学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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関与と責任

斉藤環の東北「組織の病理と粘り強い記憶」(毎日新聞、20130227)を読む。

池上正樹、加藤順子『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)の読後感から始まる一文だが、あの地震のあと学校の裏山に逃げようとした児童を、学校に連れ戻した教師がいた、という話には驚かされた。この本がどちらかといえば保護者サイドに立った書きぶりであり、教育委員会ほか公的機関の見方をあまり述べていないという説明を聞いた上でも、である。

学校で預かっている限り、教職員に責任があるというのはもっともだ。ただし、大地震、津波の危険といった緊急時にも、これは適用されるのだろうか。教職員がパニックになっていた可能性も考えられる中で、いかに「適切な指導」ができるというのだろう。責任を担えないような状況でこれに固執することは、被害を拡大させかねず、おそらく大川小学校では実際にそうなった。

「教育再生実行会議」によるいじめ対策も同じだが、関与することが他の災いをもたらすこともあるという発想が、基本的に欠落しているからだろう。「机上の空論をしていないで、とにかく何かをすることが大切」と。たとえば、冬山で遭難者が出た場合、捜索隊が救助に向かうけれど、時間や天候によっては捜索を休止、ときには打ち切りということもある。二次被害を避けるためだ。遭難者の数を上回るような被害を出すようでは、何のための救助かわからない。命を救うという誰も異論を唱えないだろう行動に対してすら、こういう冷静な判断がなされるのだ。

ところが学校教育では、善悪や適否の判断がきわめて難しいことが多い。いじめはいけないからと、教員がこれに関与して責任をどこまで負いうるのだろうか。微妙な力関係上で成り立っている友人関係もあるだろうに。そして、いじめに教員が関わることで生じうる効果(関係する子どもの友人関係への影響、直接には関係しない児童・生徒への影響、教員の肉体的・精神的負荷など)は勘案されているのだろうか。その上でなお、提案するような関わりを求めるというのならば、わからなくはない。しかし、そうした条件闘争についての思考実験をいっさい経ないのが、学校教育のお喋りの特徴である。

学力向上についてもそうだ。これが向上することのマイナス面は何か、あるいは講じられる方策に見合うコストと結果とのバランスは取れているか、何も考えられない。「学力向上って大事でしょ」で終わりである。「良いことだからやるべき」(良いかどうかの判断すら、つかない場合も多いのに!)という一本調子、だから威勢良く、心地良くも聞こえる語りが支持されもする。この点で「わかりやすさ」は危険である。

よく思うのだが、実践とは主体によっていかにでもできるようなものではなく、相当に限られているのではないか、そもそも主体性なるものが、それほど確かなものではないのではないか、その意味で教育実践という言葉も、あれこれと限られた条件の中でなお、できそうな余地として捉えるべきではないかと。だから、授業の指導案にも「予想される子どもの反応」だけでなく、「予想される教員の反応」も記しておくべきでは、と辛口を言ってしまう。

「できないことはムリ」という勇気を、そのための見極めがよりできるように。まちがっても「なせばなる、何事も」なんてお気軽なことを考えないように、「ちょっと待てよ」と踏みとどまる力が必要なのだと思う。
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by walk41 | 2013-02-28 13:21 | ことばのこと | Comments(0)

教育問題の作られ方

中央政府の「教育再生実行会議」がとりまとめた「いじめと体罰対策」、いつものことだがいたく脱力する。こうして教育問題が作られるんやなあって。作られ方の妥当性は検討されないままに。

曰く、思いやりや規範意識などを育むよう、道徳の教材を充実させ、新たな枠組みで教科科する。すべての教員が習得できる指導方法を開発し、教員の指導力向上に取り組む、と。

このロジックはこんな感じだ。①子どもの問題がある。⇒②それは、教育が不十分だからだ。⇒③教育の根幹は学校教育、だから教員の指導力が高められなければならない。⇒④すべての教員ができる指導法を開発、実施し、子どもの問題を減少させ、根絶する。

う~ん、ちゃうんやな、ことごとく。どのように状況を認識するかは、語り手の世界観(物の見方)の投影だから、「どうするか」の前に「どう見るか」を吟味しなければならない。見方をまちがうとやり方もまちがうからだ。

①子どもの問題ってどういうこと? 挨拶をしない、決まりを守れない、自己肯定感が低い…、これって子ども時代の特徴ではなくて、今の子どもならではの問題なの?

②現代に顕著な問題だとして、それは教育の不足から生じているの? むしろ教育が過剰ゆえの現象では? あるいは教育とは無関係な話かもしれないよ。

③ひょっとして学校教育の課題になったとして、教員の指導力の問題なの? 学校の環境や学習のあり方の問題とか、どこでも教員が出てくること自体に問題があるかもしれないのに。

④だから、「ちゃんと教育したら、問題のない子になるはず」という思い込みが危ないのでは。そもそも、こうした資源投下と予測される効果とのバランスを考えた上で、やるべきほどのことなのかな?

…こんな風に分析しなければ「より良い方法」には辿り着かない。でも、旗を振りたがる人はこんなことどうでもいいんやろね。「四の五のいうより、さっさと実践しろ」ってね。あ~あ、こうして学校はさらに忙しくなり、効果らしきものも見えず(見えたことにする報告書が上がり)、徒労感が高まるというシステムが、快調に作動するのである。
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by walk41 | 2013-02-27 11:06 | ことばのこと | Comments(8)

"I like dogs."

ある研究発表会にて講演資料として配付された、英語教育に関するスライド資料。

この講演を聴くことはできなかったが、この資料からおおよそどんな話だったかがわかる。その主題は、英語が「数を意識する言語」だと言うことを知って学んでほしいということ。

この分野の専門家を前に、おそらく失礼なのだろうけれど、とても不思議だ。だって、"I like dog"は間違いで、数えられるいろいろな種類の犬がいるのだから"dogs"でなければならない、と説明されるからだ。

こうした言い方に、みなさんは疑問を感じないだろうか。「ぼく、犬が好きなんだ」と言うとき、それは特定の犬、あるいは特定の種類の犬を指しているわけでなく、犬という種をおしなべて好きなことを意味するのは、日本語を解する人ならばみんなわかること。つまり、「犬」という表現は、いろいろな犬、つまり複数を意味しているのだ。

にもかかわらず、「犬」は単数形だから"dog"、このままでは間違いですよ、という注意が何か大事なポイントのように語られる。これって変。だって、「犬」という表現が単数形なんて、誰も思っていないもの。「私の飼っているこの犬」とか「ご近所のプチって名前の犬」とかならば、単数形なのはわかる。だって、一頭だけを指しているから。こういうときに「犬が好き」とは言わない。むしろ、大型犬は好きだけれど小型犬は、とか、その反対といった話だとイメージは沸く。あるいは、「イヌ派かネコ派か」という話ならば、"cat lover"や"dog lover"(単数形の表記やん!)というべきであって、まちがっても、"I like …"にはならないだろう。はたまた、「どうしてシェパードが好きなの?」は、"Why do you like shepard?" と単数形よ(^^)/。

つまるところ、①「犬」と聞いて即、単数だと理解する人は幼い。「犬」は意味としては通常、複数である。②「私は犬が好きだ」なんて、「これはペンです」並の、およそ誰も言わないような表現である。③よって、"I like dogs"が正しくて"I like dog"は間違い、といった議論をすること自体が意味あるとは思われない。

なんかなあ。もうちょっと知的興奮を覚えるお題で講演してほしいなあ。こんなん、時間がもったいないやん。「あんたはどうなんや」って、突っ込まれるかしらん。
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by walk41 | 2013-02-26 23:14 | ことばのこと | Comments(0)

消しゴムかす

大学入試もいよいよ個別試験の段に入った。センター入試の場合と違い、受験生は本学の志望者、ここから合格者が出るのだから、一足早い教員と学生との対面でもある。

個別試験では、消しゴム(予備校名の入ったものが少なくない)を使ったあとのかすがたくさん出る。記述することがとても多く、書き直しもけっこう余儀なくされるからだ。長い試験時間、一つの科目が終了した。試験室を去るときに、彼らの様子が目に入る。

机の上に残った消しゴムかすを、床にはらい落とす受験生もいるけれど、その片や、ティッシュで集める人、器用に紙を折って小箱を作り、消しゴムかすを入れている人もいる。いいなあ、こんな学生に来てほしいな、と強く思った。
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by walk41 | 2013-02-26 06:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(4)

偉大な無駄

週刊エコノミスト2013/2/19号、「問答有用」というコーナーに、開成高校硬式野球部監督の青木秀典氏が登場。

卒業生のおよそ半分が東京大学に合格する(浪人を含む)この高校で甲子園を目指す監督の話、こうでなきゃと楽しく読んだ。
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記者:大人は野球などの部活動を通じて、精神面を鍛えるとか、チームワークの大切さを学ばせようとしますが、青木監督のお考えは。

青木:大人はスポーツやこうした部活動に教育的な意味を持たせようとしますが、私は野球に教育的意義はまったくないと考えています。野球がしたいという自然な欲求を持つ子どもと一緒に、野球がしたい大人が集まってボール遊びをしているだけです。小学生がやる影踏みや鬼ごっこと同じ。やってもやらなくても、どちらでもいい。はっきり言ってしまえば、無駄なんです。(後略)

記者:無駄ですか。

青木:試合になると、私よりも年上の先輩が大勢応援に来てくれたり、たくさんの人たちに支えられていることを考えると、ただの無駄というよりは「偉大な無駄」ですね。今の学校教育というか社会の風潮として、すぐに役立つことだけを効率的にやらせようとします。そういう観点からだと、野球にしても「役に立つ」ことにしたいんだと思いますが、何が子どもにとって役に立つことなのか、私にもよくわからない。(同紙, pp.44-45)
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いかがだろうか。爽快な問答だと私は思うのだけれど。

「教育的意味がなければやらなくていいでしょう」と、お怒りの向きもあるかもしれない。だけれど、そんなわからないことをあれこれ言うよりも、例えば野球をやりたい、楽しい、それでいいではないか、という発想がどうして難しいのかを考えるのも一興だろう。

この後で青木監督は、部活動での「体罰」問題について、指導者が優勝や好成績が圧力となって、やめたくても止められない状態で発生するのではと、こうした「エリート」化した世界は異常でもあると述べているが、これも慧眼と読んだ。

学校経営についても、目標設定をすることは構わないけれど、「まあ、だいたいこんな感じで」と構え、客観的よりも主観的な物差しを大切にして、「良かったね」「満足だ」と関わった人が笑いあえるような場、そんなものとは反対の方向を目指すものの、それが実際にはどうもできないから、学校評価や教員評価では公然の嘘が横行する。みんな「そんなことないやん」と思っているのに、一人歩きする結果や数値は、「そういうことになってるんです」とツッパる役目だ。

こんな不幸な状態を何とかするためには、目標管理とか評価の「見える化」、あるいはサイクルに基づく活動といった言説を批判し、何が現実をもっとも「合理的」に説明できるかに腐心すること、「こうでなければならない」といった説教や鼓舞ではなく、冷静で分析的な努力こそ求められているのではないだろうか。
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by walk41 | 2013-02-25 17:08 | ことばのこと | Comments(2)

落第、そして放校

ドイツ東中部に位置するチューリンゲン州、同州の学校教育法には、次のように規定されている。

第49条 進級、留年(原級留置)、飛び級
(1)生徒は現在の学年で、求められる成績を十分に収められた場合、次の学年に進級となる。あるいは、転校あるいは長期の病気といった特別の理由があっても、学業の意欲が認められ、次の学年での成功が期待できる場合は進級できる。進級あるいは非進級は学級会議(Klassenkonferenz)で決定する。
(2)すべての学年の生徒は、保護者あるいは成年に達している生徒の場合は自ら、成績通知後の遅くとも1週間までに、まだ留年をしたことがなく、また現在の学年を留年となっていない限り、上級学年の下級への在籍を申し出ることができる。自由意志による留年の場合は、その決定を要しない。普通教育学校において留年は2回まで、ギムナジウムの上級段階においては1回までである。例外については、当該学校種に関わる省が決定する(以下、略)。
(3)特に優秀で学業の意欲が高い生徒は、同級生より明らかに高く、結果が期待できる場合は、飛び級が認められる。詳細は、当該する学校に関わる省がこれを定める。
(4)進級しなかった生徒は同じ学年をくり返す。職業教育学校における留年については、特別の学業コースによって代替できる。詳細は、当該する学校に関わる省がこれを定める。

第50条 成績不良による放校
生徒は修了試験に2度不合格になると、通常、学校あるいは修学課程を去らなければならない。このことは、二回、同じ学年または職業教育課程(職業学校における例外を含め)およびチューリンゲン課程で引き続く2つの段階におり進級できなかった場合も同様である。ギムナジウムにおいては通常、二回まで留年ができる。二回進級できなかった場合は、ギムナジウムを去らなければならない(以下、略)。
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いずこもおそらく、必ずしも法律どおりに運用されてはいないだろうけれど、それでも、留年さらに放校について明記されていることは、日本のそれと違うなあと思わされる。

別の州で、基礎学校の授業を見せてもらった際、たまたま子どもに成績が渡された時間だったのだが、すべて数値で示され、また、クラス単位での頻度分布も子どもに説明された。4年生でこうした対応は、なかなか厳しいなあと感じたことを思い出す。

過日のブログにも書かせてもらったが、ある意味でとても厳しい成績評価、だって留年さらには放校までありうるのだから。こうした基準を、まずは法的に課している国を目の当たりにすると、日本で言われる、学校教育目標を追求する、そのために計画を立て、修正を図りながら実現を目指すといった、サイクルやシステムを強調する一連の言説が、いかに表向き(「建前」)かがわかるだろう。いじわるに言えば、そもそも、そこまでやる気がないのだ。

本当にそうしたことを追求するつもりならば、原級留置やひょっとして放校という手続きを考え、場合によっては実行すること、これなくして数値目標、スタンダードあるいは説明責任など、絵に描いた餅である。この点で厳しくはできない日本であるのなら、目的志向という発想そのものを問い直すこと、これがバランスのとれた態度というべきだろう。

どうだろうか。この点でも是非、議論したいのだけれど、どなたかケンカを買ってくださらないだろうか。
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by walk41 | 2013-02-24 21:19 | ドイツのこと | Comments(0)

お久しぶりです

拙宅にやってきて約10ヶ月、多少なりとも落ち着きは見せていますが、なかなか他の仔とは難しいままのMilky です。近くにやってくるのは、もなかくらい。くっついて眠るまでにも至りません。うーむ、時間かかるもんやなあ。

とまれ、元気そうなので良しとしましょう。飼い主馬鹿な話で恐縮です(^^;)。

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by walk41 | 2013-02-23 15:02 | ねこのこと | Comments(0)

わからないからこその旅

七条の読み方、「しちじょう」「ななじょう」どっち?(京都新聞、20130220)を読んだ。

碁盤の目とも言われる京都市内の通り、「条」は北から南の通り名に、一から十まであるが、確かに「七条」の読み方はややこしい。「しちじょう」だとしても、実際の人々の発音は私の聴くところ多分に「ひちじょう」だと思うし、かたや「ななじょう」と言われるとなにげに頼りないようにも感じる。難しいなあ。

この七条を「スマホで検索しても出ない、京都観光の気分が台無し」との声も届いているそうだが、わからないとは旅の醍醐味、ネット検索しても出ず、そこに行ってみて、聴いて見てはじめて「そうなんや」と分かる方が楽しいではないか。

ちなみに、たとえば、「四条烏丸」と東西をつらぬく通りを先に、南北の通りを後に言うのかと思いきや、「烏丸御池」と南北に通る方を先に言う場合もある。「御池烏丸」とは言わんなあ。太い南北の通りの時は、こちらが先になるのかしらん。

ちょっと謎めくこと、わかりにくいこと、それが人間の好奇心を高め、意欲を引き出すことは、授業に限らないと思う。だから、私は「しちじょう」、いや「ひちじょう」かな、に一票!
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by walk41 | 2013-02-23 13:41 | ことばのこと | Comments(2)

学校拒否

ドイツ、Stuttgarter新聞 2013.2.20から

学校の半期(半年間)のうちに10日、明確な理由がなく授業を欠席する生徒は、専門家の間で「著しい不登校生徒„Intensivschwänzer“」と見なされる。しかしながら、教室にちゃんと座っていても、学校拒否(不登校)の生徒はありうる。身体はそこにあっても、頭の中はまったく違うところにいるからだ。積極的あるいは消極的な学校拒否に関して、「学校の責任ではない„Kein Bock auf Schule“」と題する会議が昨日、地域青年局、地域青年サークル、州教育局関係者が市庁に集い開かれた。このテーマを選んだ企画者は、まさに的を射た。この地域の250人以上の教員、社会職員、ソーシャルワーカー、また小児科医、警察官がこのワークショップに参加したのである。

どれほどの児童・生徒が学校拒否に含まれるか。何年も学校拒否の現象を研究してきた教育学者Thorsten Bührmannによれば、正確な数字は明らかでない。なぜなら、「連邦全体でデータは集められておらず、また学校においても同様」で、データがないのである。そのヒントになるのは、学校を修了せずに去っている若者の数である。たとえば2010年は、ドイツ全体で6.5%、約53000人になるという。確かなことは、学校拒否の数はこの値よりも高く、10~20%にも達するだろうとBührmannは言う。

授業に参加しない、積極的に参加しない生徒の原因は複雑とBührmannはは指摘する。「誤った対応をしてしまうのは、学校だけではありません。」それ以上に彼らにはたいてい家族の問題と一定程度の個性の問題が確かにありうるというのだ。若者にとっていわば家族問題は大きな位置を占めており、明確な学校拒否はこの場合、「論理的な問題解決としての振る舞い„ein logisches Problemlösungsverhalten“」なのだ。極端な例を挙げれば、ある女の子の場合、母親が突然亡くなり、父親を一人にしておくことの心配から、学校拒否になったケースもあるという。

「学校拒否-第二のチャンス」と銘打った地域の青年サークルのプロジェクトを立ち上げたKarl-Heinz Konnertは述べる。「学校拒否は決して学校的な現象ではないのですが、学校で顕在化するのです。」このプロジェクトは、12歳以上の学校拒否をしている生徒を見つけることをねらいにしており、教育学者Bührmannは教員に、学校拒否の生徒と話をする上でのアドバイスを行う。「退屈に聞こえるかもしれませんが、効果は思った以上できっと得られることが多いはずです。」
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日本風に訳せば、不登校問題のこと。これを学校問題としてではなく、青少年を取り巻く環境、中でも家族やパーソナリティの問題として捉え、学校で現れてはいるけれど、必ずしも学校問題ではないと判じる点が明確だ。日本では、なぜか社会問題が教育問題に、そして学校問題にと、ベクトルが反対を向いているように感じられるから、とても対照的に見える。

学校制度があまねく普及している国や地域ならば、おそらくどこでもある問題だけれど、その要因あるいは解釈は、必ずしも一様ではないことを示す好例ではないだろうか。

なお、原文は以下のとおり。
Backnang - Schüler, die zehn Tage im Schulhalbjahr ohne eine ausreichende Begründung im Unterricht fehlen, gelten in Fachkreisen als „Intensivschwänzer“. Doch auch ein Jugendlicher, der regelmäßig im Klassenzimmer sitzt, kann ein Schulverweigerer sein, der körperlich zwar anwesend, in Gedanken aber ganz woanders ist. Um aktive und passive Schulverweigerung ging es gestern bei dem Fachtag „Kein Bock auf Schule“, zu welchem das Kreisjugendamt, der Kreisjugendring und das Staatliche Schulamt ins Bürgerhaus nach Backnang eingeladen hatten. Die Veranstalter hatten mit der Wahl des Themas offenbar ins Schwarze getroffen: Mehr als 250 Lehrer, Sozialpädagogen und Sozialarbeiter, aber auch Kinderärzte und Polizisten aus dem Rems-Murr-Kreis nahmen an dem Fachtag mit Workshops teil.

Wie viele Kinder und Jugendliche zur Gruppe der Schulverweigerer gehören, das lässt sich nach den Worten von Thorsten Bührmann nicht in genauen Zahlen ausdrücken – weil diese nicht vorliegen. „Es gibt bundesweit keine Erhebungen, auch nicht an den Schulen“, erklärte der Erziehungswissenschaftler, der das Phänomen Schulverweigerung seit Jahren erforscht. Ein Anhaltspunkt sei aber die Zahl der jungen Menschen, die die Schule ohne Abschluss verlassen. 2010 seien das beispielsweise 6,5 Prozent oder rund 53 000 Jugendliche in Deutschland gewesen. Ziemlich sicher liege die Zahl der Schulverweigerer noch höher. Er gehe von zehn bis 20 Prozent aus, so Bührmann.

Die Ursachen dafür, dass Schüler nicht oder nicht aktiv am Unterricht teilnehmen, bezeichnete Bührmann als ein komplexes Problem: „Es ist nicht nur die Schule, die etwas falsch macht.“ Vielmehr kämen bei Schulverweigerern meist gewisse familiäre Strukturen und eine bestimmte Persönlichkeitsstruktur zusammen. So könne etwa ein familiäres Problem für die Jugendlichen Vorrang haben, die aktive Schulverweigerung sei in diesem Fall „ein logisches Problemlösungsverhalten“. Ein von Bührmann angeführter, sicherlich extremer Fall war das Beispiel eines Mädchens, das nach dem plötzlichen Tod der Mutter Angst hatte, den Vater allein zu lassen.

Karl-Heinz Konnerth, der das beim Kreisjugendring angesiedelte Projekt „Schulverweigerung – Die zweite Chance“ mitbetreut, bestätigt: „Schulverweigerung ist kein schulisches Phänomen, aber es manifestiert sich in der Schule.“ Das Projekt richtet sich an Schüler ab zwölf, Konnerth sucht die Schwänzer daheim auf. Thorsten Bührmann rät auch Lehrern, Schulverweigerer anzusprechen. „Das hört sich platt an, reicht aber oft als erster Anstoß und wird als Interesse wahrgenommen.“

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Projekt
: Seit September 2011 läuft im Rems-Murr-Kreis das Projekt „Schulverweigerung – Die zweite Chance“. Insgesamt fünf Mitarbeiter begleiten zurzeit mehr als 30 Schulverweigerer. Bundesweit wird das Programm an knapp 200 Standorten umgesetzt.

Ziele:
Das Projekt zielt darauf ab, junge Menschen, die ihren Abschluss durch Schulverweigerung gefährden, wieder in das System zurückzuführen. Laut Karl-Heinz Konnerth vom Kreisjugendring gelingt das bei 50 bis 60 Prozent der Teilnehmer. Für etwa 30 Prozent fänden sich alternative Wege.

Finanzierung:
Das Projekt „Die zweite Chance“ wird aus Geldern des Europäischen Sozialfonds sowie des Kreisjugendrings und der Städte Fellbach, Backnang und Schorndorf finanziert. Es endet im Dezember 2013.
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by walk41 | 2013-02-22 22:43 | ドイツのこと | Comments(0)

公共施設の多機能化

NHK,20130221朝のニュース、埼玉県の鶴ヶ島市を例に、公共施設(建築物)の老朽化の対策にいかに取り組むか、とても興味深かった。

およそ1970~80年代にたくさん建築した公共施設が老朽化し、施設維持費が市の財政を圧迫することが明らかな現在、補修など維持ではなく、思い切って施設数を大幅に減らすとともに、新たな施設の多機能化(施設の複合化)を図るという発想だ。

学校、保育所、図書館、女性センター、公民館、児童館などをできるだけ1つの施設に集約して、稼働率を上げるとともに、人々の交流を促す。学校で使っていない時間の美術室は住民のサークルで使う、という具体に。

これまでも、学校体育館をスポーツサークルが夜間使用するといった例は広く見られるが、それを時間的、領域的に大幅に拡げ、効率的な施設の活用と人々の関わりを強めるアイディアと見た。

こうした「開かれた学校」が本格化するならば、児童・生徒に関わる人間関係も変わってくることだろう。彼らは、受動的な「教えられる」立場だけでなく、たとえば、お年寄りの話を聞いたり、手助けをする能動的な立場を持ちうる。子どもたちの周りが、「教える」人だけではなくなるからだ。そこでの「教職」には、限られた分野の「専門家」というよりもむしろ、幅広い人間理解としての相対的認識・感情とそのマネジメントに秀でていることが求められるだろう。そうでなければ、多様な年齢、社会的・文化的属性の人々が集う場でうまく適応できない。

かくして、学校関係者は多岐に及び、「プロフェッショナル」であるべき余地は小さくなるだろう。外国人、高齢者、障碍者あるいは卒業生が「先生」役になる。そして、「先生」という意味自体が変化していくだろう。ある決まった内容を伝えるteacher ではなく、水先案内人のguide やnavigator、あるいは相談役である counselor になるかもしれない。

人口変動、施設・設備環境の変化といった、明らかな事実を眼前にしながら、「教員たるもの、専門職としてかくあるべき」とこだわる議論をすることが、そもそも誤りということがわかるだろう。
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by walk41 | 2013-02-22 09:27 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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