学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:身体( 293 )

変化にかかる時間の意義

大学院の授業で学生たちに問いかける。「学校でもPDCAサイクル論がかまびすしいけれど、そこで変わっていくという変化のスピードについて、どのように考えているんだろうか」と。

少し説明する。サイクルとは局面ごとに変化することを前提に組み立てられている。Plan-Do-Check-Actionというように。つまり、計画と実施(実践)の間には時間差が想定されており、順番に各局面を経ていくイメージがあるのだ。さて、それはどれほどの長さなのだろうか。

学校の1年間に即して見れば、新年度(実際には前年度の3学期くらいから始まっているのだけれど)に員数と組織、具体的スケジュールが計画され、活動が始まる。各教室では学級びらき、授業びらきが行われていくように。では、それぞれの計画が実施に移るにはどれだけの時間が必要あるいは望ましいと想定されているのだろう。また、ある計画の実施過程中に、別の計画が影響を受けて、計画を立てる段階ですでにcheck(点検や修正)が入ることはないのだろうか。だとすれば、サイクルの順番はPDCAとは限らず、CPD…という場合もあるのでは。

局面間の時間を想定しないでサイクルを語ると、つまるところ「何でもあり」となり、PDCA、PDS、R-PDCA…と思いついた人の数だけアルファベットが並ぶことになる。それでは何の説明にもならない。また、仮にある学校がどれかに当てはまったとしても、それが普遍性を持つとはとても言えない。つまり、こうしたサイクル論は学校を語る上で意味を持たない。

またより重要なことは、「児童・生徒の成長・発達」に寄与するための学校という点から言って、そこでの活動は彼ら/彼女らの変化とどのように関わっているかである。ある教科の一つの単元をたとえば10時間で扱うと基準があった場合、これは8時間で終えることができれば「望ましい授業」の一つなのだろうか。あるいは、45分/50分の授業を30分で終わることができれば、これも「いい授業」と見なせるのだろうか。もしこれに「その通り」と答える御仁がいれば、「じっくり考える」「対話的に学ぶ」「わからなさを実感する」など、自分は無縁の立場だと表明しなければならない。

赤ん坊が歩き始めるのに一年間かかるとすれば、これを早めることはどれほど可能なのか、また望ましいことなのだろうか。同様に、学びが大切と唱道されるけれど、そこでのスピード(速さ)はどの程度を想定しているのだろうか。ゆっくり学ぶ、行きつ戻りつ学ぶことを視野に入れるならば、標準時数や時間など参考程度になれば御の字だと言うべきだろう。教育や学習は「変わること」を求める活動であるから、そのベクトル(方向と強さ、速さ)を抜きに議論することはできないはずだが、これが取り上げられずにいるということ自体が、教育と学習の曖昧性、偶有性という性格を示しているのである。






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by walk41 | 2017-12-07 10:09 | 身体 | Comments(0)

学びと笑顔

「主体的・対話的な深い学び」という新学習指導要領のキャッチフレーズにも合わせるかのように、学び論はなお盛んである。

もちろん、それぞれの教科や領域に関わる、いわゆる基礎的な理解や技能が学びには不可欠なはずだ。何も知らない、何もできない状態で、おもしろいと思えるのは難しいだろう。

けれど、それらとは相対的に切り離しうる、楽しさや嬉しさがあってこそ、学びにつながることも踏まえるべきだろう。そこには、計画には収まりきらない意外さ、偶発、ハプニングがまま伴う。これだけに頼るのも困ったことだが、「脱線話」のインパクトは相当である。また、多少の演技を含むものの、教員の受容的・共感的な姿勢と態度を通じた、情緒的、親和的な雰囲気が楽しさを後押しすることも言えるだろう。ただし、教員の振る舞いが生徒たちから影響を受ける点で、これまた事前につもりをすることはできない。

これらを合わせると、学びを促すには、計画に依り過ぎない、曖昧さ、大らかさが大切なことがわかる。この点で、準備と計画はどう違うのか、情緒的な振る舞いはいかに客観的な記述に耐えるのか、といったことが次の議論の俎上に載せられる。

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by walk41 | 2017-11-25 15:25 | 身体 | Comments(0)

紅葉に心洗われます

ここ数日で一気に冬模様、寒くなりましたが、みなさん、お元気に過ごされていますか。

京都は残り少ない紅葉を楽しみにと、いつも以上の多くの観光客を迎えていますが、本キャンパスにも見所があります。

何かと慌ただしい時間が流れがちですが、しばし立ち止まり、紅葉の見事さに飲まれました。みなさんにもご覧いただきたいシーンです。

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by walk41 | 2017-11-20 13:03 | 身体 | Comments(0)

「わかる」と文脈依存

京都に限らないだろうが、外国の人を当たり前のように見る。観光客だけでなく、居住している人もたくさんいるだろう。京都の人口に占める外国人の割合は、全国平均を上回るのだから。

そんな風景の中で思った。グローバル化と言われる多様な人々との関わりが加速していくのならば、「わかる」ことに抑制的であるべきことを踏まえておかねばならないのではないか、と。

すなわち、知識の多いことに加えて、複数の事実の関係を了解している意味での「わかる」とは、素早く理解して対応できるようになること、つまり、認知、理解、判断、行為をよりエコノミカル(節約的、功利的)に行えることである。そこでは、「無駄」少なく、反射とも言えるほど迅速、正確であるために、思考しないことが重要だ。なぜなら、悩み、迷う思考は、時間的、労力的にコストがかさみ、エコノミカルと正反対だから。こうして、知識・理解の文脈化(暗黙の了解)が進む。これは、「言わなくてもわかるでしょう」ということである。

だから、グローバル化への対応とは、ある「わかる」に執着しないこと、自分が見につけているいわゆる文化を絶対視しないで、常に相対感をもっていること、この意味で「軽い身体」でいること、自由であることが重要と導ける。よって、多様な人々とのスムースな関わりを促すには、「わかる」ことに過度に傾かないこと、わかっていないかもしれない、といわば恐々と振る舞い、既存の知識や理解で「武装」しないことが肝要と言える。

「わかる」喜び、できたという成就感、自己肯定感が大切とも言われるが、その反対のこと、自分の小ささをいつも知らされ、自己変身すべきことを覚悟させられること、たとえば中等教育では、この辺りが主眼となってもいいのかもしれない。

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by walk41 | 2017-10-29 10:56 | 身体 | Comments(0)

労働の変化と信仰

香川県にある瀬戸内海歴史民俗資料館を訪れた。県立施設とのことだが入館料は無料、大きな実物と見応えのある資料が多かった。

かつての農業、林業、水産業(この地方では塩業も含まれる)に関わる諸々、今はなくなってしまった仕事、すっかり機械化された仕事を思い起こさせる展示が続く。「柴刈り」が「芝刈り」と勘違いされる現代には、驚くべき事実ばかりだ。

こうした労働のもとで、信仰が位置づいていたことを知れたのが、大きな収穫だった。その一つは恵比寿さん(エビスサン)のことである。漁が盛んだったこの地で、恵比寿さんが大漁を願う神様とされていたことを初めて知った。だから、恵比寿さんは鯛を抱いているのか。また、水不足に悩まされてきた讃岐地方では、雨乞いに関わる神様がまつられたり、麦わらで作った大きな龍が昭和10年代までも練り歩いたという。

科学技術の発展と「見える化」の進行により、こうした信仰も今では歴史的なものになりつつあるが、「見えない」ものへの想像力、ひいては畏れや慎みも忘れてはならないと思わされた。

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by walk41 | 2017-10-29 08:33 | 身体 | Comments(0)

気づかなかった

人様に対しては、「気づいていないことがこんなにあるでしょう」などと、息巻いて話しているのに、自分も同様にそうであることを、またも知らしめられた。

「時速100キロ以上で『キンコン、キンコン♪』なぜ速度警告音は無くなったのか」(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171017-00010001-autoconen-bus_all)の記事を読み、すでに久しく1980年代に、クルマにこの警告音の規制がなくなっていたことを、なんと実に遅ればせながら知ったのだ。

思い出せば、その昔、クルマを運転していて時速100キロ(正確には105キロとのこと)を超えると、この音が鳴り、不快なために速度を落とすということがあった。警告音が鳴り続けても、飛ばす猛者もいただろうが、気にならない訳にはいかない音だったと記憶している。

ところが、クルマを変えていく中で、そうしたものがあったことがすっかりと頭から抜け落ちてしまう。驚くほどに。

毎日のように乗っているクルマのはずなのに、その装置が変わったことに気づかない。むしろ、頻繁に接するからこそ気づきにくいのかもしれない。教育談義ではないけれど、通じることもあるのではないだろうか。それなりの年齢以上のみなさんは、このことをご存じだっただろうか。


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by walk41 | 2017-10-19 21:56 | 身体 | Comments(0)

好みの幅広さ

秋も本格化、各地で行われているだろう祭りの一つ、ジャズフェスティバルに出かけた。広場でのステージを覗いたあと、小さなお店に入ったところ、これまた小さなスペースにジャズライブができるようにしつらえてある。

二人組みのライブが終わり、今度は三人のグループが演奏の準備を始めた。すると、このグループ目当てのお客さんが一番近くに席を取って、写真を撮り始めたのだ。

もちろん、ファンの心理はそうでない人におよそ分かるものではない、とは知っているつもりだ。それでもなお、グループをいわば激写続ける、30代半ばと思しき女性ファンの様子を見て、はなはだ失礼ながら、まるで映画のワンシーンかのように、つまりとてもユニークな構図に感じたことだった。

そのグループは30代、40代と思われる男女で、いわゆるビジュアルが際立つ訳では全くなく、かといって演奏が上手い、歌に惹かれるとも思われない。MCもボソボソで、これだけ小さな場なのに話し声がしっかり届かないほどである。演奏中、周りを見渡しても、聴いていると思われる人は、その追っかけ女性の他にいたかどうか。

30分ほどが経ち、持ち時間が尽きたのだろう。カンパ用の入れ物が用意されたけれど、入れたのは彼女ともう一人の男性のみ。その他の客は曲が終わっても拍手すら起きなかった。私個人としては、これまた失礼だが、演奏を聞かされ続けるのが辛かったので、やっと終わったとホッとしたくらいである。

趣味はまさに人さまざまだと言うけれど、多くの人が関心を持たない、恐らくは冴えないこのグループが、一人の女性に元気を与え、励ましたことも事実である。そしてこのグループにとっても、きっと同様だろう。

自分の物差しでわかったような気になるなと、これまたわかったようなことを思うけれど、事実はもっと深く広い、そんなことを思わされた夜だった。


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by walk41 | 2017-10-15 12:43 | 身体 | Comments(0)

「奏を功する」

ある教育委員会の会議にて聞こえた言葉だ。

「このことが、奏を功したと言ってよいでしょうか…」。いやいや、功を奏するなんだけれど。まあいいよね、みんな黙っていたし…。

思い起こせば、鉄筋コンクリートを「鉄コン筋クリート」といった類いの言い間違いは、いそらく枚挙にいとまがない。だから、どうしてそう言ってしまうんだろうって、笑うのが「正解」だよね。


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by walk41 | 2017-10-12 20:20 | 身体 | Comments(0)

付いた力は自分ではわからない

今は文化芸術系の分野に進んだが、学生時代は教育系の大学で過ごした君が思った、という話に触れることがあった。私の聴いた限り、こんな感じだ。

劇場の業務の一つとして、小学生たちと接する機会が最近あり、多くの子どもたちと楽しく過ごした。が、ふと周りを見ると、ぎごちない同僚たちの姿が目に入った。いつもは、東京の旧帝国大学卒業生だからと恐れおののいていた人や、外国で調査をしてきた人なんだと、ちょっと怖々だった同僚たちが、子どもとうまく接することができない様子に驚かされたのだ。誰もが、子どもといわば自然に関わることができるわけではない。これはいったいどういうことだろうか。

振り返れば、大学時代の教育実習や座学を含む教育-学習に関わる経験が、それなりの子どもとの接し方を導いているのではないか、と。学生時代は、大学でいったい何を学んでいるのだろうと思わなくもなかったが、後になってみれば、知らないうちに、子どもと関わるいわゆる力量のようなものが身についていたのではないだろうか、と。

教育-学習に関することだけでなく、学んだことは実は自分にはよくわからないのだということは聴くに値すると思う。もちろん、振り返りや自己評価も大切だろうけれど、自分では捉えきれないものがどうしてもあって、それがふとした機会に気づかされることがあるという構図だ。

翻ってみれば、学んでいる当人ですらどうなのかがわからないのに、第三者の一人でもある教員がいかに「子どもの学び」を捕捉できるのだろうか。つまるところ、教育や学習といったものは、当事者も掌握できない「ロマン」の世界に属すると見なした方が適切ではないか、とも思わされるのだ。





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by walk41 | 2017-10-11 23:31 | 身体 | Comments(0)

対人サービス労働におけるコスト論

家人に勧められて、青山昌史ほか『社会の中の芸術』(放送大学教材、2010)に収められている坂井素思「芸術価値と経済価値」を読んでいる。ちゃんと理解できたとはまだ言えないが、アメリカの経済学者の立てた次の論理を鋭い指摘と思った。

曰く、サービス産業特有の「コスト病」、すなわち赤字体質が生じるのは、自動車産業などに見られる技術革新が、生産性の増大をもたらし、労働者の賃金を上昇させる。このことは、製造部門比べて生産性が増大するわけではないサービス部門生産性との格差を拡大させ一方、製造部門の労働者の賃金上昇が波及することから、サービス部門の賃金上昇させ、芸術団体などのコスト高を招く。さらに、おしなべて賃金の上昇した労働者のサービス需要が高まる中で、芸術団体の活動への需要も増大し、雇用も増大、結果としてさらなるコスト高に至るというモデルである。

この中で、次のような記述があるのだという。「人間の発明の才によって自動車の生産に必要な労働を減少させる方法が考案されてきたが、シューベルトの四重奏曲を45分間演奏するのに必要な人間の労働を、合計3時間の延べ労働時間以下にまで減少させることに成功したものは誰もいない。」

その通りである。PDCAサイクル論を振りかざし、右上がり目標達成へと鼓舞しようとも、これまで一年間かけてやってきた授業を例えば8ヶ月へと短縮する教育課程は作れないし、授業者の話すスピードを例えば3割増しにして児童・生徒の理解をより早く促そうというわけにもいかない。ましてや学び論が席巻する昨今、そのスピードは落ちることこそあれ、早まるとは考えられないだろう。

これを敷衍すれば、子どもの成長をもっと早めようという議論に繋がるが、これがいかに馬鹿げているかは論を待たない。いつまで子どもで、いつから大人になるかは、時代や地域によって一様ではなく、社会的な眼差しに基本的に規定されることを思い返してみよう。あるいは客観的にも、他の生き物と同様、成長のスピードや習得の適時性が、せいぜい数百年の「教育の発明」によって左右されるシロモノでないことも明らかである。

かくして、対人サービス労働の生産性の上昇があまり見込めないにもかかわらず、製造部門と同じかのようなモデル設定そのものが不適切なことがわかる。なのに、上昇するはず(しなければならない)という神話に支えられた教育論議をしていること自体が、当事者の「低学力」を示すことに気づいていないということ、まさに大いなる不幸と言うべきだろう。

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by walk41 | 2017-09-28 23:41 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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