシックな基準を満たしているものだろう。この点で、全体としての豊かさの多寡はともかくも、歩行者用の路上で物乞いをする人、あるいはそんな所に持ち込んだ七輪で火を起こして大判焼きのようなものを売る人がいる一方、その傍に建つショッピングビルに、つい数日前に入ったH&Mの商品を買い込む人がいるというのは、バランスを欠いている。

ちなみに、日本ではファストファッションとしてUNIQLOの延長線上とも言えるH&Mだが、ベトナムではそこでTシャツ1枚が20数万ドン以上、1000円少しで売られており、これは例えば、タクシーの初乗り1万1〜2千ドン、60円程度を引き合いに出せば、日本は約10倍になるから、先のTシャツは10000円くらいに映ると言えるだろう。

あるいは、小洒落たカフェでアルバイトをしている女子大学生に、賃金を尋ねると時給2万ドン(約100円)だと言う。店に入るときは1日8時間働いていると聞いたので、日給は16万ドンになるだろう。この一方で、先のH&MやZARAが入るビルの地下では、大衆食堂という看板の中華料理店のコンビセットが89000ドンと宣伝されていた。これは、この学生の半日の賃金を上回る。日本ならば、時期700円と考えて約3000円、これを大衆的とはなかなか呼べないだろう。現地ガイドさん話したときも、学生のアルバイトは時期15000ドン(75円くらい)と聞いた。この額では1日働いても、このコンビセットと飲み物くらいで消えてしまう。

路上で物乞いをする人がどのくらいいるのかを知らないし、この地方では学生のアルバイトの賃金が低いのかもしれない。けれども、日本ではいずれも稀なように思う。ひょっとしたら、以前に比べれば格差は縮小しているのかもしれない。それでもなお、人々の平等がそれほど実現されていないのだとすれば、現代の社会主義とはどういうことなのだろうか、と考えさせられる。



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by walk41 | 2017-09-10 18:14 | Comments(0)

遵法精神

たとえば交通ルール、赤信号の時は止まる、直進車が優先といったことは、多くの人がこれらを守ることによって成立する。守られないルールは、たとえ法律に定められていたとしても意味を持ち得ない。

なんとなくではあれ、あるいは警察の取り締まりがあるからと理由はともかくも、こうしたルールを守ることによって、道路の状況は、設計した形に近いものとなる。けれど、たとえ信号があり、センターラインが引かれていても、これらにお構いのない人が多数出てくると、言わずもがな、道路はカオスとなる。

赤信号であっても堂々と交差点に進入する、センターラインを越えて走行する、歩行者用の道路をバイクが走るといった光景を、ここベトナム南部のホーチミン市で当たり前のことかのように見ると、日本の多くの街でおおよそは整序だって自動車やバイクが通行していることが、実は凄いことなのだとわかる。

クラクションを鳴らすのは、よほどの時だと思っていたけれど、これだけ左右から車やバイクが飛び出してくると、クラクションはとんどウィンカー(パッシングを含む)代わりに使われていることに気づかされる。大阪弁風に言えば「どきや」「入るで」「早う行きや」と伝えるべく、決して大げさな物言いではなく、四六時中クラクションが鳴らされている状況だ。ノンバーバルの道具と意味が、ここでは違っているのだ。

それでも、衝突や伝統といったことがあまりないのではないかと思われるほどに、皆さんの運転技術が高いのにも驚かされる。地元ガイドさんによれば「ホーチミン市内は、あまりスピードが出ないので、事故は少ない」とのことだけれど、それって喜ぶべきことなのかどうか。とまれ、移動上の効率と排気ガスによる環境へのダメージについては、すこぶる悪いと思うけれど。

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by walk41 | 2017-09-10 10:15 | Comments(0)

「先生」を安っぽくしないで

教育実習中の学生の授業を見に行く。

知識がいわゆる平板で説明が不自由、誤解すら招きかねないことは、教員の卵の卵くらいなので、致し方ないとしよう(実習校にはお許しを願いたい)。けれど、気になるのは私だけだろうか、解せないのは、学生が自分のことを「先生はね」と多用することだ。

拙ブログをご覧下さっている方は「また言ってるなあ」と思われることだが、やはりおかしいと思う。授業者が「先生」であることは、子どもには明らかなのに(だからこそ、授業ができる。「先生」でない人の話を聞く義理はない。)、それをなぜ強調しなければならないのだろう。

授業後、学生と話をする。このことを尋ねると、実習指導の教員から「子どもと差別化するべく、私や僕ではなく、先生と言うように」と伝えられているのだとか。学生本人は、(大学の授業で、榊原に「洗脳」されたこともあり)自分のことを先生と言うのは変だなと思ったらしいけれど。

実習校でそう言われては、違うスタイルを取るのは難しいだろう。じゃあ、と一つ提案をしてみた。「一人称を遣わなくても、子どもに話をすることはできるよね。」

◯「先生がいま見に回ったところ、色々な意見が書かれているね」→「いま見に回ったところ…」
◯「先生が後で見るから、ノートを出してね」→「後で見るから…」

思い出せば、日本語は一人称を省略する傾向が強い言語とも言われる。「そう思うなあ」「そんな話、してないよ」「眠れなかったなあ」と、全て私や僕を省くことができる。「僕はトマトが好きです」「私はそう願います」と聞くのは珍しい方だろう。なのに、「先生はね」のオンパレード。

学習指導要領にも、教科書にも書いていない「学校文化」としての「先生はね」表現、これは必要なものだろうか。また、これは教育的に効果が認められる方法や方略だろうか。そもそも、関係するデータはあるのだろうか。評価やエビデンスが大切と喧伝する向きには、示してほしいものだ。

繰り返そう。先生は他者が敬称として遣うものだ。それを自分で言うと、とたんに安っぽくなるからね(医師や弁護士が自分のことをそう言わない[だろう]のは、まことに賢明である)。学校教員もぜひ止めてほしいな。


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by walk41 | 2017-09-05 10:33 | Comments(0)

数字は世界言語にあらず

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ネパール・インド料理のお店に入った。
見慣れない数字のカレンダーが貼ってある。西暦2015年のものだが、ネパールの暦、ビクラム暦では、2072年になるらしい。もっとも、アラビア数字に馴染んでいる身としては、「7」に見えないのだけれど。

なぜか、6月16日から7月16日までの月めくりのカレンダーで、しかも、6月16日から順に、1,2,3,と日にちも記されている。ところが、自分が見慣れている「1」は「9」のようだし、「4」はまったく違うので見当もつかない。幸いにと言うべきか「0」はだいたい同じようだ。

ある方のページ、https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=784058318323958&id=669264723136652、を引かせてもらうと、

1->१ Ek(エク)
2->२ DUI ( ドゥイ)
3->३ Teen ( ティン)
4-> ४ Chaar ( チャール)
5-> ५ Paach ( パーツ)
6->६ Chha ( チャー)
7-> ७ Saat ( サート)
8-> ८ Aath ( アート)
9->९ Naau ( ナウ)
10-> १० Daash ( ダースュ)

になるそうで、この数字の複雑さにくわえて、発音もバラバラ(ネパール語がわかれば、事情が変わるのかもしれないが)、少なくとも英語やドイツ語に明らかな規則性がないように見えるのだ。

自分がその世界に疎いものだから、勢い「数字は(ひいては数学は)世界言語だから」などと、わかったようなことを言ってきたけれど、事実はそうではないことに気づける。漢数字だって、世界標準ではないことを思い起こせば、そんなことはとうに解っても良さそうなものを。

己の愚かさに改めて気づかされた午後だった。

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by walk41 | 2017-09-03 00:06 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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