学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:授業のこと( 130 )

授業参観で頑張る?

私はfacebookを研究室向け専門に使っているが、「友達」か「知り合い」絡みでそれ以外のニュースが流れてくる。その中に、現職小学校教員が自分のクラスにて子ども向けに板書したものがあり、「真実は細部に宿る」を実感した次第だ。

その主旨は、年度さいごの授業参観に向けて頑張ろう、日曜日の授業だけれど「チームの団結」で精一杯に取り組もう、結果はともかくもやりきろう、というもので、授業を観られることが何かの発表会かのようであることに疑いを持たない、あまりにもナイーブなものであった。

この教員にとって、授業参観は観に来る人のためのパフォーマンスであり、それを「よりよい」ものにするには、児童に懸命さやチーム的態度が必要とされる。さて、こうした立論は何に根拠づけられるのだろうか。学校評価にも連なるが、保護者に来校願うのは、なるべく普段の子どもの様子を知ってもらうことであり、いつもとは異なるショー(見世物)のためではない。この点は、たとえば、「日曜日授業参観事件」とも整理される東京地裁1986.3.20の判決文中の以下が参考になる(http://appli.attack-defense.biz/ から拝借)。
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また、授業をチーム活動かのように捉えるのも素朴に過ぎ、厳しく言えば罪深い。野球から始まったチームという言葉は、追いかけるべきボールが一つであり、当事者の目や身体はすべてそちらを向くことを前提にしている。送りバントのように、チームのためには自分が犠牲になることもやむを得ない。もちろん監督の采配で、代打を起用することも日常である。

これを授業に当てはめると、どうなるだろうか。授業について行けない子どもは静かにするのがチームのためである。みんながわかっているかのように見せるには好都合だからだ。あるいは、できる子どもをもっぱら指名し、何を言い出すかわからない子を当てないことが授業者には肝要である。とくに授業の後半やまとめの局面においては。

ちなみに「学びの共同体」についても同じである。共同体と名乗るならば、全体のために犠牲になる個もありうる。敵と味方の区分、見方内部のヒエラルキー(階層・階級)やリーダー/フォロワーの存在も想定してこそである。ところが、当事者の議論ではそのようなものは欠片すら見当たらない。「みんなで仲良し」の域を超えない。安倍政権が「お友達内閣」なのと同様、こちらは「お友達サークル」である。

あれ。でも、これでよかったのだろうか。授業で何をするためのチームや共同体の存在なのかしら。それは、どんな目標を実現するための場や集団なのだろうか。近代社会は個人の利益を最大化することが使命ではなかったのかな。

さて、授業や教室がこうした要件を備えておらず、そもそも「みんなのための」ものでもないのに、ファンタジー豊かに言葉遊びをすると「チームの団結」「共同体」と的外れで、頭でっかちの(机上の空論)話に終始する。物言わぬ「いい子」は、こんな物語につきあわされていることに気づかないか、気づいても我慢を強いられるだけである。大人になって「騙された」と声を上げるのが関の山だ。

こんな教員がどれだけいるのかわからないけれど、「何となく」こうしたものを板書したり、しかも不特定多数が目にしうるSNSに挙げるのはやめてほしい。

自分を「先生」と思うことの弊害は、かくも大きい。




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by walk41 | 2018-02-12 21:06 | 授業のこと | Comments(0)

論理を鍛えるー形式陶冶

見せてもらった授業は算数だったが、私には形式陶冶的、つまり単元を学ぶではなく、単元で(を通じて)学ぶという点では、論理の授業だったように思われた。

課題は「4人がこれまでに走った記録をもとにして、マラソン大会での監督として誰をあと一人出場させるか」を問うものだった。それぞれの平均タイムを出せば、代数としてはすぐに答えが出るけれど、そこに人が選ぶ際の基準が含まれるために、いろいろな選び方がありうることを、生徒は実感できたと思う。

最初に、誰がいいのかを各自で選ばせる。きっと平均値に着目しするだろうから、1つに答えがまとまるかと思いきや、はじめから4つにばらけたことが興味深かった。同調圧力、付和雷同を求める雰囲気がきっと少ないクラスなのだろう。

そして、さらに面白かったのは、4人のいずれを選ぶかの立論が、必ずしも数学的な範疇に留まらず、実社会的な人間の推論をも含むものであったこと、また、そうした立論を授業者がありうることと受け止めていたことだった。

生徒たちから出た理由づけは、平均値のより低い人を選ぶ(平均してもっとも速い)から始まったが、その後すぐに、最大値と最小値を除いた平均値をもとに主張した生徒が現れた(これは国際競技などでの採点方法に似ている)。

あるいは、最大値のみを除いた平均値を主張した生徒もいた。それは、大きな外れ値は体調不良などのアクシデントによるものだろうという推測にもとづく。なるほど一理あるな。と同時に、こうしたアクシデントが起こりうる人ならば、不安材料だから起用すべきではないという意見も出た。

はたまた、この立論も面白かった。すなわち、最大値と最小値の差がもっとも小さな人が、安定的に記録を出せる点で信頼できるというものだ。この発想には驚かされた。ただし、これにも別の生徒から、安定的であっても遅ければ仕方がないと反論も出た。これももっともな主張である。

他にもこうした立論が述べられた。3人は10回の記録が上がっていたが、1人は欠席して8回のみ。ここに注目すれば、欠席するのは体調不良だろうから、この人を選手に選ぶのは危険だという消去法的な発想である。以上の説明は不確かな部分を含まざるを得ないので、生徒からは「まあまあ」とか「たぶん」とも発言されたが、授業者はそのまま受け止めていたあたりも、狭義の算数ではないなと感じた次第だ。

授業を見ながら、自分ならどんな別の推論ができるだろうかと考えてみた。たとえば、8回のみの記録がある人はまだ体力を温存しているだろうから選ぶべきではないか。あるいは、回数を重ねるほどにタイムが短くなっている人に、今後の伸びしろを期待できるのではないか、と。

こうして授業が終わったが、終わりの際に、自分の立論をうまく語彙的に説明できず、クラスメイトに補ってもらっていた女の子が、小さく拍手をした様子が、とても印象的だった。一つの答えに終着しないテーマの面白さ、その検討の過程を交通整理する授業者の力量(観察、判断、行為)のいかんがが問われる、と思わされたことだった。



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by walk41 | 2018-02-09 10:59 | 授業のこと | Comments(0)

校内研究再々論

拙ブログをご覧下さっている皆さんには「いつもの、校内研究はヘンって話か」と食傷気味だろうけれど、この間、多くの現職教員の皆さんと過ごす中で話してみた。

我田引水だけれど、次のような感想を得たのでご紹介したい。

…研究授業の無意味さ、研究というネーミングへの違和感についてお話しされたことは、新鮮でした。日頃から教職員の間では、何ら積み上げや次年度への課題が引き継がれないこと、また、その一日のみせもの的な授業にために費やす膨大な時間やエネルギーについて、疑問の声が上がり続けているのに、同じことが続いていくことに諦めを感じていました。先生のお話に共感するところが多かったです。…

…研究授業は、私にとって年に一度のとても嫌な日でした。講義にあったように、指導案の内容など改善されればもう少しは良くなるだろうと思いましたが、これまでの形式を変えるのは難しいと思いました。…

…授業研究は学校内、あるいは中学校区内で完結すべきだと思います。勤務校のような100名に満たない、のどかな田舎の学校の実践がどの学校にも通用するとは思えない。研究発表をしてから「貴校を参考に実践したら、子どもの意欲が向上しました」との報告は、一件しか聞いたことがない。また、その時の研究主任が次の学校でも実践して上手くいかないという話も聞く。学習方法の効率化を求めて収束するのではなく、こんな条件、こんな教師、こんな子どもの場合には有効といったように、拡散していくことの方が、これからの教育現場に求められていくのではないか。個に応じた学習方法や合理的配慮が求められる現在、鉄板化された授業を研究するのはナンセンスではないか…

私の提案を聞いた人の中には、異論を持つ人もいるとは思う。けれど、少なくとも考え直してみること、議論を試みることについては了解下さるだろう。「働き方改革」とも言われる昨今、やりたくない、成果の見えないことに多大な労力を割くことほど、虚しく不健康なことはない。現職教員の皆さんの勇気が、今の事態を変えることに発揮されるよう強く願う。

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by walk41 | 2017-08-11 23:49 | 授業のこと | Comments(0)

何気ない言葉

大学の授業における教員の口調について、こんな話を聞いた。

ある教員は、学生に向かって「話をしてもらっていいですよ」と言うのだとか。これを聞いたある学生は、なんか嫌だなぁと。

この受け止めは分からなくはない。教員は、なんとなくそう言っているのだろうけれど、聞く側に立てば、話をすることに許可がいるかのような印象を受けるのだろう。この不快が高じて、この授業に出たくないなぁ、参加したくないなぁと思われてしまうと、もったいないことである。

手前味噌になるけれど、私の授業では次のように発問するようにしている。「この点、とても不思議だと思わない?」「ここについて、みんなの意見を聞きたいんだけれど」。研修会や講演では次のように発することもある。「こんな疑問があって、皆さんに答えてもらえればなと」。

多少は演技が入っているけれど、問いに対して自分がわからない、あるいは他の考えも知りたいと思ってることは事実だ。もっとも、この「わからない」ということと「何も伝えていない」ということは雲泥の差だ。

授業が、受講者や学習者のためのものならば、彼ら、彼女らがより発言したくなるような、そしてより聞きたくなるようなデザインに、授業者はより心を砕かなければならないのだと思わされる。

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by walk41 | 2017-06-28 07:56 | 授業のこと | Comments(0)

(榊原版の)公教育経営を学び考えるとはどういうことか

この授業で何を学べばいいのか、教員は何を伝えたいのかをわかりやすく教えてほしい、と学部生から質問があったので、これに答える格好で以下を記してみよう。

私の公教育経営論、実は社会教育や生涯学習などを含まない学校教育経営論なのだけれど、それはマクロ、メゾ(ミドル)、ミクロのレベルに大きく分けられ、おおよそ学校政策・行財政、各校の学校経営、(学校)教育実践の領域に対応する。

授業の目的の第一は、これらの領域に含まれる基本的事項を知らせることだ。ともすれば、いかに授業を準備し、実際に進めるかにもっぱら関心のある学生の場合、学校や教室が、文部科学省-都道府県教育委員会-市町村教育委員会と関わっていること、それぞれが法的・行政的権限と財源を伴って、人的・物的・財的な資源の管理と開発を担っていることを、全くといってよいほど知らない。

たとえば、学習指導要領と教科書検定、教育職員免許法と地方公務員法、教育公務員特例法、学校に置かれる職位と職権についても、まず何も知らない。官僚制と組織、言語・非言語コミュニケーション、集団力学、意思決定、認知と感情についても、ほとんど説明できない。そもそも教育人口はどれくらいで学校はどれほどあるか、地方自治体はいくつ、教員の給与水準は、学校のものの値段は、といった、教育系を専攻したならば常識的であるべきことにすら学生はまだ出合ったことがないのだ。

だから、これらの極く表面的なことを伝え、まずは知っておくようにと話をする。もちろん、これらを授業で網羅することは時間的に不可能だから、私が扱うのは断片だけである(ずっと説明しても退屈だろうし)。あとは自学でやってもらうことにして、ミニワークを授業間にも課してこれを促す。学校教育の用語辞典の類を見て、だいたい意味がわかるようであれば合格だ。

ところで、学生たちは児童・生徒の経験はあっても、学校で働いたことはないからイメージの得られない場合が少なくない。それを補うために学校でのエピソードを紹介したり、映像資料も見せる。学生の経験も掘り起こし、それが教育側にはどのように映るだろうかと問いかけもする。もって学校を見る視点の転換をねらう。

授業の目的の第二は、学校教育の基本的事項が人工物、つまり人間の作り出している所産だから、常に論争的であり、葛藤していることを伝える。自然科学ならば基本的事項を知ること、それらをいかに観察するかに傾斜するのに対して、人文・社会科学では、基本的事項そのものが相対的、暫定的だから、現在は何が論的なのか、さらには論点そのものが転換する(基本的事項そのものが書き換えられる)可能性を提示する必要がある。

学校は言わずもがな近代社会の産物であり、そこには時間的・空間的な条件と価値が色濃く投影されている。それは、「子どもの成長」「高度に発展した社会」イメージに見られるように、社会発展像に呼応した成長・発達論、分類と配列にもとづく秩序志向などを柱にする。そこで論点となる、葛藤するのは、たとえば、教育と学習、学習と学習棄却、認知と感情の操作と「自然」、文化資本と学力、セクシャリティ・ジェンダーと子ども、国民教育とグローバル化、教育水準の維持向上と「教育上の自由」あるいは地域性、人格的行為としての労働と組織人としての業務遂行、教育計画と「失敗」など、枚挙にいとまがない。

学生たちは高校まで「正解」があるはず、と教えられてきているので、論点を知る、何に葛藤しているかを知るという「考える」ことに馴染みが少ない。けれど、「正解」は必ずしもなく(むしろ、ほとんどなく)、曖昧なこと、不確かなこと、そして無常なことを、大学では学ぶ必要がある。「考える」ためのヒントを知り、考え続けるための態度や体力を養うことが必須である。ひょっとしたら、質問の君も「正解」があるとまだ縛られているが故の疑問かもしれない。

考えるヒントを得ることは、「わからない」「どちらとも言えない」と終わるけれど、それは「何もわからない」とは全く異なることを、学生は知らなければならない。学校教育がどのような構図で理解されうるか、そこで論点となるのは何か、それぞれを裏付けるデータや論拠はどのようかを突き合わせ、より「もっともらしい」捉え方ができるようにならなければならない。そこで求められるのが、モデルを構成する力、メタ認知の力、生産的な議論を交わす力などである。思い込み、決めつけ、常識的判断といったものから距離を取り、学校をいかに多面的に捉えられるか、が問われる。

以上、二点を目的に私は授業を行っているけれど、学生はこれについて来てくれているだろうか。学校教育のマクロ、メゾ、ミクロの各レベルに該当する基本的な知識と理解は伴っているだろうか。また、それぞれの領域で考えるべきこと、改められるべきことに関わる議論を組み立てられるだろうか。たとえば、教員と児童・生徒の関係論(ミクロ)、教職の同僚間の協働と個人の裁量、あるいは管理職の権限(メゾ)、外国人児童・生徒と国民教育(マクロ)、それぞれの具体と問題を説明できるだろうか。

このような「問い」を立てるに足るだけの知識と理解が学生に身についているかどうか、が授業者からの評価の眼目になる。質問に答えられただろうか。ならばこの方向で大いに励み学んでほしい。

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by walk41 | 2017-06-27 18:09 | 授業のこと | Comments(0)

授業者のことが含まれない「授業研究」

大学院生たちと、教材研究と授業研究について話す。

そこで改めて気づかされた。「授業研究といっても、授業者のことはほぼ研究されていないやん」って。

どういうことかって? 授業は授業者、児童・生徒、教具・教材のほか、教室空間とその時間的条件から構成される。そして、「いい授業」とは、これらがより望ましい状況にあることと措定する。

教室の広さや時間割の単位、教材の内容などを明日から変えることは難しいから、埒の外に置くとしよう。変えようのありそうなものとして残されるのは、授業者、児童・生徒となる。

ところが、児童・生徒には「彼ら/彼女なりの都合がある」から、授業に肯定的とは限らず(授業者が嫌い、教科が苦手、夜更かしをして眠たい、など)また、生徒たち自身も予想できないような偶然の出来事(昨晩に見たテレビ番組の評価がクラスメイトと違ったことでケンカ、体操着をうっかり忘れたことで頭がいっぱい、休み時間に転けて擦りむいた傷がうずく、など)に影響を受けて、教室の状況は形づくられる。その正確なことは、ほとんど予測不能である。教員がよく口にする、児童・生徒の「見とり」とは言っても、その妥当性を担保できない。つまり、彼ら/彼女らのことは、操作の対象とすることが困難と考えるべきである。

こうしたことから、最後に残るのは授業者となる。そのいでたちや醸し出される雰囲気は、児童・生徒に受容されやすいだろうか。基本的に楽しげで明るく、開放的な空気を誘っているだろうか。あるいは、話すことばは明瞭で、遅からず早からずだろうか。アクセントやリズムにメリハリがあり、聞き手を飽きさせないだろうか。さらには、黒板の前にばかりいないで、小まめに教室内を動き、ときに児童・生徒に近づき、離れと彼ら/彼女らの視線をよく動かしているだろうか。

授業の進め方と言えば、発問、資料の種類とその提示、一人/ペア/小グループ/クラス全体での活動の指示、板書計画などだが、そこに、授業者の「人となり」はほとんど含まれていない。発問に限っても、その前後の生徒とのやりとりはどのようになされているのか(相づち、うなづき、視線、冗談、膝をかがめる、など)を抜きに、その適切さを論じてどれほど意味があるだろうか。ラポールが成立していれば、ときに一言も発せず、「目力」だけで生徒の発言を促すこともできることを考えれば、言語的な働きかけはむしろ限定的で、それ以外の要素が生徒への刺激になると見るべきでもある。

ところが、授業研究において、授業者がどうであるか、何を変えればより望ましいかが論じられることはまずない。人格的行為でもある授業でその筋の話をするのは不可侵であり、マナー違反ということを、同僚あるいは教職業界人はあまねく知っているからである。

そんなことに言及しようものなら、返す刀で自分のことも言われる、そんな怖ろしいことを招く必要はさらさらなく、相互に不干渉であること、これでこそ同僚性が保たれる、「みんな仲良しだよね。あなたのことも指摘しないから、私のことも言わないでね。自律性が大事だもんね」と、悪しき蜜月関係が築かれる。なあなあの、ズブズブの世界がこうして出来上がる。もし、意を決して発言してしまったのなら、相手からの冷ややかな視線、無視の態度を覚悟しなければならない。「子どものために良かれ」と思ったことが、とんでもない仕返しを招くこともある。

かくして、授業研究と銘打っていても、ある意味で一番重要な要素、授業者について研究されることはない。「誰がやってもうまくできる授業」という、ありもしない夢想に依拠し、やりがいのない、研究主任に誰もなりたくない校内研修、授業研究がまた再生産される。
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by walk41 | 2017-06-21 08:07 | 授業のこと | Comments(0)

参加者による

現職の教育関係者への研修でおおよそ一日を過ごす。

新たな教員免許状を取得するための機会なこと、そのための費用を(サポートもあるかもしれないけれど)自分で払っている、ということが初期条件であっても、みなさんの熱心さ、懸命さは十分に余りあると思わされた。

何かを得ようと思っておられるからだろう。講師の一言一句とは大げさにしても、ちょっとした小話にもうなずき、笑ってもらえる。こちらが冗談で言おうものならば、けっこうな反応をしてくれる。授業の間に教室を回り様子をうかがうと、こちらが配ったレジュメ(ハンドアウト)にしっかりと書き込みをされている方、あるいは、それには手を付けず、持参したルーズリーフに逐一書き込んでいる方も多く見られた。いずれも、過言ではなくびっしりと記されている。すごいなあ、こんなに一所懸命に授業に臨んでくださるなんて。

こうした数時間を経て「今回はこれで終わりです」と述べた次の瞬間、参加者から拍手が起こった。また、退室の際も多くの人が講師に声を掛けて下さり、快く次回を迎えることができると思う。

かくも、参加者、学習者、被教育者の様子が、研修や授業に決定的ともいうべき位置を占めているということ、これを踏まえてどのような「授業論」(学習論ではなく)を構成しうるかを考えるべきだろうと強く、重ねて強く思わされた。「授業は授業者ではなく学習者が相当に決める」という命題が成り立つのではないか、とすら感じさせられる時間だった。
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by walk41 | 2017-06-18 21:23 | 授業のこと | Comments(0)

思い出に残る授業

教頭先生たちとの研修会、楽しく過ごした。

「校内研究は、教員の振る舞い研究と看板を掛け替えてはどうか」と提案した後、グループの中で話をしてもらったら、次のような経験談を出した方がおられた。

中学校の社会科教員として、卒業式に臨んだとき、卒業生が「社会の授業は…」と答辞をしたので、涙目で次の言葉を待っていたら、「雑談ばかりで…」と言葉を継いだそうだ。教育委員会ほか面々が臨席する中で、恥ずかしい思いをしたが、それでも「雑談」が幅広い話の意味だということは了解されたので、構わないとも思ったという。

こんなふうに、授業を受けた生徒がどのように受け止めるか、は当てのないものということ、さらには雑談や脱線話がむしろ印象に残るということは、学習指導案がいかに大らかであるべきかを示唆する。だって、指導案に雑談や冗談をあらかじめ書いておくことはできないし、これらは創発的なものとして偶然に発話されるものだからだ。

かくして、授業のPDCA論は成立しないし、それを求めることは生徒の学びを阻害すらしかねない。「案」という名前にふさわしく、おおよその目当てとして授業が構想され、臨機応変にそして創発的な気づきを促す場として授業が生成するように目指すのが、現実的な議論と言うべきである。

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by walk41 | 2017-06-16 16:54 | 授業のこと | Comments(0)

授業者のできること

授業を見せてもらう中で思うようになった。授業の結果がどうなるかはあまりわからないし、ましてや精度高く予想することは不可能だけれど、「よりよい」結果がもたらされるべく、授業者のできることはそれなりにあるんだなあと。

これは「授業がどうなるかは誰にもわからない」という持論の維持であるとともに、「教師・教員としての、最低限の条件すら挙げることができないのではないか。誰でも教師たりえるのではないか」と主張してきたことの反省と修正である。

授業研究の立場からすれば、何をいまさら言うのか、と思われるかもしれないが、教科ならではの内容と方法に即してではなく、教育学者として、教科以外の部分における教員の力量が重要なことを述べたいのだ。

教員が教育内容、単元に即して、児童・生徒たちの認識や受け止め、いわゆる理解の状態を予想する。教科の内容を教員として理解していることは前提だけれど、そこから授業でどれだけ広げる、深めるかは、教科に精通するだけでは不十分だ。なぜなら、生徒たちは集合的に授業に臨んでおり、クラスメイトを意識せずにそこにいることは難しい。自分だけの事情で振舞うことは抑制される。むしろ、教科の論理が優位すると、生徒間そして生徒ー教員間のグリープダイナミクス(集団力学)が等閑視される。

あるいは、教員だけでは制御できないような偶然の出来事にも、数多く遭遇する。前の休み時間にケンカをした、宿題をやってくるのを忘れていた、修学旅行後で興奮冷めやらぬ雰囲気だったと、生徒にすらどうしようもないことも含めて。

こんな環境の下で授業行われている。それは、環境のかなり焦点を絞った限定的なものにならざるを得ないだろう。その上で発問をする、問いかける。それは、既存の理解から少し離れた、聞いて「えっ」「あれっ」と反応がありそうなものがいい。「いったい何のこと」と思われるような離れすぎた問いは、さっぱりわからないだけでなく、全然わからないことによる不快感、ひいてはそんな問いを発する教員への不満を導きかねない点で避けるべきだ。この問いを手掛かりに、児童・生徒とは違うだろうけれど、教員も問いを探索し、一緒に「学びへの旅」をすることができる。

このように考えると、授業者に必要なのは、教科や単元の深く広い(相対化された)理解と、児童・生徒の個人および集合的(必ずしも集団的ではない)な関係、それを背景とする言動に対する理解、短時間での意志決定と行為に関わる能力と導ける。それらは経験的に獲得されるものでもあるけれど、同時に経験が阻害する面も持っている。成功例に依拠しすぎる、既存の条件を前提にしすぎると、状況に柔軟に対応できないからだ。

これらは、学修によって獲得されうるものに加えて、学校内外の多様な経験とその内省を通じた自身の変態(metamorphosis)によって促されるだろう。「揺るぎのない信念」や「確固とした教師像」と距離を保った自身のマネジメントをいかに進めるか、「学びつつ忘れる、学び直す」器用さが求められる所以ではないだろうか。
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by walk41 | 2017-06-05 15:34 | 授業のこと | Comments(0)

給料泥棒

ある大学院生から聞いた(念のため、京都教育大学の学生ではない)。

ある授業で大学教員がこういう話をしたそうな。

「学生が授業を取りにくいようにと、原書講読にした。それでも英語ならばまだ取る学生がいると思ったので、ドイツ語にしたけれど、まだ授業を取る学生がいた。来年はラテン語にする。」

呆れる話である。何という体たらく、自分の専門を通じて学生を育てようとする意欲の欠落だろうか。こんな教員にも血税が遣われているという嘆くべき現実。まさに給料泥棒である。残念ながら、立場の弱い学生になす術はない。

大学も中期計画やあれこれの評価を通じて縛られるように、また色々と説明をしなければならなくなっている。けれど、授業は最終的に教員に大幅に委ねられている。だからこそ、とりわけ授業については、強い自律性を担保する必要があるが、それは各教員の良心、誠実さ、熱意に依っている。このことを繰り返し肝に銘じなければいけないと思う。

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by walk41 | 2017-04-20 11:52 | 授業のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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