学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:研究のこと( 96 )

新たな問いへと開く

年に3回集まっては、勉強会を続けているメンバーがいる。かれこれ5年ほどになる。前回は、私に講演が入っていたためにお流れとなったので、このメンバーで会うのは、ほぼ9ヶ月ぶりだ。

それぞれの報告を聞きながら、自分の中で気づき、そして喜びを感じられる瞬間に多く出会う。

学校にとって地域とは何なのか、教育目標や方法の基準と教員、生徒の個別性はどういう関係なのか、規制をしすぎるとかえって目標から遠ざかるのではないか、と新たな問いが生まれる。こうした経験のできることが、忙しい中、遠方を含めて集ってもらう意味だと実感する。

こうして一日を過ごせたこと、幸いと思う。
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by walk41 | 2015-12-12 22:07 | 研究のこと | Comments(0)

人間は確率の論議に馴染まない

ネット配信されるニュースに、「子供の学力、生涯収入が必ず伸びる! 子育て世代がぜひとも知るべき 「教育経済学」を紹介しよう」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44004#gunosy とあった。

中室牧子『「学力」の経済学』という本について、教育が何をもたらしているのか、エビデンス(証拠)を示す同書を高く評価し、「それでは、「経済(学)」と付かない「教育学」とは一体何を内容とする学問なのだろうか。エビデンスに基づかない雑多な精神論の集まりでないことをただ祈るばかりだ」と辛口で締めている(山崎元「ニュースの深層」)。

こうした論調には、いつもながら違和感をぬぐえない。その理由を二つほど挙げよう。
その一、国家レベルの教育政策を立てるのが目的ならばともかくも、それぞれの家庭や学校にとっては、丁寧な幼児教育を受けた場合とそうでない場合について、その後の追跡から、前者は6歳時のIQ、19歳時の高卒率、27歳時の持ち家率、40歳時の所得がいずれも有意に高く、47歳時点までの逮捕率は低かった、と紹介されても、目の前にいる子ども(とその保護者や教職員)にとっては、ほとんど意味を持たない。個々にとってはそうなるかならないかの二者択一の話であって、そうなる可能性が高いと言われても困る。そもそも、丁寧な教育を受けられる状況にあるのかどうかを問えない点でも、この種の議論は心細い。

その二、教育という出来事は、時代や地域的な背景により多様に価値づけられる。教育は世の中のさまざまな条件の一つとしてあり、社会的に「教育が一番」とは限らない。小・中学校の教師の能力下位5%を「平均並み」の教師に変えると、生徒の生涯収入の価値が2500万円くらい異なると紹介されても、そこまで高給で教員を募ることが社会的に認められるのか。そもそも、生涯収入の多いことが「幸せ」とも断言できない。稼ぐことに懸命になったがゆえに、「縁の下の力持ち」の仕事に就く人が尊ばれないことは望ましいのか、も分からない。今の時代の価値観が、将来的にも同じであるとは、これまでの経験を踏まえればとても言えることではない。

つまるところ、学校教育もその一つだが、いつでも、どこでも当てはまるような証拠として、教育は馴染まない。教育がどうだったかは、相当に個人的に受け止められ、その中に「能力」に繋がるかもしれないという、曖昧でアテのないものでもある。その見えにくさに人はロマンを感じ、将来を楽しみにするのだろう。昨今は「見える化」「計測化」とも言われるが、人間に対する操作が可能という素朴でそして恐ろしい発想を問い直すべきではないだろうか。
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by walk41 | 2015-07-03 00:05 | 研究のこと | Comments(1)

ケース研究

校内研究ーそのほとんどは幼児、児童、生徒に関するものだがー、について、飲み会話で盛り上がる。

その中で、学級集団を捉えることは事実上できないし、かといってケース研究、事例を扱っても、学校教育の研究にはならないなあと、気づかされた。まさに「どっちもつかず」である。

繰り返そう。学校は幼児、児童、生徒と呼ばれる子どもを集合的に扱うところだ。「個に応じた指導」といった言葉が強調されるのも、それだけ個に応じていないからこそである。何年何組何番と常に帰属が求められ強化される。着用が求められる名札、決められた座席、クラス目標、班活動、◯◯隊形、どこに個人を基本にした場があるというのだろう。だから、そこで行われる授業は集合的なものであり、「より良い」授業も「全体的」に問われることになる。

けれど、授業の観察者は、あの子がこの子がと見たものをケースで言わざるを得ず、それがなぜかクラス全体を代表するものと無前提に見なされる。「あの子の様子がこの授業を象徴していた」ってね。そんなん、わからへんのに。

全体をとらえる方法も論理も乏しく(平均というロジックはかなり乱暴だ)、かといって個を捉えたからといって「だから?」と聞き返される(それに、あまり個人に注目すると、観察者効果を及ぼしてしまう。つまり「本当の姿」は見られなくなる)。

残されるのは、何十万人といった規模での統計的分析で教育の効果を測定するか、個人による記録か、辺りかなあ。


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by walk41 | 2015-06-06 08:59 | 研究のこと | Comments(0)

最前線との対話を

嬉しい話を同僚から聞いた。

2012年の拙論文、「叱るときこそ丁寧に-教師の子ども呼称における賭け」(http://cert.kyokyo-u.ac.jp/journal12/25.pdf)が、京都府の教員の間で読まれているという。

教師が何げなく、まさに何となく、子どもを呼ぶという行為について考察したものだ。なぜ呼び捨てをするのか、あだ名で呼んだりすることもあるのか-教師の人権感覚、教室における正統性ほか、いくつかのテーマで議論できると思う。これが読まれているのならば、まったく有り難いことである。

かつて、谷沢永一は「アホばか間抜け 大学紀要」(『あぶくだま遊戯』所収)で、大学の紀要を読むのは、1.5人だと、筆者と印刷業者が斜め読みするだけの論文を揶揄したが、自分が書いたものも同様ではないかという恐れは常に抱いている。自己満足の、書きっぱなしの、紙の無駄遣いにならないように、重ねて心したいと思う。

少なくない教員が「現場」と称する、学校教育の最前線にいるとは、局地的には優れても、その事実が大局的にはどういうことなのかを意味づけることは難しいし、何よりも、ある準拠枠(referecen, schema, formatなど)で自分が事実を捉えているのかに気づくことが難しい。ここに、「岡目八目」のように提案をするのが、論文の役割だろうと、私は考えている。

この両者の対話がなされれば、最前線では「そう考えなくてもいいんだ」と職務に臨むことができるだろうし、直接には教育-学習に関わらない後方では「そんな事実があるんだ」と考える材料を得ることができる。立場が違うからこそ、互いに学ぶことができるだろう。

こうした契機になれるような論文に励みたいし、忙しい最前線の人たちにはぜひ論文に触れてほしい。CiNii http://ci.nii.ac.jp/ ほか、web上で読むことのできる機会も多い。批判的で生産的な協力関係ができればなあと願う。
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by walk41 | 2015-05-01 08:05 | 研究のこと | Comments(0)

まず、タイトルを付けよう

新年度の授業、ゼミも始まった。

最初だったので、ゼミメンバーそれぞれがこの1年間に臨むテーマについて、短く報告。まずは自分自身に、そして他の人に研究活動について、宣言するためである。

これらおしなべて思うに、各々、関心はわかるのだが、どうも焦点がはっきりしない。「こんな感じのこと」までは伝わっても、だから? と尋ねたくなるのだ。

今年は、論文の書き方講座をやらなかったからかなあ。次の発表時にも、私に辛口を言われないように、以下にポイントを示しておくから、参考にしてほしい。

①テーマは問いだから、「何がわからないか」に対して一つの答を与えようとするものである。つまり、何がわかっており、そうでないかを捉えていなければならない。だから、先行研究のレヴューがなされているか。文献リストがどれほど挙げられるか。

②先行研究がどれくらいあるか。それはその問題の社会的意義とも関わっている。探してもあまり先行研究が見つからないようならば、卒論や修論で臨むのはやめよう。もちろん、見つからないのではなく、見つけていないようであれば、もっと努力しよう。

③日本語のタイトルは体言止めが多いけれど、内容としては疑問文で考えよう。その疑問に何を材料に、いかに答えるかが、論文の構成につながるから。そして、できれば英語でもタイトルをつけてみよう。それは英語力を尋ねているのではなく、慣れ親しんでいる言語を用いるがゆえの、曖昧さをより取り除くことができるから。

④合わせて、キーワード(検索語)も挙げてみよう。五つくらいまでの、自分のテーマを述べる上で不可欠と思われる言葉を選んでみよう。

⑤ここまでできたら、調査の対象(フィールド)と方法について考えよう。でも、これはまだ先の話ね。



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by walk41 | 2015-04-15 14:29 | 研究のこと | Comments(0)

論文ができました

日頃のあれこれにかまけて、なかなか進められないのですが、以下の論文が発行されます。現職の小学校と中学校の教員お二人と、もう何作目になるでしょうか、共同で取り組んだ論文です。学校の様子を学びながら、こちらの見方も提示できる、貴重な機会として毎回、嬉しく臨んでいます。

(今より)若い頃、50歳を超えたら、あるいは教授になったら、先達はどれくらい論文を書いているだろうかと、ちょっと調べたことがありました。すると、多くの方は数年に一本程度、あるいは雑誌などに掲載される短いものが大半となり、研究活動を続けているとはおよそ言えない様子だったのです。あまりにお寒い状況に、自分は決してこうはならないぞ、と年を数えながら心してきたつもりです。

さて、こうしたプライドにふさわしいものに今回なったかどうかは心許なくもありますが、まずは形にできたことを喜びたいと思います。そして、小さくとも書き続けることが研究者と名乗るならば義務と励みます。編集ほかお世話になった方々、大変ありがとうございました。

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共通理解・合意形成というフィクション―「わかりあえない」からこその学校の危機管理―

榊原禎宏・西村府子・森脇正博

A Fiction, that tells “common understanding” or “consensus building” in the School
-Risk Management, because of not easy to “understand each other”-
Yoshihiro SAKAKIBARA・Motoko NISHIMURA・Masahiro MORIWAKI

抄録:学校教育は多くの物に囲まれる一方,児童・生徒の変容,とくに内面的な変容(学び)を課題とするために,そこでの事実の主観性,相互性,不安定性(瞬時性)を基本的に排除できない。このために,事実をいかに認識するかよりも先に作られる当事者の価値観,規範とその論理が優位して,これらが「何となく」肯定され,主張される言説がもっともらしさを持つという危険性を常にもっている。本報告はこの観点から,合意形成や共通理解が可能であり,それができなければならないという論理を取り上げ,それらがいわば二重帳簿状態,すなわち表向きの主張と実態との乖離を前提に学校が運営されている実際を記述した。合わせて,それらを踏まえた学校の危機管理上の着眼に言及した。

キーワード:コミュニケーション,合意形成,直観,閾値,危機管理
[教育実践研究紀要(京都教育大学附属教育実践センター機構教育支援センター紀要、No.15、2015.3. pp.201-210]
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by walk41 | 2015-03-30 16:41 | 研究のこと | Comments(0)

人口減少と投票行動

「選挙離れ、若者だけか シルバー層も投票率低下」(日経、20150321)を読み、数日前のNHK「おはよう日本」で取り上げられたニュースを思い出した。

それは、自宅から投票所までの距離が長くなるほどに、投票率が低下することを明らかにした研究だ。人口が減少、既存の投票所が閉鎖、他と統合される傾向が強まっているという。このことが、とくに高齢者の投票行動を抑制しているのではないか、を裏付けるものと紹介されていた。おもしろい。

言われてみれば確かにそうだなあ、と感じられることを、実証的に明らかにすること、これは研究の大切な役割である。それを通じて、気づかずに行ってしまっていること(「人口が減ったから投票所を減らすことはやむを得ない」という)を反省し、それでよかったのか、他の選択肢はないのかと、「よりよい」社会のあり方を考えるためのデータを提供すること。これは研究というものの大切な意義だ。華やかさには少し欠けるけれど、手堅い研究である。

以前の拙ブログで紹介した。学校統廃合が進められ、バス通学の子どもが増えると、彼らの体力低下が著しいという経験則が存在すると。また、そのために、学校から1キロメートルの所で子どもをバスから降ろし、学校まで歩かせるようにした校長の話を。同様のことは、原発事故などで避難、仮設住宅で暮らす子どもが多い福島県において、体力の低下が顕著という事実とも符合する。

言われてみればそうなのだけれど、なかなか気づかないこと、そうした着眼のできること、ある方法で事実や事実認識を掘り起こすこと、これらのできることが研究者の資質と私は考える。だから、「どこかで聞いたような話」や、ましてや「言われなくてもわかる話」などで、ひとの貴重な時間を奪う人物を研究者と呼んではいけない。彼らは、ただの常識人である。
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by walk41 | 2015-03-21 11:05 | 研究のこと | Comments(0)

外国についての研究

久しぶりに学会の例会に出る。発表者の思いや熱意を感じられ、とても刺激を受けた。

その一方で、どうしたものだろうかと疑問も大きかった。その一つが外国の研究のあり方である。たとえば、私が大学院生だった頃ならば、資料そのものが日本国内では限られていたから、それ以上を求めるなら、彼の国に行くしかなかった。向こうに行って図書館を訪れて、関係しそうな資料を探してできるだけコピーしてという手間暇が要った。その分野の研究者もいることは知っていても、約束の取り付けを考えるとおよそ試みようとも思わなかった。いや正直に言おう。そんなインタビューや対話など思いつくことすらなかった。

それが今は、インターネット上に資料は膨大だし、研究者の連絡先も容易に見つかる。電子メールでアポイントメントを取ることもできるだろう。ラッキーならば顔写真も見ることができる。心算もできる。それどころか、直接に合わずとも意見を伺うことすらできる。調べたことを学会で発表中に、聴いている人が資料を探し、発表通りの内容かどうかを確かめることも十分に可能だ。

こんな風に環境が激変する中、どのような外国の研究ができるのか、そして意味を持ちうるのか、とりわけ若い世代は悩むことだろう。知りたくても知ることのできなかった時代から、知りたくなくとも知ることができる時代へと移った今、いかに研究を進めていくのか、私も議論に加わりたいと思う。

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by walk41 | 2015-02-21 17:43 | 研究のこと | Comments(0)

コピペが起こらないように

大学はいま、卒論や修論、あるいは年度末の修了レポートと慌ただしい。

この折、学生のレポート、さらには驚くことに卒論にすら、コピーとペーストが見られると、いたく嘆く大学教員のつぶやきが紹介されていた。

でも、とても不思議でもある。確かに、コピペは大問題だ。知的財産に微塵の敬意も払わず、泥棒まがいのことを、いや泥棒そのものだろう、他者の文章で単位や学歴を得ようとするのだから。盗人猛々しいである。

しかし、こうしたレポートが出てくるような、怠惰な大学教育も土壌としてあるのではないか。まず授業でのレポートについて、なぜその授業に出ていない人の文章が使えるような課題を出すのだろうか。「ヘルバルトの教育方法上の意義を述べよ」といった課題を教員が示すから、どっかに転がってないかなと学生が探す羽目になる。

そうではなくて、「7回目の授業で見せた資料映像の内容を踏まえて、教員の感情労働の特徴を論じよ」とか「4回目の授業レジュメに紹介されている、前回の感想からの8行目の意見についてコメントせよ」と課題を出せば、授業に参加していないと応えられないし、授業レジュメも必要になる。先週など「その映像見ていないんですけれど」と言いに来た学生に、私はコピーして(DVDは学生に用意させた)渡したくらいだ(えへん!)。他に文章を探すなど必要ない。

ましてや卒論については、何を言わんかやである。最終的に学生が論文提出に至るまで、どれだけ話をし、てにをはに始まる日本語の添削をし、資料の妥当性を確かめと、繰り返すなかで、徐々に出来上がっていくのが、論文指導である。これをしていないから、突如それが現れ、読むとコピペだらけと悲嘆にくれることに陥っているのではないか、とは言い過ぎだろうか。

当の学生以上に論文のテーマ、構成、関係文献を識っており、より真っ当な方向に向けていくのが論文指導なのだから、コピペが入る余地があるはずもない(フェアなコピペ、すなわち、出典を明記した引用は大いに奨められるべきである)。だから、嘆く暇があるならば、しっかり論文の作法を含めて学生を指導しなければ。

なのに、二年前だったか、電車の中で大声で学生が話していた。「ウチのゼミ、論文指導がないから、出したら終わりやねん。」関関同立と言われる大学の一つである。そんなこと、他者に聞こえるような声で喋らんといて。こんな体たらくな大卒者を世に放って良いのだろうか。「腐っても」大学卒の資格が輝くようにできることはあまりに多いだろう。


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by walk41 | 2015-01-19 10:42 | 研究のこと | Comments(0)

機能が構造を決める

訳本が出たトマ・ピケティ『21世紀の資本』の「はじめに」に、社会科学は一時的で不完全なものであること、それは今後も変わらないものだが、辛抱強く事実やパターンを見つけることで民主的な論争に役立つこと、それが知識人の役割ではないか、と記されているらしい(孫引きでごめんなさい)。

これを聞いて、にもかかわらずこう思う。社会学の一部でもある教育学には、上の言が当てはまる場合もあるけれど、それは人間の個別性を捨象したテーマ(学歴と社会移動、体力と学校環境、学年別学級担任と性差といった)についてであって、「個に応じた指導」や「自己評価」はたまた「学び」といったテーマに関しては、どうも該当しない。なぜなら、経験はそれぞれに知覚、感受、認識、そして評価、総括されざるを得ないから。

私の恩師の本の冒頭に、「教育とはまず自己体験であり…」という文があった。学校経営や公教育行財政を扱う本としては意外なことを書かれるなと感じたのを思い出すけれど、そうした目配りをした上で、客観的と捉えられる事実を求めておられたのだろう。改めて、視野の広さを教えられる。

話を戻すと、学校は個別性が強いので、一般的に「学校とは…」と話せる余地が大変限られる。その規模、職員構成、目標や課題、外部環境と資源など、十分に多様であり、一つの説明では説得力をほとんど持ち得ないからだ。なのに、「学校とは」「これからの学校への期待」さらには「21世紀の学校像」と法螺話としか思えないようなお喋りをしたがる人、あるいは求める人が多いために、いつまでたっても事実が掴まえられないだけでなく、次々と作られる言葉への対応に終始することになる。「これからは生きる力だ」とぶち上げておいて、「生きる力とは何か」を雑誌の特集に組むのだ。まさにマッチポンプである。

学校はどのような構造として捉えられるのか、それは学校の条件に依る。創設年数、児童生徒数と教職員数とそれらの傾向、外部環境(学区のあるなし、保護者の属性や学校への態度、教育委員会の意向、同窓会の方向性など)がどうであるかによって様々だからだ。だから「授業規律を確立することが学力向上の要」と講演会で聞いても、それが容易に叶わない学校もあるし、そもそも教員側からの働きかけを要しない学校もある。一般的、傾向としては、と知らされても、最前線の学校では役に立たない。これが集合研修と学校状況との不幸なギャップであり続ける。

学校ごとに様相が違うのは、その環境と課題が一括りにできないからだ。つまり、学校が「鍋蓋型」なのか「ピラミッド型」さらには「〜型」ではないか、と話をすることそのものが始めから無理なのだ。なのに、何かを話してこれでいいんだと悦に入ってしまう。声高に叫ぶ人のご説が幅を利かせる。マスメディアの責任も大きい。

ここに、言説のメタ分析が教育学研究の一つの、しかも大きな柱となる所以がある。いろいろだなあとしか捉えようのないものなのに、一般化されがちな研究フィールドだからこそ、そう言えるのだろうか、こんな面を見落としてはいないか、と、問う必要がある。「こんなことが明らかになった」と華々しい訳ではないけれど、「そんな風に語られているけれど、実はそうではないんだよ」と示すこと、もって、「こうでなければいけない」「そうできないのは自分のせいだ」と、真面目ゆえに自身を苛んでしまいがちな教職界にいる人たちを楽に、そして楽しく、やりがいを持って仕事に臨んでもらえるよう応援できる。

この点で研究者の役割は、最前線を説教、鼓舞することではさらさらなく、静かに後ろに座して、穏やかにただし確実に「ちょっと待って」と声をかけることだろう。間違ってもスポットライトを浴びて、人前に立ちたいなどと思ってはならない。そんな欲求は他で満たされるべきである。


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by walk41 | 2015-01-05 11:19 | 研究のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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