学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:研究のこと( 99 )

研究が活かされるということ

小・中学校での研究発表会に参加した。

公開授業ののち、全体会の冒頭、来賓として挨拶に立った教育事務所の方が次の旨を話されたのだ。

「榊原先生からご指導いただき出来上がった教育センターの報告書においても、既に提案されているように、これまでの仮説ー検証型ではなく、課題達成型へと校内研究の舵を切ることが求められています」

また、研究の説明に立った研究主任からは、「一層やりがいのある授業研究」について、やりがいは、子どもの変容から得られるもの、そして、一層とは、教員が何をするか、変わるかが問われるもの、と理解している、との話があった。

さらに、会が終わったあと、指導主事の頃から知り合いの教頭から、「研究主任が、私がどうするかと、私って言葉が出ましたね(子どもをどう変えるかというよりも、教員がどう変わるかということを指して)。榊原イズムが浸透してきたんじゃないですか」とも話しかけられた。

まだまだだけれど、ずっと吠えてきた、仮説ー検証スタイルは授業には馴染まない、という主張が、ほんのちょっと芽を出したような気がした。喜ぶのはまだ早いのだけれど、少し嬉しい。

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by walk41 | 2016-12-02 15:18 | 研究のこと | Comments(0)

組み合わせを考える力

外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫、1986)を読んだ。随分と以前にも読んだように思うが、出版から30年経っても新鮮さを失わない良本だと思う。

学生に論文指導をする際、既存の研究をいかに批判するかという観点からテーマを作っていくようにと話すが、とくに初学者には難しいようだ。それは、既存の研究がどのようなキーワードの組み合わせとして成立しており、それが一つのモデルや論理を構成していることを未だ理解できないために、それらを組み替えることなど及びもつかないからだろう。論文を分析、つまりバラバラにすることを通じて、主張(知見)を支えている変数とその組み合わせを見抜くこと、それができれば、自分の研究がなすべきことの半分は見えてくる。

「考える」とは、自分が何となくであれ、前提にしてしまいがちな認識の枠組み、スキームに乗っていることを知り、そうではないものの見方ができるかどうかを問うことだ。この点で上記の本は、エディションシップやメタ創造、第一次情報と第二次・第三次情報といった用語で、いかに思考を整理するか、その前提として思考がいかに形作られているかを丁寧に説明していると思う。
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by walk41 | 2016-11-07 22:25 | 研究のこと | Comments(0)

教育言語学の構想

事実は言葉を導くけれど、言葉が事実を作り出しもする。

事実が客観的であればあるほど、言葉は厳密に、つまり正確かどうかが確かめられる、と同時に、その意味に即していかに事実があるのかが議論される。これらは自然科学に属する作法である。

これに対して、事実が客観的とは言い切れない、むしろ主観的ですらある場合、言葉は曖昧に遣われ、その言葉がいかに解釈されているかが議論される。これらは人文・社会科学に属した作法だ。

後者のひとつである、教育という領域は、それ自体はっきりと輪郭を描けず、主張者にお任せな部分が多い。たとえば、いじめという問題は教育の領域で扱えるのかどうかわからない。にもかかわらなず、教育を通じていじめをなくそうという考えが生まれ、試みられる(社会の問題は、教育のありようから生じていると見なす教育主義)。これは、教育の領域が曖昧なゆえである。これは、日食現象が解明されていなかった大昔、祈りをもってこの時間を耐えた人々がいたように、今となってはそうしても仕方なかったことを効果あるかのように振る舞うがごとくだ。

あるいは、学力が教育といかに関わっているかも、よくわからないままに学力向上が叫ばれる。学力そのものが定義困難なことに加えて、それは遺伝にもとづくのか、あるいは後天的ではあっても教育の経験によるのか、それとも学習の結果なのかの説明は難しい。こうした事態も、学力という事実が曖昧にしか存在しないにもかかわらず、いかに学力を向上させるのかと話が進められるために生じている。

このように、教育についての議論は、多分に主観的に捉えられている事実とその構成要素や要因を解きほぐし、再解釈することで、いたずらに苦しんでいる、あるいは無意味に喜んでいる当事者にそう考えなくていいんだよ、教育に関わる言葉があたかも実在するかのように捉えるために起こっている「不幸」なんだよ、とも伝えることができる。

たとえば、①いじめは許されないこと、なのに自分のクラスで起こっている。これは担任である自分の力量の問題だ。②生徒の理解度はうなずきからわかる。多くの生徒がうなづいていたさっきの授業では、学びの共同体が成立している。③運動会での組み体操は、子どもたちに達成感を味あわせることができる。多くの保護者もそう思っているから、怪我人が出ようとも注意して続ければいい。これらはいずれも観念の所産である。いじめ、わかる、達成感、どれも客観的に捉えられないのに、あたかも事実かのように見なすことで、だから、許されない、こうすればいい、止めるわけにはいかない、と意思決定がなされがちだ。

こうした事実とそれに関わる判断と行為が倒錯している状態に、教育という領域のお喋りがあるならば、問うべきは「何となく」「それっぽくない」と遣われている言葉を分析し、その効用と限界を明らかにすることだろう。これが、教育領域を対象にした言語学を、遅ればせながら始めてみようかなと思う理由だ。

教員養成の高度化、チーム学校、アクティブラーニング、と造語が続く現在、こんな言葉の海で溺れてしまわないように、「もともと、そんなものはないんだよ」と言えるような作業が大切だろうと、いっそう思わされている。


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by walk41 | 2016-10-23 10:04 | 研究のこと | Comments(0)

股のぞき

今年のイグノーベル賞、股のぞきの効果を明らかにした日本の研究者が「知覚賞」を受賞した。面白い研究だと思う。すでに戦前、これに着目した人がいたというが、戦時下、いかに役に立つかが問われたこともあって、あまり知られることなく終わったらしい(朝日新聞、20161021)。

京都で股のぞきと言えば、天橋立。傘松公園の展望台で、股のぞきをして風景を楽しむのは有名だけれど、その時に風景がどのように見えるかについて、逆さまではない時と比較するという発想は、おそらく多くの人になかったのではないかと思う。自分もそこで股のぞきをしたことがあるけれど、自身の知覚を気に留めることなどなかったもの。

見慣れていることだけれど実はそうではないという、研究の着眼は、何かの役に立つかという発想よりも、ただ面白そうだから、ではないだろうか。そこで有用性や効果などを考えているとは、私には思いにくい。

こうした遊び心を伴ってこそ、研究が進むならば、学校での「研究」そして学校に関する研究も、真面目だけではダメと導ける。楽しさ、可笑しさ面白さが、学校教育の領域でも、より求められると考える所以だ。

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by walk41 | 2016-10-21 14:33 | 研究のこと | Comments(0)

調べようとしても、また調べたとしても仕方がないのでは

学会にて研究発表とその後の議論を聴く。

今より若い時は、教育政策について研究したいと、何も知らずに思ったこともあるけれど、歴史的に接近するか、あるいはごく表層的な国際比較ならばともかくも、現在の日本の教育政策が、なぜこのようであるのか、それは何に由来し、またこれからどうなるのか、を明らかにしようとすることは、ほとんど意義のないことではないか、と今や強く思う。

こうしたテーマの議論でまま見られるのは、「私もその委員の一人だったんですが」とか「(キーマンと目される人とは)個人的にも知り合いで」といった、より確かでより新しいと思われるニュースソースへの接近ぶりを根拠に、政策や答申の基調を解釈しようとすることだ。身近にそうした知り合いがいるのは結構だけれど、これって魚の研究をしている人が、「以前から懇意にしている魚がいるんだけれど、その君によれば」とか「私も魚の群に混じったことがあるけれど、そのときの実感としては」という話をしていることと同じである。そんなん、どれほどのもんか、わからへんやん。。

そんなお喋りの中で、政策意図を探ろうとしたり、ある方向性を解釈しようとすることは、はたして研究だろうか。また、仮に推測したとおりだったとして、それは再び似たようなことが現れるのだろうか。たまたまその政治家だったから、行政官だったからではないだろうか。政権が変わったり、担当大臣や役人が変わったらどうなるかわからないという余地が大きいのではないだろうか。

かくも漠然としたことを、議事録の読み込みや当事者へのインタビュー調査をとがんばっても、どれほど明らかになることがあるのか、そしてその知見の意義は何なのか。学会ジャーナルに目を通しても、なかなか頭に内容が入ってこなくなったほどに、まずは自分の不勉強がたたっているとも思うけれど、公教育の政策や行政に関する研究の対象と方法、知見の論理化に、あんまり展望がないんとちゃうかなあ、って思わされている。
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by walk41 | 2016-10-08 15:26 | 研究のこと | Comments(0)

誰もやっていないことを

大隅良典さんという方が、ノーベル医学・生理学賞を受けられた。NHK朝のニュースに出演された同氏が語る。「誰もやっていないことをやるのがサイエンスの本質」と。

いつもの話題で恐縮だが、またも思わされる。「こんな風に授業をしたら、こんな風に子どもがなるだろう」といった、予め見通すことができるような、しかも何より「まあ、そうじゃないの?」と常識に類するようなものしか扱わないのは研究ではない、と。なのに、学校では、校内研究や授業研究と、研究という言葉が振りかざされている。じゃあ、学校業界でいう研究ってどういうこと? 

大隅さんは次のようにも仰っている。…サイエンスは「どこに向かっているか」が分からないのが楽しいところで、そういうのが許される社会的な余裕が必要と思う。「これをやったら必ずいい成果につながる」というのは、サイエンスの分野では難しい…と。基礎研究を軽視する風潮への警鐘であるとともに、わからないことに挑戦する勇気を持つべきとのエールとも私は聞いた。翻って学校業界は、「子ども相手に実験はできない」と、毎日の自分たちの試みが実験の一つでもあることを忘れて、チャレンジを忌避する。なぜだろうか。

新しい授業を創り出そうとしない、予想が覆されることを怖がる教員が、生徒に向かっては「自発的、積極的であれ」と鼓舞する矛盾。かといって、研究という言葉を手放そうともしない「ええかっこしい」。学校教育をどのようにしていきたいのか、これは為政者や行政官にだけに問われることではないだろう。
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by walk41 | 2016-10-04 07:29 | 研究のこと | Comments(0)

長期的統計の意義

9月1日、いろいろな節目でもあるだろうけれど、学校教育の世界では、子どもの自殺がもっとも考えられる日として、「登校は義務じゃない」と注意喚起、電話相談、緊急受け入れなどが準備されているという。

この根拠になるのが、1972-2013年の「18歳以下の日別自殺者数」で、これによると9月1日の自殺者数が突出していることだ。夏休みが終わり、嫌だった人間関係が戻ってくる、勉強にまた向かわなくてはならない、といった圧力から生じる自殺もあるだろう。

もっとも、この日が2学期の初日だという学校はどれくらいなのだろうか。20年も遡れば大方そうだったと思うが、学力向上の掛け声とともに夏休みが短くなっているように見える。私の近くでは、今年度で言えば8/23,24から始まっているところがあり、9月からと聞くと、いいなあと思わされるほどである。ならば、9月1日だけに注目しても仕方ないではないか。でも、それを言い始めると、キャンペーンの効果が弱まってしまうし。

社会現象を捉えようとするときのジレンマはここにも見られる。短い期間の観察、記録では「たまたまそうだっただけ」と批判されるので、長期的に見ようとすると、対象やその環境が変わってしまうことがある。

先日、1988-2013年の170万人の患者を対象に、誕生月によりなりやすい病気があるというアメリカ、コロンビア大学の研究を知ったが、時間の長さと合わせてケースを大量に集めることで、より信憑性のある研究が目指されているのだろう。さりとて、たくさんのケースを扱うにはお金もそれこそ時間もかかる。コンパクトにわかりやすい知見を提出するのは、自然科学も同様だろうが、社会科学についてもなお難しい。

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by walk41 | 2016-08-30 10:32 | 研究のこと | Comments(0)

相関関係が即、因果関係ではない

鉄五郎さんからコメントをいただき、思い出したことがあった。それは「総合的な学習の時間に発表などができている学校ほど学力テストでの成績が良好」というデータから、総合的な学習の効果を述べる新聞記事のあったことだ。

そこには、総合的な学習に関する学会メンバーの声も紹介されており、だからこの時間が有用であると言う趣旨があったかと思う。でも、これって話が逆じゃないのかな。

つまり、いわゆる学力が高い生徒の多い学校では、総合的な学習の時間に(おいても)積極的な活動が可能、ということではないのだろうか。総合的な学習の時間の経験が「学力」に影響しているかもしれないけれども、このデータの限りそれを導くことはできない。言えることは、両者が相関している可能性についてであって、先に総合の時間があって、その後に「学力」が来るわけでは必ずしもない。

同じことは、多くの「授業研究」についても当てはまる。「〜すれば、〜になる」という表現は、順序を前提にしているけれど、それは相関関係にとどまるのかもしれない。すなわち、 「〜になることと、〜になることとは関連している」と理解するのが、事実に対してより誠実だということだ。

なのに、「なんとなく」そう思ってしまう、それを疑うことなく断じてしまうことがまま起こるということ、本当に恐ろしいことだなって思う。
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by walk41 | 2016-06-22 20:27 | 研究のこと | Comments(0)

権威主義と戦う

学会でおしゃべりをしていたところ盛り上がり、私が「だから、威張る人は嫌やの」と話したところ、ある人が「研究は、権威主義と戦うためのもの」と話されたのを、我が意を得たりと強く思ったのだ。

権威主義とは、実体のないものをあたかもそれがあるかのように振る舞う様だ。これに対して研究とは、どのような実体なのかを明らかにすることを通じて、ともすれば権威主義に陥りがちな世界に異議を唱えること、そこに研究の意義がある、と聞いた。

特に教育や学習について議論することは、ちょうど見えないものをあたかもそれが存在するかのようにふるまうことでもあるので、権威主義にすっぽりとハマる格好になる。これに対して観察や回顧あるいは社会調査などを通じて、その実体に迫ろうとすることが、権威主義を批判し、そのベールを剥がすことになるのだ。

なんとなくそのように思ってしまう、なんとなくそんな風に行動してしまう、こうした感覚や論理、さらには行動様式を振り返り、違う理解に努めようとすること、それが研究の悩ましく魅力的、そして勇気を要する点かと思う。
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by walk41 | 2016-06-12 21:13 | 研究のこと | Comments(0)

研究者と言われる人の仕事

尾木直樹という教育評論家で大学教授でもある人が、日本社会が子どもを大切にできていないのではないかと話をした記事を、今頃になって読んだ(朝日新聞、20160129)。記事は次のように終わっている。

…話の最後に、こう訴えた。「せめて教育のところだけは、命を大切にするよう守って下さい。子どもが夢や希望を抱けるよう、お願いします。お願いします」(氏岡真弓)

スキーバス事故でゼミ学生を失ったという立場でもあり、気の毒とは思う。それに引っ張られてもやむを得ない面もあるだろう。しかしながら、それらを斟酌しても、こうした発言を教授の名の下に行うことは、あまりに酷い。

この人には、事実を丁寧に分析し考察するという手続きが、決定的に足りない。その代わりにあるのは、自身の信念の吐露とこれにそぐわない出来事の糾弾だけである。このようなおよそ思考能力を欠いた人がなぜマスメディアに取り上げられるのかわからない。いや、日々起こるあれこれに思いつきのようなことを言う人が、珍重される世界がマスメディアなのかもしれない。

研究者を自認する人は、次のように考える。教育という名前のもとに命が大切にされていない状況とはどのようなことか。またそれはどのような仕掛けや解釈の結果として生じているのか。あるいは、そもそも「教育が命を大切にする」とはどういうことか、教育がもつ暴力性を鑑みたとき、それは成立する命題なのか、学校教育を経験することで助かっている命についてはどうか、といった問いを立てる。だけど、この人はきっと持ち得ていないのだろう、現実を不思議な謎として捉え、その解明に臨むという作法が。この人には研究者ではもとよりなく、むかし小浜逸郎が論じた「教育教」の信者と名付けるのがふさわしい。教育を疑い、多面的に考察する体力と気力をもたない、思考弱者である。

近い将来、この人の垂れ流したお喋りがどれほど悪影響を及ぼしたかの検証をする人が出てくることだろう。そして、事実に対して謙虚であること、すなわち、出来事を事実として解釈する自身の歪みをより認めるべきこと、自身の語りをドグマではなく批判されるべき余地を含みながら構成すべきこと、を後進は学ぶことになる。さらに、マスメディアの多くが実にいい加減なものだということも、より知られることになるだろう。
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by walk41 | 2016-04-27 11:51 | 研究のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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