学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:大学のこと( 14 )

「お疲れさまです」

学部2回生かと思う。大人数の講義の受講者だが、いつも懸命に臨んでいるという印象を与える学生だ。

授業とは別の時間に、その君をキャンパス内で見かけた。「あっ、いるな」とこちらが認めると同時に、こちらを見て「お疲れさまです」と頭をペコリ、挨拶をしてくれた。

学生から労われるのも不思議なことだが、ちょっと嬉しい。

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by walk41 | 2017-12-05 14:30 | 大学のこと | Comments(0)

大学の授業の作法

大学の授業を見せてもらう機会を得た。実践的な内容を扱う授業と聴き、現職教員のいわゆる実践がどのように咀嚼され、限定的ながらも知見がいかに導出されるのか、を楽しみに伺った次第だ。

ところが授業は、そのように進められなかった。まずベテラン教員がこれまで勤務校で臨んできた事例が複数出され、まだ教職に就いていない学生がこれらを要約したのち、それぞれが感想を述べるという、はなはだ失礼ながら、知的な営為がなされたとはとても言えない時間が過ぎたように思う。

具体に入れば、教員の数だけやったことはあるのだから、それらを説明するのにかなりの時間を費やした。こんなやり方があるんだと知ることにも意味はあるけれど、それらは事前に読めるようにしておけば済むことだろう。

せっかく集まっている時間を有効にするには感想ではなく、何が論点なのか、何をどう広げ深めるのかと、より原理的に哲学するための問いかけと発言の交通整理が不可欠だ。にもかかわらず、その条件を満たす授業ではなかったことを残念に思う。なぜ「では、一人づつ感想を言っていって下さい」といった進め方をするのだろう。

教育系の大学や大学院では、今や「理論と実践の往還」が強調される。けれど、より傾注すべきは、①「具体と抽象の往還」あるいは②「主観と客観の往還」と言うべきである。

①規則的に行為する訳ではない人間という不安定な変数、しかもそれが少なくとも二人での教育ー学習関係、多くは集合や集団といったダイナミクスを伴う場に、再現性、普遍性を前提にする理論という言葉はふさわしくない。そうではなく、具体的な個々の事柄がどのような事態や意味、機能として理解されるのか。つまり、論理化されるのか、また反対に、どのような論理的命題が具体をいかに説明しうるのか、を問うことが重要である。なぜなら、私たちの行為の幅を広げる(大げさに言えば、より自由になる)上で、経験第一主義に陥るのは危険だからであり、また「頭でっかち」な原理主義に偏しても問題だからである。

②短時間で状況が変化する、そこに当事者の意思決定と行為が重なる教育ー学習の場面では、思い込みや勘違いが頻発する。その歪みを補正するのは容易ではなく、かと言って客観的に認識する方法が明瞭な訳でもない。そこで取りうるのは、自身の認識がいかに主観的でありうるかを振り返り、より客観的な認識を導くための相対化である。そしてこれを促すために「意味ある他者」と各々の見方を交差させる必要がある。

こうした作法を大学で身につけること、もってより戦術的、戦略的な教員へと自身を鍛えることの重要性が、確かめられるべきではないだろうか。


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by walk41 | 2017-12-01 18:45 | 大学のこと | Comments(0)

「主体的・対話的な深い学び」を阻害する事大主義

「大学における教員養成」は今日、うん十年前と大きく姿を変え、教員採用試験対策が主眼の趣すら呈するに至っている。国立大学法人では「ミッションの再定義」に教員採用率の数値目標を掲げることを余儀なくされ、いかに学生を教員へと向かわせるかに四苦八苦せざるを得ない状況だ。

その中で、教員養成教育に小・中学校等の教員経験者を迎えて、授業を担ってもらう部分が増えている。いわゆる現場の話を聴くことは、学生にとって一つのリアリティに接し、なんとなくのイメージに留まる学校理解、あるいは「机上の空論」に陥るのを抑制する点で望ましいことではある。けれど興味深いことに、なぜかこの「現場主義」が、文科省や教育委員会から示されるガイドライン(一つの「机上の空論」なのだが)をバイブルかのように奉ることに繋がり、学生に対して、政策・行政的言説を金科玉条として、無批判・無分析的に扱いがちなことを強く危惧する。

過日も他大学のことだが、教職課程の授業でこんなことがあったと聞いた。指導主事、校長を経て大学の授業を担うある御仁は、「今は、アクティブラーニングとは言いません。何と言うんですか」と学生に尋ね、「主体的で対話的な深い学び」と学生が答えたことに対して、「正しくは、主体的・対話的(ナカグロ)です」と訂正したという。こんなやりとりに時間を使うなんて、何という事大主義だろうか。

「~で」と「・」の違い、内容を捉える上で、そんなことはどちらでもいい、枝葉末節に過ぎることである。なのに、「正しい言い方を知らない学生」を指導する自分という構図に酔うかのような愚かさ、まったくのあんぽんたん。なお、これに従順な学生がいるという状況は、いっそう深刻なことである。

かくも阿呆らしいことがまことしやかに行われる「高等教育」を大いに憂う。と同時に、こうした些末なことが大切にもなるのは、教員採用試験がこうしたおよそ「学び」とは無関係な問題を擁しているからでもある。これからの学校教育がそうした方向を取るのならば、教員採用試験こそ暗記ものから全面的に脱皮して、「主体的・対話的な深い学び」の結実とならなければならない。教育委員会の力量が問われるゆえんだ。



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by walk41 | 2017-11-26 12:29 | 大学のこと | Comments(0)

「国立」に地域ニーズ?

国立教員養成大学とその附属学校の改革に関する「有識者会議報告書」(2017.8)が出て以降、関係者は慌ただしさを極めている。この報告書に合わせるように、それぞれの持ち場をいかに変えられるかに呻吟しているからだ。

提言の一つに、「地方の教育ニーズ」をつかみこれに応えていくという方向が示されているが、これにも困らされる。なぜ、国立大学法人という国立大学を前身とする機関が、「国」ではなく「地方」にもっぱら対応しなければならないのだろうか、さっぱりわからない。学校教育を国単位で考えるとともに、同時にそれぞれの条件に応じて創意工夫して取り組むのが、各附属学校の役割と私は考えるが、なぜ「地方限定」あるいは「地方第一」なのだろうか。遠方の人たちに関心を寄せてもらうこと、それぞれの解釈を経て各地で臨んでもらえる一助となることも、「国立」の立派な社会貢献ではないか。

そもそも、「地方」の需要が一枚岩であるはずもなく、すでに多様である。府県を単位にするにせよ、市町村の単位であれ、エリート養成、多文化共生、産業振興、福祉的教育等と、いずれか一つに絞れるはずもない。だから、「地方の教育ニーズ」に応えるとはすなわち、いろいろな課題設定と挑戦があって然るべきと導くのが論理的である。なのにこんな物言いをするなど、グローバル社会にあって「日本vs外国」といった貧困な世界観を示すがごとくではないか。

これら報告書は一度、当事者の手を離れると一人歩きして、言葉だけが大手を振ることになる。論理的に吟味に堪えないような記述をしていることに、当該会議委員はどれほど気づいていただろうか。気づいていたけれど仕方なくこうなったということなのだろうか。いずれにせよ、「有識者会議」に見られる学校政策・行政の劣化のあおりを受けて、最前線の者が振り回されることになる。これは国益の大きな損失である。


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by walk41 | 2017-11-22 09:14 | 大学のこと | Comments(0)

卒業論文中間発表会

卒業論文もいよいよ佳境に入っている、はずなのだが毎年のようになかなか難しいようだ。学生にとっては初めての論文、レポートとは大きく違う課題に面食らっているに違いない。

そんなことを思っていたら、ふと思い出した。自分が学部生の頃、教育学専攻では学生が自分たちで卒業論文の中間発表会をしていたことを。

4回生が発表し3回生がきく、という格好だったが2回生以下でも参加できた。もちろん司会も学生である。そんな学生の中で、教員では唯一、後の指導教員(当時は指導教官と称されていた)を引き受けて下さった恩師がおられ、学生に質問をされていたシーンが甦る。

そして今日、発表会は教員が設定して学生に周知し、学生はまあ受け身である。学生の中に、自らのことを生徒と呼ぶ者がいても不思議ではないのかもしれない。

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by walk41 | 2017-11-08 07:57 | 大学のこと | Comments(0)

いつも崖っぷち

長崎県立大は1日、男性教授4人を、懲戒処分にしたと発表した。このうち3人は、同大大学院人間健康科学研究科の50~60歳代の教授。昨年度後期の選択授業について、本来この3人で計8回行う授業をせず、受講した全学生5人に単位を与えたという。学生らの知人から教務課へ相談があり、わかった。その後改めて授業を行い、単位を認定したという。この授業の責任者の教授を停職1か月、ほかの2人は訓告とした(読売新聞、20170902)

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8コマとは、オムニバスの1単位の授業だったのだろうか。変な感想だが、3人の教員がうまく意気投合したものだと思う。勘ぐれば、それだけ手馴れていたということか。


ずいぶん前の拙ブログに書いたことではあるが、文字通り一回も授業のなかった、大学院の授業のことを改めて思い出した。


1985年度前期、大阪大学大学院人間科学研究科でのことだ。履修申告をして、授業がいつからあるのかを担当教員の助教授に聞きに行ったとき(今考えればまったく不思議な話で、授業期間に従って授業は行われるはずだから、尋ねにいく必要などなかったのに、当時の「常識」では、いつから授業が始まるのかを、学生が確かめなければ行われない可能性がある、と思っていたのだろう。過日の朝日新聞にも、京都大学物語として、休講通知ではなく「開講通知」が出たという回想が記されている。)彼は大学院生にこう言ったのだ。「榊原さんは優秀だから、授業をしなくてもいいでしょう。」


ちょっと考えればわかるだろうものを、あんぽんたんな院生は、「そうか、授業がないのか」と喜んだのだ。実際に、一度も授業が行われることはなかった。もちろん、試験もなしである。そして、後期が始まる直前に、受けとった評価は「優」。さらに馬鹿な院生は「ラッキー」と思ったことだ。「君を相手に授業をするほど、ヒマではないんだ」と正直に言うのではなく、学生をおだてるという狡猾な手を使われたのに、である。ちなみに、この御仁は定年までおり、大阪大学名誉教授になっている。まさにいい加減そのものである。


こうしたエピソードが昔話に留まらず、今なお行われていることに驚かされるが、幸いなのは、学生が賢くなって、事務に問い合わせをするようになっていることだ。大いにやってもらいたい。


今や、当時の助教授の年齢を超えるに至って思う。大学における「専門性」とそれを担保する自律性を保持するためには、最終的にはそれぞれの教員の克己心や誇りに拠っており、それはいつも崖っぷち、危ういものだということである。


屋上屋を重ねれば、制度や仕組みをこうしたら、うまくいく部分もあるだろうけれど、それでもなお、個々に委ねられる部分が残り、それは学長ほか管理職でも触りようのないものであり、これもまた「専門性」ゆえということ。このことを踏まえて、いかに自律的であるかがいっそう問われており、それが伴ってこそ「大学」にふさわしいと知らなければならないと。






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by walk41 | 2017-09-03 21:32 | 大学のこと | Comments(0)

よく頑張りました

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前期の授業もいよいよ終わり。最終レポートの返却をする。

教職の概論に相当する、この大人数の授業において今期、学生は5回の「赤ペン先生」(クラスメイト間でミニワークを交換、赤ペンでコメントする)を経たのち、最終レポートに臨んでいるので、おおむね「美しい」レポートに仕上がった。改行(段落構成)、接続詞、データの提示、論旨、具体と抽象の往還、適切な助詞、微妙な言い回し、といったレポートの基本が身につくようにと進めてきたものだ。学生も大いに頑張り、履修申請をした学生の91%がここまでたどり着いた。お疲れさま。

このレポートに対して、他の学生が紙上対話をする。40分間は優にかけて記されたものを集め、今度は授業者が同じく赤ペンでコメントを加える。ひとりあたり4~6行くらい。実は以前は2~3行くらいと少なかったのだが、「すこぶる残念な大学教員」のエピソードに接するに、少しでも反面教師にしたいと思った結果である。自分も少しは成長したかしら。

最終レポートには、5回分のミニワークも学生のコメント付きで添付されている。すぐに捨てられることはないだろう。これからの学修の反省や励みとなりますように。


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by walk41 | 2017-08-01 08:29 | 大学のこと | Comments(0)

大学教員の驚くべき傲慢さ

学生を転倒させ、指導する男子学生に暴行してけがを負わせたなどとして、広島大学は、50代の男性教授を休職6カ月の懲戒処分にしたと発表した。大学によると教授は3月、学生と口論になった際、足を払って転倒させ、全治3週間のけがを負わせたうえ、顔につばをはきかけた。学生は救急車で病院に搬送され、警察に被害届を出していた。

 この学生には昨年11-12月にも、複数回にわたって「クビにするぞ」としかりつけてプレッシャーを与えるなどし、学生は1週間、大学を欠席。また、ほかの研究室の指導学生に対しても「バカ」「研究室から出ていけ」などの発言を繰り返したという。 教授は「自分の要求するレベルに学生が届かず、感情的になってしまった」と説明しているという。学長は「教員としてあるまじき行為で誠に遺憾。深くおわびする」とするコメントを出した。(毎日新聞、20170728、一部改変)‥‥‥

ときどき、いやそれ以上の頻度で、大学でもバランスが必要ということを忘れている場合がある。たとえば大学教員、自分も含め大学とは学問やそれに関わる業務に携わる者が集う場として、裁量(自由)と責任が認められていることを踏まえて働いているだろうか。この両者のバランスが保たれてこそ、「学問の自由」の意味があるけれど。

ここで、責任を伴わない自由(したい放題が優位すると困ることになる。予定された授業の回数をこなさない、シラバスと実際とがあまりに違っている、講義と銘打ちながら学生にお任せの放ったらかし授業、さらには教員の気分感情に過度に左右された授業なら、学生に対する責任、ひいては納税者に対する責任を果たしているとは言えない。

屋上屋を重ねよう。学生に強く要求することはあってもいい。けれど、これに対比しうる教員足りえているかも繰り返し問うべきだろう。いい加減な授業をした上に、「(代替日に充てられている)土曜日なんて、やらない、やらない」と嘯く、毎回のように遅れて始まる授業、こうしたことを批判した学生がいたにもかかわらず当人は管理職となり、あたかも自身がちゃんと授業をしていたかのような顔をしつつ、そのまま済んでいるような大学、こんな体たらくで権限と責任のバランスが取れていると胸を張れるだろうか。


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by walk41 | 2017-07-29 07:31 | 大学のこと | Comments(0)

「教え子を戦場に送るな」

このフレーズを聞いて、昔を思い出される方がきっといるだろう。そう、これは日本教職員組合(日教組)が、戦争の推進役を担った学校教育に対する反省として、長らくスローガンにしてきたものだ。戦争に加担するような教育はしないぞという、教育の力が素朴に信じられていた時代の遺跡でもある。

この言い回しをふと思い出したのは、教員養成を担う大学にいて、学校という「戦場」に学生を送る面があると感じたからだ。

授業に意欲を見せない子ども、無理難題を寄せる保護者、話の通じない同僚あるいは管理職もありうる世界に、「子どもの輝く瞳と出会おう」「素晴らしい仲間と一緒に尊い仕事をしよう」と美辞麗句とともに、学生を送ろうとしている、これではまさに「教え子を戦場に送るな」と声が上がっても当然の状況ではないか。

目の前の学生が「未来の教師」となるべく、彼ら/彼女らに関わっている自身の立ち位置を振り返るに、こうも思う。学校が戦場でなくなることは根本的には不可能だが(なぜなら、教育とは前世代による後世代に対する攻撃でもあるのだから)、容易には「戦死」しないだけの能力を身につけてから、学校に送り出したい。

聞き分けのない子ども、無茶を求める保護者、個性的に過ぎる同僚や管理職も想定できる学校にあって、あるいは教育委員会による後方支援が必ずしも期待できない状況にあって、たくましく生き続ける力を保ち、高められる教員としてあってほしい。そして、もし居続けることがもう無理だと判じたら、戦線を離脱する勇気も持ってほしい。

厚生労働省の統計によれば、大学卒業者のうち、教育・学習支援業に就いた者の約半数は3年以内に離職している。公務員中心の学校教員とは待遇が違う面もあるが、それでも学校教員の中途離職率およそ1%台とは大きく状況が異なっている。「戦場」をより生きやすくする努力も必要だが、難しいことがあるかもしれない。

健康に働き続けられるような職場づくりに、研究の寄与できることは何だろうか。はたまた、そんなものは何もなく、「頑張れ」と煽るだけの「戦犯」なのだろうか。ある教育委員会の人事担当者の話にこうあった。「これからの教員には、理不尽さに耐える力も求めたい」と。こんな表現がさして違和感なく受け止められるのが、学校の一つの現実でもある。

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by walk41 | 2017-07-07 16:43 | 大学のこと | Comments(3)

「内職」テロリズム

大人数の講義にて、4人を単位にグループを組み、毎回の授業レジュメをもとに、発問を通じた授業者と学生、あるいはグループ内の学生を中心とした話し合い、あるいはミニワークのコメント交換といったことをしている。

けれど、そんな忙しい授業の中でも、いわゆる内職をする学生がたまにいる。当該授業の課題が多いためだろうか。そんな学生がいるなあと、グループで話をしている際、教室を回って気づけば、やんわりと指摘するのだが、今回は少し違った。咎められたことを恥じるどころか、申し訳なさそうな顔もせず、言われたことに対する不満を満面に浮かべたのであった(そもそも、非礼なことをしている点で受講資格なしということを、まったく了解していないのだ)。

しかもその後も、ふくれっ面の調子が続くと、ひ弱な授業者は影響を受けるので、話す調子も狂ってくる。そのことにどれくらいの学生が気づいたことだろうか。

アルバイトのおふざけで店が閉店に追い込まれる「バイトテロ」に擬えれば、この場合は「『内職』テロ」である。学生としての振る舞いをまだ学んでいないのに学生然とすると、こういうことが起こりうる。

その学生にもきっと言い分があるのだろう。他の授業でこうしても何も言われないのに、なぜこの授業では注意されなければならないのだ。心外だと。残念ながら、この手はお呼びではない。まだ学ぶ準備が整っていないのだから。

この立論がおかしいという人は、どこからでもいいから、別のことをやりながら、授業で懸命に考えるべき課題にしっかりと臨める、という人を連れて来てほしい。稀に見る秀才ならば、授業に来なくても認めるが、私を含め圧倒的多数は凡人のはずだ。それが地道に悩まずして何が学生だというのか。不貞腐れる暇などないよ。顔を洗って出直しなさい。

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by walk41 | 2017-05-16 15:45 | 大学のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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