学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:コミュニケーション( 7 )

コミュニケーションの前提

ある研究会でのこと。

現職の教員からの報告が終わり、質問があったので挙手をした。これに対して一度、回答があったのち、まだ尋ねたかったので言葉を継いでいたら、報告者の態度が硬化していくのがわかった。やりとりからも、私に怒りを感じていた様子がうかがわれた。

驚いた私は、迫ってくる様子に気圧されて、「はあ、まあいいんですけれど」と終わったのだが、後日、感情的な振る舞いを詫びる一文を受け取った。私の様子を権力的なものと誤解されたゆえの発露だったようだ。

小さな一件だったが、学校と大学(大学も一応、学校だけれど)とのいわゆる文化の違いかなと思わされる。憲法23条にも明記されている「学問の自由」は、大学ほか研究会といった場でどんな発言をしても責められないことを含意している、と私は思ってきたし、全くそうだったとは言えなくとも、今より若い頃から、相手の年齢や職位などにかかわらず、発言してきたつもりだ。

思い出せば、まだ30歳になるかどうかの頃、ある研究会に教育史の大家にお越し願い、お話を伺ったことがある。その時、彼が若い頃、1950年代だと思う、当時の「大先生」に対し、周りが「先生」「先生」という様子に、同じ学会費を払っている対等なメンバーなのにおかしいと憤慨して、「◯◯会員の発言は…」と震える声で続けたと聴き、大いに勇気づけられたのだ。

こんな経緯もあり、過日の研究会でも報告に対して論理的、いわゆる学術的な文脈で私は問うたのだけれど、そのようには受け取られなかったようだ。私の年齢もそれなりに上がり、立場というものも付いてくる、こうした背光効果を伴った発言と受け取られると、意地悪されるような、責められるような気持ちになるのも無理はない。当人は微塵もそんなつもりがなかったのだけれど。

こうした学校文化ゆえだろうか、つい最近ある研究発表会で、60人ほどの参会者がいた、にもかかわらず、主催者側の報告後「ご質問、ご意見、あるいはご自身の学校での経験の紹介を」と投げかけられたのに、誰からも手が上がらなかった。せっかくのチャンスなのになぜ喋らないのだろう、と不思議に、残念に思ったことだ。

なんとなくであれ権力的な様相は、職務上は排除できないし、すべきでもないけれど、学校教員には、教育公務員特例法にも示されているように、研究と修養の機会が保障されている。そこではできるだけ自由で闊達な議論がなされるように企画側のみならず、参加者も努力すべきだろう。

ちなみに、学校での教育ー学習機会もこうした雰囲気でこそ、児童・生徒の学びや意欲を促すとすれば、教員が自ら「先生はね…」などと権威づけようとする振る舞いは、止めなければならない。教育におけるパターナリズムは不可避だからこそ、わざわざ自分で自分のことを先生と呼ぶような愚行は、教員の威信を低減させる。即刻止めるべきである。

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by walk41 | 2017-02-12 09:06 | コミュニケーション | Comments(0)

反面教師

学校とは違う職場で働く人から聞いた話。

顧客からのメールでの問い合わせに、親切心から、本来は説明しなくてもよかったところまで含めて返信したことから、相手が感情を荒げるということがあったそうだ。これに対して、50代前半の管理職は、その職員が顧客に返信したメール添付、職員名を名指しした上で 、「今回の経験を反免教師に…」と職員全員宛のメール発信をしたという。いたく驚かされた。

みなさんにはおわかりだろう。その一、仮に不適切な行動だったとしても、さらには悪意をもって行われたことであったとしても、個人を特定したメールを全員発信で送るという見識のなさ。晒し者にする、いじめと言ってもいい。これは管理職として相当の問題だろう。

その二、反面教師と書くべきところなのに、自分の書いた文章を見直すことなく、誤ったまま送っているという軽々さ。「教養のない人やなあ」って思われるよ。

この事例から、まさに反面教師として学ぶことができる。一つ、みんなの前で叱ってはいけない、たとえそれが真っ当であったとしても。もう一つ、自分の文章が軽んじられないように、よく推敲しなければならない、ということだ。

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by walk41 | 2017-02-06 11:55 | コミュニケーション | Comments(0)

「事件は現場で起きている」

大阪府による統一学力テストの実施に際して、「2年生157人中、88人が体調不良や「家の都合」を理由に欠席した。先月中旬、2年生のクラスで、担任教諭がテストの趣旨を説明した際、結果次第で内申点が下がる可能性があることなどを伝えた上で、「体調不良なら休んでもいい」と話した。その後、「休んでもいいらしい」とのうわさが、学年全体に広がったという。」(読売新聞、20170113)

テストに不在ならば学力を測定できないから、教育委員会としては困る。かと言って、この教員の対応に問題があったかと問われると、そうとも言えない。ここに学校でのコミュニケーションの特徴が見える。それは、教育委員会と学校、学校と各教員、さらに教員と生徒の間で、説明ー解釈のズレがどうしても生じるということである。

業務への従事者の間でのズレに加えて、児童・生徒という非従事者との関係における齟齬を考えると、学校でのコミュニケーションがいかに難しいかがわかる。だから、「伝えればわかるはず」と思わずに、「必ずといってよいほどに伝わるとは限らない」と踏まえてこそ、実際的だ。

「ホウレンソウ(報・連・相)」が大切だ、で終わらないで、ズレた時にどうするか、そもそもズレを想定した計画をどう立てるか、を考えること、「現場で結構な部分が決まる」ことを踏まえて、最前線スタッフの力量をいかに高めるかに心すること、そんな着眼が必要ではないだろうか。



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by walk41 | 2017-01-14 08:07 | コミュニケーション | Comments(0)

人を断じることの難しさ

今より少し若かった頃に出版した研究書の再版に関わって、新たに記されようとしている、ある人の小文について思わされている。

そこには、出版以降の世の動きと合わせて、かつての研究仲間に対する評価も書かれているのだが、肯定的なものはさておき、否定的な部分について、果たしてそのように断じることができるのだろうかという疑問である。

世間的には問題という件だったけれど、それは本当にその通りだったのか、自分たちが知らないことがあるのではないか、という慎重さを伴ってこの文章は書かれているだろうか。また、仮に思っているような事実があったとしても、今なお取り上げられるべきことなのだろうかという思慮深さが足りないのでは、と感じるからだ。さらには、記しているご本人がどれほど恥ずかしくない時間を過ごしてきたのか、ということも顧みる必要があるだろうことを含めて。

教育学分野に限らないが、経験を積み、年齢を重ねると、「エライ先生」が陥ってしまう「上から目線」の態度や自己肥大幻想といかに抗うか。年をひとつさらに迎える今の時期だからこそなお、自分に矢印を向けて考えたい。

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by walk41 | 2017-01-05 08:16 | コミュニケーション | Comments(0)

だから丁寧に

新潟で原発事故避難児童に「菌」-小学校の担任
 東京電力福島第1原発事故で、福島県から新潟市に家族と自主避難している小学4年の男子児童が、担任の40代男性教諭から名前に「菌」を付けて呼ばれ、1週間以上学校を休んでいることが2日、分かった。新潟市教育委員会が明らかにした。
 児童は夏休み前に、担任に「同級生から名前に『菌』を付けて呼ばれているのが嫌だ」という趣旨の相談をしていた。市教委によると、児童は11月22日に担任から教室で連絡帳を渡された際、名前に「菌」を付けて呼ばれた。児童は24日から学校を欠席している。22日は早朝に、福島県沖を震源とする最大震度5弱の地震が発生していた。(京都新聞、20161202)
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ここにも、包摂しようとするがゆえの排除が見られる。

小学校教員に顕著といっていいだろうか。「みんなで」「一緒に」「どの子も」といった一見、美しい言葉が実は、同調、画一といった全体主義を胎んでいること、また、「進んで」「自ら」といった期待が、多数派への従順さを要求していることに気づきにくいようだ。

何しろ、子どもの意見を必ずしも聴くわけでもないのに「子どものために」と豪語して恥じないのだから。強い自省を含めて、正義を振りかざすのは危険なことでもある。

愛称が、言われる側が受け止めて初めて成り立つものならば、このケースは愛称ではない。にもかかわらず、担任教員がそう述べるのは、児童との関係を自分だけで決めてい良い、という傲慢さがあるからだ。

「子どもには子どもの都合がある」と、私が繰り返し話すのも、教育者と呼ばれる人が、個業性ゆえにマイルールを作りがちなことを危惧するがゆえに他ならない。

また、こうした事案のために教育委員会を含め、学校で膨大な資源が浪費されることは、マネジメント上の失敗と見なすべきだろう。
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by walk41 | 2016-12-03 08:10 | コミュニケーション | Comments(0)

交渉の能力

ある東南アジアの国を訪れて知ったことの一つは、そこではタクシーに複数に種類があり、いわゆるホテルタクシー(ホテルで待機、あるいはホテルが呼ぶような)には、メーターが設置されて、明朗会計だけれど、それ以外の流しのタクシーや駅で待っているような場合は、メーターがない、あるいはメーターがあっても使わない、客とドライバーの交渉で決まるのが普通だということです。

私は、できれば後者の類には乗りたくないのだけれど、そうしなければならない場合もあります。後部のドアを自分で開けて、いくらで行くかをドライバーに尋ねます。納得すれば乗ればいいのです。とはいえ、乗れないと困るので、まあ従うことになるのだけれど。

そこで、問い方を変えて、つまり、いくらで行くかと尋ねないで、いくらでいってくれとこちらの希望の金額を先に伝えます。それに対してドライバーは、少し高めの額を返して、その辺りで折り合いをつけるという方が、客にはより納得できる金額に収まるように思えます。

とまれ、黙っていても決まったルールに従っていれば、コミュニケーションを要しませんが、自分で決めなければならない場合、否応なしに交渉の能力が問われます。これまた、ユニバーサルデザインとは正反対の話なのだけれど、逞しくはなるなあ、と感じさせられたことです。

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by walk41 | 2016-11-23 03:34 | コミュニケーション | Comments(0)

問題は、叱るか否かではない

朝日新聞の投書欄の下の方に、読者からの投書に対する投書がときどき紹介される。9月下旬に載ったテーマは、「私たちを叱ってほしい」という中学生からの投書に対するものだった。

①叱るより考えさせる、②叱っているように見えていなくても本気で叱っている、あるいは、③生徒同士で注意し合ってはどうか、はたまた、④叱ることのできない教師は失格、さらには、⑤研究者という人物からの、叱られる経験が大切と、バランスを考えているとはいえ、③を除くと、まあお粗末なものと私は読んだ。

何故そう思うか、それは、いずれの立場も、教師が叱ればその意味を持つ行為になると疑っていないからである。こうした姿勢や能力が、いかにものを考えずに教師が仕事をしているかを示す点で、嘆くべきだと思うからだ。

教師が生徒に向かって叱るという行為を起こす。もちろん教師にとっては叱っていることになる。けれど、対する生徒にとってはどうだろうか。自分たちが納得できないことで何か怒っている、家庭でのストレスを自分たちに発散しているだけ、と思われない保証はない。さらに最初の投書の主は、授業中に叱るべきと書いている。授業に集中していた生徒は、教師の叱るという行為をどのように受け止めるだろうか.自分は関係ないのに嫌な雰囲気の場にいさせられる、授業が進まず困る、といった気持ちが起こるのではないだろうか。叱られる生徒も、その内容よりも恥ずかしい思いをさせられたという怒りだけ残るのではないだろうか。叱られるべき生徒にも、その他の生徒にも、叱るという行為が教師の思惑どおりに伝わらないリスクがけっこう伴う。さらには、生徒によって叱れる、叱れないの違いをつけることはないだろうか。えこひいきだと言われるリスクも考慮されているだろうか。

こうした、ある行為の妥当性、さらには効果や効率を度外視して、「叱るべきときは叱らなければならない」と、まま行為は行われる。そこに計画性も評価指標もない。その場で、叱るべき状況だと認識して、叱るという行為を選択する、それがたとえ非合理的(叱ることで期待できる効果が見込めるわけではない、叱るという資源の投入と授業が静まるという得られる利益とのバランスはわからない)であっても行われる点で、教育実践というものは瞬間に大きなことを決めなければならない博打のようでもある。そこにPDCAサイクルなど、ありようもない。

だから、ある教師がなぜ叱るべき状況だと認識するのか、次にいま叱ろうと判断するのか、そして実際に叱るという行動を取るのか、を分析することが重要なのに、そうした面倒くさいことを飛ばして、「まず実践だ」「考えているだけでは机上の空論だ」といった乱暴な発想が幅を利かす。知的退廃である。

投書に戻ろう。議論すべきはもっとメタ的なこと、たとえば、①生徒がうるさいのは、教師の力量が低いからではないか。②静かに聴かなければいけない授業とはアクティブ・ラーニングに適っていないのではないか、③教師は叱っているつもりが、生徒にはどのように届いているか、④ある状況に対して叱るという選択をする教師の価値観やその閾値とはどのようなものか、を考察し、議論することである。

「叱る教師でなければならない」といった、元気の過ぎる一部の教師を煽るような語りは、「よりよい」教育-学習関係上、邪魔に他ならない。生産的な議論とは、事実に対する自身の信念の発露ではなく、それはどんな問題かを拡げ、深める、事実の分解と再構成に向けた姿勢と能力によって進められる、と心すべきだろう。
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by walk41 | 2016-10-07 12:06 | コミュニケーション | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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