学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:身体( 296 )

開店祝いの花の持ち帰り

みなさんはご存じだったでしょうか。お店の開店祝いに届けられた花輪の花を、近所や通り掛かりの人が抜き取って持ち帰っても構わず、むしろ縁起物だからと花が残っている方が寂しいのだという指摘までもあるということを。

きのう今日に開店したばかりだなあと思われるお店の前には、お祝いの花輪が所狭しと並んでいました。まるで花屋さんかのようなさまに家人と驚いていたら、その前で堂々と花を抜き取る女性がいるではありませんか。えっ、盗んでいる? 何かの冗談だろうか。それとも通行人をねらった「ドッキリカメラ」の類か、と思ったほどに、手慣れた感じでたくさんの花を持ち帰っていったのです。

「何をされてるんですか」と尋ねる勇気はもちろんなく、いぶかしげに帰宅して、webで関係する発言を探しました。そうしたら、何と同様の問いかけが見つかりました。それらを複数検索した最大公約数的には、地域差もあるだろうものの、縁起物なので一向に構わないという話が成立しているようです。それなりに長く生きてきたけれど、まったく気づかずにきたことの一つだなあと、知らなかった自分に驚いた始末です。

もっとも、その店の前には「イベント中のため、花の持ち帰りはご遠慮ください」と張り紙がしてありましたから、今の持ち帰りはまずいのでしょうが、この張り紙が出るくらいに、持って帰るのは当たり前ということでもあるのですね。

何となく思っている習慣や価値基準、まあ当てにはならないものですね。自分の物差しだけで世の中を判じてはいけないと、改めて思わされたことでした。ああ、びっくりした。

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by walk41 | 2018-01-30 21:58 | 身体 | Comments(0)

熱さと温かさ

北九州市若松区の市立小学校の男性教諭(20歳代)が今月23日、校内で6年生の男子児童の顔を蹴り、けがを負わせていたことが市教委への取材でわかった。児童は市内の病院に入院中で、福岡県警若松署が教諭から事情を聞いている。市教委によると、教諭は、体調不良を訴えて保健室にいた児童に、教室に戻るよう指示。その際にトラブルとなり、廊下で児童の顔を蹴った。児童は一時、意識を失い、病院に運ばれたという。市教委には保護者から「鼻付近の骨が折れた」と報告があった。 教諭は同日、校長らとともに病院で、児童の保護者に謝罪。24日から自宅謹慎中で、学校の調査に「感情的になってしまった。けがをさせて申し訳ない」と話しているという。市教委は「事実関係を確認し、捜査の動向を見極めながら厳正に対処する」としている。(読売新聞、20170126)

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「教師としての熱意」「情熱あふれる指導」「ダメなことはダメという熱血漢」と、教育に関わるお喋りには「熱さ」が含まれる。「熱を帯びる授業」といった言い方もある。教育への懸命さ、熱心さは、教育者の強いエネルギーを象徴し、これをより放出し、子どもに照射するかのような状態を望ましいと見なす価値観を成立させているのだ。


ただし、教育的文脈における熱意は、教員だけではどうしようもないことも踏まえなければならない。熱を照射する対象がモノであれば、おおむね操作できるけれども、ヒトはそれほど素直でなく、天邪鬼になることがある。相手への反発や茶化しから、白けたふりができるからだ。


相手との関係が成立してこそ熱意が有意義ということがわかっていなければ、「一人芝居」「空回り」とも言われる事態に容易に陥る。では、相手との関係を成り立たせるのは何か。それもまた、温かさ、思い、教育的愛情といった「熱」であることに異論はないだろう。「熱い」と「熱すぎる」の違い、「熱さ」と「温かさ」の違いを知り、さらに行為することは、かくも難しい。




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by walk41 | 2018-01-26 16:15 | 身体 | Comments(0)

お手軽な電子メール

授業の前日に連絡があるのはまだ早い方で、当日、しかもあと数十分、さらにはあと十数分で授業が始まるという時間に、学生から電子メールが届く。レポートを提出する回の授業だが、出せないのでどうすればいいか、また返信がほしいという主旨の連絡だ。

舞台裏の話だが、けっこう悩む。大げさでなく、疲弊する。インフルエンザなどの出席停止対象になる場合ならば問題はない。遅れての提出を認めざるを得ない。けれど、ややこしいのはそれ以外の体調不良、あるいは理由がはっきりしない欠席の連絡があった場合だ。

もちろん、学生も好き好んで体調不良になったわけではないのだから、認めてやりたいとも思う。けれど、そうすると期限を決めていること、ましてや提出直後に学生間でレポート交換を行うと周知している基準を守れなくなってしまう。「いいよいいよ」と応対するのは「優しい」のかもしれないけれど、すると残る圧倒的多数の学生は「正直者が馬鹿を見る」ことになってしまう。こうした公平さを欠くことは避けたい。

それでも、最低限その時間に授業に来た学生には、何とか理由らしきものを聞き出し、できるだけ前向きに対応する。それが、こちらのできる関の山かなと思う。だから学生のみなさん、電子メールでの連絡は便利だから活用してくれればいいけれど、そうすることが「救済」を同時に意味するわけでないこともしっかり心得てほしい。相手と「つながる」ことと、「了解を得る」ことは決して同義ではない。そもそも、メール事故もありうるから「つながる」ことすら確かではないということも踏まえてちょうだいね。





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by walk41 | 2018-01-16 09:58 | 身体 | Comments(0)

変化にかかる時間の意義

大学院の授業で学生たちに問いかける。「学校でもPDCAサイクル論がかまびすしいけれど、そこで変わっていくという変化のスピードについて、どのように考えているんだろうか」と。

少し説明する。サイクルとは局面ごとに変化することを前提に組み立てられている。Plan-Do-Check-Actionというように。つまり、計画と実施(実践)の間には時間差が想定されており、順番に各局面を経ていくイメージがあるのだ。さて、それはどれほどの長さなのだろうか。

学校の1年間に即して見れば、新年度(実際には前年度の3学期くらいから始まっているのだけれど)に員数と組織、具体的スケジュールが計画され、活動が始まる。各教室では学級びらき、授業びらきが行われていくように。では、それぞれの計画が実施に移るにはどれだけの時間が必要あるいは望ましいと想定されているのだろう。また、ある計画の実施過程中に、別の計画が影響を受けて、計画を立てる段階ですでにcheck(点検や修正)が入ることはないのだろうか。だとすれば、サイクルの順番はPDCAとは限らず、CPD…という場合もあるのでは。

局面間の時間を想定しないでサイクルを語ると、つまるところ「何でもあり」となり、PDCA、PDS、R-PDCA…と思いついた人の数だけアルファベットが並ぶことになる。それでは何の説明にもならない。また、仮にある学校がどれかに当てはまったとしても、それが普遍性を持つとはとても言えない。つまり、こうしたサイクル論は学校を語る上で意味を持たない。

またより重要なことは、「児童・生徒の成長・発達」に寄与するための学校という点から言って、そこでの活動は彼ら/彼女らの変化とどのように関わっているかである。ある教科の一つの単元をたとえば10時間で扱うと基準があった場合、これは8時間で終えることができれば「望ましい授業」の一つなのだろうか。あるいは、45分/50分の授業を30分で終わることができれば、これも「いい授業」と見なせるのだろうか。もしこれに「その通り」と答える御仁がいれば、「じっくり考える」「対話的に学ぶ」「わからなさを実感する」など、自分は無縁の立場だと表明しなければならない。

赤ん坊が歩き始めるのに一年間かかるとすれば、これを早めることはどれほど可能なのか、また望ましいことなのだろうか。同様に、学びが大切と唱道されるけれど、そこでのスピード(速さ)はどの程度を想定しているのだろうか。ゆっくり学ぶ、行きつ戻りつ学ぶことを視野に入れるならば、標準時数や時間など参考程度になれば御の字だと言うべきだろう。教育や学習は「変わること」を求める活動であるから、そのベクトル(方向と強さ、速さ)を抜きに議論することはできないはずだが、これが取り上げられずにいるということ自体が、教育と学習の曖昧性、偶有性という性格を示しているのである。






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by walk41 | 2017-12-07 10:09 | 身体 | Comments(0)

学びと笑顔

「主体的・対話的な深い学び」という新学習指導要領のキャッチフレーズにも合わせるかのように、学び論はなお盛んである。

もちろん、それぞれの教科や領域に関わる、いわゆる基礎的な理解や技能が学びには不可欠なはずだ。何も知らない、何もできない状態で、おもしろいと思えるのは難しいだろう。

けれど、それらとは相対的に切り離しうる、楽しさや嬉しさがあってこそ、学びにつながることも踏まえるべきだろう。そこには、計画には収まりきらない意外さ、偶発、ハプニングがまま伴う。これだけに頼るのも困ったことだが、「脱線話」のインパクトは相当である。また、多少の演技を含むものの、教員の受容的・共感的な姿勢と態度を通じた、情緒的、親和的な雰囲気が楽しさを後押しすることも言えるだろう。ただし、教員の振る舞いが生徒たちから影響を受ける点で、これまた事前につもりをすることはできない。

これらを合わせると、学びを促すには、計画に依り過ぎない、曖昧さ、大らかさが大切なことがわかる。この点で、準備と計画はどう違うのか、情緒的な振る舞いはいかに客観的な記述に耐えるのか、といったことが次の議論の俎上に載せられる。

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by walk41 | 2017-11-25 15:25 | 身体 | Comments(0)

紅葉に心洗われます

ここ数日で一気に冬模様、寒くなりましたが、みなさん、お元気に過ごされていますか。

京都は残り少ない紅葉を楽しみにと、いつも以上の多くの観光客を迎えていますが、本キャンパスにも見所があります。

何かと慌ただしい時間が流れがちですが、しばし立ち止まり、紅葉の見事さに飲まれました。みなさんにもご覧いただきたいシーンです。

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by walk41 | 2017-11-20 13:03 | 身体 | Comments(0)

「わかる」と文脈依存

京都に限らないだろうが、外国の人を当たり前のように見る。観光客だけでなく、居住している人もたくさんいるだろう。京都の人口に占める外国人の割合は、全国平均を上回るのだから。

そんな風景の中で思った。グローバル化と言われる多様な人々との関わりが加速していくのならば、「わかる」ことに抑制的であるべきことを踏まえておかねばならないのではないか、と。

すなわち、知識の多いことに加えて、複数の事実の関係を了解している意味での「わかる」とは、素早く理解して対応できるようになること、つまり、認知、理解、判断、行為をよりエコノミカル(節約的、功利的)に行えることである。そこでは、「無駄」少なく、反射とも言えるほど迅速、正確であるために、思考しないことが重要だ。なぜなら、悩み、迷う思考は、時間的、労力的にコストがかさみ、エコノミカルと正反対だから。こうして、知識・理解の文脈化(暗黙の了解)が進む。これは、「言わなくてもわかるでしょう」ということである。

だから、グローバル化への対応とは、ある「わかる」に執着しないこと、自分が見につけているいわゆる文化を絶対視しないで、常に相対感をもっていること、この意味で「軽い身体」でいること、自由であることが重要と導ける。よって、多様な人々とのスムースな関わりを促すには、「わかる」ことに過度に傾かないこと、わかっていないかもしれない、といわば恐々と振る舞い、既存の知識や理解で「武装」しないことが肝要と言える。

「わかる」喜び、できたという成就感、自己肯定感が大切とも言われるが、その反対のこと、自分の小ささをいつも知らされ、自己変身すべきことを覚悟させられること、たとえば中等教育では、この辺りが主眼となってもいいのかもしれない。

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by walk41 | 2017-10-29 10:56 | 身体 | Comments(0)

労働の変化と信仰

香川県にある瀬戸内海歴史民俗資料館を訪れた。県立施設とのことだが入館料は無料、大きな実物と見応えのある資料が多かった。

かつての農業、林業、水産業(この地方では塩業も含まれる)に関わる諸々、今はなくなってしまった仕事、すっかり機械化された仕事を思い起こさせる展示が続く。「柴刈り」が「芝刈り」と勘違いされる現代には、驚くべき事実ばかりだ。

こうした労働のもとで、信仰が位置づいていたことを知れたのが、大きな収穫だった。その一つは恵比寿さん(エビスサン)のことである。漁が盛んだったこの地で、恵比寿さんが大漁を願う神様とされていたことを初めて知った。だから、恵比寿さんは鯛を抱いているのか。また、水不足に悩まされてきた讃岐地方では、雨乞いに関わる神様がまつられたり、麦わらで作った大きな龍が昭和10年代までも練り歩いたという。

科学技術の発展と「見える化」の進行により、こうした信仰も今では歴史的なものになりつつあるが、「見えない」ものへの想像力、ひいては畏れや慎みも忘れてはならないと思わされた。

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by walk41 | 2017-10-29 08:33 | 身体 | Comments(0)

気づかなかった

人様に対しては、「気づいていないことがこんなにあるでしょう」などと、息巻いて話しているのに、自分も同様にそうであることを、またも知らしめられた。

「時速100キロ以上で『キンコン、キンコン♪』なぜ速度警告音は無くなったのか」(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171017-00010001-autoconen-bus_all)の記事を読み、すでに久しく1980年代に、クルマにこの警告音の規制がなくなっていたことを、なんと実に遅ればせながら知ったのだ。

思い出せば、その昔、クルマを運転していて時速100キロ(正確には105キロとのこと)を超えると、この音が鳴り、不快なために速度を落とすということがあった。警告音が鳴り続けても、飛ばす猛者もいただろうが、気にならない訳にはいかない音だったと記憶している。

ところが、クルマを変えていく中で、そうしたものがあったことがすっかりと頭から抜け落ちてしまう。驚くほどに。

毎日のように乗っているクルマのはずなのに、その装置が変わったことに気づかない。むしろ、頻繁に接するからこそ気づきにくいのかもしれない。教育談義ではないけれど、通じることもあるのではないだろうか。それなりの年齢以上のみなさんは、このことをご存じだっただろうか。


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by walk41 | 2017-10-19 21:56 | 身体 | Comments(0)

好みの幅広さ

秋も本格化、各地で行われているだろう祭りの一つ、ジャズフェスティバルに出かけた。広場でのステージを覗いたあと、小さなお店に入ったところ、これまた小さなスペースにジャズライブができるようにしつらえてある。

二人組みのライブが終わり、今度は三人のグループが演奏の準備を始めた。すると、このグループ目当てのお客さんが一番近くに席を取って、写真を撮り始めたのだ。

もちろん、ファンの心理はそうでない人におよそ分かるものではない、とは知っているつもりだ。それでもなお、グループをいわば激写続ける、30代半ばと思しき女性ファンの様子を見て、はなはだ失礼ながら、まるで映画のワンシーンかのように、つまりとてもユニークな構図に感じたことだった。

そのグループは30代、40代と思われる男女で、いわゆるビジュアルが際立つ訳では全くなく、かといって演奏が上手い、歌に惹かれるとも思われない。MCもボソボソで、これだけ小さな場なのに話し声がしっかり届かないほどである。演奏中、周りを見渡しても、聴いていると思われる人は、その追っかけ女性の他にいたかどうか。

30分ほどが経ち、持ち時間が尽きたのだろう。カンパ用の入れ物が用意されたけれど、入れたのは彼女ともう一人の男性のみ。その他の客は曲が終わっても拍手すら起きなかった。私個人としては、これまた失礼だが、演奏を聞かされ続けるのが辛かったので、やっと終わったとホッとしたくらいである。

趣味はまさに人さまざまだと言うけれど、多くの人が関心を持たない、恐らくは冴えないこのグループが、一人の女性に元気を与え、励ましたことも事実である。そしてこのグループにとっても、きっと同様だろう。

自分の物差しでわかったような気になるなと、これまたわかったようなことを思うけれど、事実はもっと深く広い、そんなことを思わされた夜だった。


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by walk41 | 2017-10-15 12:43 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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