学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:研究のこと( 94 )

発言/表現することに対する責任

小学校で管理職をなさっているKojiさんから、複数回コメントを頂戴した。ありがとうございます。

その一つ、「教え子を戦場に送るな」と記した拙記事について、本旨とは外れるがと断わられた上で、

>憲法改正が現実味を帯び、本気で意見をぶつけ合わなければならない時なのに、教員は公務員であるがために言論封殺。その前に各自の考え自体を持たない、正否を調べようとしない、偏った教えを子供達にすることは、もちろん行けないと思うが、教えてはいけないと言うことと、考えを持ってはいけないと言うことは、全く違うことのように思えるが、現実はそうではない。歴史問題しかり。教える側の教師が正しい知識と見解を持ち合わせずして物事の本質の何割を教えられるのだろうか。

と述べられている。このことをどう考えればいいだろうか。

いま、あるテーマの関係で、大学人のキャリアを少し調べている。その中に、エネルギー教育に関わる人がいたが、その方の名前を検索していたら、「とんでもないことを発言していて許せない」旨をブログで、名指しで非難する人のページを見つけた。福島原子力発電所の事故を受けて、あんな大惨事を引き起こしたのが「原発安全神話」でもあったのに、今なお、市民がエネルギーについて適切に理解することが大切だと述べるなど、その無責任ぶりに腹が煮えくりかえる、と言うのだ。

こんな一文に接するに、研究職はもちろん教育職も(この両者を兼ねている立場はいっそう)、自分は何を発信しているのか、表現しているのか、それは広い意味でどんな社会貢献に繋がりうるかを問わなければと知らされる。

もちろん、世の中の多くの事柄は、これが正解というものは少なく、時代や地域、立場などによって事柄自体の見え方も一様でないから、それらの交通整理を促すことも、立派な社会貢献だ。いたずらに正義を振りかざさないためにも、認識の段階ですでに慎重であるべきだろう。

その上で、何かを発言、発信することに伴う責任を引き受ける覚悟も必要となる。あとで「なんか、そうじゃないかなって思ったんで」とか「そういう言い方がもてはやされた時代だったでしょ」と、責任回避や転嫁をしない強さを持たなければ。

そんなふうに後々、責任が問われるようなテーマに臨んでいるか、火の粉が及ばないような「安全」なところでお茶を濁してはいないか。あるいは、大人であることの絶対的優位に乗じた「子ども相手の仕事」をしてはいないか、さらには、相手がすでに大人であっても、成績評価者であることに甘えて、いい加減な授業や応対をしてはいないか。

「学問の自由」や「教育上の自由」がそれなりに認められているのは、それを行使する者に自らを律する力のあることを前提にしているからである。なのに、雑談、放談や暴言を省みない態度(自分に甘く他者に厳しい)、あるいは、無頓着や迎合、歓心を買うさま(自分に甘く他者に甘い)という表現に陥ってはいないだろうか。使命を忘れ、納税者を忘れた「給料泥棒」と、誹りを受けないためにも、高い自律性を持つこと、そのための自身の広く修行が求められると、この頃いっそう思う。





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by walk41 | 2017-07-11 16:12 | 研究のこと | Comments(0)

恥ずかしい

ある県で教員研修を担当し、自分が導いたデータ結果を示したのだが、終了後、どうも腑に落ちないなと元データを見直したら、エクセルに誤って入力していたことが判明した。つまり、間違ったデータを挙げていたのだ。

再度、計算をしなおしたところ、(自分で言っても仕方ないけれど)論旨を変えなければいけないほどの致命的な間違いはなかった。とは言うものの、修正の必要があることに変わりはなく、担当の指導主事にその旨と新たなデータ結果を送った次第だ。ああ恥ずかしい。修正されたデータが、研修に参加した人に学校ルートで届けられますように。申し訳ないこと、この上ない。

それなりに丁寧にデータを扱っているつもりだけれど、「新しい結果じゃないか」と小躍りしてしまうと、データ確認を怠ることを(またもか)学んだ。だから、複数でデータ確認をすることが大切とも改めて思わされた。とくに数量的データは一度、発表されると一人歩きする。関心を持つ人に、「へえ、そうなんだ」と思わせたいと「功名心」が頭をもたげると、ミスも起こりやすいだろう。

丁寧に、慎重に。今更こんなことを記すなんて、あんぽんたんだが、自戒としたい。
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by walk41 | 2017-05-28 15:06 | 研究のこと | Comments(0)

もうちょっと丁寧に考えてみ

お喋りが乱暴で、自分のことを含めて考えてない人がここにもいはるなあと、すこぶる残念に思う。教育文化総合研究所『教育と文化』第86号、2017、にある一連の発言を読んだ感想だ。

「ゆとり教育」について二人で議論しているのだが、その一人がこんなことを述べている。「教えていいんですよ。ただ。出来なければいけないと強制するのは違うということですよね。学習権とは、権利なので、本人次第ということになるわけです。」、「結局子どもに勉強するように命令しているわけですよね。むしろ、字が読めず計算ができないと生活がとてもむずかしくなって、また、権利も十分に保障されないことが起こるという仕組みになってしまっていることを問題にしなければいけないと思います」、「権利なのだから、本来は「落ちこぼれ」という概念などないはず。」(同上、pp.14-15)

この研究所の所長、中央大学教員で池田賢一という人の言だが、頭でっかち(空想的)なんもたいがいにしいや。この研究所、こんな人をヘッドに据えて大丈夫かしら。

確かに、教育という行為が、その対象に暴力的であることは認めなければならない。日本の領土に生まれ落ちたら多くは有無を言わさず日本語を獲得するように仕向けられるし、いわゆる日本的な習慣に馴染むことも余儀なくされる。というのも、赤ちゃんに向かって「世界にはいろいろな言葉があるけれど、君はどの言葉を学びたいかな。あんまりたくさんだと困るんだけれど」とか、「ここでは頭を下げるのが挨拶の基本だけれど、君はハグの方が好きかな」などと、尋ねることはないからだ。当人の意志を顧慮しないで、いわば一方的に与えられるのが、少なくとも最初の頃の社会化であることは間違いない。

問題は、それが暴力的で望ましくないとしても、じゃあこんな他の方法があると主張できるか否かである。赤ちゃんに尋ねる訳にはいかず、というのも尋ねても答えは返ってこないだろうし、そもそも、何語で尋ねるというのか。ある言語を選んだ時点で、強制的であることは避けられない。もっと遡れば、出生、誕生ということさえ、当人の希望を事前にたずねた訳ではない。”I was born"と受身的であることを、誰もが逃れられないのだ。この世に生まれたこと自体が暴力的と言えなくもない。

では、暴力的な性格をなくして、主体本意に考えるとはどういうことだろうか。「権利なので、本人次第」とは、いくつから成り立つことなのか。これについて何の説明もないから、現実離れした話になる。小学校1年生になる頃、6歳くらいなら、権利の行使ができると言うのだろうか。ならば、「14歳に満たない者の行為は、罰しない」(刑法、第41条)について、本人の主体性をないがしろにしていると怒らなければならないね。「男は、18歳に、女は、16歳にならなければ、婚姻をすることができない。」(民法、第731条)も、とんでもないことだ。そんなことは自分で決めればよろしいって。でもそれは、主体性を担保することになるだろうか。

あるいは、こうも突っ込める。「教えていいんですよ」と宣うが、ちゃんと教えたかどうかはどのように確かめるのだろうか。教えを前にした人が「わからない」と反応したとき、それは当人の問題なのか、それとも教えたつもりだが、実はそうではなかった、教えてはいなかったゆえなのかを、どう識別するのだろうか。

実際にはその識別ができない。だから、ちゃんと教えたならば、ちゃんとわかる、できるはず、わかっていないのは多分に教え方に問題がある、というモデルを教育-学習論で採用しているのだ。いい加減な教え方をして、相手がわからない、という状況は容易に想像できるだろうに、この御仁は「わからないのは、本人次第、それも権利の一つだ」と言うのだろう。そんなことを主張してたら、手抜きの授業が横行するよ。だって「わからない」と思うのは、本人の判断の結果なのだから。この人、大学でちゃんと教えているのだろうか。

まだあるよ。「出来なければいけないと強制するのは違う」と、どんな現実を見てものを言っているのだろうか。学校教育法以下には、校長が進級や卒業を認定すると定められているにもかかわらず、それはあくまでも建前のみ。ここまでできなければと強制された例など、どこにあるというのか。強制することがちゃんと機能してたら「分数のできない大学生」など生まれないよ。はあ。

はたまた、権利や主体性についても、現在の意味だけでなく、時間的・空間的な条件に伴う違いなどを理解してこそ、主体的な人間たりうるということを、全く等閑視している。たとえば、「そう僕が思うから、それでいいんだ」という人は、自由な人と見なしてよいのか。あるいは、「みんなが持ってるスマホだから私も持って当たり前」と思うことは、主体的な選択なのか。これらに悩んでこそ、権利の行使主体だと見なすのならば、いわゆる教養が不可欠である。そしてそれは、自分が知らないなあ、わかっていないなあと恥じたり、劣等感を感じる中で、それを克服しようと勉強することでも獲得される。気がついたら、外国語が読めていた、知らないうちに難解な原語や訳語を理解していた、など夢想である。

振り返れば、それなりに大変だったけれど、楽しくもあったなあと思いだしてもらえるように、児童・生徒に臨むこと、これこそ「教える」立場の矜持だろう。ありもしない主体性を勝手に想定して、それを踏まえないからいけない、命令はダメ、ハードルを設けるのはいけない、文字が読めないと不自由な社会こそ問題、とあまりにシンプルに考えるようになるのは何故だろうか。人間って本当に不思議だなあ。
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by walk41 | 2017-01-27 21:53 | 研究のこと | Comments(0)

「他人の気持ちを考えなさい」

NHK朝のニュース、ロボット研究者である石黒浩さんの話が興味深かった。

子どもの頃に「他人の気持ちを考えなさい」と大人に言われたとき、他人、気持ち、考える、ってどういうことだろうと疑問に思ったのだと言う。

たとえば、気持ちとはどういうものだろう。それはどう捕まえることができるのだろう。あるいは、考えるってどういうこと、考えていることと考えていないことの違いは何か、ってあなたは答えられるだろうか。

そんな不思議さを大切にして、自分を自分で見たらどう見えるんだろうと、アンドロイドロボットを作ったのだとか。

教育の世界では、「わかりやすい授業」とか「わかる喜び」と、わかることへの慎重さとか、さらに言えば恐れ/畏れといったものが驚くほど軽視されており、さながら「わかる万歳教」の様相を呈しているが、はたしてわかるとはそれほど簡単なことなのだろうか、また、わかることはそれほど良いことなのだろうか。

わかるとは、分けるでもあるから、ある基準(format, frame, schema, reference,paradigmなど)に合わせて分類することだ。「男だから、女だから」「子どもだから、大人だから」「国民だから、外国人だから」「平日だから、日曜だから」「正しいか、間違っているかだから」と、二分法ほか、わかりやすいモデルにしたがって、実は容易には分けられないことをどこかに埋め込むように分類する。だから、わかりやすい説明は、人々を惹きつけ、そして判断を誤らせる。「敵か、味方か」「神か、悪魔か」とこれまでも多くの誤りがなされてきた。

いろいろな世界を見せることは大切だと思う。けれど、そのことが即、わかるにつながらなくてもいいのではないだろうか。「わかったような物言い」とか「わかったふり」といった、否定的な表現もある。わかるとはそんなに即席ではないだろう。「なぜかわからないけれど、とりあえずそうなっているんだ」とか「へえ、なぜこれを「正しい」って決めてるんだろうか」と疑問を抱きながら、世の中を眺めることも優れて重要ではないか、と氏の語りを聴いて思わされた。
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by walk41 | 2017-01-23 09:59 | 研究のこと | Comments(0)

再現性

朝日新聞Webronza で、危機に直面する科学研究の「再現性」を読んだ(20170120)。

「科学研究における「再現性」は、その研究が科学である条件の1つである。論文に書かれていることと同じ材料(対象)を用意し、論文に書かれている方法で実験を実施することを「再現実験」または「追試」という。この再現実験を行って、論文に書かれているものと同じ結果が出なければ、その研究は科学的な価値がないということになる。」(同上、粥川準二) これが再現性を考える際の基本だ。

ところが、STAP細胞はじめ、報告された研究を追試しても、再現されない場合が少なくないという。心理学もその対象になっているが、「2015年8月、270人もの研究者からなるチームは、2008年に有力なジャーナル(学術雑誌)で発表された心理学分野の論文100本で報告された研究の再現を試みたところ、同じ結果が得られたのは36パーセントに過ぎなかったと報告した。ただしこの結果には別の心理学者らから反論があった。」(同上)とのこと。仮に3分の1程度の再現性を指して、アテがないと言ってよいかどうかも意見の分かれるところだろうが、「こうだ」と確信するのに十分とは決して見なせない。

翻って、教育学は心理学以上に研究条件を統制できないから、知見そのものを整えることすら覚束ない。私が「~すれば、~になる」と授業について言えない(生徒指導についても同様だ)、だから、既存の多くの校内研究はナンセンスだと吠え続けているのも、教育や学習に関わる出来事を、規則的、ましてや法則的と捉えようとすることに、もともと無理があるからに他ならない。

その分野で適用することは無理なのに、そうある「べき」、そうで「なければならない」と、当為論、説教や鼓舞が跋扈するから、素直な人は「そうなんだ。なのにそうならないのは、自分の力量が低いせいだ。もっと励まなければ」と大いなる勘違いをする。不幸なことである。

教育や学習に関わる事実は、その反対だ。そもそも再現されない、事実の仕掛けや由来を説明できないから、実際にもそうならない(この意味では、「再現されないという再現性はある」とも言える)のに、これを逆立ちして捉える、すなわち、説明できるはず、なのに説明できない、それは自分がいけないから、と自責の念にかられてしまう。そんなアホなこと、やめとき。もったない。

だから、なんとか大学教授とか国立なんとか研究所所員とかの肩書きで、しかも相手が反論できない講話や講義という条件のもとに、説教やいたずらな励ましを行うのは、不誠実であり、倫理にもとる(M.Weber『職業としての学問』)。ホンマにあんた、ものを考えて喋ってるか、って突っ込まなければならない。

折しも、文部科学省が組織的に天下りを行っており、前高等教育局長が早稲田大学教授に就任したほか、数十件の違法行為を行っていたと明るみになっている。なんとかの通知とかなんとかが求められている、と「べき論」を繰り返す中で、自分がエライと思うようになると、こうした過ちを犯しやすいとは暴論だろうか。

科学とは事実を明確に普遍的なものとして説明すること、だから、教育学は科学ではない。では、そこでの学問的営為とは何か。私は、解釈学として、多面的な捉え方を「新しい発見」として発表し、従来とは異なる見方によって、教育と学習に関わる人々を「楽にする」「楽しくする」ことだと考える。その目指すところは、「そうか、必ずしも今まで思ってたように考えなくてもいいんや」、「そんな見方ができるんやったら、こんなこともやってみれるなあ」と、当事者を元気づけ、新しい実践へと誘うことである。説教を聞いて、元気になる人は少ない。それぞれに宿っている力をより引き出すために、価値観、論理を組み直して、多様な行為ができるように勇気づけること、そうした責務が人文・社会系学問の担いうることではないだろうか。
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by walk41 | 2017-01-21 10:33 | 研究のこと | Comments(0)

研究が活かされるということ

小・中学校での研究発表会に参加した。

公開授業ののち、全体会の冒頭、来賓として挨拶に立った教育事務所の方が次の旨を話されたのだ。

「榊原先生からご指導いただき出来上がった教育センターの報告書においても、既に提案されているように、これまでの仮説ー検証型ではなく、課題達成型へと校内研究の舵を切ることが求められています」

また、研究の説明に立った研究主任からは、「一層やりがいのある授業研究」について、やりがいは、子どもの変容から得られるもの、そして、一層とは、教員が何をするか、変わるかが問われるもの、と理解している、との話があった。

さらに、会が終わったあと、指導主事の頃から知り合いの教頭から、「研究主任が、私がどうするかと、私って言葉が出ましたね(子どもをどう変えるかというよりも、教員がどう変わるかということを指して)。榊原イズムが浸透してきたんじゃないですか」とも話しかけられた。

まだまだだけれど、ずっと吠えてきた、仮説ー検証スタイルは授業には馴染まない、という主張が、ほんのちょっと芽を出したような気がした。喜ぶのはまだ早いのだけれど、少し嬉しい。

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by walk41 | 2016-12-02 15:18 | 研究のこと | Comments(0)

組み合わせを考える力

外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫、1986)を読んだ。随分と以前にも読んだように思うが、出版から30年経っても新鮮さを失わない良本だと思う。

学生に論文指導をする際、既存の研究をいかに批判するかという観点からテーマを作っていくようにと話すが、とくに初学者には難しいようだ。それは、既存の研究がどのようなキーワードの組み合わせとして成立しており、それが一つのモデルや論理を構成していることを未だ理解できないために、それらを組み替えることなど及びもつかないからだろう。論文を分析、つまりバラバラにすることを通じて、主張(知見)を支えている変数とその組み合わせを見抜くこと、それができれば、自分の研究がなすべきことの半分は見えてくる。

「考える」とは、自分が何となくであれ、前提にしてしまいがちな認識の枠組み、スキームに乗っていることを知り、そうではないものの見方ができるかどうかを問うことだ。この点で上記の本は、エディションシップやメタ創造、第一次情報と第二次・第三次情報といった用語で、いかに思考を整理するか、その前提として思考がいかに形作られているかを丁寧に説明していると思う。
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by walk41 | 2016-11-07 22:25 | 研究のこと | Comments(0)

教育言語学の構想

事実は言葉を導くけれど、言葉が事実を作り出しもする。

事実が客観的であればあるほど、言葉は厳密に、つまり正確かどうかが確かめられる、と同時に、その意味に即していかに事実があるのかが議論される。これらは自然科学に属する作法である。

これに対して、事実が客観的とは言い切れない、むしろ主観的ですらある場合、言葉は曖昧に遣われ、その言葉がいかに解釈されているかが議論される。これらは人文・社会科学に属した作法だ。

後者のひとつである、教育という領域は、それ自体はっきりと輪郭を描けず、主張者にお任せな部分が多い。たとえば、いじめという問題は教育の領域で扱えるのかどうかわからない。にもかかわらなず、教育を通じていじめをなくそうという考えが生まれ、試みられる(社会の問題は、教育のありようから生じていると見なす教育主義)。これは、教育の領域が曖昧なゆえである。これは、日食現象が解明されていなかった大昔、祈りをもってこの時間を耐えた人々がいたように、今となってはそうしても仕方なかったことを効果あるかのように振る舞うがごとくだ。

あるいは、学力が教育といかに関わっているかも、よくわからないままに学力向上が叫ばれる。学力そのものが定義困難なことに加えて、それは遺伝にもとづくのか、あるいは後天的ではあっても教育の経験によるのか、それとも学習の結果なのかの説明は難しい。こうした事態も、学力という事実が曖昧にしか存在しないにもかかわらず、いかに学力を向上させるのかと話が進められるために生じている。

このように、教育についての議論は、多分に主観的に捉えられている事実とその構成要素や要因を解きほぐし、再解釈することで、いたずらに苦しんでいる、あるいは無意味に喜んでいる当事者にそう考えなくていいんだよ、教育に関わる言葉があたかも実在するかのように捉えるために起こっている「不幸」なんだよ、とも伝えることができる。

たとえば、①いじめは許されないこと、なのに自分のクラスで起こっている。これは担任である自分の力量の問題だ。②生徒の理解度はうなずきからわかる。多くの生徒がうなづいていたさっきの授業では、学びの共同体が成立している。③運動会での組み体操は、子どもたちに達成感を味あわせることができる。多くの保護者もそう思っているから、怪我人が出ようとも注意して続ければいい。これらはいずれも観念の所産である。いじめ、わかる、達成感、どれも客観的に捉えられないのに、あたかも事実かのように見なすことで、だから、許されない、こうすればいい、止めるわけにはいかない、と意思決定がなされがちだ。

こうした事実とそれに関わる判断と行為が倒錯している状態に、教育という領域のお喋りがあるならば、問うべきは「何となく」「それっぽくない」と遣われている言葉を分析し、その効用と限界を明らかにすることだろう。これが、教育領域を対象にした言語学を、遅ればせながら始めてみようかなと思う理由だ。

教員養成の高度化、チーム学校、アクティブラーニング、と造語が続く現在、こんな言葉の海で溺れてしまわないように、「もともと、そんなものはないんだよ」と言えるような作業が大切だろうと、いっそう思わされている。


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by walk41 | 2016-10-23 10:04 | 研究のこと | Comments(0)

股のぞき

今年のイグノーベル賞、股のぞきの効果を明らかにした日本の研究者が「知覚賞」を受賞した。面白い研究だと思う。すでに戦前、これに着目した人がいたというが、戦時下、いかに役に立つかが問われたこともあって、あまり知られることなく終わったらしい(朝日新聞、20161021)。

京都で股のぞきと言えば、天橋立。傘松公園の展望台で、股のぞきをして風景を楽しむのは有名だけれど、その時に風景がどのように見えるかについて、逆さまではない時と比較するという発想は、おそらく多くの人になかったのではないかと思う。自分もそこで股のぞきをしたことがあるけれど、自身の知覚を気に留めることなどなかったもの。

見慣れていることだけれど実はそうではないという、研究の着眼は、何かの役に立つかという発想よりも、ただ面白そうだから、ではないだろうか。そこで有用性や効果などを考えているとは、私には思いにくい。

こうした遊び心を伴ってこそ、研究が進むならば、学校での「研究」そして学校に関する研究も、真面目だけではダメと導ける。楽しさ、可笑しさ面白さが、学校教育の領域でも、より求められると考える所以だ。

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by walk41 | 2016-10-21 14:33 | 研究のこと | Comments(0)

調べようとしても、また調べたとしても仕方がないのでは

学会にて研究発表とその後の議論を聴く。

今より若い時は、教育政策について研究したいと、何も知らずに思ったこともあるけれど、歴史的に接近するか、あるいはごく表層的な国際比較ならばともかくも、現在の日本の教育政策が、なぜこのようであるのか、それは何に由来し、またこれからどうなるのか、を明らかにしようとすることは、ほとんど意義のないことではないか、と今や強く思う。

こうしたテーマの議論でまま見られるのは、「私もその委員の一人だったんですが」とか「(キーマンと目される人とは)個人的にも知り合いで」といった、より確かでより新しいと思われるニュースソースへの接近ぶりを根拠に、政策や答申の基調を解釈しようとすることだ。身近にそうした知り合いがいるのは結構だけれど、これって魚の研究をしている人が、「以前から懇意にしている魚がいるんだけれど、その君によれば」とか「私も魚の群に混じったことがあるけれど、そのときの実感としては」という話をしていることと同じである。そんなん、どれほどのもんか、わからへんやん。。

そんなお喋りの中で、政策意図を探ろうとしたり、ある方向性を解釈しようとすることは、はたして研究だろうか。また、仮に推測したとおりだったとして、それは再び似たようなことが現れるのだろうか。たまたまその政治家だったから、行政官だったからではないだろうか。政権が変わったり、担当大臣や役人が変わったらどうなるかわからないという余地が大きいのではないだろうか。

かくも漠然としたことを、議事録の読み込みや当事者へのインタビュー調査をとがんばっても、どれほど明らかになることがあるのか、そしてその知見の意義は何なのか。学会ジャーナルに目を通しても、なかなか頭に内容が入ってこなくなったほどに、まずは自分の不勉強がたたっているとも思うけれど、公教育の政策や行政に関する研究の対象と方法、知見の論理化に、あんまり展望がないんとちゃうかなあ、って思わされている。
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by walk41 | 2016-10-08 15:26 | 研究のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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