学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:ことばのこと( 466 )

〜しか〜ない

日本語学の教科書にはきっと載っているのだと思う。それを調べずに言うのはものぐさの典型だけれど、お許し願いたい。

〜しか〜しない、という表現、「しか」は「だけ」「のみ」と同義だとすれば、後半が否定文になると、前半を排除する意味になると思いきや、前半だけを肯定するという意味になるというのが、とても不思議だ。

彼しか知らない→彼のみ知らない→彼だけが知らない、になってしまい、
彼しか知らない→彼だけが知っている、という意味と正反対になってしまう。

私たちの頭はどのような論理で、「彼しか知らない」を「彼だけが知っている」と翻訳しているのだろうか。論理は関係なく、そういうことなの、とただ暗記しているだけなのだろうか。

もし、後者であれば、「わかる」だから「できる」ではなく、「わからない」から「できる」あるいは「わかる」と「できない」ということになる。さてこれは、教育ー学習の論理に即しているだろうか。

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by walk41 | 2017-08-15 19:34 | ことばのこと | Comments(0)

negative capability

否定的能力、否定的なものに対する能力とも訳されると聞く、この言葉を最近知った。

今からちょうど200年前に、イギリスの詩人、ジョン・キーツが22歳のとき、以下のように二人の弟に送った手紙の一節にあるそうで、生涯に一度しか用いなかった言葉だという。誰が見つけてくれたのか、面白い発想に基づく言葉だと思う。

..I mean Negative Capability, that is when man is capable of being in uncertainties, Mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact & reason. (人が、事実や理由を得ようといらいらすることなしに、不確実性、不可思議、疑惑のなかにいることのできる力、それを私はNegative Capabilityというのだと思います。)[https://www.lifeworks.co.jp/labo/2015_09_071001.html より拝借。]

このような言葉を知ると、いろいろと発想に広がりを持てる。たとえば、「すぐにわかるとは、否定的能力が低いという点で問題ではないか」とか「確実か不確実かをそれなりに見分けられる能力があってのことだろうな」とか、教育-学習の議論にも密接するテーマだ。

逆転の発想という点では、赤瀬川原平が造語した「老人力」にも通じるだろう。記憶力が落ちるのは、つまらないことを覚えておかないという能力が高まること、早く歩けなくなるのは、ゆっくりと世界を眺める楽しさを知るからこそ、と捉え直せば、老いることの何を嘆く必要があるだろうか、という話である。

啓蒙、啓発の時代が直前に迫っていただろう200年前のイギリスにおいて、不確実なこと、不可思議なことって、どんなことだったんだろう。





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by walk41 | 2017-08-13 12:45 | ことばのこと | Comments(0)

「わかった?」「わかりましたか?」

「わかった?」と教員が児童・生徒に尋ねるシーンは、学校経験のある人ならば容易に思い浮かぶだろう。それほどに馴染みのある言動だけれど、とても不思議な言い回しである。

なぜなら、このように子どもに尋ねることは、彼ら/彼女らがわかっているかどうかを教員はわからない、ということを表明している、つまり、児童・生徒理解、子ども見取り、生徒観念などと日頃から言っているにもかかわらず、子どもを捉える、診断する能力が教員に必ずしもないと、教員自身が述べているのだ。

また、これは全てに当てはまるわけではないが、多くの場合、語調、ニュアンスとしてこの言葉は質問の意味をなしておらず、確認を取る格好になっている点でも特徴的だ。教員は子どもがわかっているかどうかを必ずしも知りたいのではなく、わかっているはずだからね、というメッセージを暗に伝えようとしているのだ。その雰囲気を感じ取る子どもは、実際にどうかは別にして、おおよそはわかったような顔をする。こうして、次の単元に進むという「共同作業」ができる。ここで「わかりません」などと無粋な反応をしようものなら、「空気が読めない奴」の誹りを免れない。

かくして、自身だけでは子どもを理解できない、にもかかわらず、教員たるもの理解できるはず、理解できなければならないという信念が一人歩きをし続ける。また、尋ねているわけではないのに、尋ねたというアリバイづくりによって、あとあと「だって、わかったってあの時に言ってたやん」と抗弁できるカードを教員は手にする。学校の言葉はまことに興味深い。

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by walk41 | 2017-07-31 05:39 | ことばのこと | Comments(0)

ドイツ語の長い言葉

ドイツ語は、ひとかたまりの言葉が長い場合が多い、と話題になりやすい。

単語を覚える上でも、この手の話題は楽しく飽きさせない。

今回学んだ一番長い言葉はこれだな。下手な日本語訳だけれど、こんな感じ。

「土地取引認可に関わる権限委任規定」
Grundstücksverkehrsgenehmigungszuständigkeitsübertragungsverordnung

えっ、こんなの面白くないって? ああ残念。


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by walk41 | 2017-07-26 21:00 | ことばのこと | Comments(0)

かぶる

この間、学期末の学生のレポートを読んでいる。

前から気になっているのだけれど、「かぶる/被る」という言葉の遣い方に強い違和感を覚えており、この表現がレポートの中にも出てくるので、なぜ気になるのだろうかと考えてみた。

私の授業では、学生のレポートをクラスメイトである他の学生がコメントする(紙上対話、「赤ペン先生」と呼んでいる)スタイルを取っており、最終レポートでしっかりそれができるように、授業間にミニワークと称する小さな課題にて「赤ペン先生」の経験を重ねている(2回生向けの授業では、今期5回行った)。そこに記される、「私の考えと被っていて…」という表現が、とても気になるのだ。

そこで「かぶる」を引くと、従来の意味といっていいだろう、頭や顔などにそれを覆うものを載せる。また、全体をすっぽり覆う。「帽子を―・る」「面を―・る」「毛布を―・って寝る」「雪を―・った山」のほか、写真で、現像過程の失敗、露出過度やフィルムの欠陥などのため、フィルムや印画紙の画面が曇ってぼやける。「この写真は―・っている」。あるいは、すでにある色や音などの上に、さらに他の物が加わる。「日陰の撮影でやや青の―・った画像になる」「会話の音に電車の通過する音が―・る」、「一方の発言と、もう一方の発言が重なる。「同時にしゃべりだして言葉が―・る」」(goo辞書)という説明が見つかる。

ところが、「意見がかぶる」「考えがかぶる」は、これらと違うのではないか。その理由を考えたところ、次のような感じかなと今は思う。

①辞書に載る意味での「かぶる」は、色や音、発言あるいはフィルムといった具体物の重複である。客観的にダブっており、それにより色や音などが変質する。

②これに対して考えが「かぶる」とは、同様の考え、近い考えを指しており、抽象的な話である。よって、それらが「かぶる」ことがあっても、互いに影響を及ぼすことはない。独立したままである。

何ら意識していた訳ではないけれど、こんな点で自分勝手に言葉の線引きをしているのかもしれない。だから、私は違和感を拭えないのだ。

もちろん、これまでも書き散らしているように、言葉は時代によって移り変わるから、昔を懐かしんでも仕方がないことは承知している。ただ、移り変わりの過渡期だからなのだろうか、頻繁に聞こえるように思われ、より鬱陶しさを感じるのかもしれない。まさに、言語は思考を支配する、違和感のある言語に触れると落ち着かない、といった辺りか。

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by walk41 | 2017-07-23 17:13 | ことばのこと | Comments(0)

生きる力

家人と話をしていて、身内ぼめながら、とても感心することがあった。

曰く「生きる力とか言うけれど、誰かのために頑張ると思えれば、その人が生きる力を与えてくれているってことでは?」。

鋭いです。教育議論はともすれば、自分が持つべき力という前提でおしゃべりをしがちだけれど、他者のために、他者を励みに、生きる力を得るという立論は、実にしっくりくるではないか。

コミュニケーション力ほか、「〜力」は今なお興隆しているけれど、こうした言葉の遣い方のそもそもの前提をどれだけ問うているだろうか。自分でできることなど、たかが知れている、他者によってこそ力が引き出され、自身が生きる力を結果的に得ているという実際により注目するのも大切ではないだろうか。

だとすれば、生きる力を持つとは、自身のあり方もさることながら、自分の周りに自らのやりがい、生きがい、喜びをいわば用意すること、そうであって初めて、自身が生かされる、と導ける。個人単位で「学力」を測ることの愚かさ、周りがあってこそ自分が存在するということに気づかない幼さを反省することができる。



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by walk41 | 2017-07-19 23:27 | ことばのこと | Comments(0)

ロートル

長らく知っているのに、ちゃんと調べていないことが実にたくさんあります。

その一つ、ロートルという言葉の意味を、今更ながら知りました。老人を指す、「老頭児」という中国語から来ていたのですね。

1990年代、職場の年長の方が「自分のようなロートルが言うのも何だけれど」という表現をよくされており、文脈から年長である自身を謙譲的に話しているのだろうなとは思っていたけれど(この点、個々の単語を知らなくても、何となくわかるという面白さにも気づける)、中国語の日本語的用い方だったとは。

ちょっと気にはなっているけれど、そのままに放っておいている言葉は、それこそ山ほどあるでしょう。そんな言葉を引いてみるという習慣も、持ちたいものです。



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by walk41 | 2017-07-09 10:11 | ことばのこと | Comments(0)

結論とは

授業について、「よろしければ、先生がこの授業における意図(この授業で何をしたいのか)を、端的にわかりやすく提示していただけると嬉しいです」と書いた学生に向けて、「(榊原販)公教育経営を学ぶとはどういうことか」を、別ブログ記事に述べた。

また、こう書くこの君の文中に、「授業内にあまりにも結論が見えず、先生の意図が見えず…」とあるので、「結論」あるいは学校風と言っていいだろうか「まとめ」という言葉について書いてみよう。

たとえば、goo国語辞書によれば、結論の意味に、「論理学で、推論において前提から導き出された判断」とある。たとえば、”教職労働の個業性と分業ー協業性の衝突、交渉、調整”という表現は、学校を観察して見つけられる事実をキーワードで整理した結果、導かれる結論である。”学校では色々なことがある”では何の推論にもなっていなけれど、それとは異なる「事実の類型化、概念の当てはめ、説明の試み」を経て、先の表現のように判断される。これは結論そのものである。

ちなみに、まとめという言葉の理解にも時々、困惑させられる。「このようにも理解、あのようにも解釈できる、という多様な推論ができるような授業研究をしませんか」と学校や研修会で提案すると、「それでまとめになるんでしょうか」と尋ねられる。意地悪に言えば、この教員は「まとめ」という言葉を辞書で引いたことがあるのだろうか。

同じく、gooの国語辞書によれば、「物事の筋道を立てて整える」という説明がある。ある事実をこう見れば、このように考えられる、違うように捉えれば、別のことに気づかされる、というのは、それぞれに筋道をたどっており、いずれも推論である。問題はその推論がデータ的、論理的に妥当かどうかであり、そこにデータ収集や解釈の適切さ、論理的誤謬のなさなどが問われる。これが論文で言えば、議論や考察に相当する。だから、これらの作法(手続き)を経た上で示されているのならば、いくつあろうともまとめとしては十分に要件を備えている。

社会科学の分野ではもちろん、自然科学でも、一つだけの結論が導かれる知見は、そうそうあるものではない(『京都教育大学図書館ニュース』内「私のすすめるこの1冊: 働かないアリに意義がある」〔榊原禎宏]、2017年7月号、を参照ください)。なのに、それを無理して「わかりやすい話」をするというのは不誠実であり、またそれを聞きたがるのは怠け者だ。「わからないものはわからない」「解けない問題は解けないと言わざるを得ない」と述べることも、結論であり、まとめである。

この点で、教員を志望する学生にはいっそう、「わかりやすい授業」とは何かについて悩んでほしいと思う。





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by walk41 | 2017-06-30 10:35 | ことばのこと | Comments(0)

いいです

ドイツから来た友人と話す。

日本に住んだこともある彼女は少しばかりの日本語を解するのだが、次のように質問された。

駅かどこかで「お先にどうぞ」と年配の方に話した際に、「いいです」と言われ、了解したのかと思ったら、向こうに行ってしまったので、不思議だなあと感じていたということ。「いいです」は良いのだから、申し出を受けるという意味ではないのだろうかと。

なるほど。なぜそうなのかは説明できないけれど、「いいです」とは「結構です」と同じように、断りを意味していること、「いいですよ」ならば、了解したという意味だが、申し出に対する返答としてはふさわしくないこと、を話した。日本語話者ならば、「いいです」と「いいですよ」の違いを考えることはあまりないものね。

そう言えば、「結構です」と「結構なものを」、さらには「結構な速さ」も大きく意味が違うけれど、なぜそうなのかとたずねられても、私は答えられないなあ。ドイツで友人たちに、"Teil"(部分)という単語について、"der Teil"と"das Teil”と二つあるけれど、どう違うのかと尋ねたら、口を揃えて「わからない」と返ってきたもの。

その言葉の話者は堪能でばあるけれど、馴染みのない人に説明することができるわけではない、という点は共通するかもしれないね。
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by walk41 | 2017-06-17 19:56 | ことばのこと | Comments(0)

自律性って良いこと?

学会にて発表を聞いたが、「学び続けるためには自律性が必要」という一文があったのを不思議に思った。これでは話が逆さま、「自律性を獲得するために、学び続けることが必要」と言うべきだ。

そこで改めて、自律という言葉を引くと、こうあった。「(他律の対義語)同音語の「自立」は、他の助けや支配なしに一人で物事を行うことであるが、それに対して「自律」は自分の立てた規律に従って自らの行いを規制することをいう」(三省堂、大辞林)。

なるほど。この説明に拠れば、自ら打ち立てた信念に従って行動するさまは自律的である。周りを見渡して行動するのではない点では、ちょっと危ういかもしれない。右顧左眄や、過度な同調は避けられるけれど、マイルールに従い暴走するのもまた厄介である。

こう考えると、自律性を強調するべきは、自らの適切な認知と判断が、そして行為ができる主体となるべき、という主張から導出されるものでこそあれ、最初から良いもの、守られるべきものと考える根拠は持ち得ない。唯我独尊が肯定されにくいように、他者と自己とのバランスが肝要であり、だからこそ、社会性やコミュニケーション能力と喧伝されるのだろう。「開かれた自律」とは語義矛盾だが、自身に他者を宿らせ、他者の中に自分を見つけるというスタンスがより実際的にではないだろうか。

私としては、自律神経と自律性の関係についての疑問が氷解した。自律性は、他によってではなく自身で規則を定めて自らを律するという厳しさを強調する際に用いられるのが適切だ。

誰しもが自律性を持っており、守られるべきだなんて主張が、論理的に説明できない、ある信条の吐露(他が何と言おうとも、そうだと述べる点では、自律的だけれど)に過ぎないこと、この言葉を無前提に価値化したい向きには好都合な言説だということを確かめるべきだろう。

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by walk41 | 2017-06-11 20:22 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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