学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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卒論合格の基準

提出された学生の卒業論文を査読中。

一つの学問分野ではあっても、さらに細かく分かれるため、同じ教育学でも自分にわからないことは少なくない。それでも評価に際して、次のようなガイドラインは設けられるだろう。

1.テーマの今日的な意義が述べられているか。

2.先行研究がそれなりに検討されて、一つの焦点が定められ、自分が取り上げる領域や内容は明らかか。

3.分析しようとする対象と接近するための方法が明示されているか。

4.調査(社会的・自己内的)の結果、得られたデータが俎上に載せられているか。

5.データの整理、加工、編集が、議論と整合しているか。

6.この論文を通じて明らかになったこと、未だわからないことの峻別がなされ、まとめられているか。

7.先行研究・関係資料の一覧が付され、参照・追試できるようになっているか。

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これから卒業論文を書こうとする人へ。

不十分でも構わないから、こうした点を踏まえて、真摯に、またなるべく早くから臨むように。

みなさんの論文の出来映えが良ければ、「大卒」の価値を上げることになるのだから。
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by walk41 | 2012-01-31 15:03 | 授業のこと | Comments(0)

子どもと子ども観

教育の議論がややこしいのは、次の二つのことが混在しやすいからだろう。

その一つは、実際、実態、現実と言われる、客観的に存在する(と思われている)事実。たとえば、年間30日以上、病気や怪我などではない理由で学校に来ない児童・生徒数、PISAテストでの平均得点など、量的データが多い。

もう一つは、観、思惟、まなざし、といった、主観的(あるいは、共同幻想的)なもの。たとえば、無垢な子ども、14歳の心の闇、など、質的なデータと言えるだろう。

やっかいなのは、この二つが完全に別物とは言えず、多分に重なるために、議論がどうしても混乱するということだ。

たとえば、「子どもが変わった」というテーマ、実際に子どもが変わったのか、それとも、大人がそう思うのか、を明確に分けることはできない。人の記憶は不確かでもあるので、いくつかのエピソードをきっかけに、「そういえば、今の子どもは昔とは違うよなあ」というイメージが醸成され、次いでアンケートやインタビュー調査が行われて、「変わってきている」あるいは「変わっていない」とデータが出てくる。テーマに注がれるまなざしの強さによって、どちらの結論に傾くかが大きく影響を受けるほどである。

このことは、子どもや教室、学校が、量的よりも質的に語られがちなことも影響している。学校の現実なるものは、もっぱら、教職員の肉眼のほか、聞く、さわる、感じるといった域を出るものではない。それは、測定機器の不十分さとも言えるが、同時に、測定がそうした主観的なものでしかありえない証左ともいえるだろう。子ども理解や学校の把握は、主観的そして質的なものにならざるをえない。

かくも、客観的に子どもを捉えることはできないという証拠として、「子ども観」という言葉が位置づいているのだろう。ここから導かれるのは、子どもをつかまえようとすることと、子どもがいかにつかまえられているかをつかまえようとすること、二正面作戦で臨まなければならないということだ。

子どもを語ろうとするとき、それは自分の子ども観の表出でもあること、児童生徒、そして学生に接する立場は、このことに慎重でありたいと思う。つまり、実態の分析も大切だが、どんな眼差しを対象に注いているのかという、自分の問題がいっそう重要という点について。
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by walk41 | 2012-01-30 10:36 | ことばのこと | Comments(0)

教員は「技術者」か

きょうの民放、「がっちりマンデ-」は”修理の神様、第2弾”。クルマのキズ、故障している電化商品、昔の白黒写真と、いずれも修理、復元する名人を紹介する。

こういった人たちを垣間見ると、学校の教員は「技術者」と呼べるだろうか、と考えさせられる。

おそらく、技術という言葉には、2つの意味が込められている。その一つは、テクニックであり、一連の出来事を客観的に他者に伝えられるので、再現できる余地を残している。もう一つは、アートであり、「なんとなく」までは言えるが、それは主観的な説明であり、再現はできない。

教育学において、勘やコツという後者は「科学的でない」と批判の対象にもされてきたが、「教育という活動は、はたして科学的なのか」から考えてみる必要があるだろう。

教員の職務(業務)-教えよう、伝えようとする行動、状況判断、意思決定、フィードバック(振り返り)-には、きわめて目の粗い計画、「出たところ勝負」の対応、「後になってみなければわからない」結果、という特徴が観察される。「今の授業、良かったわあ。もう一回やって」と言われても、確約できないのが普通である。

つまり、教育という活動を、再現性を前提にするテクノロジーでは、なかなか説明できない。反対に、臨機応変に、状況に応じて、即興的・創発的に進められるほうが、スムースにできる、というのが「現場感覚」に近い。なのに、どうして「~すれば、~になるだろう」という発想で教員の仕事を考えようとするのだろうか。不思議だ。

テクニックではなく、アートにならざるを得ない教員の活動(なぜか、教員は「実践」という言葉が好きだ)は、職員というよりも職人的である。教員よりも教師という言葉が用いられる背景も、この辺りにあるのかもしれない。職人である教員が、「自分のやり方」にこだわり、同僚と必ずしも協働的でないのは、十分に合理的な行動である。「真似をしようとしても真似できない」のが、教育という活動なのだから。そこを、「協働しなければならない」などとお説教をしても、仕方がない。

そこで可能な働きかけは、適用性(application)を前提にした、「~したら、~になるだろう」を求めるのではなく、「~したのは、~と考えた、~判断した」という行為の意味づけ(implication)を解きほぐし、違う解釈を導くことを通じて、豊かな活動可能性を担保することである。この点で、「教員研修の体系化」は、大きな勘違いを下敷きにしており、大学での養成段階を終えた以降の、「教師教育」なる言葉も現実を説明できない。職人的な仕事をする教員を「教える」ことは基本的にできないのである。

AEDの使い方、わかりやすい学級通信、といった初任期に知るべきことを除けば、入職後の教員には、それぞれに勤めた学校、出合った教職員、児童生徒、保護者等との関係を通じて、知り、気づき、悩み、折り合いをつける「学び」しか残されない。ちなみに、この意味で「現場」とは、学校一般のことではなく、あくまでも個別特殊な子どもと教室、そして学校である。もちろん、大学も現場の一つだ。「現場を知らない」のは、教員間でも同じこと。そこで他者のできることは、より学ぶことができる労働条件と環境を整え、また整えようとする自身へと駆り立てていくことである。
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by walk41 | 2012-01-29 11:03 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「しかし」と「ただ」、そして「ただし」

学生のレポートを読んでいて、気になることばがいくつかあるが、その一つが「しかし」と「ただ」との遣い分けだ。

私の辞書では、「しかし」は、前の文を否定するつなぎの意味合いが強いのに対して、「ただ」は、「とはいうものの」とか「この点については、別なのだけれど」といった意味で異なるように思う。

この点で、「ただし書き」としてよく遣われる「ただし」は、前の文を受けて「一応、そうなんだけど、でもね」という感じに見える点で、「ただ」にかなり近い印象を受ける。つまり、「ただ」は、部分的に「ただし」と重なりつつも、やや口語的な印象を与えるものでは、と私は解釈するのだが。

そこで関連する研究を探したら、

鹿島恵「接続詞の『ただし』と『ただ』 : 先行研究における問題点」(三重大学、日本語学文学、2005)

http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/6621/1/AN101977030160010.pdf

が見つかったが、今ひとつよくわからない。だって、こんなタイトルを付けているのに、最後は、「残念ながら、本稿では『ただし』と『ただ』の違いの分析には及ばなかった。今後の課題として、稿を改めたい」ってあるんだもの。どっと疲れたなあ。

かくして、わかったようなわからないような感じで、学生にレポートを返却するのだけれど、誰か、この違い、さらに「ただ」と「ただし」との違い、あるいは、これらに違いをつけることの意味について、一家言ある方、ぜひ教えてもらえませんか。
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by walk41 | 2012-01-28 22:12 | ことばのこと | Comments(2)

公教育の「参入障壁」は下がるか

NHK「クローズアップ現代」、1月26日は「日本メーカー テレビ復活のカギは」。

ここ数年、サムスンやLG電子など韓国メーカーの躍進が著しく、日本メーカーはビジネスモデルそのものを見直さなければならなくなっている、と報じる。

そこで興味深く思ったのは、電子部品の低価格化に伴って、従来のように大きな施設・設備を持たなくても新規の会社が参入可能になった、つまり、参入障壁が下がってきているという話。一昨年だったか、自動車産業についても、同じことが報じられていたなと思い出したのだ。

既存の業界に新しい勢力が入ってくることで、「商品」は革新、刷新を求められる。たとえば電話、四半世紀前なら海外との電話はべらぼうに高く、容易に掛けられるものではなかった。1987年に初めてドイツを旅したとき、日本に15分ほど電話をしたが3000円くらい払った覚えがある。いまなら、Skypeで事実上、無料だ。

同じように、「恐くて入れない寿司屋」は「一皿100円の回転寿司」に、郵便はメール便に、よろず屋は「百均ショップ」に、また、旅館はビジネスホテルに、本屋はAmazonに、市中銀行はネットバンクにと、主役は交代した。時間がかからずに、安くて、快適なサービスを提供してくれるところに、顧客は移動していく。

この点で、学校教育に代表される公教育、とくに義務教育段階の公立学校はどうか。「教育は学校で決まりだ」と、新手にとって替わられることは絵空事と見ていてよいのだろうか。

さて、教員、学校管理職、教育委員会、教員組合のいずれも総じて、「子どもを育てるという、モノ相手の仕事ではないのだから、『企業』のようにはいかない」と呪文を唱えてここまでやってきた。

確かに、子どもがどう育ったかについて、資源の投入量や費やした時間から測定することはできない。その通りだろう。だからこそ、教員が長時間労働することが子どもの育ちにつながっているとは言えない、これも残念ながら当然のことである。

ならば、長時間労働は平均すれば、健康な心身に悪影響を及ぼすと言えるならば、できるかぎり始業と終業の時間で学校の仕事を終え、家庭、地域社会、個人の時間を設けるように、教員の働き方を変えなければならない。「子どもや保護者といった、相手のある仕事だからそう簡単にはいかない」と声が返ってくるだろうが、相手次第の仕事は他にもある。医者に診てほしい患者、一刻も早く届いてほしい荷物…。それでも、健康や安全、適正な生産量などを勘案して、「割り切って」調整しているのがほとんどだろう。

ところが、学校とくに教員は、この「割り切り」ができず(意思決定ができず、とも言える)、「終わるまでやる」からこそ、授業に必要なものを忘れたり、ちょっとしたことで子どもを強く叱ったり、教材研究が「ティーチング・マニュアル」を読むことに過ぎなかったり、と精力を傾注して仕事ができない条件を、みずから作り出してしまう。これで、「子どものため」と言ってよいのだろうか。新聞や本をほとんど読まず、「うちは片親家庭なんだ」と自嘲するような教員が、どれほど子どもの学習に貢献していると豪語できるだろうか。

法的に義務教育が定められていても、それが即、学校と決まっている訳ではない。学校に既得権を持つ精力が、それを当然視しているだけのことである。教育バウチャーやホームスクーリングなどが勢いを増すならば、つまり、参入障壁が下がれば、学校で提供されているサービスの「質」はいっそう問われることになる。既存の学校はこれに耐えられるだろうか。

いまですら、不登校の子どもの保護者に対して、学校教育法違反だからと罰金を取ることもできていない中にあって、学校の「強み」って何なのだろう。どんな「すごさ」を売りにできるのだろう。「公共事業において教育機関としての学校は必ずしも必要ではない」、そんな声がわたしにはちょっと聞こえるのだが。
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by walk41 | 2012-01-27 13:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「マクド」と「マック」

何度となく話題に上ること、マクドナルドはなんて呼ぶか。

ここ関西では、間違いなしにマクドだ。断じてマックではない。

昔、山梨にいたとき、大学院の授業で「マクドのように…」と話したら、受講していた教員が「マクドっていう人がいるとは聞いていましたが、生で聞いたのは初めてです」。こっちが驚いた。

関西人に限らないだろうけど、3拍が言いやすいのは確からしい(「マクド」派強し、2012.1.25、日本経済新聞)。そういえば、ずいぶんと以前、「掛布!「田淵!」は言いやすいけど、「王!」「長島!」は呼びにくい、だから阪神なんや、なんて話もあったかなあ。

「マクド」と「マック」の分布を調べた大学の先生もおられるとのこと、そう言えば、「あほ」と「ばか」の分布を調べた研究もかつて行われている。

かくも「一緒や」とか「ちがう」とか言いたがるのは、人間の特徴かも。違うことを強調することで「自分らしさ」を見つけたいのかもしれない。「みんなちがってみんないい」(金子みすゞ)と言いながらも、自分だけ違っているのは嫌、だから群れたがるのだろうね。一対一のままやったら、戦争も起きないかもしれないのになあ。
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by walk41 | 2012-01-26 09:30 | ことばのこと | Comments(0)

いつも誰かとくっついている、あずき

ひとつ辛口を書いたら、ひとつネコのゆるゆる話題でしょうか(^^;)。

さて今日は、大の甘えん坊、「あずき」です。きなこ、もなか、と和風甘党の名前が多い中、この仔は見たとおり「小豆」という感じで、肉太なネコ。そう聞くと、りりしく、たくましいキャラを予想する向きもあるでしょうが、いやいや、それと反対に、なんやかんやと寂しがる、むっちゃ甘えたなのです。

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こやつはまず一匹だけで眠るということはなく、誰かと必ずといってよいほど一緒です。というか、誰かにくっつきに行くのですな。おまえはひとりでは寝られんのか、と言いたくなるほどの甘えぶりです。

朝寝はきなこ、昼寝はジジ、夜寝はみんなと、まあ、一日中ほとんど寝ているわけですが、それにしても、あずきのくっつきたがりぶりは、ハンパではありません。この写真などまだ控えめな方で、「あずき、あんたの足、きなこの首に巻き付いてるで」というほど、ひっつきもっつきですわ。いやはや。

もうお聞きになった方もおられると思いますが、この仔は、2000年1月の中旬、ひっくり返った大学の立て看板の下で鳴いていました。当時は手のひらに乗るかどうかくらいの小ささだったのに、今のどすこさはいったいなぜ…。でも、とても寂しかった幼少期を過ごしたせいか、甘えたがりだけはまったく変わりません。

この仔、ほかのネコに相手をされなくなったら、人間のひざを求めてうろうろと。あぐらをかいていたら、あっという間に収まります。「いつの間に来てたん、あずき?」というほどのスムースさ、自然さ!?

きょうの午前、お陽さんを浴びながら、きなこと一緒。まあ、よう寝ています。
今回もねこオタクな話、失礼しました。
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by walk41 | 2012-01-25 19:43 | ねこのこと | Comments(2)

やるべきことはやろうね

大学の授業も大詰め、まとめのシーズンに入った。

私は試験をしない派なので、学生は最終レポートを課されることに。

100人くらいの大規模授業では、12月の半ばに課題を示し、お正月を挟んで完成させるように求める。12月まで参加しつづけている学生のほとんどは、結構な労力を要する課題にまじめに向き合い、かなりよいレポートをまとめて、年始めの授業に臨んでくる。さすがウチの学生じゃ、ええこっちゃ。

提出されたレポートは次のように扱われる。まず、全員分を集めたら、授業者がかき混ぜてクラスメイトのレポートが学生それぞれの手元に渡るようにする。「コメント交換」と称するこのスタイルに、学生はすでに慣れているので、さくさくと進む。まとめのレポートはやや大部なので、およそ40~50分をかけて、学生は他者のレポートにコメント、つまり「赤ペン先生」をするのである。

授業者の用意したガイドラインを見ながら、自分のレポートとの相違点、課題上の論点など、気づくことは学生によって多少は違うものの、いずれも丁寧に読み、コメントを書いてくれる。「そこまで書くか」というほど熱心な学生も少なくない。これが終わると、ぼけ~とした空気が教室に流れる。そら、疲れるわなあ。

授業のさいご、再び全員分を集め、自宅に持って帰る。平日は無理なので週末、100本弱のレポートを読む。おおよその組み立ては、斜め読みで十分にわかるし、何より学生のコメントがすでに入っているので、とても助けになる。

読み終えたら、わたしも最後のページに数行のコメントを書く。先週の土日は、文字通り、この授業のレポート読みとコメント書きで終わった。たっぷりくたびれたが、学生もよく頑張って良いレポートを上げてくれたので、よいキャッチボールができたと思う。優秀なレポートは2割少し、まあまあが7割強、再提出がちょっと、という結果になった。

きょうはレポート返却と講評。原稿用紙の書き方から、分析の仕方まで説明する。学生はクラスメイトと授業者によるコメントで真っ赤になったレポートを見直す。文章修行は一生もん、大学時代にしっかりと基礎を築いてほしい。

ほっとしたのもつかの間。授業が終わったら、再レポートになった学生がやってくる。どこがどう拙いのかを説明し、来週までにやっといで、と泣き顔の学生を返す。ここまではしょうがない。

残る学生は、レポートを提出できなかった面々、正直に困る。学生には「きみが教員だったら、どうする」といつもながら尋ねるが、なかなか引き下がらない君も。こっちも何とかしてやりたいが、他の学生の頑張りも考えると、「ええよ、ええよ」とは行かへんやろ、と振り切る。来年度、またがんばり。

一回サボったからって、落ちることはあらへん。きょうの結果は、これまでのそれなりの蓄積なんやから。もうちょっと注意して励まなあかんで。
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by walk41 | 2012-01-24 15:22 | 授業のこと | Comments(0)

閉じ込められたらあかん、きなこ

激しく、そして厳しく学校教育を語るブログのはずなのに、ねこの話になるとゆるゆるになっていけません(^^;)

きょうは「きなこ」、1998年9月に拾った仔です。その時、わたしは4階の研究室にいたのですが、この仔の鳴き声に気づき、1階まで下りていったという声量(?)の持ち主。

きょう大学から帰って、湯を張ろうと風呂場にいってしばらく、どこからかネコの声がします。近所に野良くん、放し飼いの仔もいることは知っているので、「ああ、雨の中、かわいそうやなあ」と思っていたのですが、いっこうに泣き止みません。「お腹もへってるやろしなあ。でも、触らせるどころか、こっちを見たら逃げるくらいやもんなあ」と諦めていました。

なのに、声が続きます。「珍しいこともあるねんなあ、どないしたんや」と思いながら、「うん?」「これは、ひょっとして家の中?」

はたして、2階に上がると(ウチは風呂場が2階)、引き戸の向こうに、ネコのシルエットが。開けるときなこが飛び出してきました。帰宅した私を追いかけてきたきなこ、それに気づかず私は、そのまま脱衣所の戸を閉めてしまったのです。閉じ込められたんね。

「何してんの、きなこ~」。いやいや、声が甘くていけません。抱きかかえて下りてきてからが大変です。こっちはまだ、プチ仕事があるのに、さわれさわれのオンパレード。目の前をさんざんにうろうろして、キーボードの邪魔になることこの上なし。抱き上げると、こっちの指を甘噛みです。うれしいんやけど、あんた口がくさいんや…。

きょうは鳴き疲れたみたい。今はストーブの真ん前で、弟分の「あずき」とくっついて眠っています。

相も変わらず、ネコおたくの話、失礼しました。

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by walk41 | 2012-01-23 21:15 | ねこのこと | Comments(0)

食べない仔は大変です

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以前のブログをご覧くださっていた方に、再開のお知らせを差し上げたら、「ジジもなじみましたか」と嬉しいコメントを頂戴しました。「ネコの名前、覚えてくれてはったんや」。ならば、この仔の近況をさっそくご報告すべく、と思った次第です。

さてジジ、この仔だけは拾った日をはっきりと覚えていなくて(^^;)、今年で7歳になるかと思います。けさの写真ですが、変わらず右目は、今はなき犬、Mai に噛まれた後遺症で麻痺したまま、まぶたが閉じません。それでも瞬膜が全体にではないけれど、おおよそ掛かって目を保護します。こんな状態でも、遠くからモノを見分け(飼い主の手にエサがあるのか、あるように見せているだけなのか)、階段をぴょんぴょこ上り下りし、しっかり生きているのだから、たいしたもんだと、飼い主は自画自賛することです。

このジジくん、まあまあ元気で幸いなのですが、いかんせん、食べさせるのにひと、いやふた苦労します。麻痺のためか歯がすぐに痛み、何本か抜けました。このためドライフードを食べることが難しく、代わりのものをやらなければならないのです。

はじめは、お決まりのネコ缶詰、「さすがにネコ缶、よう食べるわ」と思っていたら、ある日からプイと見向きもしません。まとめて買ったうん十個の缶はどうすんねん。

次に登場したのは、とりのササミ。これを出刃包丁でミンチにしました。「おっ、これはいい感じ」。でも、2日もすれば「飽きた」のオーラが出ました。食べさせようとすると、逃げ出す始末。おみゃあ…。

お次は、とりのムネ肉。ササミより食べやすいかなと思い、同じようにミンチ状に。しかしこれもしばらくは食べますが、やはり同じ結末に…(>_<)。ええい。残ったミンチは、人間の料理のどっかに混じることに…。

手堅いのは寿司のトロ(当たり前か(-_-)、このほか、寿司ネタはまずまず大丈夫です。でもこれではウチが破産する…。

あとはシーチキン缶。これもまあまあ食べるけれど、いつ食べるのを止めるか、不安でどきどきです。この仔に食べさせるときは、人間一人がかかりきり。顎の筋肉も弱り、エサをうまくすくい上げることができないので、箸で口元にもっていってやるのです。

くわえて、他の仔、なかでも「もなか」が、隙あらば「わても」と、ジジの分を取りに来るので、警戒しなければならず。ちょっと目を離すと、ジジではなく、もなかがバクバクと食べている始末です。また、物音も極力立てないように気をつけます。ちょっとした音でびっくりして、もう食事どころではなくなるので…。一食おわれば、人間は「ふ~う」。

まあこんな感じでやっております。黒い仔はどう撮っても、塊のようにしか写らず、ぱっとしませんが、ご容赦のほどを。
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by walk41 | 2012-01-22 10:36 | ねこのこと | Comments(2)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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