学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:身体( 280 )

地毛は大切?

朝日新聞でいま特集している「学校の変なルール」。その一つである「地毛証明書」に関して、学校にとって悩ましい、けれど傍目には阿呆らしいテーマなので、ここではふざけた思いつきをお許し願いたい。

この記事にこうある。「ある都立高の副校長は『地毛を大切にするように呼びかけているので、証明書が必要だ』と言います。」

なるほど。じゃあ、加齢に伴って髪の毛が減ってきたからとカツラを被ったり、おしゃれにと付け毛をするのもダメだね。地毛は大切だから。もちろん、付け加えるだけじゃないよ。脱毛なんてもってのほか。地毛を大切にしなきゃ。さらに、地毛だけではないからね。地肌も大切にしなければいけないから、化粧もダメだよ。さて、どれだけの教員がこれに耐えられるだろうか。

かくも、教育は「黒を白と言いくるめる」ほどの暴力性を伴う。この点で同記事中、身体に関してあれこれ言うのは人権侵害だと憤る、尾木教育評論家の弁はナンセンスである。評論家とはそんな程度なのだろうが、こんな人の言がなぜ活字になるのか不思議でならない。読者の頭を悪くすることをマスメディアは狙っているのだろうか。

じゃあ、服装はどんなものでもOKなの? 生徒が教員を「〜くん」と呼んでもいいの? そもそも、学校に行きたくなければ理由が何であれ行かなくてもいいの? 残念ながらそうはいかないから悩ましく、どこで線引きをすればいいのか、と当事者は葛藤するのだ。保護者の意に関わらず、子どもを学校に行かせなさいと規定する法律が、すでに人権侵害なのだから。

だから、学校は強面で行くか、それともやんわりと臨むか、はたまたこの中間でやるのかの選択を迫られる。それは、生徒、保護者、「伝統」、教員たちの信念などによって左右されるが、それは「学校らしく」あるための保険のようなものだから、内容や度合いは一様ではない。こうして時々「変なルール」が生まれることになる。関係者が違和感を感じなければそのままだが、変だなと思うと「問題」として現れる。たとえば、宗教関係の作法など、当事者でなければ相当に変でも、「そんなものだ」と了解されているからこそ、続いているのである。

そんな線引きをしなくてもいいじゃないか、は一理ある主張だ。けれど、それは「もし、〜が起こったらどうしよう」と心配する人には届かない。旅行保険をかける人に「まあ、滅多なことで事故や事件には合いませんよ」と言っても仕方ないのと同じである。

なぜ保険をかけようとするのか。それは学校が常に多くの生徒を預かることが初期値に設定されているからに他ならない。小規模校ではルールが少なく、生徒の行動をより制御できる小学校、中学校、高校の順にルールが厳しくなりがちなのは、このためである。学校の基本形ともいうべきものが残る以上、「変なルール」は行き続け、なくなることはない。




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by walk41 | 2017-08-21 10:30 | 身体 | Comments(0)

「子どもらしさ」と感情の表出

現職教員の皆さんとの勉強会、とても楽しく過ごす。

その中で、子どもの頃は「箸が転げても可笑しい」と笑うのに、大人になると「何が可笑しいのか」と不機嫌な輩が増えるね、という話から、次のようなモデルを作れるのではないかと盛り上がったのだ。

すなわち、子どもー大人、私的世界ー公的世界というX軸と、笑いの表出(発現)というY軸を設定すれば、負の相関を示すことができるのではないか、この点で「子どもらしい」とは、「わかったつもり」にならない上でも、とても大切ではないか、と。

また、これを敷衍して、いろいろな感情の表出にまで話を広げると、怒りについては子どもらしさや私的世界のいかんに影響されず、いやむしろ、X軸を辿るほど、大人になる、公的になるほどに、怒りが高まる(「キレる40,50代」)のかもしれないとも思わされる。

主体だけに因っているのではなく、文脈によって人の感情の表出が異なるとすれば、自分と周りの世界をどう認知しているかが、このことと大きく関わっていることは明らかだ。恐れを知らない、疑うことを知らない、立場や肩書きを気にしない(そもそも持っていない)人は、どのような感情表出とその前段階の感情発露をしやすいのか。

あるいは、これと反対に、恐れ不安がり、猜疑心に満ち、自分の立場を強調したがる向きは、どんな感情を生みがちで、また表出しがちなのか。

こんな点からも、教員あるいは人間を観察、理解できることを、とても興味深く思う。

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by walk41 | 2017-08-19 16:13 | 身体 | Comments(0)

耐えられる能力

耐えると聞くと、暑さや寒さ、痛みに耐えるとイメージする人もいるだろうけれど、別の耐えるもある。それは、わからなさに耐える、あるいは、わからないという落ち着かなささ、気持ち悪さに耐えるということである。


例えば、他者の話に耳を傾けるという場合、たどたどしい、要領を得ない話ぶり、自分に何が求められているかがわからない状況は、なかなかくたびれる。「つまりは?」「結局のところ?」と声を上げてしまいかねない。そこを耐えられるか、傾聴できるか、は能力だろう。


あるいは、何か我慢できなくなり、感情的な爆発をしかねない時に、一歩引いて、自身をクールダウンさせることができるかどうかも、能力いかんである。「許せない」「我慢ならない」と即断する前に、一呼吸を持てるかどうか、「怒りたくなったら10を数える」という教えも、このことを踏まえてのものだろう。


この文脈で言えば、我慢強くあるとは、できるだけ耳を傾けること、状況を見据えること、敢えて判断を保留して、沈黙や静止状態を維持すること、と具体化できる。すぐに反応、行動しない、けれど多面的に観察、考察している、そんな逞しさ、したたかさを自分も持ちたいと思う。



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by walk41 | 2017-08-13 16:29 | 身体 | Comments(0)

生きる力を奪う人

ある院生から大学院の様子を聞く(京都教育大学の学生ではない。念のため。)

その君の指導教員の対応が恐ろしくまた貧しく、大学院生活を続けるかどうかを悩むほどだという。授業に15分から30分ほど遅れてくるのは茶飯で、この間は、授業前日の深夜、Lineで「休講にします」と連絡があったらしい。それを読むことなく大学に来た学生は当然のことながら脱力する。その後、その教員と会った際も「ごめんねぇ」と説明なく済まされたとのこと。なぜ休講だったのかの説明がないままに。前日の夜に「疲れたから、明日の授業は休講にしよう」と決め込んだということか。

ゼミの様子も同様で、無断で遅れて来ては、学生が用意したレジュメとはおそらく関係しないだろうお喋りに時間を費やすそうだ。論文指導の時間は文字通り、論理に関わる話をしなければならないのに、「私は感性の人だから」「ネガティヴなことは考えず、楽しくやりましょう」と嘯くとも聞いた。授業回数の半分を学生の自己紹介に使ったり、シラバスとは全く違う卒論の紹介やこれからの論文構想について話して、と進めるような教員も別にいるとのこと。どこかの教科書にある目次を写したかのようなシラバスと実際の授業とが違っていることは「臨機応変な対応」とは異次元であり、二重帳簿そのものだ。

さて、先の教員に戻ると、授業回数を確保するために土曜日にも当てられている授業について学生が尋ねると、「やらない、やらない。土曜日なんて」と返したという。おぞましき「教授」である。

学生を論理的に鍛えずに、何が論文指導なのか。「名目上の時間だから」と話すとも聞く。自らが所属する組織に対する、入学する学生に対する不誠実さ、さらに公的資金を使っている点で納税者に対して給料泥棒といってよい。

こんな人と時間を過ごすことで、関係する学生はいたく生きる力を奪われることだろう。論文への展望が開けず、その「問題教員」と会わなければいけないと思うだけで滅入るような精神的ダメージを受けつつ、学生を続けなければならないという理不尽を与えられるのだから。いったい何の罰ゲームなのだ。

先の拙ブログで「なるほど」と記したが、生きる力は学校教育業界では教育を通じて獲得するべき/できるものと措定されがちだ。けれど、実は自らの生きる力は他者によって促され、また潰される。自分だけで生きる力を得ることは難しい。だから、自分の生きる力がより高まるように、自身の周りの環境を整えるべきだが、それでも叶わないことは少なくない。

この君のように、不本意に不幸な環境に置かれた場合、ほとんど為す技は残されていない。大学の自治や教育の自由は、厳しい自律性に支えられる。それに耐えることのできない「教員」をどうすればいいのか。おまけにそういう教員はまま、自分を客観視できない。「いい教員」だと思っていたりするのだから。

これに対しては、情けないことであるが、学長や学部長、あるいは校長でも答えられない。難問である。どうすれば、「学校教育の質保証」は成り立つのだろうか。

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by walk41 | 2017-07-21 22:25 | 身体 | Comments(0)

閾値を上げる

立ち読みで申し訳なかったのだけれど、南和友『人は感動するたびに健康になる』(マキノ出版、2012)に目を通した。間違っているかもしれないが、次のような説明だと理解した。

①自律神経は、交感神経と副交感神経から成るが、両者は随伴しており、片方の閾値を高めることで、もう片方の閾値も高まる。
②自律神経は文字通り自律しているので、意志の力で操作できるものではないが、経験を通して交感神経の閾値を高めることができる。
③心身が活動するときに作用する交感神経の閾値を上げるには、感動する、運動することが有効。
④閾値が高まることで、少量の刺激では反応しなくなる。つまり、より深く感動し、より長く強く運動できる。痛みにもより耐えられるようになる。

この説が医学的に妥当なのかどうかは素人目にはわからないけれど、多くの人が経験則とするだろう、視野の広さ、思慮深さ、大らかさ、慎重さと決断力、我慢強さ、などが相関する(無関係なものとは思えない)のならば、けっこう理に叶っていると私は思う。

仮にこの説明が事実に即しているのならば、私たちは次のような処世術を見出すことができるだろう。たとえば、
a 自分の言動を支えるのは、主体性や意志の問題でもあるだろうが、それらでも操作しえない自律神経であることを知るべき。つまり、より生理学的に自身を捉えるべきであって、栄養、運動と休息、睡眠、人間関係など、生き物として基本的な条件が自分の場合どうなっているか、に心を砕くべき。
b 交感神経の閾値を高めるには、自分の認知と感情の経験を意図的に拡げ、深めることが有効である。つまり、人間と社会そして自然とそこに生かされている自分について学ぶこと、感じることで、ひと・こと・ものに対して広く、深い理解のできる(「幅の広い人間」)自分になれる。
c これらを裏返せば、少ない刺激で反応する(閾値が低い)、つまり、すぐに身体に変化が現れ、露骨に感情を露わにする人は交換神経が劣っている、衰えているためであり、感動や運動の少ないことが考えられる。これらを得る機会をより設ける必要がある。そうでなければ「あんぽんたん」であるし、自分に疲れやすく不幸せなことだろう。もったいない。

著者の主張に対する読者のコメントには「トンデモ本」との評価も見られるので、上の説明の吟味はなお必要だ。けれど、ひと・こと・ものに対する眼差し、自分との関わりという点で、閾値の高い人がより魅力的であり、自分もそうありたいと私は思えるので、けっこうこの説に支持的だ。

「小さな出来事に大げさに騒ぎ、右往左往する」「すぐに感情を表出し、しかもその変化が激しい」「他者に批判的で自分に盲目的[こうなったのはあなた(世の中)のせいで、自分が悪いわけではない](外的帰属の場合)、あるいは、自分に批判的で他者に盲目的[こうなったのは自分のせいで、あなた(世の中)が悪いわけではない](内的帰属の場合)と、いずれも理解が単調である」といった人間像を想定するに(もちろん、自分もこれらと無関係ではない)、学び続ける姿勢を保つことの大切さを改めて教えられる。

世の中は複雑であり、想定外が多いこと(良かれと思ったことが拙くなる場合も少なくないこと)、人間は「生理的早産」をしているため後天的に獲得することが多く、時間経過の中で自身を変態させること(思っているほど、自分という存在は確かなものではないこと)などが、わかり行動できる人間か、そうではないのか。私たちは「人間としての器の大きさ」とか「人間の価値」といった言葉で、これらの意義を指そうとしているのではないだろうか。

謙虚であること、感謝すること、大らかであること、こうあるためにも人生修行として閾値を高める機会をより持つこと、を何度も反芻したいと思う。



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by walk41 | 2017-07-10 06:50 | 身体 | Comments(0)

時に合わせて

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花屋さんでひまわりを求めました。

本当はガーベラがほしかったのだけれど、あいにくあらず。けれど、花屋さんに言われました。「ひまわりは、年中ある花ではありませんからね。」なるほど、季節感が乏しくなったとはいえ、時期ごとに合う花があるということですね。

周りを見渡すと、季節は確実に日々変わっており、今や初夏から盛夏へと移りつつあります。あんなに美しかった紫陽花はもう枯れモードに入ったといってよいでしょう。

昨日と同じ一日だけれど、また違う一日だということを改めて確かめるためにも、小さな変化にアンテナを張ることのできる自分であれればと願います。そのためにも、自身で決められる時間がより多いことは大切な条件でしょう。

多くの職場と同じように、学校で働く職員も小さな変化を慈しみ、楽しめるようなタイムマネジメントが重要なのだけれど。現実はどうもこの方向に沿ってはいないようです。

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by walk41 | 2017-07-06 23:37 | 身体 | Comments(0)

人は見た目

朝日新聞の記事「人は見た目が何%」を読んだ(20170702)。見た目で他者をどう判断するか、というお題である。

投書を読んでいて思ったのは、見た目で判断する、ということの反対は、見た目ではない部分で他者をどのように判断できるのだろうかだ。逆から考えてみよう。

見た目ではわからない部分というのは、いわゆるぱっと見た感じでは掴めないところなので、出身地、学歴、家族構成といった辺りだろうか。たしかに、見た目だけではなかなかわからないだろう。

けれど、「見た目」をその人の振る舞いまで広げると、どうだろうか。仕草、言葉遣い、服装、化粧などが射程に入り、価値観、社会的経験、動員しうる資本、文化的・経済的状況と接点を持つ話になる。見た目で、その人が慣れ親しんでいる物事を伺うことができ、黙っていても発してしまう、非言語メッセージの意味を持ち得てしまう。

ちゃんとはわからなくても、その人の雰囲気が感じられるのは、非言語が発する、あるには発しなくても感じられてしまうためである。「見た目」が瞬間的な判断を指すのに対して、「見た感じ」を得るには、もう少し長い時間を要する。

また、情報の効率的な入手にはなるべく短時間なことが望ましいから、勢い即断しようともしがちである。「見た目」が戒められるのは、人を即断することの愚かさだが、「見た感じ」に優れることは、自身の安全性を確保する上でも重要だ。適切に見て、妥当な判断をすること、これも人生の練習だろうなと思わされる。

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by walk41 | 2017-07-02 20:29 | 身体 | Comments(0)

振る舞い

百貨店の「お客様コーナー」に行き、順番を待っていた。

先客の女性は待たされたのかもしれない、係員がお待たせしましたと平身低頭を示す様子を一顧だにせず、なぜかスマートフォンを机に投げ出した。と思いきや、差し出された小銭を含む現金と関係書類を、膝に抱えたハンドバッグに投げ込み、最後にスマートフォンをしまい込むと、係員に一言も発せず席を立ち、行ってしまった。目すら合わすことなく。その後ろ姿に、百貨店側は、深々とお辞儀をするありさまである。

短い時間ではあったけれど、こんな様子を見るに、自分の振る舞いを見ている第三者がいるかもと、少しは心しなければと思わされた。格好いいことならばまだしも、こんなに不細工なシーンをまったくの非当事者に見られるなんて。

学校でも稀に遭遇することがある。残念なことに、公衆の面前で暴言を吐くような人を見てしまうことが。そんな振る舞いをするだけに足るような背景や事情は確かにあったのだろう。けれど、だからと言ってそう振る舞って構わないという話になるわけではない。まず、何といっても格好が悪い。百貨店での場合は大人として、学校での場合は加えて教員として、哀れなくらい惨めな姿を晒すのはやめてほしい。誰にとっても良きお手本にならない。リンカーンだったか、「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とはこの点の限り、当てはまるだろう。自身を省みて恥ずかしい思いもする。

また、そんな様子は間接的ではあっても他者を傷つける。まったく望まないのに、そのシーンを思い出しては、嫌な気持ちにさせられる。人間ってこんなに阿呆やったっけと、暗澹たる思いにもなる。そのときの映像が音と雰囲気とともに、しっかり再現される。これは結構なダメージである。そんな迷惑なことはできるだけ避けてほしい。自分の問題はまず自分で解決するように努めよう。

こんな不格好になるべくならないための余裕をいかに持つことができるか。言うは易しく行うは難しだろう。必死になりすぎないこと、笑いを忘れないこと、こんな辺りが私の言える関の山だ。





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by walk41 | 2017-07-01 23:47 | 身体 | Comments(0)

人間相手の仕事

ご縁あって、ある看護師さんとあれこれ話す機会があった。

医療の高度化に伴い、看護の世界でもスタッフの力量向上が求められているのではと尋ねたところ、「そんなに変わりません。人間相手の仕事ですから」と言われたので、「教育の世界も同じだと思うんです」と返した次第だ。

言わずもがな、30万年の歴史を持つともされる人間の基本型が、せいぜい数百年の、いや「文明」の始まりからだと最大限に見積もっても、5000年くらいの「教育」によって影響を受けるという想定がかなり難しい、と私が思う。科学的な物言いではないだろうけれど、「教育」という人間の知恵が人間の経験と遺伝に優位するとはとても思えないのだ。

だから、自分の寿命の限り、あるいは前後二世代ほど、100年足らずの経験をもって、「教育」を評することの愚かさを重々に踏まえた上で、議論をすべきかと思う。なのに、長い間やっているからには、高度化、専門化していかなければならないという頭でっかちが優位するのだろう、実態に合わない話を始めて、「そうではないのでは」と指摘を受けても受け流して、素朴な発展論を疑わない。PDCA論も同様だ。そんな右肩上がりになっていったら、先々、発展する余地がなくて困るだろうに。

対人サービス労働をしている方、そうでない方を含めて、より他業種の人と話を機会を設けられるようにと思う。何となく、当たり前に見えることが、違う業界から見ればそうではないと知ることが、職能開発に対しても重要なことを学べるだろう。

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by walk41 | 2017-06-29 13:14 | 身体 | Comments(0)

考え方の癖(歪み、偏り)

授業の最後に学生に求める感想文を整理して、次の授業レジュメの冒頭にA4一枚程度紹介し、補足あるいはコメントを示している。今回、感想文の中に次のようなものがあった。

…スポーツをする人は寿命が短いという指摘があったが、自分の意見の押し付けはいけない。そういう意見多いに結構だが、ならばスポーツを止めろと言うのか…

うーむ。この手の思考上の癖はよろしくない。この君がではなく、ともすれば「もっともらしさ」をもって通ってしまいかねない、こういう話し振り、書き振りを危惧する。こうした癖を持って教育職に就くならば、なお危険なことである。

なぜそう言えるか。二点あげられるだろう。
その一、事実と意見の区別をつけていないこと。私が授業で話したのは、選手などスポーツを過度にする人の寿命が短いと指摘するデータ、事実であって、「〜と思う」という意見ではない。「朝、お日さまが東から上る(ように見える)」のは事実であり、意見ではない。事実を前にしては、誰もがまずそれを受け止めなければならない。

「ご飯を食べないとお腹が減る」も「木からリンゴの実が落ちる」のも、「それは君の意見だろう。そう思うのは結構だが、それを他者に押し付けてはいけない」と返せば、議論を試みたりわかり合うことは不可能である。

その二、授業で述べたのは(ある限られた)事実だが、仮に意見だったとしても、それを過度に推量して「〜と言うのか」とあたかも相手がそのように述べたかのように扱うこと。このやり方は、アンフェア、不誠実である。相手が言っていないことを指して、「じゃあ、こういうことを(引き続き)言いたいんだ」と持っていくのはズルい。

たとえば、学級の場面でイメージしてみよう。学園祭で学級劇をやることに対して、「僕は劇をやりたくない。そんなの意味がないと思うから」と意見を述べた生徒に対して、「じゃあ君は、そんな意味がない学級劇を止めろというのか」と迫る構図である。そんなことは言っていない。自分はやりたくないと言っているだけだ。

あるいは、学級でいじめ問題が起こったとき、ある生徒が「いじめた側にももっともな理由があるんじゃないかな」と学級会で意見を出したら、「じゃあ君は、いじめを認めるってことだな」と脅す如くである。いずれも針小棒大と言うべきか、意見をすり替えてしまう。

こうしたやりとりが「なんとなく」行われているとすれば、まったく恐ろしいことである。自分を含めて発想、思考上の癖により気づき、修正、革新できるように努めること、「コミュニケーション力」の向上は、こんな点からも問われる。



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by walk41 | 2017-06-26 11:55 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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