学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:学校教育のあれこれ( 615 )

スクールソーシャルワーカー

ドイツの友人が、学校ソーシャルワーカーに関する年次報告書(Förderung derJugendsozialarbeit anöffentlichen Schulen)を送ってくれた。彼女はスクールソーシャルワーカーとして10年以上働いており、ソーシャルワーカーとしての経験は20年以上になる。私が以前から、この分野の勉強をしてみたいと話していることを覚えてくれているからだろう(申し訳ないことに、言っているだけに留まっており(^^;))。

そこで今回「少しは勉強します宣言」として、以下、彼の地での学校ソーシャルワーカーに関するデータのごく一部を、皆さんに紹介したい。

ドイツの南西部の州、Baden-Wuerttemberg州は人口およそ1088万人(2015.12.31現在)、3627の普通教育学校、309の職業学校が置かれている。これらのうち、学校ソーシャルワーカーSchulsozialarbeiter(SSA)が配置されているのは、普通教育学校の2051校、職業学校の202校、全体の6割弱に相当する。また午後も学校での活動が行われる全日学校(Ganztagsschule)での配置率は約75%、学校の開かれている時間が長いほど、SSAの配置の高いことがわかる。

スクールソーシャルワーカーは、同州の約52.7%の市町村に置かれ、働いているのは2060人(2016.7末現在)、100%勤務のスタッフが16.6%に留まることもあり、フルタイム勤務相当に換算すれば1341.29人になる(ドイツでは教員もパートタイム勤務が少なくない。ご興味のある方は、榊原禎宏「パートタイム労働としての教職像-ドイツにおける教員の検討から-」『京都教育大学紀要』117、201009)もご覧下さい)。SSA配置に関わる費用は約2228万ユーロ(1ユーロ=133円換算で、約28億9640万円)、6歳から18歳までの青少年1000人あたり、1.07人(フルタイム勤務に換算して)である。ただし、この値は0.66から1.90と郡市間の差が約3倍に上る。学校種による配置率の違いも2倍ほど見られる。

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日本のスクールソーシャルワーカーの全体の配置数、青少年あたりの配置数、行政区や学校ごとの配置率、費用などはどんな様子なのだろうか。これらは、教員の「働き方改革」とも関わることだろう。まずは量的な把握をしたい。

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by walk41 | 2017-10-14 10:59 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

目標を実現することが即、教育の目標ではない

いずこの世界もそうかもしれないが、カタカナ語というのは、新しいもの好きに濫用されやすい。学校教育の世界の今なら、アクティブ・ラーニング、ルーブリック、パフォーマンス、といった辺りだろうか。けれど、これらは慎重に扱われなければいけない。

パフォーマンスについて、次のような説明を複数見たことがある。それは、スポーツのルールを学ぶことと、実際の試合に出ることとの違いを例に挙げ、いわゆる学力は前者だが、パフォーマンスは後者に属するというものだ。

確かにそう言えることはわかる。たとえば、英語を例にすれば、英文法がわかっていることと、実際に英語を話したり聞いたりできることには違いがあり、実際に生きて働く力、あるいは「生きる力」を問うならば、より後者の理解がなされるのはもっともなことだからだ。「机上の空論」だけではそのまま実用的、つまり何らかを現実的に達成する(パフォーマンス)に足るとは言えない。

ところが、こうも言える。学校を中心に学ぶとされてきた、学力(江戸時代までの言い方に戻ろう。「がくりき」-学問に関する力である)は、実際に生きて働く力(実学という言葉は今も残っている)と区別され、いわゆる教養として問われた。だから、今風にパフォーマンスと言おうとも、実際的な力、すなわち実学と学力がはたして直線的につながるかどうかについて、吟味が必要だ。

たとえば数学、因数分解を知ったからといって、その分野の素人として生きる上で、そのパフォーマンスはどれほど重要だろうか。個人的な経験の限りだが、現実世界で数学を使う機会はまずない。ところで、高校数学Ⅰまでが出題範囲だった大学入試共通一次試験(今の大学センター入試と言ってよい)で、私はほぼ満点をとった(自己採点なので、そのはず)。けれど、スポーツの試合のように、学んだ数学を使う機会がないのだ。結局、学校でやっただけ、の代物である。

この点で、生きて働く力は状況に依存的、社会構築的であり、文脈を抜きに取り出すことが難しい。つまり、パフォーマンスは、ゲームに勝つためという文脈の中で初めて問われる。バスケットならば相手側のゴールへ、バレーボールならば相手の陣地内へボールを運ぶことが意味を持つのは、そうしたルールがあるからに他ならない。サッカーに興味がない人にとっては、「どうして玉転がしや玉蹴りにあんなに懸命なのだろう」とゲームを見るのが関の山である。

あるいは、学力が実学につながる訳ではないことは、違う点からも説明できる。それは、学力とは世の中を懐疑的、批判的に見る目を養うことを含んでおり、学力を得た結果、その内容が無意味である、不明であると判断する余地を残している点でも特徴的である。

たとえば、歴史を学んで得られることは、歴史は同じことを繰り返さない、ということかもしれず、詩を学んで得られるのは、なかなか理解するのは難しいということかもしれない。こうした学力は、パフォーマンスには直接にはつながらず、ときに、何かをしないほうが賢明という結果に至る可能性すら持っている。実用的には「それがどんな役に立つのか」を問題にするけれど、学問的には「役に立つ/立たないとはどんな点で区別されるか」とメタ的な能力を求めるからである。

以上の点で、パフォーマンスとその元になるルーブリック(マトリックス、フレーム、といってもいいのではないだろうか)は、行動主義的な発想に基づいており、「何かをしない」という余地は乏しいように思われる。たとえば、コミュニケーションが、もっぱら「話し合い活動」かのように捉えられるご時世にあっては、致し方ないのかもしれないけれど、沈黙もコミュニケーションであり、コミュニケーションとは関係性の所産であり、自分だけでどうにかできる訳ではない、という理解もできるのが学問的というべきである。

コミュニケーションは目力が支え、以心伝心こそ重要といった主張が出てこないのは、可視化に対する何となくの信頼、説明責任という言葉への疑いのなさ、PDCAサイクル万歳、といった「学力問題」ゆえでもある。何かをする/できることばかりに目を向けず、何かを見る/知ることによりより傾注すべきだと、個人的な立場として私は思う。



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by walk41 | 2017-10-02 22:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

全校集会

南ドイツの初等・中等学校にお邪魔した。9月から始まる彼の地の学校にとって、新年度が始まって間もない時期に来客を迎えるのは、決して容易ではないと思う。訪問を快諾下さった校長先生ほか皆さんに深く感謝したい。

さて、新しい学年の始まりは、特に新入生にとって重要だ。どんな学校なのか、どんな人たちがいるのか、多くの児童・生徒に不安と期待が押し寄せているだろうから。そこでこの学校は、「褒める文化」(Lobkultur)を育てるべしと、校長の発案で、全校生徒およそ400人と教職員が月に一度、全校集会を開いていると聞いた。ちょうど、訪問した日がそれに当たり、日本から来た客と紹介されたとともに、ほんの少しだけご挨拶もした次第だ。

そこで驚かされたことの一つは、夏休み中に新校舎建設に関わって尽力した施設管理者(Hausmeister)、新しい学習材開発に取り組んだ教員ほか、と紹介して立ち上がらせては多くのメンバーを褒め、拍手を繰り返した校長の進行手腕だった。新しい教職員、一年生と五年生という、新入生の紹介の際も、楽しくこれからの学校生活をワクワクさせるすすめ具合だった。ともすれば、儀式は厳かであるべきと考え、言い方を変えれば暗く、重苦しいものにしがちな当事者に一人として、こんな進め方もあるのだと反省もさせられた。

もう一つの驚きは、集まったメンバーの座り方である。一年生はここ、二年生はその隣、そして一列に並ばせ、その順番も決まっている、集会が始まる前には学級担当などが生徒の様子を見て回り、服装や格好について「指導」する。そんなスタイルとは全く異なり、大人の集会のよう、つまり、司会を中心にいわばぐちゃっと集まっているだけで、列をなすわけでも、順番があるわけでも全くない、混沌としたさまである。どこに誰がいるかを全体としては掌握できない。好き勝手にいるのだ。

もちろん、起立、礼といった所作もなく、「顔を上げて話を聴くように」といったお小言もない。私のそばでは、寝転んでクラスメイトの膝に頭を預けていた女の子もいた。教員も適当にその辺にいるというだけである。さすがに、今日が登校初日の一年生の担任は、固まって座る児童たちの側にいたけれど。

それでも、決められた時間まで集会は静かに進み、かつ拍手と口笛も飛び交った。いい雰囲気だったと思う。そしてさらには面白いことに、予定された時間(5時間目だった)が過ぎると、生徒たちはとたんに騒がしくなり、ヤッケを着込むと帰り支度を始めた。

司会の校長が「最後に…」と話を終えるかどうかくらいで、みんなは立ち上がり、むろん一斉の「礼!」などあるはずもなく、校長が「ではまた明日」と上げる声もかき消されるくらい勢いで、蜘蛛の子を散らすように、ぱあっと去っていったのだった。ああ面白かった。





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by walk41 | 2017-09-19 06:32 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

机の距離

ご覧になった方もいるだろう。テレビの民放「学校に行こう」の中に「未成年の主張」というコーナーがある。校舎の屋上から生徒が全校に向かって叫ぶという企画である。往時はすでに15年ほど前かと思うけれど、web上に上げられているので、懐かしく観た。

その中に、こんな「主張」をした男子中学生がいた。クラスの憧れの女子生徒に近く自分の席があり、その距離は30センチメートル。近いところに座れて、幸せな日々を送っていたらしい。続けて彼は叫ぶ。「ところが、学校の妨害が入りました」「席替えです」。可哀想なことに、彼は彼女と5メートル50センチメートルまで離れることになった。環境が一転した様子に、彼はこれを機にと、彼女に好意を告白することになる…

ことほどさように、座るべき席が決められている条件のもとでは、どこに座るかが生徒にとって極めて重要になる。ある生徒にとっては、近くに意中の人がいることは励みになるし、その逆も然りだ。言わずもがな、生徒は学級を中心に「学校生活」を送っている、生活をしているのであり、そこには喜怒哀楽、愛憎が交差する。思春期と言われる時期の生徒にとっては、それこそが学校に通う誘引になったり、学校に行きたくなくなる要因だったりする。私たちも自分が中学生、高校生の頃を思い返せば、思い当たることもあるだろう。

なのに、教育する側に一度回ってしまうと、生徒を見る目は、授業指導案に見られる平べったい「生徒観」に回収されてしまい、ある生徒にとって、教室がどんな場であるかを考えることはおろか、想像することすら忘れてしまう。「好きな子が近くにいるから、いい格好をしようとする」「好きな人に出しゃばりと思われたくないから、控えめな態度を取る」といった、当たり前の出来事に目をつむり、それぞれの生徒と生徒間の関係を観念的に捉えてよしとする。生徒との関係で最前線にいる教員が、頭でっかちの、机上の空論を振りかざそうとするのだ。

大人になれば、そんな恋心を甘酸っぱく思い出すだろうが、渦中の生徒にとっては大問題である。こんな世界が教室にどっしりと横たわっていることを踏まえて、どんな授業論が可能だろうか。彼ら/彼女らにいかに影響を及ぼすことができるだろうか。

そもそも、生徒たちによって生じる力学に授業者はいかに影響を受けてしまうのか。また、影響を受けた場合の、自身のマネジメントはどうありうるのだろうか。こんな基本的なことを確かめずに、「教員の働きかけに対して、予想される生徒の反応」といった、現実離れした話ばかりしていていいのだろうか。





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by walk41 | 2017-09-01 22:41 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「余計なこと」で経営資源を無駄にしてはいないか

家人から、小学校時代の思い出話を聴く。

高学年だった時の給食の時間、担任だった教師は、牛乳瓶の紙キャップを置くためのザルをどこから持ってきたのか、班ごとに用意する一方、牛乳が滴れることからそこにティッシュを敷くように言ったという。また、誰がティッシュを用意するかは、それぞれの班の「自治」に任せるべく、児童につもりさせていたのだと。

4人ほどの班だが、いつの時代も同じかどうか、多くの男の子はティッシュなど洒落たものを持たないから、勢い女の子がティッシュを出すことになる。さらに、女の子の中でも、いつも携えている子とそうでない子に分かれるから、家人は結構な確率で、ウサギの図柄が入ったような可愛い系のティッシュを提供することになった。毎日のことだから、子どもには結構な負担だったことだろう。今は言う。「そういうものを子どもに出させるのは、おかしいと思う。」

加えて、誰もティッシュを出せなかった時、担任は児童を叱ったとも聴いた。それって本末転倒だろう。ジャムやマーガリンの包装容器と同じように、食器を下げる時に一緒に片づければ済む話じゃないの。なぜそうしなかったのだろうか、うーむ。

こんな儀式があったのはこの学年だけだった、ということは、学校の方針でも何でもなく、学級担任教師の「好み」に過ぎないことを、児童に押し付けたものだったこと、要らない(この教師にとっては必要な)儀式のために、自らの認知的、感情的資源を浪費し、しかも児童に徒らなストレスを与える点でも、無駄なことであった。そんな拙い意思決定をしたのも、担任教師である。

この教師は、他の教員たちと情報や意見の交換しなかったのだろうか、学校管理職はこのことに気づかなかったのか。学校では副校長、主幹・指導教諭と職位が増えて、統制が強まった、教員評価が入って窮屈になったと言う人もいる。けれど、裏を返せば、どれだけ個々の教員が裁量を持ち、言わば好き勝手にしていたのか、今なおそれを謳歌しているのか、を見つめる必要もあるというべきだろう。

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by walk41 | 2017-08-30 07:56 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

裁判官ぶる教師

読売新聞Web上の「発言小町」というコーナーをよく見せてもらっている。そこに、35年前の学級担任だった女性教諭の理不尽ぶりを投稿した主がいた(http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2017/0826/816715.htm?g=01)。


小学校高学年に転校生だった投稿主が、クラスで激しいいじめに遭い、持ち物を壊される、汚されるという被害も受けたことから、保護者が学校に相談したという。


すると、驚くべきことに、学級担任だった教職三年目の女性教師は、クラスみんなの前で、こうした行為をしたのかと尋ね、していませんと声の上がるのを待って、次のように宣ったらしい。


先生はみんなを信じています。いじめなんかする人はこのクラスにはいない。そんな子が一人もいないことを、先生は一番よく知っています。(投稿主に向かって、壊された鉛筆を握りながら)こんなことまでして、あなたの心は本当に醜いですね」


35年と十分な時が流れたにもかかわらず、投稿主は今なおこの季節を迎えると憂鬱になることがあるらしい。気の毒なこと、この上なしである。


学級経営という名前の「自分好みの学級づくり」を志向すると、学級担任は教員ではなく教師になり、マイルール、マイウエイと我流を行き渡らせようとする。学校あっての自分の職務なのに、そんなことお構いなしに、専制君主と化す。これが学級王国である。


ここに、学校のメンバーという組織人であること、また国家以下の公権力が控えていてこそ自分は「上から目線」を取りうる、ということを忘れた恐ろしさが見える。そこに公共性は担保されない。法令遵守(コンプライアンス)も一顧だにされることはない。それが、上のようなおぞましいエピソード生み出す。いじめがあるのかどうかの事実を調べる立場なのに、「いじめる子はいない」と一足飛びに判決まで下しているのだから。弁護士も裁判官も要らない横暴ぶりである。


子どもがまだ小さい、小学校で働く教員に対して強く思う。なぜ自分が「先生然」とできるのか、その由来について知り、考えるべきだと。相手が従ってくれているから「何となく」偉そうに振る舞うのではなく、どうして相手が少なくとも表向き従順なのか、を不思議に思う感性を保ってほしいと。



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by walk41 | 2017-08-29 14:03 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

後手後手かなあ

来年度予算に計上すべく、文部科学省が教員支援策をまとめていると報じられている(朝日新聞、20170828ほか)。先日、年収100万円台で、計画的に進めにくい教員の業務に対する臨機応変な補助をお願いできる人が見つかるだろうかと記したが、他のアイディアにも首をかしげるものがある。多忙な学校現場を何とかしたいと思う、文部科学省の努力は認めるけれど。

たとえば、「外部の部活動指導員7100人への補助」に15億円を想定しているという。一人当たり20万円くらいだ。補助率を何割くらいで想定しているのかわからないが、プリント補助などを担うという「スクール・サポート・スタッフ」が3分の1の補助というのに倣うと、部活動指導員に約60万円を支払うつもりをしていることになる。

時給を1500円とすれば、勤務可能な時間は年間で400時間、月あたり33時間ほどになる。月曜日から金曜日までの平日は1時間半、土曜日または日曜日は4時間と考えると、週あたり11.5時間、月に3週間くらいならば担当できるだろうという算段だろうか。ところが、これは直接に生徒に接する時間のみであり、その準備、記録整理など、事前と事後の時間は含まれていない。もちろん、大会ほか対外試合への引率の時間も入っていないだろう。

くわえて、「スクール・サポート・スタッフ」と同じように、そもそも一日あたり2時間あまりという短い時間を、毎日のように工面してくれる人がどれほどいるだろうか。現実的な線で考えている人に対して「無い物ねだり」になり申し訳ないけれど、現状を微修正しようとすると、木に竹を接ぐ格好になり、どうも上手く行かないように思うのだ。後手後手の感を否めない。そうではなくて、部活動を学校の外に持っていく、あるいは、補助ではなく、学校スタッフとして部活動(のみ)担当する新たなポストを設ける、といった抜本的な方向でなければ、

そこではより大胆な、けれどもある意味で当たり前とも言えるアイディアが求められる。教育課程に含まれない部活動に従事するスタッフの費用を、公的に支出するのを多くの人は認めないだろうと踏んで、部活動は私的活動だと明確にするのだ。部活動をもっとやれという熱心な保護者も多いということならば、その費用を当該の保護者に出してもらってはどうだろうか。

年間100万円くらいで来てくれるのならば、部員数で割れば、たとえば一人当たり3万円、あるいは5万円。この水準の費用の負担を保護者や生徒に求めることは、あくまでも個人的には、さほどアンフェアとは思われないのだけれど。「学校ではないけれど学校的な活動をしている」学習塾に充てている私的費用を考えれば、部活動も同様だと主張することが、無茶苦茶だとは言えないだろう。いかがだろうか。




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by walk41 | 2017-08-28 21:46 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

やっぱり「上から目線」であってこその教育

「相手の気持ちをくみ取り、自分で判断して行動できるようになってほしい」と記した、小学校社会科の指導計画を目にする。うーむ、これは社会科の目標なんだろうか、そうだとしても、相手の気持ちなど汲み取ることができるんだろうか、と思いながら、駅に向かった。


すると、60代だろうか、いわゆるむさ苦しいオッサンが、別の客に対応しているにもかかわらず、駅員の袖をはたくように、「京都行きは次、何分や」と訊く。目の前の電光掲示版に示されているのに、である。それでも、駅員は親切に「55分です」と答えたら、このオッサンは次に「いま何分や」と宣う。おいおい、それは人にものを尋ねる時のセリフとちゃうやろ、と心の中でうそぶく。「50分です」と駅員はあくまでも丁寧だ。偉いなあ。


この御仁はまだ終わらない。「55分やな」と駅員に畳み掛ける。ええ加減にせえや、あんた。さすがにというか「そうです」と駅員の声が上がった。そりゃ、腹も立てるだろう。


困ったもんだ、と券売機に向かうオッサンを見たら、改札口を通り際に、持っていた帽子をこちらに向かって振り回し、こっち見るな、と闊歩していった。


さて、こんな人に相手の気持ちを汲み取ることを期待していいだろうか。そもそも、自分の気持ちを汲み取れているだろうか。無理だよね、きっと。


ことほど左様に、教育という世界に長くいると、人を変えること、いささか過激に言えば、操作することに違和感を持たなくなる。そこで抜け落ちるのは、操作できるのかという技術の観点と、操作していいのかという倫理の観点である。このいずれも、できるだろう、そうすべきだと、根拠のない「できる論」と、教育する側の善性を疑わない「べき論」が跋扈する。


指導目標や指導計画など、相手の子どもにとっては、どうでもいいことである(もちろん、先の御仁のような人ほか、大人にとっても)。子どもに関わることなのに、当の子どもには知らせず、ましてや相談もせず、勝手につもりをすることが暴力的でなくて、何だというのだろうか。


「上から目線」を保たなければ教育はまったくやりにくい。けれど、それが罪深いことでもあるという自覚と対応する言動を伴わなければ、恐ろしいことである。この両者を持ち得てこそ教育に携わることができる。このための指向性、思考と行為に関わる体力が必須な所以である。


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by walk41 | 2017-08-27 11:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

リフレクションは仕掛けられるか

新聞の投書欄を読んでいて、あれ、見覚えのある名前だと思い当たった。ゼミは違うけれど卒業生だ。

もう小学校教員になって5年目くらいだろうか。初任期をおおよそ過ぎ、「一人前」に仕事をできるようになっていることだろう。

彼女は記している。「五年日記」をつけており三年目になるが、子どもとのやりとりで、ともすれば「やりがい」のあり過ぎる慌しい日々を送る中、以前の日記を読み返すと、今とは違う受け止めをしていることに気づかされる、と。読み返すことで、また頑張ろうと元気をもらえるのだろう。

大変だろうが、まずは元気に過ごしている様子を知るに嬉しく思うと同時に、こうも考える。こうした振り返りのできる教員は、たとえば日記というツールを通して、リフレクションできる仕掛けを自ら設定しているのではないだろうか。

教員の職能成長・職能発達にとって、リフレクションの重要性が指摘されて久しく、実習を終えた学生の振り返り、校内研修での話し合い、集合研修での自己省察と、何でもリフレクション状態にまで陥っている(ゼミ修了生の嵯峨根早紀(2017)「教員の力量向上における『reflection』議論の分析ー1990年以降の小学校教員を対象にした文献を中心にして」を参照)。そこで問われるべきは、この言葉が濫用されているという点もさることながら、それがどのようなものであれ、「振り返りの機会を設定すれば、反省的思考が促される」と想定することが誤りではないだろうか。

上の彼女のように、自分の様子を観察し、周りとの関わりを記述する姿勢や能力を持っている教員こそが、リフレクションの機会を得ているのであり、そうした場やチャンネルを本人以外が設けても、はたして有意義だろうか。「研修に来てほしい教員は来ず、来なくてもいい教員が研修に来てくれる」とボヤいた研修担当の指導主事の言葉を思い返すと、職能成長はつまるところ、その人に相当程度まで依るのであって、周りから研修や修養と持ちかけても、きっとダメなのだろうなあと思わされる。

と同時に、その人の内的な指向性にまで迫るような問いかけがあれば、リフレクションが促されるかもしれない、と考えるならば、それを担う講師や主任あるいは管理職が、自身を開示して問題を挟み、相手と対峙する必要があるとも感じる。はたして、そんな能力や覚悟は当事者にあるだろうか。

教職が人格的な行為であり、その人ならではの性格を色濃く帯びていることを踏まえれば、通り一遍の質問や、マニュアル化された手順で、相手が変わることが期待できるはずもない。やり方や手法として研修や講習が設計されること自体が拙い、とも知るべきではないだろうか。

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by walk41 | 2017-08-26 12:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

どこまで分業できるか

教員の長時間労働を改善するため、文部科学省は教員の事務作業を代行する「スクール・サポート・スタッフ」を全国の公立小中学校に配置する新制度の導入を決めた。…(中略) 文科省によると、サポート・スタッフは都道府県教委がパートタイムの非常勤職員として雇用し、来年度は全国約3万校ある公立小中学校のうち規模の大きい3600校に配置する。文科省はその人件費の3分の1を補助する。担当する業務は児童生徒に配るプリントのコピーなどの授業準備のほか、校内掲示物の作成、行事や会議の準備・片づけ、調査統計のデータ入力などを想定している。(読売新聞、20170825)
……
スクール・サポート・スタッフ」の配置に、都道府県教育委員会に14億9000万円の補助を予定ということだから、一人あたり41万円ほど。これが三分の一ということは、年間123万円ほどで雇うことになる。時給を仮に1000円とすると、年間労働時間は1230時間、月あたり100時間くらい、週に23時間程度だろうか

この10年間に教員の勤務時間が増大しているという「教員勤務実態調査」の結果を受けてのアイディアだけれど、二つのことを考えなければならない。

①上のような報酬で業務に適う人が得られるかどうか。「これを40部印刷しておいてください」と大学の非常勤先などで、予め授業レジュメを渡しておけばやってもらえるような業務ならば、イメージは湧く。けれど、行事や会議の少なくとも準備となると、内容をよく理解しておかなければならない。それなりの学歴や経験も必要だろう。そうした人を、年間100万円代で見つけることができるだろうか。

ちなみに、入学式・卒業式や文化祭などの準備は、一時的であれ多くの頭数が必要になるから、学校あたり一人ふたりの「SSS」(スクール・サポート・スタッフ)がいても、それほど助かるわけではない。それは、教育実習中の学生に手伝ってもらうというイメージを超えないのだ。

②①とも関わるが、業務が固定的であって、そこに人が付くというよりも、流動的な業務を人が追いかけるという趣きが強い学校の業務(榊原「学校組織構造のメタファー」『京都教育大学紀要』113、2008)は、その性格ゆえに個人の裁量に委ねられる部分が多く、「どうやってほしいかを説明するのに、かえって時間がかかる」と反応されかねない。

「学級便り」の印刷を例にすれば、それがいつ出来上がるかを明言できず、SSSにいつ頼むかを事前に決めることができない。反対に「頼みたい時に、いない」ことが起こるし、複数の教員から頼まれるであろうSSSも、仕事をしにくいだろう。

仕事(業務)は歴史的に個人完結型であり、それが生産規模の拡大に伴って分業化されてきた。そこでは、個人で完結する場合よりも合理的であるために業務の単純化、明瞭化が不可欠である。ところが、学校での業務の多くはこれと反対の方向にある、つまり、個人でやる方が早い、適切だからこそ、個業的な性格を色濃く持っていると解すべきではないだろうか。だとすると、一つの仕事を多くで分担するよりも、仕事の単位を小さくして、それぞれが担うという方が合理的ということになる。

だから、教員数を増やして学級や授業、あるいはいわゆる校務分掌の単位を小さくすれば負担は減るが、業務の単位を変更しないで、サブ的な人を増やすのは、部分的に助かるものの、やりとりに割かれる労力や気遣いなど、負担はかえって増大する面もある。教員間ですら、ティームティーチングは不評なのだから。

以上、教育労働の多くは個人完結的だと捉え、業務の単位を小さくする(教員数を増やす)ことの意義を踏まえつつ、それができない場合は、分業により適した業務をサブ的な人に担ってもらうという、二段構えの発想が必要ではないだろうか。

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by walk41 | 2017-08-25 10:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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