学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:研究のこと( 98 )

除籍の不細工さ

所属している学会から総会での資料が送付されてきた。忙しさを理由にすっかり参加をかまけており、いわば幽霊会員化しているのが恥ずかしい限りだ。

さて、この資料の中に会員異動が載せられており、入会、退会、除籍と名前が連ねられている。入会、退会の意味はわかりやすいだろう。では除籍とは何か。学会にもよるだろうが、ここでは学会費を3年間未納の結果、会員資格を失った状態を指す。

ここに至るまでに、学会事務局は毎月のように活動ニュースを送り、紀要(ジャーナル)を郵送し、会費の納入通知を行い、納入督促を繰り返している。にもかかわらず、音信不通で時間が流れたという面々が、除籍リストにある。もっとも一部には連絡先不明となる場合もあるが、現職であればこのインターネット時代に連絡がつかないことはない。

なのに、である。某私立大学の「熱血教授」としてアピールされている某氏がここに挙がっているのだ。同大学のホームページ上で、学生の声として紹介されてるのは「理想の教師です。」冗談ではない。所属した年度分まで会費を払って去る人たちが一方でいるのに、知らんぷりを決めてやり過ごしたなんて、どれだけ不誠実な人物かと思う。この手続きに至るまでに払われた犠牲、他者の痛みを想像することができないのだ。

学会を除籍になるなど、関係のない人にとっては何のことかという話だけれど、ここでいい加減な輩を信用することはできない。学会費を払うのを忘れていればまとめて支払う、もう辞めようと思うならば未払い分を払って終わる。大学教授ならば難しいことではない。なのに、この金額とちょっとした手間を惜しんだのである。

そんな人物が「いじめが…」「学力が…」といかにわかったふりをして述べようとも、それ以前の段階である。「細部に真理は宿る」ことを示すケースだと受け止めた次第だ。

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by walk41 | 2017-12-07 18:34 | 研究のこと | Comments(0)

非標本誤差

吉村治正『社会調査における非標本誤差』(東信堂、2017)を斜め読みした。

非標本誤差とは、母集団が小さいことによって生じる標本誤差以外を指し、調査における用語の定義の曖昧さ、調査員の誤解や調査員が調査対象者に与える印象、回答者の誤解、虚偽、拒否、集計時のミスなど、調査の設計、実施、集計のすべての段階で起こりうる誤差を意味する。

自然現象を捉える調査ならば、対象が調査内容と調査者に影響されることは少ないので(いつ梅雨入りするかについて、お天道様が人目を気にしないように)、非標本誤差を考慮する必要はないが、社会現象を捉えようとする場合は、このことに留意しすぎることはないと強く思わされたのだ。

たとえば、ダブルバーレル(double-barrel)は非標本誤差の一つである。一つの文章に複数の意味が含まれているので、回答者がどの点を理解して答えたかがわからなくなる。

学校評価に即して事例を挙げれば、「学校は、生徒に社会生活におけるモラルやルールを守る態度を育てようとしている。」(奈良県内の学校)という項目がある。ところが、モラルとルールは別物なので(他者に親切にすることはモラルだがルールではない。自由主義的な立場からは、モラルこそ大事だがルールはできるだけ不要とされる)、真面目に答えようとすると無回答になる。あるいは折衷案のように「だいたいそう思う」といった誤った回答をしてしまう。

あるいは、「学習指導要領・府教育振興プランに基づく学習活動について研修と実践がすすめられた」と教職員の8割以上が実感できれば「B」とする」(京都府内)という自己評価の項目がある。これは研修と実践という二つの内容が入っている点でダブルバーレルだという問題に加えて、「実感できれば」という(まあ仕方ないのだけれど)まったくの主観的なことについて回答を求めるものとなっている。「幸せか」「将来に悲観的か」と人間の主観について調査することはあるけれど、ここでの問題は、学校評価として答える職員は「実感していると答えた方が無難だよなあ」と考えがちと推測するだろう項目という点である。「あなたは頑張って働いていますか」と尋ねられて「いいえ」とはなかなか答えないだろうように、期待される結果を踏まえて回答する可能性が相当残ることも、学校に関わる調査ではたくさん見つかることだろう。

こんな風に考えていくと、そもそも非標本誤差を回避できる社会調査はどれほど可能なのか、と疑問がわく。それどころか、非標本誤差が著しく混じった調査結果が所狭しと跋扈していないだろうか、本当はそうではないのにあたかも真実かのように喧伝されているようなことはないだろうか、と不安が高まる。

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by walk41 | 2017-12-02 20:58 | 研究のこと | Comments(0)

宣伝です

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大学院生を主な対象としたテキストができあがりました。編者が相当に練ったコンセプトをもとに、執筆者がそれを受け止め、記したものと自負しています。この中で私は「意思決定とリーダーシップ」を著しました。

ぜひご一読をお願いしたく、お知らせする次第です(高見茂・服部憲児編著『教育経営』協同出版、2017.10)。




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by walk41 | 2017-11-09 20:30 | 研究のこと | Comments(0)

人文・社会系学問のミッション

基礎・基本を身につけるべきだからと、高校生まで「正解探し」に追われてきた学生が、大学に入ったのだから「正解」なんてないんだよと、逆方向に近いようなスタイルを求められるのは、少しかわいそうにも思う。けれど、大学生(最近、聞いたことだが、某大学院生たちは、自分たちのことを「生徒」と話すという。世も末である。)であるためには、その負担や痛みに耐える体力が必要だろう。

自然現象を対象とする理科系についてはわからないけれど、大方が人間の生み出した、人為的なものを対象とする人文・社会系については、人為的な行為や所産はこれまでどのようであり、またどのように捉えられてきたのか、それはどんな価値観や規範等に支えられてきたのか、それはいかに変えよう、変わりようがあるのか、を主な問いにする。

そんな作業がなぜ必要なのか、という質問に答えるならば、私たちは生物的ほか自然科学的に規定されているだけでなく、自身が作り出した文化、芸術ほか社会と呼ばれるものに大きく影響され、また影響を及ぼしているからだ。自分たちを理解したいという欲求から、私たちは人間に関わる諸々を捉え返し、分析、評価、新たに構想するといった作業を繰り返している。

だから、学問をするとは、問いを学ぶ、ともすれば馴染んだ言葉や事実を取り上げ、いわばマナ板の上に載せて、分析することである。開発や応用という分野もあるけれど、そのためにも、なぜ今そうなっているのかを知る必要がある(たとえば、キーボードの配列)。

当たり前に見えがちなものを問い返す作業は、相当の労力を伴うし、それを続ける自身を保つためのマネジメントも求められる。だからこそ思考体力とも言うのであり、根気強さや我慢強さが重要でもあろう。こうした体力を学生にはぜひ養ってほしい。大して勉強もしておらず、ましてや考えもしていない一方、知ったかぶりの決めつけをするようなことをできるだけ避けて、慎重に丁寧に手間に臨んでほしい、と言う所以である。

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by walk41 | 2017-10-18 23:02 | 研究のこと | Comments(0)

発言/表現することに対する責任

小学校で管理職をなさっているKojiさんから、複数回コメントを頂戴した。ありがとうございます。

その一つ、「教え子を戦場に送るな」と記した拙記事について、本旨とは外れるがと断わられた上で、

>憲法改正が現実味を帯び、本気で意見をぶつけ合わなければならない時なのに、教員は公務員であるがために言論封殺。その前に各自の考え自体を持たない、正否を調べようとしない、偏った教えを子供達にすることは、もちろん行けないと思うが、教えてはいけないと言うことと、考えを持ってはいけないと言うことは、全く違うことのように思えるが、現実はそうではない。歴史問題しかり。教える側の教師が正しい知識と見解を持ち合わせずして物事の本質の何割を教えられるのだろうか。

と述べられている。このことをどう考えればいいだろうか。

いま、あるテーマの関係で、大学人のキャリアを少し調べている。その中に、エネルギー教育に関わる人がいたが、その方の名前を検索していたら、「とんでもないことを発言していて許せない」旨をブログで、名指しで非難する人のページを見つけた。福島原子力発電所の事故を受けて、あんな大惨事を引き起こしたのが「原発安全神話」でもあったのに、今なお、市民がエネルギーについて適切に理解することが大切だと述べるなど、その無責任ぶりに腹が煮えくりかえる、と言うのだ。

こんな一文に接するに、研究職はもちろん教育職も(この両者を兼ねている立場はいっそう)、自分は何を発信しているのか、表現しているのか、それは広い意味でどんな社会貢献に繋がりうるかを問わなければと知らされる。

もちろん、世の中の多くの事柄は、これが正解というものは少なく、時代や地域、立場などによって事柄自体の見え方も一様でないから、それらの交通整理を促すことも、立派な社会貢献だ。いたずらに正義を振りかざさないためにも、認識の段階ですでに慎重であるべきだろう。

その上で、何かを発言、発信することに伴う責任を引き受ける覚悟も必要となる。あとで「なんか、そうじゃないかなって思ったんで」とか「そういう言い方がもてはやされた時代だったでしょ」と、責任回避や転嫁をしない強さを持たなければ。

そんなふうに後々、責任が問われるようなテーマに臨んでいるか、火の粉が及ばないような「安全」なところでお茶を濁してはいないか。あるいは、大人であることの絶対的優位に乗じた「子ども相手の仕事」をしてはいないか、さらには、相手がすでに大人であっても、成績評価者であることに甘えて、いい加減な授業や応対をしてはいないか。

「学問の自由」や「教育上の自由」がそれなりに認められているのは、それを行使する者に自らを律する力のあることを前提にしているからである。なのに、雑談、放談や暴言を省みない態度(自分に甘く他者に厳しい)、あるいは、無頓着や迎合、歓心を買うさま(自分に甘く他者に甘い)という表現に陥ってはいないだろうか。使命を忘れ、納税者を忘れた「給料泥棒」と、誹りを受けないためにも、高い自律性を持つこと、そのための自身の広く修行が求められると、この頃いっそう思う。





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by walk41 | 2017-07-11 16:12 | 研究のこと | Comments(0)

恥ずかしい

ある県で教員研修を担当し、自分が導いたデータ結果を示したのだが、終了後、どうも腑に落ちないなと元データを見直したら、エクセルに誤って入力していたことが判明した。つまり、間違ったデータを挙げていたのだ。

再度、計算をしなおしたところ、(自分で言っても仕方ないけれど)論旨を変えなければいけないほどの致命的な間違いはなかった。とは言うものの、修正の必要があることに変わりはなく、担当の指導主事にその旨と新たなデータ結果を送った次第だ。ああ恥ずかしい。修正されたデータが、研修に参加した人に学校ルートで届けられますように。申し訳ないこと、この上ない。

それなりに丁寧にデータを扱っているつもりだけれど、「新しい結果じゃないか」と小躍りしてしまうと、データ確認を怠ることを(またもか)学んだ。だから、複数でデータ確認をすることが大切とも改めて思わされた。とくに数量的データは一度、発表されると一人歩きする。関心を持つ人に、「へえ、そうなんだ」と思わせたいと「功名心」が頭をもたげると、ミスも起こりやすいだろう。

丁寧に、慎重に。今更こんなことを記すなんて、あんぽんたんだが、自戒としたい。
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by walk41 | 2017-05-28 15:06 | 研究のこと | Comments(0)

もうちょっと丁寧に考えてみ

お喋りが乱暴で、自分のことを含めて考えてない人がここにもいはるなあと、すこぶる残念に思う。教育文化総合研究所『教育と文化』第86号、2017、にある一連の発言を読んだ感想だ。

「ゆとり教育」について二人で議論しているのだが、その一人がこんなことを述べている。「教えていいんですよ。ただ。出来なければいけないと強制するのは違うということですよね。学習権とは、権利なので、本人次第ということになるわけです。」、「結局子どもに勉強するように命令しているわけですよね。むしろ、字が読めず計算ができないと生活がとてもむずかしくなって、また、権利も十分に保障されないことが起こるという仕組みになってしまっていることを問題にしなければいけないと思います」、「権利なのだから、本来は「落ちこぼれ」という概念などないはず。」(同上、pp.14-15)

この研究所の所長、中央大学教員で池田賢一という人の言だが、頭でっかち(空想的)なんもたいがいにしいや。この研究所、こんな人をヘッドに据えて大丈夫かしら。

確かに、教育という行為が、その対象に暴力的であることは認めなければならない。日本の領土に生まれ落ちたら多くは有無を言わさず日本語を獲得するように仕向けられるし、いわゆる日本的な習慣に馴染むことも余儀なくされる。というのも、赤ちゃんに向かって「世界にはいろいろな言葉があるけれど、君はどの言葉を学びたいかな。あんまりたくさんだと困るんだけれど」とか、「ここでは頭を下げるのが挨拶の基本だけれど、君はハグの方が好きかな」などと、尋ねることはないからだ。当人の意志を顧慮しないで、いわば一方的に与えられるのが、少なくとも最初の頃の社会化であることは間違いない。

問題は、それが暴力的で望ましくないとしても、じゃあこんな他の方法があると主張できるか否かである。赤ちゃんに尋ねる訳にはいかず、というのも尋ねても答えは返ってこないだろうし、そもそも、何語で尋ねるというのか。ある言語を選んだ時点で、強制的であることは避けられない。もっと遡れば、出生、誕生ということさえ、当人の希望を事前にたずねた訳ではない。”I was born"と受身的であることを、誰もが逃れられないのだ。この世に生まれたこと自体が暴力的と言えなくもない。

では、暴力的な性格をなくして、主体本意に考えるとはどういうことだろうか。「権利なので、本人次第」とは、いくつから成り立つことなのか。これについて何の説明もないから、現実離れした話になる。小学校1年生になる頃、6歳くらいなら、権利の行使ができると言うのだろうか。ならば、「14歳に満たない者の行為は、罰しない」(刑法、第41条)について、本人の主体性をないがしろにしていると怒らなければならないね。「男は、18歳に、女は、16歳にならなければ、婚姻をすることができない。」(民法、第731条)も、とんでもないことだ。そんなことは自分で決めればよろしいって。でもそれは、主体性を担保することになるだろうか。

あるいは、こうも突っ込める。「教えていいんですよ」と宣うが、ちゃんと教えたかどうかはどのように確かめるのだろうか。教えを前にした人が「わからない」と反応したとき、それは当人の問題なのか、それとも教えたつもりだが、実はそうではなかった、教えてはいなかったゆえなのかを、どう識別するのだろうか。

実際にはその識別ができない。だから、ちゃんと教えたならば、ちゃんとわかる、できるはず、わかっていないのは多分に教え方に問題がある、というモデルを教育-学習論で採用しているのだ。いい加減な教え方をして、相手がわからない、という状況は容易に想像できるだろうに、この御仁は「わからないのは、本人次第、それも権利の一つだ」と言うのだろう。そんなことを主張してたら、手抜きの授業が横行するよ。だって「わからない」と思うのは、本人の判断の結果なのだから。この人、大学でちゃんと教えているのだろうか。

まだあるよ。「出来なければいけないと強制するのは違う」と、どんな現実を見てものを言っているのだろうか。学校教育法以下には、校長が進級や卒業を認定すると定められているにもかかわらず、それはあくまでも建前のみ。ここまでできなければと強制された例など、どこにあるというのか。強制することがちゃんと機能してたら「分数のできない大学生」など生まれないよ。はあ。

はたまた、権利や主体性についても、現在の意味だけでなく、時間的・空間的な条件に伴う違いなどを理解してこそ、主体的な人間たりうるということを、全く等閑視している。たとえば、「そう僕が思うから、それでいいんだ」という人は、自由な人と見なしてよいのか。あるいは、「みんなが持ってるスマホだから私も持って当たり前」と思うことは、主体的な選択なのか。これらに悩んでこそ、権利の行使主体だと見なすのならば、いわゆる教養が不可欠である。そしてそれは、自分が知らないなあ、わかっていないなあと恥じたり、劣等感を感じる中で、それを克服しようと勉強することでも獲得される。気がついたら、外国語が読めていた、知らないうちに難解な原語や訳語を理解していた、など夢想である。

振り返れば、それなりに大変だったけれど、楽しくもあったなあと思いだしてもらえるように、児童・生徒に臨むこと、これこそ「教える」立場の矜持だろう。ありもしない主体性を勝手に想定して、それを踏まえないからいけない、命令はダメ、ハードルを設けるのはいけない、文字が読めないと不自由な社会こそ問題、とあまりにシンプルに考えるようになるのは何故だろうか。人間って本当に不思議だなあ。
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by walk41 | 2017-01-27 21:53 | 研究のこと | Comments(0)

「他人の気持ちを考えなさい」

NHK朝のニュース、ロボット研究者である石黒浩さんの話が興味深かった。

子どもの頃に「他人の気持ちを考えなさい」と大人に言われたとき、他人、気持ち、考える、ってどういうことだろうと疑問に思ったのだと言う。

たとえば、気持ちとはどういうものだろう。それはどう捕まえることができるのだろう。あるいは、考えるってどういうこと、考えていることと考えていないことの違いは何か、ってあなたは答えられるだろうか。

そんな不思議さを大切にして、自分を自分で見たらどう見えるんだろうと、アンドロイドロボットを作ったのだとか。

教育の世界では、「わかりやすい授業」とか「わかる喜び」と、わかることへの慎重さとか、さらに言えば恐れ/畏れといったものが驚くほど軽視されており、さながら「わかる万歳教」の様相を呈しているが、はたしてわかるとはそれほど簡単なことなのだろうか、また、わかることはそれほど良いことなのだろうか。

わかるとは、分けるでもあるから、ある基準(format, frame, schema, reference,paradigmなど)に合わせて分類することだ。「男だから、女だから」「子どもだから、大人だから」「国民だから、外国人だから」「平日だから、日曜だから」「正しいか、間違っているかだから」と、二分法ほか、わかりやすいモデルにしたがって、実は容易には分けられないことをどこかに埋め込むように分類する。だから、わかりやすい説明は、人々を惹きつけ、そして判断を誤らせる。「敵か、味方か」「神か、悪魔か」とこれまでも多くの誤りがなされてきた。

いろいろな世界を見せることは大切だと思う。けれど、そのことが即、わかるにつながらなくてもいいのではないだろうか。「わかったような物言い」とか「わかったふり」といった、否定的な表現もある。わかるとはそんなに即席ではないだろう。「なぜかわからないけれど、とりあえずそうなっているんだ」とか「へえ、なぜこれを「正しい」って決めてるんだろうか」と疑問を抱きながら、世の中を眺めることも優れて重要ではないか、と氏の語りを聴いて思わされた。
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by walk41 | 2017-01-23 09:59 | 研究のこと | Comments(0)

再現性

朝日新聞Webronza で、危機に直面する科学研究の「再現性」を読んだ(20170120)。

「科学研究における「再現性」は、その研究が科学である条件の1つである。論文に書かれていることと同じ材料(対象)を用意し、論文に書かれている方法で実験を実施することを「再現実験」または「追試」という。この再現実験を行って、論文に書かれているものと同じ結果が出なければ、その研究は科学的な価値がないということになる。」(同上、粥川準二) これが再現性を考える際の基本だ。

ところが、STAP細胞はじめ、報告された研究を追試しても、再現されない場合が少なくないという。心理学もその対象になっているが、「2015年8月、270人もの研究者からなるチームは、2008年に有力なジャーナル(学術雑誌)で発表された心理学分野の論文100本で報告された研究の再現を試みたところ、同じ結果が得られたのは36パーセントに過ぎなかったと報告した。ただしこの結果には別の心理学者らから反論があった。」(同上)とのこと。仮に3分の1程度の再現性を指して、アテがないと言ってよいかどうかも意見の分かれるところだろうが、「こうだ」と確信するのに十分とは決して見なせない。

翻って、教育学は心理学以上に研究条件を統制できないから、知見そのものを整えることすら覚束ない。私が「~すれば、~になる」と授業について言えない(生徒指導についても同様だ)、だから、既存の多くの校内研究はナンセンスだと吠え続けているのも、教育や学習に関わる出来事を、規則的、ましてや法則的と捉えようとすることに、もともと無理があるからに他ならない。

その分野で適用することは無理なのに、そうある「べき」、そうで「なければならない」と、当為論、説教や鼓舞が跋扈するから、素直な人は「そうなんだ。なのにそうならないのは、自分の力量が低いせいだ。もっと励まなければ」と大いなる勘違いをする。不幸なことである。

教育や学習に関わる事実は、その反対だ。そもそも再現されない、事実の仕掛けや由来を説明できないから、実際にもそうならない(この意味では、「再現されないという再現性はある」とも言える)のに、これを逆立ちして捉える、すなわち、説明できるはず、なのに説明できない、それは自分がいけないから、と自責の念にかられてしまう。そんなアホなこと、やめとき。もったない。

だから、なんとか大学教授とか国立なんとか研究所所員とかの肩書きで、しかも相手が反論できない講話や講義という条件のもとに、説教やいたずらな励ましを行うのは、不誠実であり、倫理にもとる(M.Weber『職業としての学問』)。ホンマにあんた、ものを考えて喋ってるか、って突っ込まなければならない。

折しも、文部科学省が組織的に天下りを行っており、前高等教育局長が早稲田大学教授に就任したほか、数十件の違法行為を行っていたと明るみになっている。なんとかの通知とかなんとかが求められている、と「べき論」を繰り返す中で、自分がエライと思うようになると、こうした過ちを犯しやすいとは暴論だろうか。

科学とは事実を明確に普遍的なものとして説明すること、だから、教育学は科学ではない。では、そこでの学問的営為とは何か。私は、解釈学として、多面的な捉え方を「新しい発見」として発表し、従来とは異なる見方によって、教育と学習に関わる人々を「楽にする」「楽しくする」ことだと考える。その目指すところは、「そうか、必ずしも今まで思ってたように考えなくてもいいんや」、「そんな見方ができるんやったら、こんなこともやってみれるなあ」と、当事者を元気づけ、新しい実践へと誘うことである。説教を聞いて、元気になる人は少ない。それぞれに宿っている力をより引き出すために、価値観、論理を組み直して、多様な行為ができるように勇気づけること、そうした責務が人文・社会系学問の担いうることではないだろうか。
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by walk41 | 2017-01-21 10:33 | 研究のこと | Comments(0)

研究が活かされるということ

小・中学校での研究発表会に参加した。

公開授業ののち、全体会の冒頭、来賓として挨拶に立った教育事務所の方が次の旨を話されたのだ。

「榊原先生からご指導いただき出来上がった教育センターの報告書においても、既に提案されているように、これまでの仮説ー検証型ではなく、課題達成型へと校内研究の舵を切ることが求められています」

また、研究の説明に立った研究主任からは、「一層やりがいのある授業研究」について、やりがいは、子どもの変容から得られるもの、そして、一層とは、教員が何をするか、変わるかが問われるもの、と理解している、との話があった。

さらに、会が終わったあと、指導主事の頃から知り合いの教頭から、「研究主任が、私がどうするかと、私って言葉が出ましたね(子どもをどう変えるかというよりも、教員がどう変わるかということを指して)。榊原イズムが浸透してきたんじゃないですか」とも話しかけられた。

まだまだだけれど、ずっと吠えてきた、仮説ー検証スタイルは授業には馴染まない、という主張が、ほんのちょっと芽を出したような気がした。喜ぶのはまだ早いのだけれど、少し嬉しい。

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by walk41 | 2016-12-02 15:18 | 研究のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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