学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:ことばのこと( 485 )

マンションポエム

家人が面白いページがあるよと。分譲マンションの広告、マンションポエムだ。

高級度つまり価格が高くなるほどにポエム度が強まるキャッチコピーだが、分析に足るほどにたくさんの分譲マンションが建っていること、そしてそれらの広告を集めていることに驚かされる。

そのページの一つを覗くと、こんな広告があるのだそう。以下、https://matome.naver.jp/odai/2139472254796167801、より拝借。なお、マンション名は略。

考えた人の苦労が偲ばれる。また、マンションを売るにはかくもイメージを沸き立たせなければならないということもわかる。使用価値や交換価値ではなく、象徴価値がより意味を持つモノだということが。


静寂と躍動、伝統と進化… 神宮前1丁目、ここには本質の全てがあります。


解けない魔法を、この地にかける。


その都心の『丘』は、美しい人生の叡智に充ちている。


そこは、成城でもなく、仙川でもない。そして、成城でもあり、仙川でもある。


この地にふさわしき上質を宿したマテリアルが、他にはない唯一無二の存在感を生み出す。


地の必然。飾るのではなく装う、というスタイル


失われし感動は、新たな輝きとともに甦る。陵丘の邸。かつて家康は、此の地をこう呼んだという。月の岬。


天空に舞い踊る星々のトレモロ。人々の営みを物語る地上に散りばめられた灯火のロマネスク。あるいは、早朝のまどろみから朝日に洗われつつ姿を現す都会のエクリチュール








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by walk41 | 2017-12-11 14:44 | ことばのこと | Comments(0)

question, problem, issue

これらの英単語はいずれも「問題」と訳せるけれど、どう違うかしらと、学生たちに尋ねた。「うーん」と首をひねる姿も見える。

こんな感じで捉えればいいんじゃないかな。
たとえば、いじめを例に挙げる。「文部科学省によるいじめの定義の変遷について述べなさい」と投げかけるのはquestion 、これは答えが決まっている問題だ。

これに対して「いじめをなくすためにはどんな手立てが考えられますか」と尋ねるのはproblem、事実を解決されるべきものと設定する点で特徴がある。

そして「いじめはなぜ問題になるのだろうか」と問いを立てるのがissue、その言葉が持つ意味や扱うことの意義を問い直そうとするものである。

あるいは、学力を例にしてみる。question, problem, issue の順に、
「全国学力テストの第1位は何県か」、「学力を向上させる方策を挙げなさい」、「学力が注目されるようになった背景はどのようなものか」という感じだろうか。

このように「問題」を分けることで、議論が整理できる。いわゆる基礎・基本に類する問題はquestionであり、実践的に捉えようとするとproblemになり、そもそもどんな問題かを考えるのはissue、ということだから、何のための議論なのかによって遣い分けるべきことがわかる点で、生産的な議論につながる。

話をしていて遭遇しうる違和感は、いずれの問題として扱うかが集っている人たちの間で必ずしも了解されていないことに因る場合がある。たとえば、実践家と称する人は「どうすればいいのか」と問題を捉えがちだが、研究者は「それは本当に解決すべき/解決できそうな問題なのか」と臨むことが多いので、すれ違いが起こる。

実践家は「役に立たない机上の空論」と研究者を非難する一方、研究者は実践家を指して「解決すべき/できそうな問題かどうかの見極めもできていないのに、どうすればいいのかをいたずらに求める頭でっかち」と非難する。こうした徒労を避けるためには、議論の作法に通じ、何のための話し合いになっているかを追跡しつづけなければならない。「何となくの話し合い」や「ざくばらんなお喋り」が罪作りなのは、これら故である。

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by walk41 | 2017-12-06 14:30 | ことばのこと | Comments(0)

「させていただく」

この言葉を取り上げた書籍もすでにあるので、目新しいことでは決してない。むしろ、市民権を得て定着してきたのだなあと感じさせられる昨今である。

「役員をさせていただいた」「いい経験をさせていただいた」と、自身がしたことを指してすっかり遣われるようになった「させていただく」。以前ならば、他者の領分に入った失礼を詫びる意味で遣われていたと思う。「あなたの座席を変更させていただいた」というように。自分のことについて使役的な言い方をする必要はないからだ。

けれど、この言い回しは今や中学生ですら当たり前に見られることに驚かされる。「させる」は使役ではなく、「する」の変形のように意味づけられ、これに「いただく」という謙譲が伴うという感じである。「立候補させていただいた」「発表させていただいた」と同じ調子のオンパレードなのだ。どれほど謙虚な姿勢なんだ、もっと傲慢に、いやせめて「普通」でいいではないか、「立候補を決意した」「訴えた」と言えばいいのに。

世に日本の青年の自己評価が低いことを問題視する立場がある。「自尊感情の低さが自身のなさ、生きる気力の弱さにつながっている」という論調である。けれど、この反対も言えるだろう。かくも自らをへりくだる言葉に馴染むほどに、青年の控えめさ、物腰の低さは「学ぶべき者」として、まことにふさわしいことではないか、と。

学ぶためには、己の小ささや至らなさを知らなければならない。間違っても、今のままで十分、怖いものなどないといった全能感を捨てなければならない。「自分は間違っていない」「自分以外はあんぽんたん」と思っている場合に、学ぶ必要などないからだ。この点で、日頃の言葉遣いは重要である。なぜなら知らず知らずのうちに自身を強く枠づけるから。「私のような者が」「恥ずかしながら申し上げれば」「ぜひ教えてくだされば」という姿勢は、学ぶための前提ですらある。これらを伴うことなく、「何か面白いことをやってみろよ」といったお客さん気分で教室にいられては。学ぶことなど覚束ない。

つまり、学びを促す上で、謙虚すぎる言葉づかいに親しんでいることは望ましいことですらある。こんな言い方が一部とはいえ、若い世代になぜ浸透しているのかはわからないが、「させていただく」表現に違和感を感じない人々が台頭すれば、より平和な世の中になることだろう。たとえ野心的ではないにしても。

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by walk41 | 2017-11-23 16:09 | ことばのこと | Comments(0)

「~以外は不可」

学校の文書を読んでいると、「~以外は不可」という表現にまま出合う。論理的には、「~は可」と等価だと思うのだが、この両者は学校ではちょっと違うのではないか、とは家人の弁だ。

たとえば、「水とお茶以外は不可」という表現は、「水とお茶は可」と同じ意味かと思う。けれど、学校においては次のように解釈されるのではないかという見立てだ。すなわち、「水とお茶は可」とは、他の飲み物はどうなのかという質問に答えなければならない。これは大変な面倒だ。ジュースはどうなんですか、コーヒーはどうなんですか、と。この徒労を避けるために「~以外は不可」とした方がよいという考え方が成り立つ。

だったら、「~のみ可」としたらいいのではと思うが、邪推をすれば、「不可」というおっかなさ、強い感じをアピールしたいのではないかと思う。だって、「~はいいよ」よりも「~はいけない」と言う方が、偉そうでしょう。いわゆる上から目線になっているもの。

論理的には等価であっても、感情的にはそうではないという両者間にズレがあるとすれば、このケースはそのことを説明するのに適っているかもしれない。「静かにしましょう」よりも「話を止めてください」、「~は持ってきていい」よりも「~以外は持ってきてはいけない」の方がより暴力的な感じがするのではないか、という問いである。

その一方、肯定的に表現する方が協力を得やすいという報告もなされている。「トイレを汚すな」ではなく「トイレをきれいにつかってくれてありがとう」はその一例だ。「~はできない」ではなく、「~だったらできる」という言い換えも可能だろう。「不」や「非」といった強い言葉を避けて、より受容的さらには共感的な言葉を用いることが、人を元気づけるという経験も今後さらに広がっていくことだろう。

学校が基本的に人に強いる装置としてあるのだから、それを和らげ、覆い隠す工夫は意味がある。にもかかわらず「~以外は不可」(大阪府の高校生が起こした裁判に即せば、「黒髪以外は不可」となる。「黒髪は可」「黒髪のみ可」よりも、いっそう暴力的に聞こえることだろう)という表現が今なお少なくないとすれば、学校が人間の生理や情動にまだまだ適ったものになっていないことを一つ示すものである。

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by walk41 | 2017-11-16 22:43 | ことばのこと | Comments(0)

ゴアー

コンサート・ゴアーなる言葉があることを初めて知った。コンサートによく行く人、辞書を引くと、concertgoer である。和製英語かとも思ったが、churchgoer, theatergoer という言葉もあるようで、英単語だった。

面白いのは、家人は久しくこのコンサート・ゴアーという言い方と意味を知っていた、にもかかわらず、ゴアーがgoer(go-er:行く人)とは認識していなかったことだ。

NHKクローズアップ現代で、小学校を実質的に卒業していない人が2万人に上るというテーマを扱っていることをインターネットで知った。「書けなくても、話せるから大きな問題はないのでは」とか「書けなくても、読めるならばある程度は対応できるのでは」とも思っていたが、話し言葉ではわかっていても、なぜそう言うのかと問われれば、この場合、英語のスペリングが分かっていなければならないことに気づかされる。

20171110の朝日新聞の天声人語で、読書がもともとは、時の読める人が読めない人のために音読する様を指すと読んだ。明治時代の電話の中はさぞかし賑やかだっただろうとは、かねてより聞いていたが、この言葉の意味のように知らないことは山ほどあるものだ。その頃と比べれば、今の電車の静かなこと驚くべきだろう。ほとんどの人が黙読できるという世の中はいかに生まれたのか。また、その中で識字が十分にできないことの困難を想像する。

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by walk41 | 2017-11-11 19:45 | ことばのこと | Comments(0)

パラ・シアター

家人と話す。劇場、シアターの元の言葉であるギリシャ語のテアトロンとは「見物する場所」の意味だったそう。

ならば、これからの文化芸術のあり方として、「場の理論」(K.レヴィン)にも関わるが、観客(見る側)と演者(見られる側)に限らない、その場(空間と時間を合わせ持つ)をいかに豊かにしていくか、という発想がありうると思う。

シアターがいろいろなものと繋がる、パラ・シアター(para-theater)は、公演や演奏だけでない、そこで休み、くつろぎ、思い出に浸り、これからに思いを馳せることができるような、文化芸術に関わる人的・物的・財的そして情報、さらには環境を包括する「豊穣な場」を意味する概念たりうるのではないか。そんな直感を得たことだった。

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by walk41 | 2017-11-10 19:10 | ことばのこと | Comments(0)

エチケットつづき

きっとそうだろうなぁ、と思いました。調べるとやはりそのようです。

エチケットと言う言葉が、宮廷儀礼を示した札から転じて、マナーや作法を指す言葉になったとは先に記した通りですが、このエチケットの札と言う意味が、英語のチケット(切符や札)になったということ。面白いと思われませんか。

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by walk41 | 2017-11-07 18:41 | ことばのこと | Comments(0)

エチケット

家人と話す。ハッシュタグのハッシュってどういう意味かしら。

hash を引くと、「細切れにした」の意味なことがわかる。だから、細切れ肉料理はハッシュドビーフ、さらには、hashed beef with rice、とご飯か付いて日本語化、「ハヤシライス」になったのか、へー。じゃあ、残るタグって。tag は付け札、下げ札の意味、これで了解できた。ハッシュタグとは、内容を細かく刻んだ札のことなんだ。

転じて、札tagを引くと自分の中でつながる発見があった。tag(英語)はEtikette(ドイツ語)、このドイツ語が札、ラベルを指すことは知っていたけれど、なぜそうなのかは知らずじまいだった。語源を引くと、 étiquette(フランス語)、興味深いのはここからで、このエチケットは宮廷に招かれた際に守るべき儀礼を示した札のこと、転じて、宮廷儀礼を指すのだと。なるほど、だからエチケットは、札、儀礼なんだなあ。

色々なところでつながっている言葉、知らないことが山ほどあるね。




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by walk41 | 2017-11-04 11:33 | ことばのこと | Comments(0)

セルフ

香川県を訪れると「セルフ」という看板の多いことに気づく。さてあなたは何を思い浮かべるだろうか。

香川県は「うどん県」とも自称するように、讃岐うどんが有名だ。ここで、セルフとはセルフサービススタイルのうどん屋さんのこと、セルフうどんである。

セルフと見ると、例えばセルフガソリンスタンドを思いつくかもしれない。これが文脈に依存して理解しているということ、同じ言葉を見ているのに、思い浮かべることは必ずしも同じではない。とても面白い事実ではないだろうか。

ちなみに、香川県のセルフうどんは、私の経験の限り、自分で麺を茹でる、お湯を切る、ネギや天かすを入れる、めんつゆを入れる。けっこうセルフだなあ。

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by walk41 | 2017-11-02 16:25 | ことばのこと | Comments(0)

いじめ定義の難しさ

先日、「いじめ」件数が増加と報じられたが、これは訴えに丁寧に耳を傾けた結果と基本的に肯定的に捉えるべきだろう。「こんな多くいじめが起こって由々しき事態」とは見なさないのが賢明だろうということである。

「いじめ」定義は変遷しているが、現在はいじめ防止対策法(2013)に示される「第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」が採用されている。

客観的な事実の確認が難しいこの種の行為に、受け手の主観であっても「いじめ」と見なすことで、いわば網の目を細かくする意義のあることはわかる。けれど、それが主観であるために、「言ったもん勝ち」の面も持ち得ることは踏まえなければならない。

すなわち、「いやだ」「辛い」と感じるのは、いわゆるいじめられる側だけにあるのではない。いじめるとされる側も、同様の受け止めをしている場合のあることを忘れてはいけない。

たとえば、家庭事情も影響してか清潔とは思えないクラスメイトがいる。近くになると異臭を避けられない。小学校低学年で、自分の鼻水を周りに擦り付けようとする実例は、以前の拙ブログに記した通りだ。あるいは、発達特性が関わっているのか落ち着かず物を投げたりして、周りにいるとヒヤヒヤさせられるケースもありうる。

これらは「汚い」「怖い」ゆえの、ある意味で当然とも言える反応、逃避行動を取っているのである。それが当該の子どもに「心身の苦痛」を与えることになりえるけれど、はたしてこれは「いじめ」だろうか。困っている周りも「嫌や」「辛い」のである。「こっちがいじめられてるみたいなもんや」との声は聞こえないだろうか。

かくも、定義することは難しく、それゆえに変わってもいくのだろう。そこで大切なのは、これが定義と誦んじられることではなく、この定義が持つ強みと弱み、効用と限界を考察できるように、事実と論理の往還運動という「頭の体操」ができることだろう。

思考体力がなければ、頭でっかちあるいは経験の羅列に留まる。ちょうどサーカスでの綱渡りのように、不安定な中でバランスを取りながら歩き続ける力を養い保持することが必要と、重ねて思わされる。




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by walk41 | 2017-10-30 15:56 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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