学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:学校教育のあれこれ( 635 )

教員もブランド服を

東京・銀座にある中央区立泰明小学校(336人)が、新1年生の「標準服」をイタリアの高級ブランド「アルマーニ」のデザインのものに変更するとして保護者から苦情が出ている問題で9日、和田利次校長が記者会見した。和田校長は「銀座にある学校だからこそ進めてきたが、丁寧な説明をしながら進めるべきだった」と述べた。だが、新標準服の採用を撤回する考えはなく、「ご理解いただき、購入者側の判断で購入してほしい」とした。学校が着用を推奨するアルマーニの標準服は、上着やズボンなどで計約4万5000円と現在の2.5倍。セーターなどを加えると8万円を超え、保護者から批判や疑問の声が出ている。【大迫麻記子、稲垣衆史】(毎日新聞、20180209

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これに対して「銀座だからいいんじゃないか」とか「義務教育でこれだけの保護者負担を強いるのはおかしい」、あるいは「外見から入っても内面は変わらない」、はたまた「(子どもの発達を見越して)丈が余った状態でアルマーニの服を着るなんて言語道断」、「地元業者と癒着しているのでは」との意見も飛び出しているが、これに一つ付け加えたい。

標準服とはいえ、児童にブランドものを学校として推奨しているのだから、そこで働く教職員がまさかユニクロ、しまむら、GUHMなどで調達した服を着てこないだろうね、ということだ。「子どもは教育される側、大人とは別だ」という言い分は通じないよ。ブランドものの回りに見合うのはブランドもの、そうでなければ格好悪い、それだけが理由だ。

ファストファッションで身を固めた教員がまさかブランドものをまとう子どもを指導するなど、バランスが悪すぎるだろう。「身近なアイテムをきちんと装うことの大切さを感じることも、国際感覚の醸成につながる」との校長の言もあるとのことだし。

さて、出勤のためのブランド服が公費の対象になるかどうかは、導入を決めた校長に教育委員会に掛け合うように言えばいい。もっともサラリーマンは基礎控除があるから、ここで何とかしろと返されるだろうけれど。そもそも、失礼ながら、ブランドが似合う体型や姿勢を大人の側が維持している/できるのだろうか。






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by walk41 | 2018-02-11 23:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「いい授業」

小学校の算数の授業を見せてもらった。

単元や指導上の目標についてはさておき、いいなと思ったのは、授業者と児童とのやりとりに不自然さが少なく、それなりの葛藤を含みつつ、授業時間が流れていったことだ。

公開授業は、拝見していて無理があるというか、妙なやりとりの見られることが多いように思う。授業者に子どもから肯定的な発言が続く、あるいは普段とは違うのだろう押し黙ってしまう。「みんなどうしたん、いつも通りやっていいんやで」と、授業者が思わず声を上げてしまう様子がまま見られるのだ。私が下品に言う「見世物」としての授業がこれに当てはまる。

それに対してこの授業は、児童から「わからない」「できない」と複数の声が出る。授業者も「かまへんで」「ええよ」と返す。あるいは、児童が説明していることに対して「もっと大きな声で言ってくれるかな」とか「わからへんわ」といった発言もする。普段の授業の様子が想像できるようだった。

公開授業に慣れている児童ゆえでもあるだろうけれど、多くの衆目を浴びながらなお、子どもー教員間、子ども間で「そんなことない」「なんでそうするん」と、おしゃべりが続く様を楽しく見ることができた。語彙の限られる子どもの言い間違いもやんわりと授業者が指摘し、聞いた子どもも笑って終わるといった和やかな雰囲気を感じた。

日ごろの良好なラポールに支えられる一方、正解が必ずしも明確でない問いを設定し、適度な緊張、ストレスを前提としながらおしゃべりを楽しむ、多面的にものを見る時間にする授業の良さを感じさせてもらった。

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by walk41 | 2018-02-09 10:24 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校論の難しさ

「小規模校の功罪、関係や序列不変 窮屈、逃げ場ない懸念」(福井新聞、20180202)を、興味深く読んだ。

全校生徒が60人といった規模の小学校では、上級生が下級生の面倒を見る、みんなが互いを知っているといった良さが見られる。その一方、クラス替えがない、ピラミッドのような人間関係が変わらない、閉鎖的な関係ゆえのいじめも起こりうるといったまずさもある、という記事だ。

小学校は全国におよそ2万校あるが、そのサイズは決して一様ではない。「標準規模」とされる1学年2ないし3クラスに当てはまるのは、実は少数で、いまや1学年1クラスの、いわゆる単級学年の学校が多くを占めるはずだ。また、新興地や才再開発地域など、人口が急増しているところもあり、そんなところでは教室が足りず、プレハブでしのいでいるという話も聞く。つまり、小学校というものの大きさ(全校児童数、学年児童数、さらには学級児童数とこれらに対応する教職員数)をおおよそであれ、想定することがとても難しいのだ。もちろん、統計的に平均規模を算出することはできるが、この場合、平均は最頻値や中央値と大きく異なっており、意味あるデータにはなりえない。

だから、こうした小学校、さらには中学校(高校は規模に関する限り、入学試験を通じた生徒数の設定と管理がある程度、可能である)についての議論が成り立ちにくいのは明らかだろう。「小学校というものは…」と言われても、児童数1000人を超える規模から10数人さらにはもっと少ない学校もある。教職員数もこれらにおおむね比例するから、校長以下、養護教諭、事務職員までで10人に届かない小学校から、1学年5クラスや6クラスの教職員総数がきっと50名を超える小学校まである。

小学校だけでこれだけ分散しており、これに中学校ほかが加われば、どんな場所について論じているのがわからなくなるのは当たり前である。もちろん、人数だけではない。性差、年齢別構成と別の変数が加われば、きっと、どこにウチと似たような学校があるんだと叫びたくなることだろう。

かくして、学校についてのお喋りはそれぞれを語ることはできても、一般化、普遍化はきわめて困難、くわえて論者それぞれの学校経験があるので、話はさらに錯綜する。一般化できない議論に再現性を期待できるはずもなく、「こんな学校があるね」の域を超えることはない。

そこで問われるのは、これらの上に、どのような学校についての議論が可能か、またそれにはどんな意味があるかを整理することである。学校論に関する議論の作法を身につけることが必要なゆえんだ。


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by walk41 | 2018-02-02 15:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

小さな子どもはこわれやすい

宿題忘れた小3男児、担任に壁押しつけられ骨折

 福岡市西区の市立小学校で昨年12月、3年生の男児(9)が担任の男性教諭から暴力を受け、鎖骨を折る重傷を負っていたことがわかった。男児側から被害申告を受けた福岡県警は傷害容疑で捜査を始めた。市教委によると、教諭は昨年12月19日、男児が算数の宿題を忘れたため、午前中の休み時間にやるよう指導。しかし、男児がその後も宿題をしているように見えなかったことから、胸ぐらをつかんで廊下の壁に押しつけるなどしたという。男児は午前の授業中に痛みを訴えて保健室で処置を受け、同日午後、帰宅後に保護者と一緒に医療機関へ行き、鎖骨骨折と診断された。学校側は同日、男児と保護者に謝罪した。市教委の聞き取り調査に対し、教諭は壁に押しつけたことを認めたうえで、「しっかり指導したいという思いだったが、感情的になってしまった。深く反省している」と話したという。男児は現在も痛みを訴えて登校しておらず、教諭も心労による体調不良を理由に、今月12日から欠勤しているという(読売新聞、20180131)。
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給食を無理やり食べさせ男児吐く、女性教諭処分

 東京都教育委員会は30日、男子児童が嘔吐おうとするまで給食を食べさせたなどとして、公立小学校の女性教諭(40)を戒告処分にした。発表によると、女性教諭は2014年1月、余っていた給食をお代わりするよう児童全員に命じ、男子児童の一人が「もう食べられません」と訴えたが、無理やり食べさせ、嘔吐させた。同年4月~11月には、女子児童から鉛筆を盗んだと疑われた別の男子児童に対し、十分に事実確認せず、「とったんじゃないの」と決めつけるなど不適切な指導をした(読売新聞、20180131)。
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東京の事例は児童の学年がわからないが、低学年・中学年くらい、つまり10歳までくらいだとすれば、まさに小さな子どもは心身ともにこわれやすい、心して接しなければいけないと思わされる。

「先生の言うことは絶対」「先生は神様のようなものだった」とは、教育学部に入学してきた学生が小学校時代を回想して少なからず口にする言葉である。家族に教員がいたりして、学校という場に馴染んでいれば、大人の光と影の両面を多少とも見ることができるだろうが、いわゆる素で学校という世界に放り込まれれば、小さな子どもはひとたまりもないと思う。

身体は自分より遙かに大きく、声も大きく、自信ありげに威圧的に接してくる。しかも自分のことを「先生」と呼び、疑いの余地を与えもしない(これに対して、私のような大学教員は「わからないなあ」と連発するものだから、学生から「わからないばかり言わないでください」と叱られる始末である)。

さらに、何をするか、どこまでやるのか、そもそもどこに座っているべきなのか、と内容と時間そして空間を全面的に支配するのが、教室にいる教員という立場である。こんな存在から真顔で迫られたら、小さな子どもは木っ端みじんなこと必至だろう。いったい、どんな抵抗やさらには反論ができるというのだろうか。

大人と子ども関係の典型のような、教員と小さな児童という構図は、前者優位の後者に対する圧倒的な暴力あるいは権力関係として説明できる。だからこそ、頼まれた訳でもなく、くわえて、少なくない子どもを預かる教員は、自身に対する相対的認識とこれに適ったセルフマネジメントの能力がいっそう必要だ。

実はそうでもないのに「社会は…」とか「人間って…」とわかったような発言を自重すること、「教育熱心」を肯定的だけでなく否定的にも捉えるバランス感覚を持つこと、「子ども理解」と自身が向ける眼差しと比べるべくもないほど、多くの眼差しを自分が向けられていると知ること、このように「先生然」としないように努めること、「教師らしくない教師の良さ」を常に考え携えることではないだろうか。

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by walk41 | 2018-01-31 13:50 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校教員の業務負担論

神林寿幸『公立小・中学校教員の業務負担』(大学教育出版、2017)を読んだ。いわゆる若手による意欲的な作品で、論理的に記述されており読みやすいが、先行研究の渉猟が不十分と思われることと、量的分析に対する「ないものねだり」だろうが、リアリティの乏しさが残念に思われた。こういう言い方はずるいけれど、学校という最前線にいる人の「肌感覚」と異なるように感じるのだ。

そう思う理由を、羅列する。
その一つは、同書でも指摘されているように、小学校、中学校のいずれも教員間の負担の違いが認められる、にもかかわらず、結論は全体的に、あるいは平均的に「負担が大きい」とまとめる一般化志向が強いことだ。負担の大きい小さいは、学校間に限らず、同じ学校であっても違う。中学校で言えば、担当教科間の違いは小さくない(たとえば、国語・英語と体育・美術の違い)。また教科にかかわらず不調な同僚の分を負担することで自身に負荷をかけざるをえない教員もいる。

また、季節労働という表現がふさわしいと私は思うが、時期による負担の差も大きい。年度当初、研究発表会を控えた時期、中学校3年生なら秋から冬にかけての進路対応(ほとんどは高校進学に関わる事柄)などを想定すれば伝わるだろうか。その時期でなければ、その担当でなければ、その学年でなければ、負担は小さく、心理的な負荷も違うと考えられる。こうしたばらつきに対する着眼が弱いのではないだろうか。

もう一つは「時間的負担」と記されている労働時間の分析について、アンケート調査の特性から、学校にいる時間(学校から出かける家庭訪問などを含めて)を捕捉する方法にならざるをえないためだが、在校時間すべてが「職務の遂行に当っては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」(地方公務員法、第30条)に適っているわけではないことを踏まえていない点である。つまり、授業中はともかくも、それ以外の時間は裁量の余地が大きく、常に集中しているとは言えない。同僚との駄話や調べ物ついでの寄り道もあるだろう。これらとて、子どもの情報共有や自身の発見に繋がることのある点で、無駄とは決して言えないから、業務の一環ではあるけれど。

さいごに、具体的な項目に即して言えば、中学校、高校での部活動についてほとんど言及してないことである。たとえば、この本の結論は「生徒指導」と銘打たれており、私の辞書の限り、部活動は直接には含まれない。週日の放課後、土・日曜日、休業期間中に行われる一部の部活動の顧問や担当は時間的・心理的に相当の負担を背負っているが、このことはアンケート調査に明らかではないのだろうか。この領域の負荷は、ただ部活動中の指導に留まらず、生徒の怪我への対応、いざこざが起こった時の家庭訪問、練習試合や大会での世話や施設・設備管理など多岐に及ぶが、これらはデータとして捕捉されていないかのような記述ぶりである。

以上、教員の業務負担(と負担感、つまり、多忙と多忙感)を論じる上で、アンケート調査という方法がどれほど有効かを問う必要があるし、その上で、時間差、個体差などにより注目することが肝要かと読んだ。局所的に調べるのでは説得力が増さないし、かといってドンブリ勘定でも困る。全体像を描くことはかくも難しい。

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by walk41 | 2018-01-16 08:48 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

社会実験は思惑通りに成功するか。

岐阜市、教員に16連休 今夏、小中など完全閉校

長時間労働が深刻な教員の負担を軽減させようと、岐阜市教委は二〇一八年度から全市立小中学校と特別支援学校計六十九校で、原則として一切の活動を行わない「学校閉庁日」を、夏休みに十六日間連続で設ける。この期間は日直の教員も置かない。

岐阜市の小中学校などでこれまで夏休みに閉庁日を設けていたのは、一部の学校のみ。あっても、お盆の三日間程度だった。一八年夏の学校閉庁日は八月四~十九日を予定。原則として、会議や補充学習、教員研修、部活動の指導といった全業務を休止する。教員にはこの間、年次有給休暇や夏季特別休暇を消化させる。

保護者から緊急の連絡があった場合は、市教委職員が専用の携帯電話で対応する。部活動は原則休むが、全国大会が迫っている場合などは例外として、指導を認める。子育て支援の一環として、教員ではない専門の指導員を置いて児童を預かる「放課後児童クラブ」は従来通り、開く。(読売新聞、20180105、一部改変)

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意欲的な試みだと思う。他力本願で申し訳ないけれど、服務監督権者に音頭をとってもらえないと、各学校からはなかなかできないことだ。

と言いつつ、中学校を念頭に置けば、次のようなことを考えてしまう。この期間が完全に休みになれば、校内研修、部活動(大会参加を含む)、学校によってはプール開放、夏休み中の登校日などがなくなるけれど、大丈夫かなと頭をもたげる。休暇中となれば、教育センターでの研修にも参加できなくなるだろう。こうしたことはもちろん、シナリオに折り込み済みだろうけれど。

さて、半日学校から全日学校(終日学校)へと変わりつつあるドイツの学校ではあるけれど、学校の休業期間(Schulferien)は確固として維持されているように思われる。たとえば、フィールド調査でお世話になっているバーデンヴュルテンベルク州の2018年の夏休みは、7月26日から9月8日までの45日。ちなみに9月9日は日曜日なので、実際には46日間になる。

この間、最終週当たりには会議が開かれるが、それまではまったくの休みになる。ある教員の言葉だったが、「イタリアに6週間、行ったままでも、何の問題にもならない」くらいと理解していいのだろう。

リフレッシュできてこそいい仕事もできるという考えからは、日本の学校の「コンビニぶり」(コンビニでの勤務の問題もあるけれど)は、想像にすら及ばない。「何を楽しみに働いているのか」と突っ込みたくなること必至である。

岐阜市の社会実験がぜひ思惑通りに近く進みますように。もって、広く普及して「学校の先生って、夏休みは子どもと一緒くらい取れるんですか」という勘違いが、再び世間に流布することを願う。






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by walk41 | 2018-01-14 11:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

シミュレーション(模擬実験)

医療福祉系の大学に就職した人から、こんな話を聞いた。その大学には実際の救急車があり、患者の搬送や救急車内での処置などについて、学生がシミュレーションできるようになっているそうだ。

座学だけではなく、実際にどのように患者に対応するのかを学ぶ上で、とても大事な教育環境だなと聞いた。これが可能なのは、もちろん誰ひとり同じ患者ではないけれど、症状やそれへの対応について、ある程度まで定式化できる、少なくともマニュアル化できると考えられているからだ。実際とは違っていても、おおよそはこれに即して対応できるだろうし、その経験を通じて手続きもやがて変わっていくことだろう。つまり、経験則にある程度まで依拠することが、有効な分野である。

翻って、学校教育の世界はどうだろうか。マイクロティーチングの授業で、生徒のふりをしてみましょうと、学生や教員が生徒の様子を振る舞うことがあるけれど、およそ実際とは異なっている。不思議なことにではあるが、元生徒だからといって生徒らしく振る舞うことはもはやできない。だから、正確な模擬授業はできず、「だいたいこんな感じ」という域を出ることはない。つまり、なかなか定式化できない。

こうしたことを関係者はみんな知っているのに、授業の「やり方」を究めようと(狭めようと)、「授業研究」がなされ、仮説ー検証、実証、「見える化」と言葉だけが賑わう。みんな嘘つきになるのだ。あるいは、実際がそうでないのに、そうあるべきと観念が先行する頭でっかちなのか。いずれにせよ、不健康なことである。授業さらには教育がライブだということの意味を、何度でも噛みしめるべきだと思う。



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by walk41 | 2018-01-12 10:32 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

これは各教員の裁量事項か

宮崎県北部にある県立高千穂高校で、生徒のいたずらを理由に1カ月以上、1年生の教室からストーブが没収されている。10日は数センチの雪が積もったが、このクラスはストーブなしで授業を受けた。

学校の説明によると、昨年11月末、1~3年の全クラスにストーブを設置した。数日後、1年生4クラスのうち1クラスの生徒がストーブで弁当の肉を焼いたため、担任がこのクラスのストーブを撤去し、職員室に持ち帰った。それ以降はストーブなしで授業をしてきたという。

教頭は「ストーブの使い方を考えなさいという担任の指導と思う。校内規則にもストーブを不適切に使用した場合、使用停止にするとある。ただ、寒くなってきたのでそろそろ戻したい」と話し、近日中に教室に戻すという。

高千穂町熊本県に接した山あいにあり、隣の五ケ瀬町には日本最南端のスキー場がある。宮崎地方気象台によると、高千穂町の10日の天気は雪で、最低気温は零下1・2度だった。(河崎優子)(朝日新聞、20180111)

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うーむ。こうした煩瑣な出来事に追いかけられているのが多くの学校だろうから、勢い「まあ、こんな感じで」と事態が進むこともわからなくはない。けれど、外気温がマイナスを記録するほどの地域で、寒さに凍えて授業を受けるというのは、学校教育の目的上、問題なだけでなく、体調不要を引き起こすかもしれないと知って行う(「未必の故意」)点で、人権問題ですらありうる。こうした事項を、一学級担任の裁量にしてよいのだろうか。

もし取材の通りだったとすれば、教頭の弁は問題をはらんでいる。それは、「担任の指導と思う」と学校や学年あるいは教科の意思よりも、学級担任の判断を優位させていることを認めつつ、同時に、校内規則を持ち出していることに矛盾、少なくとも葛藤を感じていないことである。

つまり、校内規則を引くのであれば、それは組織として問われる問題であるから、一人の判断で行ってはならない。何らかの正統化(authorization)の手続きが必要になる。たとえば、入試合格者の決定、原級留置(いわゆる落第)や卒業判定、停学や退学の判断が一人で行われるならば、組織の体をなしていない。ましてや、主観性の高い、文脈依存傾向の強い学校教育の世界は、思い込みや勘違いが起こりやすいから、単独の判断を認めることは、リスクマネジメント上も大きな問題である。教育委員会も研修などで「報告・連絡・相談」と強調するのであれば、こうした事態を見逃してはいけないだろう。

なのに、学級担任の裁量としている事態を「知らなかった。情報共有を怠っていた」「こうした担任の行動は認められないことだ」と教頭は記者に返していないのである。これでは学校が適切に管理されているとは言えない。ここで「何のための学校管理職だ」と声を高めるのは勇み足だろうか。学校管理職、とくに高校の管理職の方に伺いたいゆえんである。





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by walk41 | 2018-01-11 11:15 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

京都市学校歴史博物館

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京都駅のコンコースでパネル表示とビデオによる紹介をしていました。日本で唯一、学校について専門的に資料を収集した博物館です。

昔、小学校だった建物を利用した博物館で、趣きもあり常設展、企画展、共に学び楽しむことができますよ。まだの方は是非どうぞ。

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by walk41 | 2018-01-08 18:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教員免許状の種類

大昔の学事関係職員録を調べているとお伝えしていますが、本筋ではない話でこんなこともわかりました。

1970年代半ば、私が中学生になって出会った英語教員は3人、いずれも女性でした。一年生、初めての英語という授業に胸高まっていましたが、講師とも噂されていた若い教員は、教科書を手にずっと座ったままで、教室を動き回る、音楽や映像を使う、さらに生徒に活動させるなどは無縁の授業でした。生徒を当てるときも、席の順番に指名するだけ。小学6年生の時に英語学習の本を自ら買うほど期待していたのですが、“they, their, them“あたりで躓き、英語が嫌いになりました。

かわって二年生、ベテランと思しき女性です。説明はわかりやすく、何より一年生の時の担当には全くなかった笑顔の見えるのが幸いでした。多少はわかるようになったこともあり、英語が楽しくなりました。NHKラジオ講座の「基礎英語」や「続・基礎英語」を家で再開したのもこの頃です。

そして三年生、中学生にはもうお婆さん近くに見えた女性でした。(英語なのに)白衣を着て、歩くとプスプスと音のするサンダルを履いており、陰で生徒たちに笑われていました。一年生の時の担当と同じように単調な進め方、今でも覚えていますが、過去分詞の形容詞的用法(excited, used といった)を扱った際に、「過去分詞」という答えを言わせるために順番に生徒を当てていき、答えられるまで10人近くを要したこともありました。

ちなみにこの教員は、紀元前ADと紀元後のBCについて、実にいい加減な話をしたこともあり(ご興味のある方は、拙エッセー https://docs.wixstatic.com/ugd/b7f39f_767b8cb6480a47059de2fca2366bfc2c.pdf をご覧下さい)、こういう大人になってはいけないなと学べた存在でした。

さてこの2人、二年生と三年生の英語担当教員は、1977年度当時、44歳と46歳だったことが判明。同世代だったのです。へー。そして私を英語好きにしてくれた彼女は「英語二級」(今の英語二種)、もう一人は「英語一級」の教員免許状を持っていました。ひょっとしたら、二級の教員は短期大学卒業、一級の教員は大学卒業だったのかもしれません。

教職としての能力とその育成・管理のあり方は、公教育経営の基本テーマであり、かつ答えの出にくいものですが、私のようなある生徒にとっては、「二級」の教員の授業に救われ、「一級」の教員に再び嫌いにさせられることがあります。それぞれの人格を大きく伴う仕事である教育労働のあり方について、考えさせられます。


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by walk41 | 2018-01-06 16:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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