学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:ことばのこと( 474 )

nation

学部生への授業で、「国民教育の歴史を乱暴に述べれば」と授業者が話したのに、なぜか「乱暴な国民教育」と聞いた「元気な学生」が、感想文の行で、ナショナリズムという言葉を記していたので、いま一度、確認しておきたい。

ナショナリズムはナショナルな考え方を重視するものだが、このnationはフランス語のnatus「生まれた」を語源にする。「生まれたことをきっかけに自然に結びついている人々」と理解すればよい。今でこそ、これは国家と同義的に考えられがちだが、範疇が即、国家に限られるわけではない。

nationとは、家族や親族、村落共同体は狭いかもしれないが、市町村や都道府県が単位であってもかまわない。故郷(くに)は多くの場合、近江国、薩摩国と生まれ育った地域を指しており、「お国はどちらですか」と尋ねられて「日本です」と返すのは、知識が足りないか、ちょっとした冗談の類である。あるいは、「全国地図」とあるけれど、これは決して世界地図を意味するわけではないことは小学生でも知っているだろう。はたまた、国盗り物語も、外国との戦争を描いたものではない。国とあれば国家だと捉えるのは、シンプルに過ぎるだろう。

また、おそらくは多くの国家の場合、その中に、複数の小さな国家を抱えた、いわば同心円的な構造を取っている。日本ならば、日本国-都道府県-市町村、であり、ドイツならば、Bund-Land-Gemeinde、である。言わずもがな、すべてを国が扱うわけではなく、都道府県や市町村の所轄事項も少なくない。さらには、市町村ではあっても、政令指定都市や中核都市ならではの業務もある。

また、ドイツの場合は連邦国家だから、人々の日常感覚としての国は州(Land)であり、各州の法律にもStaat(国家)は州のことを指すと示されている。教育行政について言えば、16の州それぞれにいわゆる文部省があるし、それらの調整役としての常設文部大臣会議(KMK)は1948年に創設、70年近く前から、州ごとに公教育が異なることを前提に「ドイツの教育」を行っているのである。

こうした「わかったようなつもり」の言葉についてこそ、慎重に丁寧に考え扱うべきことを学ぶのが大学生だろうに、「本来のナショナリズム」などと記して、権威主義に乗じるかのような知的貧困な様子を残念に思う。

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by walk41 | 2017-10-17 12:45 | ことばのこと | Comments(0)

Fiasko/fiasco

先月下旬のドイツ連邦議会選挙の投票日直前、ドイツの友人が怒っていた。ネオナチ張りの主張を続けるAfD(ドイツのための選択)の躍進が見込まれるという報道に対してだ。彼女はこの事態を"Fiasko(野心的な企てが滑稽な結果で終わるような大失敗:Weblio訳を拝借)"だと述べ、大いに憂いていたが、実際にAfDはおよそ13%を得票し、第3党に躍り出た。メルケル首相の続投は決まったが、連立政権の組み合わせはまだ確定していない。

さて、日本でもなぜか急に総選挙が行われることになり、そしてなぜか政党がなくなり、「安保法制反対」と叫んでいた議員が、新しい政党に入れてもらうためにこれを口にしなくなった。国民の信託を受けたはずなのに任期を全うせず、政党でも選ばれたはずなのにその政党があっという間に消滅し(そもそも、党をなくすことを党大会を経ずに決められるのだろうか。党員がよく黙っているなあ)、幟に新しい政党の名前を貼り付けて演説をする様である。

こんな訳のわからない状態なのに、まるで競馬の予想かのような報道が続くのもまさにFiaskoである。代表制民主主義とは、政党とは、投票とは…、社会の教科書に書いてあるようなこととかけ離れた事実が連なっている。こんな茶番あるいはパロディ、はたまた悪い冗談はどうして起こっているのか。けれど、まったく気持ち悪いことに現実なのだ。


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by walk41 | 2017-10-08 10:40 | ことばのこと | Comments(0)

青か緑か

音の違いに敏感な人とそうでない人、数字の違いがはっきりとわかる人とそうでない人がいるように、私は色の表現が苦手だ。色覚が多数の基準から外れているということではなく、違いはわかっているけれど、それを違うように表現することができない、とくに「青」と「緑」について。

明らかに緑のものを指して、青ということが頻繁にあり、聞いた相手から「緑だね」と確かめられる、というケースが多い。うーむ、緑と青の色の違いはわかっているはずなのに、なぜか言葉にするときに間違ってしまうなあ。ただし、青を緑ということはなく、緑を青というのがほとんどだけれど。

その一方、こうも思う。実生活では青と緑という言葉は、かなりおおらかに用いられているのではないか、そうならば青と緑の区別はあまり重要ではないのでは、と。

たとえば、「青信号」と言うが、大体は緑である。緑なのに青と表現する。また、「青葉の頃」と言うけれど、新緑とも言うように「若葉は緑」である。あるいは、緑黄野菜から作っているのに「青汁」、同様に「青菜に塩」とも言う。みんな緑やん、と突っ込んでいいだろうか。

青と緑を話す際に苦労されている方、おられませんか。

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by walk41 | 2017-10-06 09:39 | ことばのこと | Comments(0)

丁寧な言葉遣い

ある公立中学校の文化祭にお邪魔した。

一つの学年が7クラスほどもある、今ならば大規模校とも言える学校だが、体育館への生徒の整列、入場の様子を見ていて、教員の口ぶりが随分と丁寧なことが、ひとつ印象的だった。

それは、①「〜しましょう」「〜ですね」と語尾がほぼ敬体であること、②怒鳴るなど語気が強くなく、おおむね穏やかなこと、③笑顔が比較的現れ、まあまあ和やかな雰囲気を醸し出していること、に私は見つけたけれど、他にもあったかもしれない。

欲を言えば、生徒会や放送部などによる集団力学をもっと活用して(たとえば、「10,9,8と読み上げる中で、声を小さくしていき、1、0で無言になる」とかクラス単位などで静かになった順位争いをするなど)、制御することができるかなとも思ったけれど。

とまれ、こうした丁寧な様子は、周りを安心させ、落ち着いて場に臨むことに繋がる。売り言葉に買い言葉といったことも減るだろうし、ましてや手が出るといったことも起こりにくいはずだ。お喋りが止まない、思っているように動いてくれない、という状況では、いきおい語気も強まりかねないけれど、そこを堪えて接することのできる教職員みなさんの様子を素敵だなと思ったし、生徒たちとのよりよい関係が築かれることを願うばかりだ。

実際、プログラム中に含まれていた「職員合唱」と、放送部がアナウンスした途端に、生徒たちから大きな拍手が起こったこと、そして教職員が舞台に現れた時の拍手と掛け声の大きさ、さらに、職員合唱が生徒たちとの合唱でもあったこと、加えて、合唱に聴衆側の生徒からたくさんの手拍子が伴い、アンコールの声までが上がったことは、いずれも日頃の教職員の皆さんと生徒との良い関係を象徴するようだった。

ちなみに、後ろに設けられた保護者席で、なかなか途切れない母親たちのお喋りには、辟易させられた。教員たちも保護者に注意するとはなかなか行かないだろうから、生徒に対して言っていることとのズレに困惑したはずだ。こうした「やっかいな」人々とも学校は付き合わなければならない。こんな面でも学校が大変なことについて、より多くの人が想像力を発揮してくださればと思う。

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by walk41 | 2017-10-05 10:26 | ことばのこと | Comments(0)

「先生は…」は自信のなさの現れ?

今週も聞いたなあ、「先生は…」「先生が…」と教員が自分のことを生徒に向かって話すさまを。

これまで何度も主張しているが、「先生」とは敬称であり、他者から投げかけられる呼称である。教員同士での「先生」「先生」の掛け合いは辟易なものの(大学もご多分に漏れず)、それでも他者が誰かに対して遣う表現である点では、上の条件を満たしている。

ところが、自分で自分のことを「先生」というのは、自分で自分を尊敬していることになる。これは、「私のような者が」「愚息が」と謙譲して、つまり自分を実際よりも低めに述べることの対極にある。私はこの傲慢さ、そして傲慢であることを自覚していない様子が自分としては嫌なのだと思う。

この「先生問題」だが、先日、現職の教員たちとの勉強会で「公-私関係」の話をしていたときに、合点した。「そうか、先生という表現は公共性を帯びているんだ」と。確かに、先生という敬称は、ある人ひとりにとっての先生、たとえば「人生の師」といった意味合いでも遣われるけれど、学校という多くの人が関わる場で用いられる先生、すなわち公共性を持つ。教員免許状を有して、実際に学校で勤務しているという公共性を指して「先生」と呼ばれているのだ。ただ大人なだけでは、先生にならない。

このことは、ちょっと飛躍するけれど、戦前の軍隊で頻繁に用いられたと聞く「畏れ多くも天皇陛下の…」と前口上を述べて、自分の命令を部下に行ったという様と同じだと思うのだ。「私は」「自分は」と述べる主体が自身であることを明示せず、「先生が」と話すことで、「先生という公的な立場の人が言っているんだよ」「だから、言っていることは聞くに値する大切なことなんだよ」と、発言の最初に相手に印象づける(流行言葉で言えば、ゴッフマンの「印象操作」)点で狡い。等身大の自分が言っているという格好を取らず、「偉い人が言ってるんだよ」とより思わせる一つの仕掛けになっているから。

これは「僕の叔父が今度、ニューヨークで個展を開くことになってさあ」とか「有名な女優の○○さんと、この間、パーティーで話をしてね」という手合いと同じだ。こう話すことであたかも自分がひとかどの人間と思わせようとする狡猾さ、卑屈さ、自信のなさを見る。

だから「先生」にお願い。虎の威を借る狐のような発言は止めて、自分にもっと自信を持てるように鍛えてください。自分で「先生」と連呼するうちに、本当に自分が偉くなったかのような壮大な勘違いをすることがないように。



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by walk41 | 2017-09-30 14:16 | ことばのこと | Comments(0)

強烈な皮肉

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「私たちは、あなたに暗殺者を送り込もうという訳ではありません。けれども、あらゆる万引きは図書館への立ち入り禁止と告発を招くことになります。」

南ドイツのある市立図書館内に貼ってあるポスターから。ユーモラスかつ強烈なパンチが効いていると思いませんか。

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by walk41 | 2017-09-20 12:26 | ことばのこと | Comments(0)

「かぶる」再考

重複することを「かぶる」と、学校教員までが言うのを、さして違和感なく聞けるようになってきた。言葉は世に連れ、世は言葉に連れとは思うけれど、「ダブる」の変形のような気がして嫌だったのだけれど。

と同時に、これは「ダブる」の言い換えと言うよりも、「重なる」を一文字分短くしたものではないか、とも思うようになった。発声上の省エネ、エコの一つなんだと。

①自動販売機→自販機、就職活動→就活、と用語をつづめるもの、あるいは、②見られる→見れる、着られる→着れると「ら」抜きのもの、はたまた、③ATM(現金自動預け払い機)、AI(人工知能)と、アルファベットに置き換えるものと、いずれも少ないエネルギーで多くの内容を表現しようとしていると見なせる。

いわゆる若者言葉には、おはよう→おは、ありがとうございます→あざーす、と省略するとも聞く。ひょっとしたら新しい世代ほど、より省力化が図られているのかもしれない。

扱う情報が増大しているためか、伝達意欲が強まっているからなのか、伝達する相手が増えているからか。いずれにせよ、少ないエネルギーでより多くの内容を表現しようという指向性が強まっていることは認められるだろう。

この点で、教育論議においても聞こえる「昔と比べると、コミュニケーション能力が低下している」なんていう言い草が、いかに的外れかわかる。私たちは、いっそうコミュニケーションをしようとしており、実際にしており、だからこそ、必ずしもできていないことを「コミュ力不足」だと病むに至っているのである。

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by walk41 | 2017-09-13 14:48 | ことばのこと | Comments(0)

お店の名前

広島市を訪れる。

お好み焼きを食べながら、同席くださった方からこんな話を聞いた。

お好み焼き屋さんに女性の名前が多いのは、被曝後、連絡が取れなくなった家族や知人に、自分がここにいると知らせるために店の名前を付けたから、と聞きますよ。

そんなこともあったのか。一瞬にして町が崩壊、おびただしい方が亡くなったことに加えて、生き残った人も衣食住を失い、人々の繋がりも失った。

その痕跡がこうして残されていることを知り、言葉を失った。

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by walk41 | 2017-08-22 09:11 | ことばのこと | Comments(0)

〜しか〜ない

日本語学の教科書にはきっと載っているのだと思う。それを調べずに言うのはものぐさの典型だけれど、お許し願いたい。

〜しか〜しない、という表現、「しか」は「だけ」「のみ」と同義だとすれば、後半が否定文になると、前半を排除する意味になると思いきや、前半だけを肯定するという意味になるというのが、とても不思議だ。

彼しか知らない→彼のみ知らない→彼だけが知らない、になってしまい、
彼しか知らない→彼だけが知っている、という意味と正反対になってしまう。

私たちの頭はどのような論理で、「彼しか知らない」を「彼だけが知っている」と翻訳しているのだろうか。論理は関係なく、そういうことなの、とただ暗記しているだけなのだろうか。

もし、後者であれば、「わかる」だから「できる」ではなく、「わからない」から「できる」あるいは「わかる」と「できない」ということになる。さてこれは、教育ー学習の論理に即しているだろうか。

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by walk41 | 2017-08-15 19:34 | ことばのこと | Comments(0)

negative capability

否定的能力、否定的なものに対する能力とも訳されると聞く、この言葉を最近知った。

今からちょうど200年前に、イギリスの詩人、ジョン・キーツが22歳のとき、以下のように二人の弟に送った手紙の一節にあるそうで、生涯に一度しか用いなかった言葉だという。誰が見つけてくれたのか、面白い発想に基づく言葉だと思う。

..I mean Negative Capability, that is when man is capable of being in uncertainties, Mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact & reason. (人が、事実や理由を得ようといらいらすることなしに、不確実性、不可思議、疑惑のなかにいることのできる力、それを私はNegative Capabilityというのだと思います。)[https://www.lifeworks.co.jp/labo/2015_09_071001.html より拝借。]

このような言葉を知ると、いろいろと発想に広がりを持てる。たとえば、「すぐにわかるとは、否定的能力が低いという点で問題ではないか」とか「確実か不確実かをそれなりに見分けられる能力があってのことだろうな」とか、教育-学習の議論にも密接するテーマだ。

逆転の発想という点では、赤瀬川原平が造語した「老人力」にも通じるだろう。記憶力が落ちるのは、つまらないことを覚えておかないという能力が高まること、早く歩けなくなるのは、ゆっくりと世界を眺める楽しさを知るからこそ、と捉え直せば、老いることの何を嘆く必要があるだろうか、という話である。

啓蒙、啓発の時代が直前に迫っていただろう200年前のイギリスにおいて、不確実なこと、不可思議なことって、どんなことだったんだろう。





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by walk41 | 2017-08-13 12:45 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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