学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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ようやく…

ねこフリークのみなさま、お久しぶりです。

預かって7ヶ月少し、きょう初めて見つけました。Milky がほかのネコに、これは、もなかですが、くっついて眠っている様子を。

人間の世界もそうでしょうが、新入りはなかなか認められません。きなこのMilky への態度は相変わらず威嚇的で、シャーシャーと言い合ったり、ストーブ近くにいたMilkyを追い出したり…。その中で、もなかは以前から無関心というか、あまり顧みない様子を見せていたので、ちょっと期待していたところです(なぜソファの上に座布団やらクッションが散乱しているかについては不問ということで(^^;))。

これから、ほかの仔とも少しずつ距離は縮まっていくと思いますが、しかるべき時間がかかるということですね。

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by walk41 | 2012-11-30 12:24 | ねこのこと | Comments(0)

人と出会う喜び

このブログでお世話になっている、excite ニュースに面白い記事があった。「松下幸之助の妻がペテン師にも優しかった理由」http://www.excite.co.jp/News/economy_clm/20121129/President_7898.html

松下電器の創業者の妻、松下むめの さんを紹介したものだが、お遍路さんとの関わりから養われたのではないかと思われる、彼女の「こころの仕組み」として挙げられるのが、

(1)人間の基本的な資質は、努力で大きく改善できるという「しなやかなマインドセット」をもっている

(2)財産や地位など世俗的な基準で、自分も他人も評価しない

(3)誰に対しても親切に誠実に接する

(4)出会った人からよいところを学び取ろうとする

…となるものの、なかなかこの通りに実践できている人は少ないとも記事主は書いている。

ちょうどこの反対のような人物に最近出遭ったので、私に少しこだわりがあるのだろう。不満があっても直に言わず、虎の威を借る狐のように遠回しに伝える、会えるチャンスがあったのに現れず、隠れるような真似をする、感謝が大切などと他者にはもっともらしいことを言いながら、自分の出会いにはそのかけらも見せない、と思われる人、つまりは、人と正対しない人物に思われ、いたく残念だったものだから。

かくいう私が拘りを見せるあたりが修行の至らぬということ。アランの『幸福論』から一節(「まぬけな男」)を引いて、終わりとしよう。

「あるいはまた、なにか不満があると、夜ばかりか昼のあいだも暇さえあればたちまち、その問題に立ち返る。自分自身の話を、まるで机の上に開いた陰気な小説でもあるかのように読みつづける。こうして、自分の悲しみのなかにひたる。そして悲しみを楽しんでいる。忘れることをきらうようにそこへ立ちもどる。予想しうるかぎりのあらゆる不幸を見渡す。要するに、自分の痛いところをひっかくようなものである。まぬけな男のやり方だ」(1911年)
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by walk41 | 2012-11-30 10:02 | 身体 | Comments(0)

学業ストレス

ドイツでは、学生の薬の使用量が明らかに増加していると、Die Zeit 2012.11.28付、が伝えている。

統計によると、この4年間に学生たちの薬の使用が2倍以上になっている。とりわけStimmungsaufheller(「向精神薬」と思われる)の使用が顕著だ。ドイツにおける学生は、2006年に比べて2010年で55%も薬の使用量が増えている。

大学生による使用量の増加は、同じ年代で職業についている場合の39%増よりいっそうである。統計を公表したTechniker Krankenkasse (TK)による、20~35歳を対象にした調査では、2006年と2010年とでは、とくに抗うつ剤の使用が40%増と顕著だ。

年に少なくとも1度は医者にかかっている人は5人に1人だが、女性の受診率は30%と、男性のそれの13%より遙かに高いことがわかっている。

TKは増大する薬の使用量の背景を断じてはいないが、この質問紙調査が行われたノルトライン-ヴェストファーレン州では、近年ストレスを頻繁にまた常に感じる学生が多くいることから、主な原因として、試験に関する圧力、時間に追われる生活、経済的な不安などだろうと言及している。
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日本の大学生に対する調査が行われているのかどうかは不勉強で知らないが、試験に関する圧力だけを取り上げると、ドイツではボローニャプロセスというヨーロッパ全体での高等教育の基準化が進められる中で、学生の学修が量化され、基準を満たしたかどうかがチェックされるようになっている。学費無料のもとで「永遠の学生」がいた時代とは、大学が大きく様変わりしているのだ。

そのストレスから薬の使用量が増えているとすれば、目標を達成することがどんな意味で大切なのか、意義があるのか、少し振り返るのもいいかもしれない。「適度なストレス」はなかなか定めがたいが、「農薬」に少なくない消費者が忌避感を感じるのは、薬は毒でもあることを知っているからだろう。あまり頑張って勉強しないで、というのも変な話だが、地球の裏側ではそんな事態も進んでいるようだ。

なお、原文は以下のとおり。
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Studenten nehmen deutlich mehr Psychopharmaka
Statistisch betrachtet hat sich der Medikamentenkonsum unter Studenten innerhalb von vier Jahren mehr als verdoppelt. Vor allem Stimmungsaufheller werden verschrieben.

Studenten in Deutschland nehmen einer Studie zufolge deutlich mehr Psychopharmaka zu sich als noch vor wenigen Jahren. Im Jahr 2010 erhielt ein Student statistisch betrachtet 13,5 Tagesdosen und damit 55 Prozent mehr als 2006 (8,7 Tagesdosen), teilte die Techniker Krankenkasse (TK) mit.

Der Verbrauch unter Hochschülern stieg damit stärker als unter gleichaltrigen Berufstätigen. In dieser Gruppe erhöhte sich die Quote von 7,1 Dosen im Jahr 2006 auf 9,9 Dosen 2010. Das entspricht einem Plus von 39 Prozent.

Die Studie der Techniker Krankenkasse hat die gesundheitliche Situation von Studenten und jungen Berufstätigen im Alter zwischen 20 und 35 Jahren untersucht. In dieser Altersklasse stiegen zwischen 2006 und 2010 vor allem die Verordnungsraten von Antidepressiva um mehr als 40 Prozent, ergab die Studie.

Frauen bekommen häufiger eine Diagnose
Eine Analyse der Daten zeige, dass jedem fünften Studenten oder jungem Berufstätigen mindestens einmal pro Jahr eine psychische Diagnose gestellt werde, teilte die TK mit. Frauen seien mit 30 Prozent viel stärker betroffen gewesen als Männer mit 13 Prozent.

Gründe für den gestiegenen Psychopharmaka-Konsum nannte die TK nicht. Sie verwies auf eine Umfrage aus Nordrhein-Westfalen, wonach sich viele Studenten heutzutage häufig oder ständig gestresst fühlten. Als Hauptursachen seien dabei Prüfungsdruck, Zeitnot und finanzielle Sorgen genannt worden.
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by walk41 | 2012-11-29 11:55 | ドイツのこと | Comments(0)

「教える、教えられるの関係だから」

中学校教員が言った。「どうして、生徒を呼び捨てするのか」と研修で問うたときだ。

「だって、教える-教えられるの関係でしょ」。

う~む。まあ生徒が教えられることを消極的であれ、受け止めている限りはね。偉そうにしてもいいけれど。

そうではなくて、生徒が教えられる立場に甘んじることを受け止められなかったり、反発すら感じているとすれば、呼び捨てされることは不快なことこの上ない。そのことをこの教員はわかっているのだろうか。

こう呼ばれることで、それ以外の働きかけや関わりも否定的に受け止められる可能性をどれほど踏まえているのだろうか。呼び捨てをして、生徒がそもそも受け付けない状況を作りながら、「わかる授業の追求」などと脳天気なテーマを掲げていたりはしないだろうか。まったく訳がわからない。

ましてや、小学校では、おおよそ「くん」「さん」で蝶よ花よと大切に扱われてきた子どもが多いのに、中学校に行ったら、呼び捨てである。これを「中1ギャップ」と言わずして何だというのだろうか。

「教育効果が見込めるから」とか「そう呼ぶと生徒が喜ぶから」でなく、「何となく」そうしていて、その狙いや結果について考えない。もしこんな様子が広範に見られるのだとすれば、どこを指して「意図的な教育活動」などともっともらしいことを言えるのだろう。

学校にまつわる不思議はいっそう増えるばかりである。
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by walk41 | 2012-11-28 17:41 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

講師も影響を受けた

学校経営をテーマに、教員研修に出かけた。

開始時刻の5分くらい前に講師席に着席して待つ。20人と聞いていた受講者数だが、3~4人がまだ来ていない。「これはちょっと…」と思ってから、奇妙なことが観察されはじめた。

1.定刻になったのに、受付ほか、研修の企画・実施者が始める気配を見せない。受講者が来るのを待っているのだ。すでに着席している受講者にも、「どうして始まらないのか」という違和感は見られない。

2.小さなデモンストレーションのつもりで講師は立ち上がるが、進行役の指導主事が、ちょっと待って下さいと講師を制止する。

3.数分後、あと2人の出席予定者を残して、進行役が開始の旨、口を開く。この状況に対する注意、ましてや叱責などはまったくない。

…という状態のあとに講師が登場(会場には、とうにいるのだが)。言わずに済まそうとも思ったけれど、開口一番、言ってしまった。

「初めてお会いするのに、いきなり辛口で申し訳ないのですけれど、定刻になったのに始まらなかったことに驚かされました。時間はわかっているのですから、逆算して学校を出るように考えますよね。これもマネジメントの一つと言えるでしょうが、いかがでしょうか」と。

お察しの通り、その後は、緊張した、もっと言えば否定的な雰囲気の時間がけっこう長く流れた。3時間近く後の研修の終わり頃には、多少なりとも相好が崩れたとは思うけれど。

8割の受講者は定刻にいたのだから、「どうしてそんなことを言われなければならないのか…」の気持ちだっただろう。また、遅れた受講者の学校で突発的なことが起きたのかもしれない。その上でなお、講師から見る限り、受講者も企画・実施者も、研修への緊張感を欠く様子に、また、慌てる様子もなく悠然と会場に入ってくる受講者に、さらに彼らを急かしたり講師に説明をする訳でもない企画・実施者に、いたくがっかりしたのだ。

かくして、講師も研修環境に大きく影響を受けるという実験結果を、自分を例によく理解できた。同じような資料を準備し、同じような内容を話しても、講師と受講者との関係がその場の雰囲気、ひいては満足感や充足感を大きく規定するということを。また、その雰囲気を受けて、講師が自分の話す内容を左右されるということを。

この事実のスタート点はどこだろうか。またそれはいかにコントロールやマネジメントできることなのだろうか。
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by walk41 | 2012-11-27 23:38 | 身体 | Comments(0)

インターカレッジゼミナール

6つの大学の教員と学生が新潟に集まり、卒業論文と修士論文の進捗を報告、議論する、インカレゼミナールが開かれた。

年に1回、今年で27回目、私が大学院生の頃から開かれているから、相当の期間とも言える。今回はおよそ60名が参加。学部生が30分間、大学院生が45分間の持ち時間で、発表、質疑応答に臨み、耐える。直接には学生の問題関心に由来するテーマだが、間接には指導教員の研究領域やテーマの影響を大きく受け、さらには論文の作法と言うべき点で、それぞれの教員の思考や論理の好み、癖が現れるあたりは、とてもおもしろい。

私の指導する学生からは3人が報告した。日頃から話を聞いているので、別の分科会の発表を聞いたが、私とは違う着眼から意見をもらい、とても有意義だったようだ。

論文を通じた他流試合に参加するだけでなく、あれこれの準備や懇親会での演し物の用意など、学生たちの経験を広げる場にもなっている。テキパキと動き、芸達者でもある彼らを見て、どうして「今どきの若者は…」なんてセリフが頭をもたげるのだろうかと、不思議に思う。かれらは十分に優秀で、臨機応変かつコミュニケーションにすぐれ、ホスピタリィ精神に富む。その強みを活かして、柔軟にテーマを捉え、おもしろい論文=作品を作り上げてほしい。

論文の提出まで2ヶ月を切った。指導教員もこれからが(も)勝負だ。
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by walk41 | 2012-11-26 19:11 | 授業のこと | Comments(0)

中途離職

どうもこの手の投書は、70代半ばの方に多いのか、「若者よ、どんな仕事も真剣に」(毎日新聞、2012.11.24)。

曰く、「近年、新入社員の3割が3年以内に離職しているといわれる。…意味がよくわからない『自分探しの旅』というものに出かける者もいるそうだ」と、「私には格好をつけようとしているだけとしか思えない」と綴る。あなたに「意味がわからない」と言われてもねえ。

う~ん、どうして歳を経ると(あるいは、歳を経るにも関わらず)、「今どきの若者は…」になりがちなのだろうか。

厚生労働省、新規学卒就職者の在職期間別離職率の推移、http://www.mhlw.go.jp/topics/2010/01/tp0127-2/dl/data_1.pdf

には、1987年からの統計が示されているが、大学卒業者についていえば、3年以内の離職者の割合は、最低で23.7%(1992年)、最高で36.6%(2004年)であり、25~35%に75%(24年中18年)、つまり4分の3が収まっている。どのくらいを指して「近年」なのかわからないが、大きく変化しているとは言えない。

また、より重要なことは、離職には、会社の倒産、解雇、雇用契約期間の終了という、自分ではどうしようもない理由も含まれる点である。「あなたが働かないから、会社がつぶれた」と言われても、新入社員には困る。古くはバブル経済崩壊後、近年ではリーマンショック後の雇用環境は穏やかならずだろうから、離職の背景も時代ごとに異なると見るべきだろう。

また、健康上の理由、家庭の事情などもありうる。東日本大震災が起こったために仕事をやめて故郷に帰らなければならなかった人もいるだろう。原発事故のために避難、転居を余儀なくされた人もこの離職に含まれる。これも「自己責任」なのだろうか。

自分の意見を主張する前に、「近年って、いつからかな」「どんな理由で辞めてるのかな」と立ち止まって考えればよいのに、言いたいことが先に立つためか、浅い、すぐに批判されるものになってしまうんやなあ。

齢を重ねるからこそいっそう、他山の石にしたいと思う。
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by walk41 | 2012-11-25 13:58 | ことばのこと | Comments(0)

あいさつ

「間柄に合わせあいさつを」と投書あり。興味深く読んだ(新潟日報、20121123)

曰く、最近はテレビなどで初めて会った人や目上の人に対して、「こんにちは」と挨拶することが多いが、相手やその雰囲気を軽く見ているように思えて、心地良くない。「こんにちは」は気心の知れた間柄ならでは、と。

70代半ばの投書主の地域では、「ごめんください」というのが適切だそうで、これこそ「まさに越後人の奥ゆかしさではないだろうか」、見知らぬ人から「こんにちは」と寄ってこられても、きっと良い気持ちは受けないだろうとも。

そんな人もいるのだなあと、びっくり。「こんにちは」に違和感を覚えるという記述のみならず、「目上の人」という古風な言葉がなにげに遣われていることに対してもだ。目上って年上? 社会的地位とかのこと? 

ちょっと珍しい意見かもしれないけれど、そういう受け止めをする人も現実に存在することから、あいさつの意味は受け手によって与えられるということ、だから、「あいさつをされたら気持ちいいでしょう」などとは、一つの見方に過ぎないと導ける(ましてや、「あいさつをしたら気持ちいいでしょう」は、相手のことを考えないまったく迷惑な話である)。

再三とりあげて恐縮だが、学校でしばしば行われる「あいさつ運動」、どう考えますか。内心穏やかならずとも、「学校ががんばっているのだから」と、諦めるのが大人の対応というものだろうか。
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by walk41 | 2012-11-25 10:22 | ことばのこと | Comments(4)

「習う」と「学ぶ」

江戸時代の「手習塾(寺子屋)」、あるいは今でも算盤や書道など「習い事」と言うように、「習う」という言葉がある。

これは、お手本を真似て、より手本に近くなれるよう練習することだろう。手習(てならい」とは別名、稽古(けいこ)とも言ったそうだが、稽古は手本に倣うことであり、倣っている者に「気づく」「振り返る」などが入る余地はない。

学校にも「書写」という「習字」の時間がある。字を習うとは、正しいとされる書き順や形をまねて、よりお手本に近づくことだろう。これははたして「学び」なのだろうか。手本のように書けるように練習することなく、「話し合い」や「聴きあい」を通じて、「学ぶ」などということがありうるのだろうか。

ひょっとしたら、「学び」を唱える論者は、「学習」から「学び」へと言葉を換えていく中で、「習」の字を知ってか知らずか落としてしまい、練習すること、訓練を経ることを忘れたままに、「学ぶって素晴らしい」と信心めいているのではないだろうか。

上記の疑問が妥当ならば、「習う」とは積極的、主体的に被教育される立場を取ること、と導ける。この「習う」とは、手本、模範すべきことが明らかで、それに近づくことが「良い」と見なされる状況下ですぐれて重要な概念になる。習わなければ言葉は獲得できず、それは言語的な意味だけでなく、身体的にもそうである。どのように挨拶すれば良いかは、習うしかない。大人のようにある動作をくり返すことで、日本ならばお辞儀することを獲得し、そのずっとあとになって、「挨拶って、お辞儀だけじゃないんだ」と気づくことをきっかけに「学ぶ」のだ。

習うことなく学ぶことはありえない。そんなことを夢想するのは、訓練を嫌がる者が「一人学び」「発言から学びあう」と言葉を濫造しているに過ぎない。人がどのようにものごとを知り、自分なりに捉えられるようになり、再解釈していくのかについて、具体例に則して考えてみよう。言葉が先にあって現実を左右する訳ではない。現実が言葉に命を与えるのである。
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by walk41 | 2012-11-24 21:54 | ことばのこと | Comments(6)

教師は見られると変わる

小学校の授業を見せてもらった。

公開授業日ということで、数人が後ろから見ている。社会の授業だったが、女性の教員はいささか緊張ぎみ。

板書を始めたが、「少なくなっている」を、最初に「少くなっている」と記して、子どもから「間違ってる」と声があがった。「そうやね」と書き直したら、今度は「少くなくなっている」と送り仮名が多くなり…。再び「先生、違う」と言われてあたふた。結局、黒板には「少なっている」で収まってしまった。三度目の子どもからの「違う」にはもう耳を傾ける余裕なく、次に…。

普段ならばこんなこともないのだろうが、緊張するとミスも起こりやすい。だから、「対象は見られると変化する」とこのブログでも再三にわたって書いているのだけれど。ことほどさように、みんなが見に来るような「研究授業」の記録を取ったり、それをもとに話し合いをしても、ほとんど意味がないってね。

これと同時に、普段の授業がもっと伸びやかになされているとすると、それは板書計画や進行計画をあまり考えずに、いわば身体の感じるように振る舞うことによってできること、つまり、PDCAサイクルと考えないことが「良い授業」につながる可能性を示している点でも、興味深く思ったのだ。

ある事実から理論を作ってみる、理論を事実に照らして確かめてみる、こうした認識の運動を通じて、どこまでは言えそうか、いま言われているどんな点は怪しげか、と吟味する姿勢と能力が大切だ。ゆめゆめ、素直に信じてはいけませんぞ。だから、「素直な子」という教育目標は嫌なんだけれどなあ(^^;)
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by walk41 | 2012-11-22 10:24 | 身体 | Comments(2)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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