学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:研修のこと( 25 )

ちょっと嬉しいこと

学校関係の会議や、教員を対象とした研修などで、名刺を交換する機会がある。

その際、「はじめまして。ご縁をいただきありがとうございます」と述べると、相手から「実は初めてでは無いんです。先生から以前に研修を受けたことがありまして」と返されることがある。「そういえば」と、かすかな記憶を辿って、受講されていたようにも…と思っていると「あの時のお話は、とても面白かったです」と言葉をつないでくださる。

もちろん、かなりのリップサービスも入った上のことだろう。けれど、いつのことやら榊原流の天の邪鬼な話を覚えてくださり、こんな機会に思い出してくださる方と出会えたことを、ありがたく思う。

あるいは、「先生のブログを読ませてもらっています」と言われることもある。そうか、こちらは存じ上げないけれど、読んで下さっている方がおられるんだなあと驚きつつうかがう(読んでもらうために駄文を晒しているのに、変なところで感心するものだ。いやはや)。

いま地球上には70億人を越える人が住んでいると言われるが、自分が出会うことのできる人はごくごく僅かである。そんな希有なチャンスで出会っているのだから、できるだけ良いご縁にしたい。それが一期一会という言葉の意味でもあるだろう。そんなことを確認させられる時間を得られることも、また有り難い。

[PR]
by walk41 | 2017-07-05 17:30 | 研修のこと | Comments(0)

自己開示の機会としての研修

中学校の管理職の方々に、講演という名前の小さな会を持った。「新鮮だった」「楽しかった」とお褒めの言葉を頂戴したが、私自身に気づくことがあり、勉強になった。

それは、教員研修を自己開示(self disclosure)の機会と捉えることがより大切だということだ。つまり、彼ら/彼女らにより話をさせ、他の教員とやりとりをさせることを通じて、自身を開示させ、遠慮のもとでの、同意、承認、共感、笑い、そしてできれば賞賛される時間を提供することが、おそらくは何よりも、教員を元気づけ、明日からの学校での勤務を応援するものになるだろうということである。

これまで、説教やいたずらな鼓舞が教員をゲンナリさせ、意欲を奪う機会にこそなれ、さあ頑張ろうとはなりにくい点は指摘してきた。けれど、まず経験を語ることのできること、つぎに相対化により気づくこと、さらになるほどと思えるときのお喋りは、顔が上がり、目も明るさを増し、意欲的なムードを醸し出す。そうしたエンパワーメントの機会を研修が提供できるならば、そこで求められるのは、企画者や講師の「問い」に関わる力だ。

ともすれば当たり前に見えがちなことに疑問を投げかける。「このことをどう捉えればいいのだろうか」「これまでの見方は妥当か」と、既存の理解にゆらぎを与える。そして、部分的な自己否定を含みながらも、「そんなことを考えたことがなかった」「目から鱗が落ちた」と感じさせるような、新しい角度からの投げかけ、その方向での上手な道案内、厳しさを伴いながらも楽しげな雰囲気づくり、笑いでの終わり、といった流れが重要ではないだろうか。

いささか我田引水の感もあるが、楽しい研修とは、別に冗談や小ネタを披露することではない。参加者(受講者ではなく)が、自身の身体の解きほぐされるのを感じるような、柔らかく暖かな「空気」を生み出し、そこで自身を見つめ、問い返させること、そんな自己開示へと誘う能力が、研修担当者に求められるように思う。
[PR]
by walk41 | 2017-01-27 17:43 | 研修のこと | Comments(0)

座学での学びを促す

「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について ~学び合い、高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~ 」(中央教育審議会答申、2015.12)中、「…例えば,講義形式の研修からより主体的・協働的な学びの要素を含んだ,いわば AL 研修(アクティブ・ラーニング型研修)ともいうべき研修への転換を図っていくことが重要である」(14ページ)を、再び引く。

ここでAL研修とはどんなことを指しているかがわからないけれど、自分でやってみる、経験してみるという意味でこれを捉えるならば、次のことは明瞭である。すなわち、「ALでないから学びが乏しい」ということはない。ALに対して、受身的な学び(passive learning)を置けばその意義は確かめられるだろう。それは、問いかけられて考える、近くの人と話をし、話を聴くことで気づける、経験を振り返り、互いの経験を交わしてメタ化してみる、といったことだ。

そこで研修を直接に担う講師は、一方的に話をするのではなく「ファシリテータ」と位置づけられる。その講師に求められるのは、①会場の「空気」をつかみ、肯定的で楽しい雰囲気へと誘うこと、②二人から四人程度の小規模で話をする、これを聴くという場面を設けること、③②に適った発問ができること、④③は具体と抽象を往復できるものであり、知的興奮を促すものであること、⑤論理と合わせて、感情的な高まりや揺らぎを体験できるようにすること-こんな辺りかと自分の経験からは思う。

つまり、形式としては講義(っぽく見えるもの)であっても、その内容と方法において学びを促すことができる。activeではなくても、passive learning の意義ある時間を提供することはできる。

その際に問題なのは、講師のありようである。外部講師の多くは大学教員だと思うが、彼らが講義しかできないようでば、この役を担うことはできない。大学でも講義から授業へと変わることが求められているように、研修をより相互的・発見的、そして楽しい場へと変えていくための能力と態度が求められる。間違っても「エライ先生」然してたらアカンよ。はたしてそれは可能だろうか。
[PR]
by walk41 | 2016-09-06 05:57 | 研修のこと | Comments(0)

AL研修に賛成!

遅ればせながら、「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について ~学び合い、高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~ 」(中央教育審議会答申、2015.12)に目を通した。

そこに次の記述がある。「新しい時代に求められる資質能力を育成する上では,研修そのものの在り方や手法も見直しが必要であり,例えば,講義形式の研修からより主体的・協働的な学びの要素を含んだ,いわば AL 研修(アクティブ・ラーニング型研修)ともいうべき研修への転換を図っていくことが重要である」(14ページ)。

座学による研修の意義については別途述べるけれど、教員の研修がより活動的であってもよいと思う。
たとえば-
①勤務校ではない他の学校(できれば別の学校種)に行って、授業を見学する、生徒、教員や保護者にインタビューする、一緒に給食を食べて、掃除もしてみる。
②文部科学省に出かけて、どんななふうに教科書が検定されているかを観察する。
③教育委員会にお邪魔して、指導主事の一日を追いかける(影のようについて行く)。
④学習塾に出かけて、そこで授業をしてみる。
⑤卒業生を訪ねて、学校時代についての評価を尋ねる。

といったことだ。

もちろん、これらのために要する時間と費用の問題は大きい。かれこれ100万人の教員を研修するのだから、誰をいつどのプログラムに参加させるのか(割り当てるのか希望を募るのか)、行き先の発掘、交渉、調整はどこが担うのか。個人情報などの漏洩を防げるのか、事故が起こった場合の責任は? これらは同答申がその活用を強調する、つくば市の「教員研修センター」がやってくれるのかな。はたまた、教員が学校を抜ける分の穴埋めはどうするのか、学校の業務に不具合を来さないか、いずれも考えなければならないけれど。

意地悪に言えば、こうしたリアルさを欠いたままで、「研修そのものの在り方や見直しが必要」と唱えても、やる気度が問われるだけである。ホンマにそんな気あるのかしら。少人数で時間がかかる研修、つまりお金のかかるプログラムをやろうと提案するんやから、それなりの裏づけがあるんやろうね。
[PR]
by walk41 | 2016-09-06 05:36 | 研修のこと | Comments(1)

聴き方の問題かしら

研修を担当してまずは終えると、気になるのはどのように聞いてもらえたかだ。

その時盛り上がったからといって、良かったとは限らず、その反対も然りだろう。こんなことからも、教育評価さらには学校評価って難しいなって思う。なのに「子どもを見ればわかります」なんて言える人、すごいなあって驚き、呆れる。

さて、過日の教頭研修における事後アンケートの結果を知らせてくれた教育センターがあった。学校の見方が新鮮だった、自分を振り返る良い機会になった、といった感想は私の想定内だけれど、その中に、具体的な方法がたくさん示され、秋から学校でやってみたくなった、という感想を読んで、へえ、そんな風に聞いてくれた人もいたんやと、ちょっとびっくりしたのだ。

というのも、ゼロではないにしてもそんなにやり方、進め方について話したわけではなく(そもそも、そんなに知らないし(・_・;)、どちらかといえば、捉え方、考え方が中心の研修で、それをベースにそれぞれの学校で考えて具体化してほしいと話しているから。

にもかかわらず、上のように聞く人もいるということを、教育と学習のズレとして興味深く思ったし、学ぶ側の余地ともいうべきものを大切にした教育側のあり方をより考えるべきだなあと思わされる。

初等・中等教育の議論にも通じるだろうけれど、大切なのは児童や生徒がいかに学ぶかであって、いかに教えるかではない。彼らの学びの上で教えることが役立つ場合があるからそうしているのであって、間違っても教えることが学ぶことを邪魔してはならない。授業時間の大半を下手な説明で遣ってしまい、生徒が考え、練習し、習得する時間を奪っている授業を見ると、もう止めてあげてと声を上げてしまいそうになる。

[PR]
by walk41 | 2015-08-07 15:58 | 研修のこと | Comments(0)

話がつまらなかったのかもしれないけれど

夏休みの到来とは、教員にとって研修シーズンのスタートでもある。各地の教育センターや大学などでは、職務研修、認定講習、免許更新講習と大忙しになる。

さて、本学でも教員免許更新講習をお手伝いしており、南北に長い京都では北部でも開催した方がよいだろうと、いわば出前講習に出かける。炎天下、電車でゴトゴト揺られて2時間ほどかけて会場に着く。

これまで20年くらいになるだろうか、何百回と研修、講習、講演をしてきたが、自分の気づく限りこんなことはなかった。初体験である。更新講習の年齢区分からすれば35歳あたり、色黒の男性教員だったが、講習中にスマートフォンで遊んでいるではないか(まあ、20年前はスマホはないけれど(^^;)。

始めは、わからない言葉の検索でもしているのかと思っていたのだが、どうも違う。そこで、「スマホをいじっている人、この点、どう思いますか」と発問して、暗に止めや、とメッセージを送っていたのに、今度は、机の下、自分の膝の上に置いて相変わらず触っている。近くに行って目を合わせたり、沈黙をとって注目させたりと試みたものの、スマホから離れられない様子。

とうとう、60人ほどの受講者がいる中だったのに、本人の傍まで要って、「よろしいですか。…(それとも)お帰りになりますか」と発言してしまった。ああ、こういう状況って会場をまったく凍らせるんやけど。楽しくてこそ研修やと思っているのに、こんなことさせんといてえな、と心の中で嘆く。研修をいつもこれて閉める「悲しいとき~」(いつもここから)に、もう差し掛かっているのに。ホンマに悲しいとき~なんやけど、この状況。

その言でようやく、当の教員のお遊びは終わったのだけれど、講習終了後、こちらに詫びにか釈明かに来ることもなく、そそくさと鞄をもって会場を後にしようとしたので、部屋を出たところで声を掛け、名前を尋ねた。京都市内の中学校の教員とわかる。踵を返す私の背中越しに彼は「すみませんでした」と言ったけれど、もちろん返事はしない。あかんやん、そんな不細工な格好、中学生に見せられるかって。勤務校から想像すれば、生徒指導が大変かもしれない地域、こんな体たらくでどんな風に生徒に向かっているのん。不思議やなあ。

免許更新講習に対していろんな意見があると思う。私も大学人の話を聞く機会があってもいいとは思うけれど、資格制度とリンクするのは反対だ。こうした強制力が働かなくとも、教員には夏休みなど少しは大学で勉強もしてほしい。けれど、この講習を受けなければ教員資格を失うという規定のもと、まあしゃあない、と申し込んで会場に来ているのだろう。ならば、なぜ「せっかくやから、ちょっとは話をきいてみよか」と、耳を傾けないのだろうか。あるいは「こんなつまらん話をするために講習料を払わすなと言うために、しっかり聴くぞ」と思えなかったのだろうか。どっちであれ、学べることがたくさんあったと思うよ。

講習後、拍手は起こったし、お礼を言って帰る人も複数いた。数年前の講習でご一緒した人などは「変わらず楽しいお話をありがとうございました」とも言いに来てくれた。そんなに悪い時間ではなかったのではないかと思う(自己満足?)。だから、この機会を大切にしようと思ってくれてもよかったんとちゃうかな。

自分の講習が軽んじられたこと、こんな不細工なことで注意を受ける教員がいたこと、他の受講者が気まずい思いをしたこと、いずれもまったく残念なことだった。

過日の学会シンポジウムでゲストスピーカーの発した一言が大切やなあと思い出される。「あなた(の発言)は、相手に対するリスペクトがない」。自分も出会う人により敬意を表せるようにありたいと思う。
[PR]
by walk41 | 2015-08-02 13:25 | 研修のこと | Comments(0)

教員のニーズ

もう四半世紀以上は続いているインカレゼミ、他流試合をすべく、今年は90名を越す7つの大学の学部生、院生、教員らが集う。

教育センター等での集合研修あるいは学校での校内研修が、教員のニーズに合っていないのではないか、という問題関心から、いかに両者をマッチさせるかという発表を聞いた、小学校教員5年目の感想が哀しくも面白かった。

…教員から言えば、どちらかと言えば「させられる」研修に対するニーズはなく、そうした研修を減らしてほしいというニーズがあります…、と。

なるほど、教員養成や研修のスタンダード志向は、やりたくないかもしれないけれどやらなければならない、と設定されるもの、これに対して、ニーズ志向は、それぞれの状況を受けて、やらなくてもいいかもしれないけれどやりたい、やるべきだと設定されるもの、と区分けすればわかりやすいかもね。

〜の課題に応える、と「与えられる」研修が増えているようにも見える昨今、「得たい」研修へといかに教員を促すことができるか、彼らの働き方を含めてさらに考えてみたい。

[PR]
by walk41 | 2014-11-24 09:07 | 研修のこと | Comments(0)

研修での喜び

過日、県立学校の中堅教員を対象にした研修での感想文が送られてきた。いずれも、肯定的、受容的さらに積極的なもので、とても嬉しい。

これまで考えたことのない視点をもらった、新鮮な話だった、という内容に関わる点でなく、ユーモアを適度に交えた楽しいものだった、あっという間に時間が過ぎた、といった研修スタイルに関わる指摘もあることが有難い。研修の進め方が生徒への授業にも参考になる、目からウロコだったと、これは過分だろうと思われるものも含めて、喜ばしい声がほとんどだった。教育センター側の配慮かとも思ったけれど、冒頭に原文のままと断りが入っているので、そんなに悪い評価ではなかったようだ。何よりのこと。

研修は受講者のために行われるものではあるけれど、講師にとっても重要な場である。自分の立論がもっともらしいのか、説明は得心的か、また、全体として楽しく意欲を得られるものか、といった、内容とスタイル、広くは演出が問われるからだ。

ある意味での試合に臨み、それなりの評価を受けること、大学で講義や演習を担当するだけでは得にくいトレーニングの場を得られることを、嬉しく思う。この機会が与えられる限り、「より良い」ものを目指してさらに励みたい。

[PR]
by walk41 | 2014-10-09 18:53 | 研修のこと | Comments(0)

予想したのと違うなあ

過日の研修に参加した受講者の感想が送られてきた。

講師を務めた側からは、懸命に聴いてもらえたと思うし、話してもらう段などに回ると、「話すというよりも、考えさせられて、まさに揺れますね」とも声を聞いたので、それなりに意味ある時間になっただろうとは感じた。とはいえ、全体としては静かな感じがなくもなかったし、私などが期待する終わりの際の拍手もどちらかといえば控えめだったので、どんな感じで受け止められたかなあと、少し心配でもあったのだ。

ところが、みなさんの感想は、いい意味で予想と違っていた。数値での評価は4段階で、「4」が9割、「3」が1割、まずまずだったかと思う(普段、「数値化なんかできない!」と吠えているのに、こんな時はいいかなと思ういい加減さ(^^;))同時に、研修を進めながら、かつ受講者の様子を「正しく」見るとはいかに難しいか、も改めて知らされた。

感想を読ませてもらうと、「現場の実情をふまえた考え方だった」「実例を示しながらの講話はわかりやすかった」「学校現場に即した重点等が明確に示されていた」「実感できることが多く、具体的な話だった」と、学校の実際を踏まえた話であった点に安堵した。異なる世界に越境して臨むには、それなりに向こうの世界を知っていなければ、コミュニケーションの取りようもないから。

また、「当たり前で、気にもとめていなかったことに対するご指摘がたくさんあり、日々、考え直すことが多々あることを実感しました」「客観的な視点から学校教育を考え直すことができた」「新しい発見や気づきもあり、よかった」「常日頃とは異なる視点をいただいたように思える」という感想は、長年、学校で勤めておられても(あるいは、そうだからこそ)学校を新鮮な視点から見ることが難しいことの証左として、だからこそ、こんな研修も意味があるのではと思う。

あとは、楽しさに関わるものだ。「たいへん興味深く最後まで集中できた」「興味深い話と、楽しくなる話術でした」「講師の話がわかりやすく、興味深く聞けた」と言ってもらえるのは、せっかくの時間をともにできてよかったなと感じる。

つまるところ、①具体と抽象との往復、②メタ認知の促進、③楽しさ、この辺りが「楽しい研修」と言ってもよいのではないだろうか。そして、ひょっとしたら児童・生徒に対する授業にも当てはまることがあるのでは、と思うのだ。
[PR]
by walk41 | 2013-10-09 18:15 | 研修のこと | Comments(0)

本人次第だけれど

不祥事根絶推進月間であったにもかかわらず、サーフボード店などで万引きをくり返していた、静岡県の48歳の高校教諭が懲戒免職となった。

「…相次ぐ教職員の不祥事を受け、県教委は6月を不祥事根絶推進月間と定め、研修などの対策を強化しており、同教諭も研修を受けていたという。 県教委による懲戒処分は今年度8件目。安倍徹県教育長は「不祥事根絶を最重要課題としている中、誠に残念でならない。一層の綱紀粛正、使命感の高揚を図りたい」とコメントした」。(2012年9月5日 読売新聞)

昨年だったか、同じく静岡県の教諭が、セクシャルハラスメント対策の研修に参加し、「女子生徒と二人きりになるときはドアを開けておく」などの模範解答をしていたのに、当該の行為に及んでいたことがあった。研修の企画、実施側としては忸怩たる思いだろう。研修を受けたからといって、本人が変わらなければ元も子もない。

もっとも、教員への研修に際しては、次の2点を踏まえなければならないと思う。

その一、教員は大学卒業が基準であり、自分で情報を集め判断するという「がんこ」者でもあるから、講話や説諭などで「なるほど~」と素直に反応することを期待した研修をやってはいけない。その二、教員の仕事の多くは見えにくく、結果や成果もはっきりしないため、それぞれに教職や学校についての意味世界を構築しがち。だから、「~であるべき」と声を張り上げても、教員それぞれの世界と接点を持たなければ、メッセージは届かない。つまり、指導や鼓舞ではなく、よい問いかけを通じて本人に他の視点に気づかせ、自身で意味づけを組み替えられるように促さなければならない。

これらのためには、その一、「エライ」人が教え、諭すという研修イメージと決別する必要がある。その二、受講者にボールをぶつけるドッジボールではなく、相手がどの辺りなら受け取れるかを想定、修正しながらのキャッチボールに秀でた講師でなければならない。なるべく気持ち楽に、落ち着いてゆっくりと振り返り、自身を見つめ直す時間や雰囲気が不可欠なのだ。間違っても、「○○大学教授の○先生から、有り難いお話を伺いたいと思います」なんて紹介をしてはいけない。できれば、「~という著書や論文がたくさんで…」といった説明もカットしてほしい。

そして、研修実施側には、外からは見えない個々の意味づけに触れ、そう考えなくても、つまりそれに従って行動しなくてもいいんじゃない、と問いかけ、呼びかけることのできる、対人関係、演出、演技の力が求められる。時間配分や静寂さ、温度管理や適正人数、机の配置などにも心を砕かなければならない。

そうした研修を実現できるような講師の人選をぜひ。「俺はわかっている。だから、わかっていない君たちに教えるのだ」なんて、偉そうぶっている御仁はダメ。また映像を見せている最中に居眠りするなど、受講者にみじんの敬意も払わない御仁も問題外である。こうした輩は、決して呼ばないように。

でも、まだまだあるよね、権威主義に取り込まれている人たちが。
[PR]
by walk41 | 2012-09-05 12:59 | 研修のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
「させていただく」
at 2017-11-23 16:09
「国立」に地域ニーズ?
at 2017-11-22 09:14
紅葉に心洗われます
at 2017-11-20 13:03
「~以外は不可」
at 2017-11-16 22:43
そんな構図ではない
at 2017-11-14 09:52
求めている次元が違う
at 2017-11-12 18:36
ゴアー
at 2017-11-11 19:45
パラ・シアター
at 2017-11-10 19:10
宣伝です
at 2017-11-09 20:30
卒業論文中間発表会
at 2017-11-08 07:57
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧