学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:学校教育のあれこれ( 605 )

「言い切れる正しさ」

「言い切れる正しさなんて、臨床にはないのではないか」(朝日新聞、折々のことば、20170820)

学校教育で頻繁に用いられる「実践」という言葉は「臨床」に近い。相手が病人とは限らない点で両者は異なるけれど、「ケースによって違う」「一つのケースでも同じ調子で進む訳ではない」と考えると、同様の意味合いで遣っても構わないだろう。「臨床教育学」なんて言葉を作る人もいるし。

さて、この記事中、鷲田清一はこう記している。「一人ひとりにそれぞれ事情があり、また感謝と訴訟がいつ入れ替わるやもしれない臨床の現場では、言葉は煮え切らず佇むばかり。」こう治療して下さいと了解されていたはずなのに、病状の変化によって言うことが変わるなど、きっと日常茶飯なのだろう。よって、どれ一つとして、「こうやれば上手くいく」とは言えないこと、だから、断言する言葉を発することができず、躊躇せざるを得ない、のが、誠実な態度と導ける。

ひるがえって、学校ではどうだろうか。「~すれば、~となる」と、実践の主体が教員だけかのような大いなる勘違いのもと、「いつでも、どこでも、誰にでも」できる教育方法について大まじめに「研究」する。タイミング、地域事情、個々の子どもによって、さらには、たとえ同じ子どもであっても、不動のものなどありそうもないのに。

あるいは、「あの子は~のタイプだ」「~のように児童・生徒理解ができる」と、言葉というピンで子どもを留めるかのような態度を見せる。はたまた、子どもに対して「前に、~って言ったよね」と状況が変わっていることを度外視して言質を取る。これらは、とても不安定な環境で教育や学習といったことが行われており、「こうだから」と言い切ることがほとんどできないにもかかわらず、機械仕掛けのように教員と子どもが動くかのように妄想する、まさに机上の空論、頭でっかちゆえである。

実践に近ければ「机上の空論」を回避できるわけではない。児童・生徒に直に接するところに身を置いていても、自分の知っている言葉で子どもを固定化しようとしたり、そもそも教室が自身の言動によって左右できると思い込むことが、現実的ではないという点で倒錯しており、したがって実践的でもありえない。実践的とは、何かをともかくするという意味ではないだろう。実践的とは、目的に即して合理的に思考、行為することだとすれば、医療の現場と同じく、学校においても「相手に合わせる」「決めつけない」「曖昧さに耐える」といった能力を持ち、発揮することこそが、実践的である。この点で、言葉を費やすのは罪なことだ。

それを顧慮せずに、「計画に即して実践する」「目標を堅持する」「普遍的な教育方法を開発する」といった発想や言動をとるのなら、それらは実践的でなく。合理的でもない。自己満足、あるいは自家撞着である。これこそまさに「机上の空論」を振りかざしていると言うべきだろう。「現場」にいようとも現実離れしていることは大いにある、と心することが大切ではないだろうか。

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by walk41 | 2017-08-21 09:34 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

人一倍

家人が話す。…人一倍ではダメだ、人の二倍、いやもっと頑張らねばいけない、と中学校時代の教員に言われたことに、今なお感謝を述べる高校生の投書があるよ、と。

この文面の限り、二つのことを思う。一つは、人一倍が、人と同じではなく二倍を指す言葉だと教員が伝えていないこと、不正確である。もう一つは、かくも素朴な、あまりに素朴な教員の言葉を真に受けて、有難いとまで思わせる教員とその背後にある学校の光背現象が見られるということである。

自分が中学生時代には、当たり前に聞いた「日本人は農耕民族だが、西欧人は西欧人は狩猟民族だ」と、大学にもなると恥ずかしい発言を教員がしていたことを覚えている。「子ども相手のお気軽な仕事」をしていた教員がいたのだ。それを批判的に(今風には、アクティブ・ラーニング風に)捉える能力もない場合は、「へえ、そうなんだ」と鵜呑みにするしかないではないか。

こうして大人の犠牲になる子どもがまた一人生まれる。子どもを御すのはある意味で容易い。けれど、そこを踏ん張って強権的に振舞わないように自制すること、それができてこそ、自律的と言うべきだろう。

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by walk41 | 2017-08-18 12:45 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「学級担任による指導の違い」と私事への介入という不幸

京都府下の小学校教諭から、とても興味深い話を伺う。

ここに紹介しても構わない、と了解を得たので、できるだけご本人の言葉で以下を記す。

…給食指導についてある先生は「魚の骨は全部食べないとダメ」と厳しく、一年生の子どもが残した骨も、その骨だけで食べさせていた。対して別の先生は「骨なんか残したらいいよー」と言って、三年生の児童で魚が苦手な子はどんな魚の骨も残していた。「残してもいいよ」との声が聞こえる一年生は、担任教員の見えないように骨を床に落とす様であった。

さてこの学校は、全校ランチルームでの給食だったため、こんな正反対の指導ではいけないと、給食主任だった自分は悩んだ。そして、一番大切なのは子どもが自分で食べる、食べないを判断できるようになることだと思い、「小アジの南蛮漬とかシシャモフライのように骨ごと食べられるものと、鯖の煮付けのように残すべき骨のあるもののあることを会議で確認し、魚の種類、部位、調理方法によって、食べる、食べないのちがいがあるのだと、全体に伝えた。

予め相談していた料理員さんからも「今日の骨は食べられるよ」とか「今日の骨は残してね」と骨入れの器を置いて下さるようにもなった。骨を食べるのは、お皿が綺麗になり、カルシウムも取れる反面、大きな骨を食べさせる危険も伴う。…

給食とも繋がっているが、食事のありかたは優れて私事だろう。そこに教員がいわば自分の好みでときに客観的基準を無視して、指導という名前の暴力を振るうことは、教員みずからが、保護者そして児童との葛藤状況を生み出しているとも言える。

教員間の違いが児童に不幸をもたらすだけでなく、いっそう正解のない問題にさも正しいかのように振る舞う各教員の存在もすこぶる問題である。「モンスター・ペアレンツ」は保護者だけによって誕生するのではない。私事ごとに当然かのように口出しをする教員の言動を受けた場合もあることを踏まえなければならないと思う。


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by walk41 | 2017-08-10 21:16 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

いじめはこうして起こる

現職の教員の皆さんと時間を過ごす。

話の発端は、信念や主義・主張にも依る教員の職務上、学級、学年間で教員の違いがあり、連携や一貫が難しいのではという私からの問いかけに対して、こんなクラスを担任したことがあるというエピソードが寄せられたことだ。

新しいクラスになって、給食時間、児童が列をなすのでどうしたのかと尋ねると、前の担任は、給食当番のエプロンを忘れると、みんなに迷惑がかかるから、前に出て全員に謝らせていたのだという。この習慣が残っている児童は、担任教員が替わったにもかかわらず、そうすべきものと思い、謝るべく並んでいたのだ。

確かに忘れ物をするのはよろしくない。けれど、それは全員を前にして謝らせるほどのことだろうか。忘れ物が繰り返されれば、きっと否定的なアダ名も付くだろう。そのラベリングが、「クラス困り者」として排除されていくだろうことは容易に想像できる。

かくして、いじめは正義とセットで起こる。そのきっかけを担任教員が作り出している場合もある。正義を振りかざすことが危険だとは、このことからも導ける。

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by walk41 | 2017-08-09 16:26 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「前のクラスに帰る?」

前年度の学級担任の指導がいわば入りすぎていて、引き継いだ教員が苦労するという話の絡みで、次のようなことを言う教員もいると聴いた。こちらは、九州の小学校である。

新たな学級担任が、前の学級でのやり方と違うことを児童に求める。たとえば、挙手の仕方(グー・チョキ・パーを示すのか否か)が違うと、子どもが「前の先生が言ってたのと違う」と反応する。すると、教員はこう言うそうだ。「じゃあ、前のクラスに帰る?」「じゃあ、このクラスに居られないね。」

これはもう立派ないじめではないか。問題は、スタイルを調整できない教員たちにこそあるのに、教員によって対応を変えられない児童が責められるというのは。

これまた教育委員会系の言説には、「報告・連絡・相談」が大事だとある。けれど学校での実態は、「こんな風に学級の子どもに接してきました」と報告や連絡はなく(ところで、報告と連絡はどうぞ違うんだ。ホウレンソウという語呂合わせのためだけなのか)、「どうしましょうね」と相談もない。

「私は好きにやるから、あなたも好きにやったら。だから、お互い干渉しない、言いっこなしね。同僚性が大事だもんね。」

「見猿聞か猿言わ猿」であることが、学校という職場で「仲良く」あるための必須条件である。


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by walk41 | 2017-08-08 14:17 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校が壊れた

2011.3.11の東日本大震災で地震と津波の被害を受けた学校の一つ、仙台市立荒浜小学校を訪れた。震災遺構として、2017年春から一般公開されている。

津波といっても海水だけがやって来るわけではない。途中で飲み込んだあらゆるものが渾然一体になって、いわば塊として押し寄せて来るのだ、ということを、当時の写真や校舎に残された傷あとから知ることができた。

一階の保健室にやってきたのは、複数の自動車である。すでにかなり潰されたクルマが諸々のものと一緒に、窓を突き破って屋内に突っ込んだ。児童と教職員、避難してきた住民はすでに二階以上に上がっておられたようだが、凄まじい破壊力だったことだろう。

日頃、授業やゼミあるいは研修で、学校の暴力的性格を述べる自分ではあるけれど、こうして学校が壊れていったさまを知るに、形容できない悲しみに襲われる。児童・生徒と教職員が一日の一部ではあれ、生活を送る場である学校の大切さにも改めて気づかされる。

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by walk41 | 2017-08-08 11:17 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

連携も一貫もしない教員の業務

大阪府下の小学校に勤める教員から、これまた興味深い話を聴くことができた。

クラスの児童を新たに担当することになったが、授業にて子どもが発表する際に椅子を押し出し、立ち上がり、発表の前に椅子を引くという動作を、何度言っても止めさせることができず、もう諦めたと嘆いていた。

この教員は、こうした一連の動作が床に対して立てるギーギーという騒音の煩わしさと時間の浪費の点から、「そうしなくていいのよ」と子どもたちに言い続けてきたが、前の学級担任がこうすべきだと児童を指導してきたことの影響力がいまだ強くて、子どもたちを変えることができないのだ。「前の先生はこうしなさいと言ってたから」というのが理由である。

教育委員会やその筋の「研究者」は、「学校教育目標の実現のために、教員の個業性を排して、協業しなければならない」と、PDCA論、リーダーシップ論などを駆使して説教するけれど、現実はこんな感じだ。翌年に担当する教員のことなど微塵も考えず、信念にもとづくマイルールにしたがい「自分らしい」学級経営をする。それが強烈であればあるほど、子どもを感化することになるから、後に残る影響も小さくはない。この「後始末」は誰がするというのだろうか。

こと小学校での学級や授業の経営については、教員間の連携はもとより、一貫など夢想に近い。それぞれが自分の好きなスタイルで児童に働きかけ、「いいクラスだったね」と学級担任を終えると、その後のことは関知せず「我が亡き後に洪水は来たれ」となる。教員にこうして翻弄される児童は、まったく気の毒なことである。

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by walk41 | 2017-08-07 15:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「深い対話的な学び」

京都府下の小学校に勤める教員から、興味深い話を聴いた。


教育課程の管理について、この学校の高学年には「個性」の強い教員が多く、いきおい社会科の授業が増えていると。昨年度は学習指導要領に示される授業時数の2倍近くを社会科に充てていたという。

授業の週案や実施後の報告とは大きく異なる授業回数をしていることは、公然の秘密となっており、管理職もこれを是正するように何故か強く言えないのだとか。まあ「やったもん勝ち」である。

この点について、話してくれた教員は同僚としてやんわりと問題があると指摘するものの、こう返ってくるのだそうだ。「深い対話的な学びのためには、多くの時間が必要だ。」なるほど、深い学びのためには時間もそれだけかかるのかあ。他の授業を削るほどにね。

新しい学習指導要領のキーワードが、もはやギャグの様相を呈していること、また、教科や領域ごとに定められる授業時数と実際のそれとの間には立派な「二重帳簿」があるだろうことがわかる。


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by walk41 | 2017-08-07 10:44 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校での暴力はいまなお「健在」か

学生のレポートを読んでいると、彼ら/彼女らがどんな子ども時代を学校で過ごしたかが垣間見える。

ある学生の場合、小学生さらに中学生に至ってまで、算数・数学で用いる大きな三角定規で授業中、教員に頭を叩かれたことを記していた。中国地方の公立学校での話だ。当の学生は、今なお暴行だとは意識していなかったが、それほどまでに馴染まされてしまっていることが、大変残念である。

あるいは別の学生は、小学生の頃、教員が竹刀を持って教室をうろついていたことを記憶している。子どもに向かって振り上げられることはなかったそうだが、恐怖心を植え付けるには充分だったことだろう。

また、これは直接に聞いた話だ。この学生が在籍した公立中学校で、定期テストの理科の問題を解けなかった女子生徒が、何を思ったか、たとえば「ラーメン」とか「ご飯」とおよそ正解とは思われない言葉を解答欄に書き込んだ。このことに対して、担当教員がテスト返却の際に、クラスメンバーの前で彼女を激しく叱責したという。

下品な表現を許していただくならば、自分のことをなめた真似をして許せない、という怒りだったのだろう。もちろんこの生徒の行為が褒められたものではないにしても、そのことを公衆の面前でなじるのは、どのような教育論に基づくものだろう。きっとそのようなものはないのだ。恐らくは、自分の感情を抑えられず、反発が起こらないだろうと踏んで無茶ぶりを発揮したと思われる。

教育効果をどう捉えるかという議論もあるけれど、小学生6年生の7年後、中学校3年生の4年後は大学生である。比較的短くその効果のいかんは明らかになるではないか。「後生おそるべし」と心して児童・生徒に臨んでこそ、リスクマネジメントにもなると言うべきだろう。なのに、こんな事例が聞こえる学校っていったい…。





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by walk41 | 2017-08-03 15:00 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

PTA

学生と授業をするのは基本的に楽しい。「内職テロ」や明らかに妨害的なシーンに出合わない限りは。

概ね熱心で好意的な学生たちと話をする。お題は、PTAのあり方についてだ。この団体を巡る怨嗟には事欠かず、学生の保護者の苦労話も多く出される。そこで考えてみよう。たとえば、全員加入を強制するのではなく、やりたい人がやるというボランタリーな性格に改めるという案はどうだろうか。

たしかに、活動規模は縮小されるだろうし、この点で学校も手助けが減る点で困るだろう。ところが、これ以上に問題が起こることに授業の中で気づかされた。それは、PTAが保護者としての代表性を担保できなくなることである。

消極的な人が仮に構成員の多数であっても、全員加入であれば、そこでの決定や活動は会員の総意に基づく、と立論できる。秘密選挙で役員が選ばれているのだから「民意」を受けていることになる。

これに対して、ボランタリーなグループであれば、保護者としてのPTA代表性を主張できなくなる。「やりたい人がやってるんだからいいんじゃないの」とは言えないところがネックだ。

たとえば、このグループが「運動会のスムーズな運営に協力したい。ついては、子どもの撮影は広報の腕章を付けている人以外は認めない」と決めたとしよう。それに異を唱える人は「そんなことを勝手に決めるな」と立腹するだろう。あるいは「卒業を控えた子どもと保護者、お世話になった先生たちと日曜日に昼食会をしたい」と決めても同様だ。「ウチはそこに入っていないから、先生に良く思われないんじゃないか」と邪推されるかもしれない。つまりは、その集まりが代表性を担保できないゆえに起こりうる問題である。

代表性を持ち得ないグループの存在は、学校にとっても困る。偏っているのではないか、一部の利害を優先しているのではないか(今風に言えば、「お友達内閣」がダメなことに通じる)、常に心配しなければならないからだ。かくして、PTAが全員に入ってもらっていなければならないと帰結される。それがどれほど消極的な人に占められていたとしても、代表性を持ちうるからだ。

現状に問題があり、どうしたものかと悩むテーマは多いけれど、じゃあどうすればいいかと舵を切るための妙案がなかなかないことも、また事実である。これを突破できるような大なり小なりの勇気、そして思考体力が要るのだと強く思わされる。

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by walk41 | 2017-07-28 11:07 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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