学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:学校教育のあれこれ( 621 )

そんな構図ではない

髪「黒染め強要」、人権侵害か指導か、波紋を呼ぶ(読売新聞、20171114)を読んだ。

人権侵害と批判する立場と、強要は問題だが一定の指導は必要とする立場、この両者の対立が見られるという書きぶりだが、そんな構図は論理的ではない。

侵害と表現するとおどろおどろしいが、人権が制約されることは学校が存立する上での基本条件である。労働の対価を受け取るわけでもないのに、ほぼ毎日決まった時間に行かなければならない、好みかどうかを尋ねられることもなく制服を着用しなければならない、授業がつまらないからといって教室から出て行く訳にもいかない、意に反して教員から呼び捨てされても、呼び捨てで返すこともできない。これらは、いずれも「一人前」ならば許されない人権問題である。

ところが、教育されるべき存在すなわち子どもだという視線を浴びると、「教育的配慮」や「指導の必要」といった言葉で人権が制約される。「しつけ」を理由とした家庭等での児童虐待はその著しい例であり、学校でも「行きすぎた指導」がまま見られる。「指導」は人権保障に抵触するけれど、それを押して子どもを保護・管理することがより大切と、社会的に承認しているからこそ生じる問題だと確認したい。

「地毛証明書」発行や「黒染め強要」、あるいは「給食強要」といったことは、「それはあまりに極端な」という反応を引き起こすから注目されるけれど、極端ではない人権の制約はあまねく見られるといってよい。それが、やんわりと大げさでなく行われているから、「仕方ないや」と諦められている、ときに主体的に従い、表面化しないだけである。

そもそも、保護者に対して子どもを学校に通わせるように求める学校教育法じたいが、保護者の養育権と葛藤している。かといって、正面切って「学校にやりません」と保護者が異議申し立てをした際、明らかな児童虐待が疑われるのでなければ、学校・教育委員会が罰則規定を行使するまでに対立するといったことは避ける。不登校生徒宅を家庭訪問した教員が「卒業式くらい来いよ」という台詞が美談として扱われがちなように、法的には適切でも、「そこまで求められない」と今度は学校側が「仕方ないや」と諦めることになる。

だから、「行きすぎた指導」から逃れたいのならば、限られた戦術としてあり得るのは「学校から逃げ出す」ことである(なお、間違ってもこれは「学びからの逃走」ではない。人は学びから逃げ出す生き物ではない)。それは全面的でなくても構わない。学校で味わいたい部分もあるだろうから、部分的にサボタージュする、本音はともかく従順なふりをする、「阿呆らしい」と頭の中で呟く。賢くたくましく「生きる力」を身につけることが大切である。

もっとも、今回の「黒染め強要」に対して、この策は意味を持たない。文部科学大臣なり知事、あるいは判決といった「外圧」をもって、社会的承認の水準を修正するほかない。学校もこれで大義名分を得ることができる。「そうしたい訳ではないけれど、上から言われるから仕方がない」と安堵もすることだろう。

学校におけるおせっかい、もっと自由=自己責任に委ねればいいと思うんだけどなあ。


[PR]
by walk41 | 2017-11-14 09:52 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

求めている次元が違う

佐賀県教委は今月から、県内の公立中学校で、毎月第3日曜日を部活動の一斉休養日とする取り組みを始める。

 生徒が部活動以外の多様な体験をできるようにするとともに、教員の負担軽減につなげることが狙い。適切な休養を確保しつつ成果を上げる、効果的な指導への転換も促す。(読売新聞、20171112)

--------------

「働き方改革」とも見なされるけれど、これで「改善」とは、学校を変えることの何と難しいことだろうか、とため息が出る。月に一度だけ、しかも日曜日を一斉休養日とするとは。


日曜日は「キリスト教の安息日に由来し、官公庁・学校・一般企業で休日とする。」(goo辞書)と、文字通り休みの日である。無い物ねだりをすれば、休みの日は「多様な経験をできるようにする」ではなく、休みなの、何もしてはいけないの。これを休養日と命名するとは、現在いかに休みがないか、休みを理解していないかを告白するというものだろう。


月あたり土曜日または日曜日が8、9日あるとすれば、これで一日休みになり残る7、8日間は変わらず部活動を行う学校が少なくないということだろうか。いわゆる文化系部活動など、土日なしの部もあるだろうから一部かもしれないけれど、月あたり30日近く出勤する教員のいることが恒常化していること、他に形容詞が思いつかないが、すごいことではないだろうか。


この点は「隣の芝生」になるけれど、ドイツではたとえば、週あたりの勤務が28時間(ここで1時間は45分間を意味する)ならば、これを超えて働く教員はまずいないと思う(授業準備、生徒のノートの添削、試験問題作成、会議、保護者との面談などがあるので、この時間数で週40時間相当の労働と見なされている)。もちろん、これ以上の時間を働くことはできなくはないけれど、そうする人が実際にいないと思われるのだ(この点、もっとちゃんと確かめないといけないと、条件つきで)。もっとも、自宅で仕事をすることについてはわからず、教員組合などが過重勤務だと主張する部分は残るけれど。


その一方、学力向上、学校評価と情報公開、地域社会との連携、キャリア教育と、多くの課題が学校には降りてくる。仕事をするにはマンパワーが必要、一人あたりの上限があるのだから、数を増やすしかない、こんな論理がなぜ通らないのか、摩訶不思議なことこの上ない。ああ。






[PR]
by walk41 | 2017-11-12 18:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

地域社会にとっての学校

学習発表会が開かれるということで、小さな小学校にお邪魔した。すべての学年の児童がいるわけではない、しかも複式学級の学校である。

うかがうと、参観席には、保護者の方ではないだろう高齢の方を含む地元の方が多く座られている。保護者を合わせれば、児童の数を優に上回る、その3倍近くの方が見に来られたのではないかと思う。舞台上の児童の様子に、盛んに拍手を送っていらっしゃった。そんな様子に接することができ、私もほのぼのとした気持ちになった。寒い朝だったが、温かな空気が流れていた。

体育館には、「学校の元気は地域の元気、地域の活力は学校の活力」と大きく示されていた。まさに、地域社会にとって学校が重要な位置を占めることをアピールするものだ。

学校は「子どものため」にある一方で、その子どもが暮らす地域社会にとっても、きわめて大切な存在である。少子高齢化の社会にあって、子どもの「適正」人数、教育効果や財政効率など、考えるべきこともたくさんあるが、こうした場があり続けることの高い意義も実感した日だった。

[PR]
by walk41 | 2017-11-05 13:55 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教育者の悲しい存在証明?

学部生への授業で、学校経営の基本テーマ、教育-学習と経営との関係を取り上げる。その中で、小学校において「どく書」(読書)などの、まだ「教わっていない」漢字は遣わずに平仮名にしている場合があることについて学生に問うたら、次のようなエピソードを記してくれた。

その一、小学校5年生の時に、「私」と書いたら、二重線で訂正されて、「わたし」と記されて返ってきた。なぜいけないのか納得できなかった。

その二、教員に「習っていない漢字は平仮名にしようね」と言われて、戸惑った。

いかがだろうか。「教える、だから、学ぶ」の他に、「教える、ところが、学ぶ」や「教える、と関係なく、学ぶ」というスキーマ(構造)を持たない教員が、「教えていないのだから、学んでいてはいけない」と倒錯した結果の言動が、上のような話である。教わっていなくても学ぶことはあるし、そもそも、「学校の教員」にではない人たち(大人や子どもの人間関係から)教わることもたくさんある。「教育」と「学校教育」の違いすら踏まえない場合があるのだ。

こんな経験を伝えてくれた学生もいる。高校の頃、授業者が話している間はノートをとらずに顔を上げて話を聴けと、強い口調でいう教員がいた、という。生徒個々の授業におけるスタイルを無視されて、みんな嫌な気持ちで授業を受けていたことを思い出したそうだ。

このような教えることの絶対視(教える立場は無前提に権力的に振る舞ってよいから、時間的・空間的あるいは内容的に統制できるという)は、確固とした教師像を維持する上で不可欠である。なぜなら、相手がそのように従ってくれなければ、教える人、つまり教師という自身の存在証明ができないからだ。自分を教師と思っているのに、相手がそのように扱ってくれないことは、まったく恐ろしいことである。「王様は裸だ」とやっと子どもが叫んだお話を引くまでもなく、自身は他者によって存在する。そこで、自分が思っているように相手が思ってくれないという事態は、まさに危機である。

いわゆる子どもから「教えてほしい」と乞われてそこにいる訳では必ずしもない教師にとって、自身の存在証明とのつきあい方は厄介だ。その不安が常につきまとうからこそ、「先生は思うんだけれど」と自身を述べたり、挙手の仕方を決めたり「背筋を伸ばして挨拶するものです」など、相手の身体表現を拘束したりと、相手が少なくとも自分を教師として扱っていることを形にしたい。けれど、こうした枠決めは、必ずしもそう思わない、従いたくない子どもとの葛藤を引き起こす。それを抑止するべく、「顔を上げて人の話を聞くのは当たり前のこと」「マナーを守ろう」と、前提を要しない「常識」論を持ち出すに至る。つまり、説明を必要としない、いわば定言命法の様相を呈することで乗り切ろうとするのである。

もっとも、教師の挙げる常識はさほど普遍性を持つわけではない。それは、ときに自己都合の合理化の域を出ないほどのものですらある。こうした自身の限界や矛盾に向き合うことではなく、「毅然とした態度」や「揺るがない信念」が大切と強調するような教員の養成や研修の担当者がいるとすれば、大いなる罪と言うべきだろう。それらが「リフレクション」や「コーチング」「メンターシップ」などのカタカナで目新しさを強調しようとも。



[PR]
by walk41 | 2017-11-02 06:45 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

漢字しりとり

小学校の授業を見せてもらった。テーマは漢字しりとりだ。

それはこんな感じで言葉をつなぐものだった。季節→接続→属性→正義、と漢字は異なる一方、音が同じものを探すのだ。

教室を見渡すと、進まない児童が多いよう思われた。表意文字である漢字を扱いながら、これを表音文字かのように取り上げるって、ちょうど、赤い紙に白と書いてあるものを、赤と読むように求めるくらい、労力を要するのではないだろうか。

学校を後にしてからインターネットで「漢字しりとり」を検索すると、もう一つあった。それは、対面→面会→会社→社会、のように、同じ漢字でつなぐものだ。これならば、私はわかる。漢字のしりとりなんだから、音のしりとりと違わないとね。

さて、この学校の教員は、少なくとも2種類の漢字しりとりがあることを知っているだろうか。また、いずれを扱うかで授業での狙いも変わってくるだろうから、今回のテーマは何だろうか。たとえば「漢字に親しむ」というだけでは駄目だろう。一時間で扱えることは限られるのだから、もっと焦点をはっきりとさせた授業を。そのためにも、漢字ならこれについての学習と考察によりエネルギーを費やしてほしい、と思う。

[PR]
by walk41 | 2017-10-26 05:23 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「指導死」の背景

福井県の公立中学校で起こった、教員らによる叱責を原因とする生徒の自殺、「指導死」とも新聞にあったが、いたたまれない。教育というものが暴力的な性格を持つことを思い起こさせるものである。

「学力日本一」とも言われるこの県だが、そのことは「優れた」授業方法や三世代同居といったことによるのではなく、やれと言われればともかく懸命に臨もうとする「素直な生徒」「従順な生徒」たちに支えられているのではないか、とすら思わされる。

敢えてステレオタイプ的に述べるならば、同じ中学生でありながら、いわゆる全国学力テストは成績に影響しないと聞くや、クラスの生徒の半分くらいが休んだ学校の現れた大阪府の中学生と、暴言や恫喝とも言える言葉による暴力を浴びてなお学校に通い続けた中学生がいかに違うか、を示す事案ではないだろうか。

今から10年少し前、フィンランドの教育が世界一と持ち上げた研究者たちがいたが、彼の地の「学力」ランキングが低下した現在、話題にできなくなってしまった。彼らはかつて発表したことを、どう総括したのだろう。

同じように、福井県の教育がなぜ優れているかと持ち上げる研究者が今いる。彼らはこの事件を聞いて、どんなことを思っているのだろうか。

[PR]
by walk41 | 2017-10-22 21:46 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

スクールソーシャルワーカー

ドイツの友人が、学校ソーシャルワーカーに関する年次報告書(Förderung derJugendsozialarbeit anöffentlichen Schulen)を送ってくれた。彼女はスクールソーシャルワーカーとして10年以上働いており、ソーシャルワーカーとしての経験は20年以上になる。私が以前から、この分野の勉強をしてみたいと話していることを覚えてくれているからだろう(申し訳ないことに、言っているだけに留まっており(^^;))。

そこで今回「少しは勉強します宣言」として、以下、彼の地での学校ソーシャルワーカーに関するデータのごく一部を、皆さんに紹介したい。

ドイツの南西部の州、Baden-Wuerttemberg州は人口およそ1088万人(2015.12.31現在)、3627の普通教育学校、309の職業学校が置かれている。これらのうち、学校ソーシャルワーカーSchulsozialarbeiter(SSA)が配置されているのは、普通教育学校の2051校、職業学校の202校、全体の6割弱に相当する。また午後も学校での活動が行われる全日学校(Ganztagsschule)での配置率は約75%、学校の開かれている時間が長いほど、SSAの配置の高いことがわかる。

スクールソーシャルワーカーは、同州の約52.7%の市町村に置かれ、働いているのは2060人(2016.7末現在)、100%勤務のスタッフが16.6%に留まることもあり、フルタイム勤務相当に換算すれば1341.29人になる(ドイツでは教員もパートタイム勤務が少なくない。ご興味のある方は、榊原禎宏「パートタイム労働としての教職像-ドイツにおける教員の検討から-」『京都教育大学紀要』117、201009)もご覧下さい)。SSA配置に関わる費用は約2228万ユーロ(1ユーロ=133円換算で、約28億9640万円)、6歳から18歳までの青少年1000人あたり、1.07人(フルタイム勤務に換算して)である。ただし、この値は0.66から1.90と郡市間の差が約3倍に上る。学校種による配置率の違いも2倍ほど見られる。

b0250023_10553417.png
日本のスクールソーシャルワーカーの全体の配置数、青少年あたりの配置数、行政区や学校ごとの配置率、費用などはどんな様子なのだろうか。これらは、教員の「働き方改革」とも関わることだろう。まずは量的な把握をしたい。

[PR]
by walk41 | 2017-10-14 10:59 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

目標を実現することが即、教育の目標ではない

いずこの世界もそうかもしれないが、カタカナ語というのは、新しいもの好きに濫用されやすい。学校教育の世界の今なら、アクティブ・ラーニング、ルーブリック、パフォーマンス、といった辺りだろうか。けれど、これらは慎重に扱われなければいけない。

パフォーマンスについて、次のような説明を複数見たことがある。それは、スポーツのルールを学ぶことと、実際の試合に出ることとの違いを例に挙げ、いわゆる学力は前者だが、パフォーマンスは後者に属するというものだ。

確かにそう言えることはわかる。たとえば、英語を例にすれば、英文法がわかっていることと、実際に英語を話したり聞いたりできることには違いがあり、実際に生きて働く力、あるいは「生きる力」を問うならば、より後者の理解がなされるのはもっともなことだからだ。「机上の空論」だけではそのまま実用的、つまり何らかを現実的に達成する(パフォーマンス)に足るとは言えない。

ところが、こうも言える。学校を中心に学ぶとされてきた、学力(江戸時代までの言い方に戻ろう。「がくりき」-学問に関する力である)は、実際に生きて働く力(実学という言葉は今も残っている)と区別され、いわゆる教養として問われた。だから、今風にパフォーマンスと言おうとも、実際的な力、すなわち実学と学力がはたして直線的につながるかどうかについて、吟味が必要だ。

たとえば数学、因数分解を知ったからといって、その分野の素人として生きる上で、そのパフォーマンスはどれほど重要だろうか。個人的な経験の限りだが、現実世界で数学を使う機会はまずない。ところで、高校数学Ⅰまでが出題範囲だった大学入試共通一次試験(今の大学センター入試と言ってよい)で、私はほぼ満点をとった(自己採点なので、そのはず)。けれど、スポーツの試合のように、学んだ数学を使う機会がないのだ。結局、学校でやっただけ、の代物である。

この点で、生きて働く力は状況に依存的、社会構築的であり、文脈を抜きに取り出すことが難しい。つまり、パフォーマンスは、ゲームに勝つためという文脈の中で初めて問われる。バスケットならば相手側のゴールへ、バレーボールならば相手の陣地内へボールを運ぶことが意味を持つのは、そうしたルールがあるからに他ならない。サッカーに興味がない人にとっては、「どうして玉転がしや玉蹴りにあんなに懸命なのだろう」とゲームを見るのが関の山である。

あるいは、学力が実学につながる訳ではないことは、違う点からも説明できる。それは、学力とは世の中を懐疑的、批判的に見る目を養うことを含んでおり、学力を得た結果、その内容が無意味である、不明であると判断する余地を残している点でも特徴的である。

たとえば、歴史を学んで得られることは、歴史は同じことを繰り返さない、ということかもしれず、詩を学んで得られるのは、なかなか理解するのは難しいということかもしれない。こうした学力は、パフォーマンスには直接にはつながらず、ときに、何かをしないほうが賢明という結果に至る可能性すら持っている。実用的には「それがどんな役に立つのか」を問題にするけれど、学問的には「役に立つ/立たないとはどんな点で区別されるか」とメタ的な能力を求めるからである。

以上の点で、パフォーマンスとその元になるルーブリック(マトリックス、フレーム、といってもいいのではないだろうか)は、行動主義的な発想に基づいており、「何かをしない」という余地は乏しいように思われる。たとえば、コミュニケーションが、もっぱら「話し合い活動」かのように捉えられるご時世にあっては、致し方ないのかもしれないけれど、沈黙もコミュニケーションであり、コミュニケーションとは関係性の所産であり、自分だけでどうにかできる訳ではない、という理解もできるのが学問的というべきである。

コミュニケーションは目力が支え、以心伝心こそ重要といった主張が出てこないのは、可視化に対する何となくの信頼、説明責任という言葉への疑いのなさ、PDCAサイクル万歳、といった「学力問題」ゆえでもある。何かをする/できることばかりに目を向けず、何かを見る/知ることによりより傾注すべきだと、個人的な立場として私は思う。



[PR]
by walk41 | 2017-10-02 22:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

全校集会

南ドイツの初等・中等学校にお邪魔した。9月から始まる彼の地の学校にとって、新年度が始まって間もない時期に来客を迎えるのは、決して容易ではないと思う。訪問を快諾下さった校長先生ほか皆さんに深く感謝したい。

さて、新しい学年の始まりは、特に新入生にとって重要だ。どんな学校なのか、どんな人たちがいるのか、多くの児童・生徒に不安と期待が押し寄せているだろうから。そこでこの学校は、「褒める文化」(Lobkultur)を育てるべしと、校長の発案で、全校生徒およそ400人と教職員が月に一度、全校集会を開いていると聞いた。ちょうど、訪問した日がそれに当たり、日本から来た客と紹介されたとともに、ほんの少しだけご挨拶もした次第だ。

そこで驚かされたことの一つは、夏休み中に新校舎建設に関わって尽力した施設管理者(Hausmeister)、新しい学習材開発に取り組んだ教員ほか、と紹介して立ち上がらせては多くのメンバーを褒め、拍手を繰り返した校長の進行手腕だった。新しい教職員、一年生と五年生という、新入生の紹介の際も、楽しくこれからの学校生活をワクワクさせるすすめ具合だった。ともすれば、儀式は厳かであるべきと考え、言い方を変えれば暗く、重苦しいものにしがちな当事者に一人として、こんな進め方もあるのだと反省もさせられた。

もう一つの驚きは、集まったメンバーの座り方である。一年生はここ、二年生はその隣、そして一列に並ばせ、その順番も決まっている、集会が始まる前には学級担当などが生徒の様子を見て回り、服装や格好について「指導」する。そんなスタイルとは全く異なり、大人の集会のよう、つまり、司会を中心にいわばぐちゃっと集まっているだけで、列をなすわけでも、順番があるわけでも全くない、混沌としたさまである。どこに誰がいるかを全体としては掌握できない。好き勝手にいるのだ。

もちろん、起立、礼といった所作もなく、「顔を上げて話を聴くように」といったお小言もない。私のそばでは、寝転んでクラスメイトの膝に頭を預けていた女の子もいた。教員も適当にその辺にいるというだけである。さすがに、今日が登校初日の一年生の担任は、固まって座る児童たちの側にいたけれど。

それでも、決められた時間まで集会は静かに進み、かつ拍手と口笛も飛び交った。いい雰囲気だったと思う。そしてさらには面白いことに、予定された時間(5時間目だった)が過ぎると、生徒たちはとたんに騒がしくなり、ヤッケを着込むと帰り支度を始めた。

司会の校長が「最後に…」と話を終えるかどうかくらいで、みんなは立ち上がり、むろん一斉の「礼!」などあるはずもなく、校長が「ではまた明日」と上げる声もかき消されるくらい勢いで、蜘蛛の子を散らすように、ぱあっと去っていったのだった。ああ面白かった。





[PR]
by walk41 | 2017-09-19 06:32 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

机の距離

ご覧になった方もいるだろう。テレビの民放「学校に行こう」の中に「未成年の主張」というコーナーがある。校舎の屋上から生徒が全校に向かって叫ぶという企画である。往時はすでに15年ほど前かと思うけれど、web上に上げられているので、懐かしく観た。

その中に、こんな「主張」をした男子中学生がいた。クラスの憧れの女子生徒に近く自分の席があり、その距離は30センチメートル。近いところに座れて、幸せな日々を送っていたらしい。続けて彼は叫ぶ。「ところが、学校の妨害が入りました」「席替えです」。可哀想なことに、彼は彼女と5メートル50センチメートルまで離れることになった。環境が一転した様子に、彼はこれを機にと、彼女に好意を告白することになる…

ことほどさように、座るべき席が決められている条件のもとでは、どこに座るかが生徒にとって極めて重要になる。ある生徒にとっては、近くに意中の人がいることは励みになるし、その逆も然りだ。言わずもがな、生徒は学級を中心に「学校生活」を送っている、生活をしているのであり、そこには喜怒哀楽、愛憎が交差する。思春期と言われる時期の生徒にとっては、それこそが学校に通う誘引になったり、学校に行きたくなくなる要因だったりする。私たちも自分が中学生、高校生の頃を思い返せば、思い当たることもあるだろう。

なのに、教育する側に一度回ってしまうと、生徒を見る目は、授業指導案に見られる平べったい「生徒観」に回収されてしまい、ある生徒にとって、教室がどんな場であるかを考えることはおろか、想像することすら忘れてしまう。「好きな子が近くにいるから、いい格好をしようとする」「好きな人に出しゃばりと思われたくないから、控えめな態度を取る」といった、当たり前の出来事に目をつむり、それぞれの生徒と生徒間の関係を観念的に捉えてよしとする。生徒との関係で最前線にいる教員が、頭でっかちの、机上の空論を振りかざそうとするのだ。

大人になれば、そんな恋心を甘酸っぱく思い出すだろうが、渦中の生徒にとっては大問題である。こんな世界が教室にどっしりと横たわっていることを踏まえて、どんな授業論が可能だろうか。彼ら/彼女らにいかに影響を及ぼすことができるだろうか。

そもそも、生徒たちによって生じる力学に授業者はいかに影響を受けてしまうのか。また、影響を受けた場合の、自身のマネジメントはどうありうるのだろうか。こんな基本的なことを確かめずに、「教員の働きかけに対して、予想される生徒の反応」といった、現実離れした話ばかりしていていいのだろうか。





[PR]
by walk41 | 2017-09-01 22:41 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
マンションポエム
at 2017-12-11 14:44
鉛筆で遊ぶ
at 2017-12-10 07:39
除籍の不細工さ
at 2017-12-07 18:34
変化にかかる時間の意義
at 2017-12-07 10:09
question, prob..
at 2017-12-06 14:30
「お疲れさまです」
at 2017-12-05 14:30
非標本誤差
at 2017-12-02 20:58
大学の授業の作法
at 2017-12-01 18:45
恐るべし学校評価
at 2017-11-27 23:06
進展する学校での情報教育(ド..
at 2017-11-27 12:01
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧