学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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挨拶の先に

きょうは一日、指導主事さんにおつきあいいただいた。学校訪問への道中、あれこれと話す。

私が、少なくない学校で見られる挨拶運動のことを揶揄して語ったら、「挨拶の先が問題なんですね」と返してくださった。なるほど、それが私の感じていた違和感なのかと。

生徒が校内で客人や教職員、あるいは生徒に対して挨拶をする。または登下校の最中にもそうすることが奨励される場合もある。

そこでの挨拶には2種類ある。その一つが挨拶で終わる場合、もう一つが挨拶を始めにしてから話を続ける場合だ。

もちろん、前者の場合もあるだろう。それは、文字通り儀礼的でよい。だってその先がないのだから。これに対して後者の場合はどうだろう。挨拶はあくまでもきっかけにすぎない。それは相手との良いラポールを築くための手段であり、それで終わるわけではないのだから。

挨拶をした後に何を話すのか。自分の言いたいこと? 相手に話してほしいこと? あるいはお天気の話? いずれであれ、挨拶を皮切りに相手との関わりを持てること、それこそが眼目になるのだ。

過日、大学訪問をしてくれた生徒たちに感じた違和感はここにある。どうして、相手からの話しかけに応答ができないのか。どうして、話をする際に高校教師の顔色を見るのか。自分と相手との関係を作ることが難しい状況にあったと読むのは、彼らに厳し過ぎる評価だろうか。

コミュニケーション力という話にも連なるが、たわいのないことから真剣なテーマまで、緩急いずれであれ、相手の状況にかみあった話ができること、そのための大切なチャンネルとして挨拶は位置づけられる。そうしたものとしても挨拶指導は捉えられているだろうか。それとも、挨拶をすることそのものに意味があり、挨拶をすればそそくさとそこを去ることが専らなのか。学校教員には、「挨拶指導」と言葉をいたずらに硬直化させずに、何のためのどんなことなのか、繰り返しほぐして言い換える練習をする必要があると思う。
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by walk41 | 2012-10-31 21:57 | 身体 | Comments(3)

「いい人を呼んでいただいた」

過日、講演をしたあと、私は不在だったが、集まった高校の校長先生たちの懇親会で、世話人を務めた方に多くの校長がこう声を掛けたとあとから聞いた。

もちろん、客人向けのリップサービスもあるだろう。正面切って、批判する人も珍しいだろう。

その上でなお、こうした言葉を頂戴できることを何にも増して有り難く思う。なぜって、こうして自分が生かされていると感じられるから。

まさに一期一会なのだが、その限られた機会に多少なりともこうした感想をいただける時間をともに過ごせたことが嬉しい。私の投げたボールを契機に、これから皆さんで議論が起こるようなことがあればなお有り難い。

第三次産業、その中でも「商品」のはっきりしない人文・社会系の講演や研修では、当事者の満足や納得にもっぱら依拠している。そこでは、「正しいこと」を講師が伝えることができず、かといって「そう思う」ではあまりに無責任である。こうした機会を持つ意義はそんなことにあるのではない。「このような見方はどんな示唆をあなたに与えますか」という異なる角度からの問いかけにこそ、意味があると考えるべきだろう。

教育学の講演や研修も、聴いて下さる方々と直接、間接の対話ができること、もって講師じしんが大いに学べること、こうしてこそ、その場に立つ意味があるかと思う。この点で先の感想は、みなさんとそれなりの対話ができたように思われる点で、とても嬉しかったのだ。
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by walk41 | 2012-10-30 23:13 | 身体 | Comments(0)

学校の小規模化

高校の校長先生たちと、ゆっくり話をする機会を得た。

この県でも生徒数が大きく減少、学校統廃合とともに一つの学校あたりの生徒数も少なくなり、学級数も減っている。

そうすると、当然のことながら配置される教員も少なくなり、受験科目であるにも関わらず、教員がいないといったことも起こるのだという。物理の先生が学校にいないため、この科目で受験を希望する生徒は、何と別の学校の教員に解答した問題を送って、添削してもらうこともあるのだと。

全国的には義務教育を中心に、少人数指導のための教員加配が多く行われ、今や却ってその方略の妥当性が問われてもいるけれど、かたや求められる教科の教員がおらず、勉強に不自由を強いられる高校生もいるのだなあと、現実の多様なことに驚かされる。

人口減少、とくに若い世代の減少が学校に及ぼす衝撃は計り知れない。事業の対象が中学生と限られる中(この点で、ドラッカーのいう「顧客の創造」は難しいのが、学校業界である)、全体として見ればパイの取り合いなのだけれど、その中で、定員を充足すべく地域行事にほぼ出席してアピールするという学校、夜間の学校説明会を行う学校、勉強合宿等に財政補助の申請に努める学校と、生徒集めと彼らの進路保障にさまざまな努力をされている様子に胸を打たれた。

これと同時に、この1世紀以上、人口増だけを経験してきた社会がこれから直面する事態を想像するに、各学校では何ともしようのないことを各学校の努力に委ねる一方で、各学校でできそうなカイゼンを教育委員会の指導で一律にさせる、というちぐはぐさを何とか是正してほしいとも思ったのだ。
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by walk41 | 2012-10-29 22:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校教育で「やり方」を追求するのは怠慢

ふと思ったのだけれど、人間相手の仕事において「~すれば、~になる」という発想は、これから起こることに対して謙虚さや畏れを持たず、また新鮮味や意外性を楽しめない点において、ずいぶんと怠けた、サボりんぼな考え方だなあって。

誰との関係であるかに関わりなく、どんな状況かにもかかわりなく、同じようなことが起こるように設計できるという、システムや制度といった考え方は、その時々に応じた臨機応変さや柔軟さといった発想の反対に位置している。そこに関わる人たちの顔や様子が見えずとも、対応できるという前提に立っているのだ。

ところが、学校教育では、毎年、子どもの様子が違うし、教職員の異動もあるから、去年と同じ学校であるはずがない。「変化に富む現代社会」と前置きにするならば、過去の経験が直截的に未来に生きる(「使える」)はずの無いことは明らかなのに…。にもかかわらず、校内研究や学校「戦略マップ」なるものにしばしば見られる「~すれば、~になる」という論理とそれにもとづく取り組みは、あるいは、「昨年度より学校評価の結果が向上した」といった語り口調は、学校の基本条件を無視しているのではないだろうか。

だから、子どもの最前線にいる学校では、「~すれば、~になる」と謳っていても、この意味はケースバイケースだと真反対の意味に翻訳されている。だから、検証授業や研究授業と銘打っても、事後の話し合いでは焦点が定まらず、あれも良いこれも良い、さらにはお疲れさまでした、の声かけに終始するという具合だ。

こうした真反対への翻訳というアクロバティックなことをいい加減に止めて、こうすればいいなんて話はそうそう転がってはいないんだと認めること、学校教育や授業の科学なんていう発想が無理なことを認めること。もって、宗教がかったエライ人の思いつき話(「理論」)を学校での取り組みに活かすといった物語を終わらせることが大切である。ここからこそ、学校改善が始まると見るべきだろう。
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by walk41 | 2012-10-28 11:18 | 授業のこと | Comments(0)

これで自主的な子どもになるの?

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みなさんはどう思われるでしょうか。話形とも言われる、発言の仕方をこうして教室に掲示して、従わせるという方法について。

日本に限らないかもしれないけれど、「~と思います。どうですか」とクラスメイトが発言したのを受けて、「違います」って言えるだろうか。間違いなく「同じです」だろう。しかも、このセリフも言い飽きてくるから、気力の感じない調子で、「同じでえす」ってね。

「話の仕方をまだ知らない子どもには、こうした形が必要なんです」との声も聞こえそうだけれど、こんな掲示がどの学年にも見える学校っていったい。せいぜい1,2年生で終わって、あとは自分のスタイルを作らせるように方向づけた方がええんとちゃうのん?

しかも、教師の発問の多くが教科書に載っていることを確認させるものであったり、異論の出ようもない答えを求めるもんやから、「そうではなくて…」なんて言う余地なんてほとんどない。そもそも議論になるような話題になってへんやん。なんで、そこに書いてあるもんを尋ねるようなことをするんやと、突っ込みたくなるほど。小学生は優しいね、教師思いの子がいて。それとも、小学生にはこんなカテキズムみたいな、答えが決まっているやりとりしかでけへんのかしらん。

授業の指導案には、「間違っても大丈夫と思う学級づくり」と書かれ、「教室は間違うところだ」と詩が教室の壁に張られてたりするんやけど、どうも実際は違ってるみたいや。なんでこうなるんやろ。

言っていることとやっていること、違っているのに構わないと思っているのか、それとも違っていることに気づいていないのか。づくづく学校って不思議なとこやで、ホンマに。
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by walk41 | 2012-10-27 17:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(2)

歯がとれた

ねこフリークのみなさま。こんにちは。

家人が最初に気づきました。きなこの歯がぶらんぶらんしてるってことを。

見ると、歯が突き出ています。さっき、ジジと追いかけっこしていたので、何かに当たったのかしらん。嫌がるきなこを抱きかかえ、口を開けさせると、わかりました。下の歯が取れかけているんやって。

思い切って引っ張ろうとしたその時、弾みで歯が取れました。ありゃ、これは歯周病や。

ここからはお世辞にも上品ではないので、ご覧になる方はお心づもりを。これまでそこはかとなく漂っていた口臭の源はこれか。歯の奥に鍾乳洞のように張り付いた歯石らしき、石灰化したあれこれ。それらを結構、拭き取ったのが写真です。

きなこは14歳ちょっと、人間でいえば70歳くらいでしょうか。だから仕方ないとも言えるけれど、歯が悪くなって取れるというよりも、歯を支えるところが弱体化したのでしょうね。

「80歳で20本の歯を残そう」運動でしたか。歯はもう生え替わりませんから、お互い大切にしたいものです。相変わらずのねこオタク話、失礼しました。

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by walk41 | 2012-10-26 23:03 | ねこのこと | Comments(2)

カイゼン

電車に乗って気づく。つり革が新しくなっている。色をつけて見えやすく、吊り輪を大きくして握りやすく、高さを3段階にして各々の身長に合わせてと、これまでとは変わっている。「ああ、小さいけれどこうしたところに確かなカイゼンが見られるなあ」と感心させられる。

こうしたモノで語ることのできる分野がある。また、モノでは語りにくい分野もあるだろう。いずれにせよ、今の「困り」や「悩み」といった問題がどのようなのか、それを改めるにはどうすれば良いのか、を考える力が求められる点では共通するように思う。

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by walk41 | 2012-10-25 23:06 | Comments(0)

あずきです

ねこフリークのみなさま、こんにちは。

この間、一気に寒さを感じるようになりましたが、お元気でお過ごしでしょうか。

さて、いつもの拙宅ねこ、あずきです。ちょっと普段とは雰囲気が違うかなとご紹介する次第です。

慌ただしい毎日、ともすればしかめっ面になることもあるかと思いますが、こんな極楽とんぼの様子もご覧願えれば幸いです。くれぐれもご自愛くださいね。

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by walk41 | 2012-10-24 22:57 | ねこのこと | Comments(0)

永遠の未完成

大学院の授業は人数が限られるので、一人ひとりの顔とじっくり向かいながら、授業者としても大胆な仮説を含めて話題を提起できるので、いっそう楽しい。今日もそんな時間を過ごす中、整理されてきたかなと思われることが一つあった。

多くの組織が、業務の結果として生まれる製品やサービスの完成を目指し、あるいは想定される完成から逆算して、どのような入力条件が求められるかについて議論するのに対して、学校教育の世界では、「人格の完成を目指して…」(教育基本法 第一条)と謳われるように、どうなれば完成やそれに近づいているのかが、とりわけ普通教育においては曖昧糢糊としており、入力の際の条件が事実上、設定できないという点で特徴的だということ。

3つのMとも称される、ひと、もの、かねという経営条件のいずれも、学校教育は「こうあることが、結果を左右する」とは断定できない。教職員には女性が良いのか男性が良いのか、授業時数はどれだけ多い方がよいのか、いかほどの費用を投入することが最大の効果を揚げるのか、どれもケースバイケースである。そこには、正解も、最適解もない。おおよそどういう傾向を示すのかすら、不確かである。そこで引き合いに出される教員の経験則、すなわち経験の束は必ずしも客観的に整理されているわけではなく、認識的不協和を解消しようと合理化されがちなので、経験そのものとは異なる。経験年数が長い教員が優秀というわけではなく、「指導力不足教員」など、むしろ課題を抱えやすいのは、経験という名前の記憶が少なからず歪められているためだろう。この結局として残されるのは、当事者にとっての得心や納得という満足の度合いである。

「教員として不適切な条件を挙げよ」と問われて、答えられるのは極めて消極的・否定的な内容だとすれば、ありうる教員は相当の幅を持つことになる。かなりの層の人々が教員になりうるからこそ、教員免許状の資格を大学卒や教職課程を経たことといったようにまで括ることはできても、それ以上の縛りは難しい。条件を狭めたことによる効用を実証できないから。この点で、教員養成の「高度化」なる議論はほとんど言葉遊び、あるいは暇つぶしである。

くり返そう。結果から逆算して入力を決めるという発想に基づくならば、結果が極めて不明確でかつ不安定な学校教育の世界で、入力を枠づけることはまったく無理である。なぜなら、教職員がどのようであろうとも、児童・生徒にはそれを自分なりに解釈や翻訳する可塑性、すなわち学習性があるから。子どもが教えられたとおりに必ずしも学ばないのは、次の世代に期待する先の世代にとって福音なのだ。

だから、入力がいかにあるべきかの議論をあまり厳密には行わないこと、おおよそ、だいたい、アバウトには、くらいで「ハンドルの遊び」を意図的に設けることが、「急がば回れ」になる公算大である。私たちは、格言や諺によく残されている、両義的な論理をよく学ぶ必要があると思う。
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by walk41 | 2012-10-24 00:25 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

気づき

NHK、あさイチ、ではDVを特集。主に夫からの暴力を取り上げている。

興味深かったのは、自分が暴力を受けていても、それが世に言うところのDVには該当するとは気づかないケースが、少なからずあるようだということ。

言葉による暴力や、所持品を捨てられるといった暴力を受けても、相手が悪いんじゃない、自分が悪いんだと思わされていると、問題だと思わなくなり、そのまま状況が悪化するということもあるそうだ。著しいのは、肉体的暴力までも受けていながら、DVだとは気づかない場合があるということ。これでは、いくらDV防止と啓発に取り組んでも効果は限られるかもしれない。

人間関係を前にすると人は、それが見えにくいゆえに、自分勝手な想像や推測をしてしまいがちなのだろう。見えやすい代物、明らかな場合には、それぞれの主観は抑制されるので。ここで、主観がほかの人にとっても「もっともらしさ」を持ちうるのなら、共同幻想と言われようとも、それなりに人間関係が成り立つ。あくまでも相手が受け入れる限りにおいてだけれど。

しかし、これが片方だけの思い込みに留まるときは、注意が必要だ。相手が自分と同じように思っている保証なしに、関わりを持とうとするチャレンジとなるから。思った通りに進んだらラッキーくらいに考えておかなければならない。

学校での教師と子どもとの関係も、生徒に対する教員の一方的な片思いとも表現できる。教育愛を抱くと、教師は「いい人」であるがゆえにいっそう「子どものため」を疑わなくなるけれど、当の子どもも、自分と同じくそうなりたい、そうされたいと思っているかどうかを考えるゆとり、気づきが必要なのだろう。

片思いでも構わないという「割り切り」とある種の「あきらめ」を持てることが、教員の一つの能力かもしれない。
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by walk41 | 2012-10-22 08:59 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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