学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:大学のこと( 17 )

教員就職率

この指摘は、おそらくどなたかなさっているだろうから、珍しいものではないと思う。けれども、およそ論理的に意味があるとは思われない数値が公表され、データとして一人歩きすること恐ろしさを感じるゆえ、強調したい。

文部科学省がまとめる「卒業生の大学別就職状況(教員養成課程)」がある。教員養成大学・学部関係者には馴染んだ、また頭の痛い数値だが、大学ごとに卒業生のうち何人、何パーセントが教員として就職したかを示している。大学単位に数値を並べ替えさせて、どの大学が教員就職に強いか、あるいは弱いかを噂話させ、大学の宣伝や「もっと頑張れ」メッセージの材料にしようというものだ。

このデータの問題は次の点にある。これだけ問題のある統計も、少ないのではないかと思う。

①データの括り方が不適切。ここでの教員としての就職は、学校の幼稚園、初等・中等教育学校の教員(養護教諭、栄養教諭を含む)として採用、および臨時的任用(病休、産休、育休などの代替教員等として任用)された場合を合わせたものである。たとえば、前者が6割、後者が1割の場合と、極端だが両者が逆の場合、意味はまったく異なるにもかかわらず、数値としては同率になる。ちなみに、ここで任用とあるが、任用とは公務員の場合のみ該当する行政用語、私立学校に採用された場合は含まれるのだろうか。

②資格取得と就職との区別がない。教員としての就職は、教員資格の取得とは別物である。たとえば、ドイツのように州政府が試験を行って教員資格を認定する場合は、試験が同一だから、その合格率を競うことに意味がある。日本では医師免許や看護師免許がこれに相当する。しかし、日本の教職課程は課程認定制度のもとでの「開放制」と大学での単位取得によって免許要件を構成するから、大学間の差異をなくせない限り、比べても意味がない。それを敢えて比べるのならば、大学入学者に対する卒業者(免許取得者)の割合を並べることは可能だろう。つまり、4年間でしっかり単位を取らせて卒業させた大学ほど優れているという評価である。けれど、はたしてこれは適切だろうか。

③就職者数は採用者数であり、変動する。②とも重なるが、教員への就職は、主として公立学校を人的に管理する都道府県と政令指定都市の教育委員会の採用数に依る。教職人口ピラミッドを大きな背景に、各年度の採用者数が決められるのであり、35年間ほどの年齢層を含む教員構成に対して、大学ができることはほとんどない。大学が頑張ろうと(逆に言えばそうでなかろうと)採用数の前にはどうしようもないからだ。景気が良くなれば卒業生の採用率は高まり、景気が悪くなれば低下するのと同様である。いずれの分野であれ、大学の努力が採用数に直結するわけではない。

ちなみに「○○大学は教員養成を熱心にされているので、無条件で○人は採用しましょう」といった、贔屓も見込めない。戦前の指定学校や許可学校の制度を復活させるならば話は別だが、大学間の平等性を前提にする限り、無理な相談である。

以上のような無茶をはらみながら、数値化され、もっともらしいデータとして跋扈することになる。「ウチは教員就職率○年続けて、上位三位に入っています」と高校生向けの宣伝に使われたり、「ウチは下から数えた方が早いくらいだから、教員採用試験を意識した授業に励むように」と教授会あたりで発言があるかもしれない。

こんな状況を放置して恥ずかしげない官僚主義の悪弊(一度決めると、簡単には変更しない)、あるいはこのデータの発案者と支持者の学力の低さに愕然とする。こんなものを比べても仕方ないやん。



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by walk41 | 2018-02-15 14:15 | 大学のこと | Comments(0)

ハッピーに終われない

授業も大詰めを迎えた。レポートが提出され、学生間でコメント交換をし、私も読んでコメントをくわえて、学生に返すまでに達している。「失礼な学生」で記したようなことはあったにせよ、それ以外は期日をしっかり守って臨み、よく励んだね、とハッピーに終わるはずだった。

ところが、蓋を開けるとそうではなかった。その理由では期限内にレポート提出できないことを認められない、提出しただけでコメント交換をしていなければ最終までたどり着かない、と伝えていたにもかかわらず、あるいは、前回の授業から1週間もあったのにその間、何も連絡をせず、なぜこの段に至って、という学生が現れるのだ。これはいったいどういうことだろう。

家人に愚痴ると、レポート提出と合わせてコメント交換をある授業時間に限ることが遠因ではないかと言う。確かに、その時間に来れない場合がある、ましてやこの寒い冬の時期に体調を崩すことは十分にありうることだろう。とはいえ、圧倒的な学生はそれに間に合うように段取りをして当時に臨んでいるのだから、不公平が生じるのではないかといたく懸念する。

また、大学時代の経験で提出したレポートが返ってきたケースはほとんどない中で、レポートを返すことを盛り込むからこうしたことが起こる(出しっ放しにすれば、期限内であればいつでも出せるのだから、の意味)のではないかとも指摘されたけれど、大昔の自分の経験、出しっ放しの不快さを繰り返したくないから、それはできない、そもそも学生へのフィードバックにならないと、是とはできない。つまり、極力この時間に来てもらわなければならない。

ブラックとも言われるアルバイトに従事している場合もあるだろう。他の授業での負荷で体調不良になることもあるだろう。けれどその上で、予め指定した日時には、どうにかでいいから「帳尻を合わせる」ことも一つの能力だと思うのだ。段取り力がより問われる教職に関わる授業ならばなおさら。

とまれ、そんなこんなで著しく消耗することになった。大上段に構えれば、授業は教員と学生との二人三脚で作っていくものだろう。ならば、互いの信頼と努力に基づかず何が授業かということになる。一つの授業の形として、学生たちには「こんな変な授業もあったなあ」と思い出してもらえるようであれば、嬉しく思う。



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by walk41 | 2018-01-23 13:08 | 大学のこと | Comments(0)

「失礼な学生」

オヤジだなあと陰口をたたかれかねないような、「若者は失礼」とか「学生は失礼」とは言わないが、「失礼な学生」は残念ながら存在する。ここで言う「失礼」とは、いわゆるマナー違反という意味よりも、いたずらに他者の手間ひまをかけさせる振る舞いを、わざわざすることを指している。次回以降の履修する学生に周知するためにも、以下、事例を記しておきたい。思い当たると思う学生には、ぜひ振り返ってほしい。

○レポート提出の日、肝心のレポートを持参していないことを申し出ず、授業者がどうしたのかと声を掛け、無言でいる様子に、さらに授業者が「出せなかった理由を何とか立論、説明できないのか」と「弁明」を促す事態。

○理由を認めた上でのレポートを持参すべき約束の時間までに現れず、夜になって部屋に戻ると、メモも付けられずレポートが投げ入れられていた。その後、このことの説明もなく、何よりも提出後に学生がすべき「レポート交換」に進めないにもかかわらず、そのまま放置。

○授業が始まる十数分前に欠席の連絡、「レポートを出せないのでどうしたらいいか、連絡ください」と返信を要求。

学生にも事情があるのかもしれない。けれど、ちょっとした配慮でできることもあるはずだ。気をつけていても他者の手を煩わせることがあるのだから、互いに忙しい身でもあるのだから、より丁寧に関われればと思う。



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by walk41 | 2018-01-20 00:30 | 大学のこと | Comments(0)

「お疲れさまです」

学部2回生かと思う。大人数の講義の受講者だが、いつも懸命に臨んでいるという印象を与える学生だ。

授業とは別の時間に、その君をキャンパス内で見かけた。「あっ、いるな」とこちらが認めると同時に、こちらを見て「お疲れさまです」と頭をペコリ、挨拶をしてくれた。

学生から労われるのも不思議なことだが、ちょっと嬉しい。

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by walk41 | 2017-12-05 14:30 | 大学のこと | Comments(0)

大学の授業の作法

大学の授業を見せてもらう機会を得た。実践的な内容を扱う授業と聴き、現職教員のいわゆる実践がどのように咀嚼され、限定的ながらも知見がいかに導出されるのか、を楽しみに伺った次第だ。

ところが授業は、そのように進められなかった。まずベテラン教員がこれまで勤務校で臨んできた事例が複数出され、まだ教職に就いていない学生がこれらを要約したのち、それぞれが感想を述べるという、はなはだ失礼ながら、知的な営為がなされたとはとても言えない時間が過ぎたように思う。

具体に入れば、教員の数だけやったことはあるのだから、それらを説明するのにかなりの時間を費やした。こんなやり方があるんだと知ることにも意味はあるけれど、それらは事前に読めるようにしておけば済むことだろう。

せっかく集まっている時間を有効にするには感想ではなく、何が論点なのか、何をどう広げ深めるのかと、より原理的に哲学するための問いかけと発言の交通整理が不可欠だ。にもかかわらず、その条件を満たす授業ではなかったことを残念に思う。なぜ「では、一人づつ感想を言っていって下さい」といった進め方をするのだろう。

教育系の大学や大学院では、今や「理論と実践の往還」が強調される。けれど、より傾注すべきは、①「具体と抽象の往還」あるいは②「主観と客観の往還」と言うべきである。

①規則的に行為する訳ではない人間という不安定な変数、しかもそれが少なくとも二人での教育ー学習関係、多くは集合や集団といったダイナミクスを伴う場に、再現性、普遍性を前提にする理論という言葉はふさわしくない。そうではなく、具体的な個々の事柄がどのような事態や意味、機能として理解されるのか。つまり、論理化されるのか、また反対に、どのような論理的命題が具体をいかに説明しうるのか、を問うことが重要である。なぜなら、私たちの行為の幅を広げる(大げさに言えば、より自由になる)上で、経験第一主義に陥るのは危険だからであり、また「頭でっかち」な原理主義に偏しても問題だからである。

②短時間で状況が変化する、そこに当事者の意思決定と行為が重なる教育ー学習の場面では、思い込みや勘違いが頻発する。その歪みを補正するのは容易ではなく、かと言って客観的に認識する方法が明瞭な訳でもない。そこで取りうるのは、自身の認識がいかに主観的でありうるかを振り返り、より客観的な認識を導くための相対化である。そしてこれを促すために「意味ある他者」と各々の見方を交差させる必要がある。

こうした作法を大学で身につけること、もってより戦術的、戦略的な教員へと自身を鍛えることの重要性が、確かめられるべきではないだろうか。


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by walk41 | 2017-12-01 18:45 | 大学のこと | Comments(0)

「主体的・対話的な深い学び」を阻害する事大主義

「大学における教員養成」は今日、うん十年前と大きく姿を変え、教員採用試験対策が主眼の趣すら呈するに至っている。国立大学法人では「ミッションの再定義」に教員採用率の数値目標を掲げることを余儀なくされ、いかに学生を教員へと向かわせるかに四苦八苦せざるを得ない状況だ。

その中で、教員養成教育に小・中学校等の教員経験者を迎えて、授業を担ってもらう部分が増えている。いわゆる現場の話を聴くことは、学生にとって一つのリアリティに接し、なんとなくのイメージに留まる学校理解、あるいは「机上の空論」に陥るのを抑制する点で望ましいことではある。けれど興味深いことに、なぜかこの「現場主義」が、文科省や教育委員会から示されるガイドライン(一つの「机上の空論」なのだが)をバイブルかのように奉ることに繋がり、学生に対して、政策・行政的言説を金科玉条として、無批判・無分析的に扱いがちなことを強く危惧する。

過日も他大学のことだが、教職課程の授業でこんなことがあったと聞いた。指導主事、校長を経て大学の授業を担うある御仁は、「今は、アクティブラーニングとは言いません。何と言うんですか」と学生に尋ね、「主体的で対話的な深い学び」と学生が答えたことに対して、「正しくは、主体的・対話的(ナカグロ)です」と訂正したという。こんなやりとりに時間を使うなんて、何という事大主義だろうか。

「~で」と「・」の違い、内容を捉える上で、そんなことはどちらでもいい、枝葉末節に過ぎることである。なのに、「正しい言い方を知らない学生」を指導する自分という構図に酔うかのような愚かさ、まったくのあんぽんたん。なお、これに従順な学生がいるという状況は、いっそう深刻なことである。

かくも阿呆らしいことがまことしやかに行われる「高等教育」を大いに憂う。と同時に、こうした些末なことが大切にもなるのは、教員採用試験がこうしたおよそ「学び」とは無関係な問題を擁しているからでもある。これからの学校教育がそうした方向を取るのならば、教員採用試験こそ暗記ものから全面的に脱皮して、「主体的・対話的な深い学び」の結実とならなければならない。教育委員会の力量が問われるゆえんだ。



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by walk41 | 2017-11-26 12:29 | 大学のこと | Comments(0)

「国立」に地域ニーズ?

国立教員養成大学とその附属学校の改革に関する「有識者会議報告書」(2017.8)が出て以降、関係者は慌ただしさを極めている。この報告書に合わせるように、それぞれの持ち場をいかに変えられるかに呻吟しているからだ。

提言の一つに、「地方の教育ニーズ」をつかみこれに応えていくという方向が示されているが、これにも困らされる。なぜ、国立大学法人という国立大学を前身とする機関が、「国」ではなく「地方」にもっぱら対応しなければならないのだろうか、さっぱりわからない。学校教育を国単位で考えるとともに、同時にそれぞれの条件に応じて創意工夫して取り組むのが、各附属学校の役割と私は考えるが、なぜ「地方限定」あるいは「地方第一」なのだろうか。遠方の人たちに関心を寄せてもらうこと、それぞれの解釈を経て各地で臨んでもらえる一助となることも、「国立」の立派な社会貢献ではないか。

そもそも、「地方」の需要が一枚岩であるはずもなく、すでに多様である。府県を単位にするにせよ、市町村の単位であれ、エリート養成、多文化共生、産業振興、福祉的教育等と、いずれか一つに絞れるはずもない。だから、「地方の教育ニーズ」に応えるとはすなわち、いろいろな課題設定と挑戦があって然るべきと導くのが論理的である。なのにこんな物言いをするなど、グローバル社会にあって「日本vs外国」といった貧困な世界観を示すがごとくではないか。

これら報告書は一度、当事者の手を離れると一人歩きして、言葉だけが大手を振ることになる。論理的に吟味に堪えないような記述をしていることに、当該会議委員はどれほど気づいていただろうか。気づいていたけれど仕方なくこうなったということなのだろうか。いずれにせよ、「有識者会議」に見られる学校政策・行政の劣化のあおりを受けて、最前線の者が振り回されることになる。これは国益の大きな損失である。


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by walk41 | 2017-11-22 09:14 | 大学のこと | Comments(0)

卒業論文中間発表会

卒業論文もいよいよ佳境に入っている、はずなのだが毎年のようになかなか難しいようだ。学生にとっては初めての論文、レポートとは大きく違う課題に面食らっているに違いない。

そんなことを思っていたら、ふと思い出した。自分が学部生の頃、教育学専攻では学生が自分たちで卒業論文の中間発表会をしていたことを。

4回生が発表し3回生がきく、という格好だったが2回生以下でも参加できた。もちろん司会も学生である。そんな学生の中で、教員では唯一、後の指導教員(当時は指導教官と称されていた)を引き受けて下さった恩師がおられ、学生に質問をされていたシーンが甦る。

そして今日、発表会は教員が設定して学生に周知し、学生はまあ受け身である。学生の中に、自らのことを生徒と呼ぶ者がいても不思議ではないのかもしれない。

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by walk41 | 2017-11-08 07:57 | 大学のこと | Comments(0)

いつも崖っぷち

長崎県立大は1日、男性教授4人を、懲戒処分にしたと発表した。このうち3人は、同大大学院人間健康科学研究科の50~60歳代の教授。昨年度後期の選択授業について、本来この3人で計8回行う授業をせず、受講した全学生5人に単位を与えたという。学生らの知人から教務課へ相談があり、わかった。その後改めて授業を行い、単位を認定したという。この授業の責任者の教授を停職1か月、ほかの2人は訓告とした(読売新聞、20170902)

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8コマとは、オムニバスの1単位の授業だったのだろうか。変な感想だが、3人の教員がうまく意気投合したものだと思う。勘ぐれば、それだけ手馴れていたということか。


ずいぶん前の拙ブログに書いたことではあるが、文字通り一回も授業のなかった、大学院の授業のことを改めて思い出した。


1985年度前期、大阪大学大学院人間科学研究科でのことだ。履修申告をして、授業がいつからあるのかを担当教員の助教授に聞きに行ったとき(今考えればまったく不思議な話で、授業期間に従って授業は行われるはずだから、尋ねにいく必要などなかったのに、当時の「常識」では、いつから授業が始まるのかを、学生が確かめなければ行われない可能性がある、と思っていたのだろう。過日の朝日新聞にも、京都大学物語として、休講通知ではなく「開講通知」が出たという回想が記されている。)彼は大学院生にこう言ったのだ。「榊原さんは優秀だから、授業をしなくてもいいでしょう。」


ちょっと考えればわかるだろうものを、あんぽんたんな院生は、「そうか、授業がないのか」と喜んだのだ。実際に、一度も授業が行われることはなかった。もちろん、試験もなしである。そして、後期が始まる直前に、受けとった評価は「優」。さらに馬鹿な院生は「ラッキー」と思ったことだ。「君を相手に授業をするほど、ヒマではないんだ」と正直に言うのではなく、学生をおだてるという狡猾な手を使われたのに、である。ちなみに、この御仁は定年までおり、大阪大学名誉教授になっている。まさにいい加減そのものである。


こうしたエピソードが昔話に留まらず、今なお行われていることに驚かされるが、幸いなのは、学生が賢くなって、事務に問い合わせをするようになっていることだ。大いにやってもらいたい。


今や、当時の助教授の年齢を超えるに至って思う。大学における「専門性」とそれを担保する自律性を保持するためには、最終的にはそれぞれの教員の克己心や誇りに拠っており、それはいつも崖っぷち、危ういものだということである。


屋上屋を重ねれば、制度や仕組みをこうしたら、うまくいく部分もあるだろうけれど、それでもなお、個々に委ねられる部分が残り、それは学長ほか管理職でも触りようのないものであり、これもまた「専門性」ゆえということ。このことを踏まえて、いかに自律的であるかがいっそう問われており、それが伴ってこそ「大学」にふさわしいと知らなければならないと。






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by walk41 | 2017-09-03 21:32 | 大学のこと | Comments(0)

よく頑張りました

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前期の授業もいよいよ終わり。最終レポートの返却をする。

教職の概論に相当する、この大人数の授業において今期、学生は5回の「赤ペン先生」(クラスメイト間でミニワークを交換、赤ペンでコメントする)を経たのち、最終レポートに臨んでいるので、おおむね「美しい」レポートに仕上がった。改行(段落構成)、接続詞、データの提示、論旨、具体と抽象の往還、適切な助詞、微妙な言い回し、といったレポートの基本が身につくようにと進めてきたものだ。学生も大いに頑張り、履修申請をした学生の91%がここまでたどり着いた。お疲れさま。

このレポートに対して、他の学生が紙上対話をする。40分間は優にかけて記されたものを集め、今度は授業者が同じく赤ペンでコメントを加える。ひとりあたり4~6行くらい。実は以前は2~3行くらいと少なかったのだが、「すこぶる残念な大学教員」のエピソードに接するに、少しでも反面教師にしたいと思った結果である。自分も少しは成長したかしら。

最終レポートには、5回分のミニワークも学生のコメント付きで添付されている。すぐに捨てられることはないだろう。これからの学修の反省や励みとなりますように。


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by walk41 | 2017-08-01 08:29 | 大学のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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