学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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夜桜も見とれます

京都では、桜がほぼ満開です。

これまで行ったことがなかったのですが、京都駅の少し南側、東寺の夜桜を見てきました。

適切な言葉が思いつきません。圧倒されるしだれ桜とライトアップされた五重塔の、色と形の組み合わせです。

ここでもらった「気」を頼りに、春からも大いに励みたいと感じました。

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by walk41 | 2013-03-30 23:06 | Comments(2)

「器」に見守られて学ぶ

連日、人事異動で部署を替わられる方、退職される方の知らせが届く。会議、研修、講演などで、いずれもお世話になった方々だ。

外部講師としては、こうした知己を得た人が去ってしまうのは寂しい限りだが、いつまでも同じところにいてもらう訳にもいかず、諦めるしかない。公務員用語でもないだろうけれど、「人事(じんじ・ひとごと)はまさに他人事」なのだから。

職場でも、退職や異動で人の動きが少なくない。こちらも寂しい。その最後にお話いただくのが習わしとなっているのだが、聴いた中でも、施設関係で活躍された事務の方の話はとても印象的だった。

学校や大学での施設・設備の改修や増築、実にいろいろなご苦労があるのだと、改めて気づかされる。業者との山のような打ち合わせ、地区関係者との協議、従事する人のほか生徒や学生の安全の確保、広報ほか周知、工期の変更や調整、ハードウエアとソフトウエアとの兼ね合い、もちろん入札に始まる金額の調整もある。こうしてようやく建物や構造物が完成する。きっと感無量に感じられることだろう。

こうしてできた建物に包まれて、見守られて自分たちが授業できるということ、その有り難さを確かめさせられたことだった。大変お世話になりました。ありがとうございました。
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by walk41 | 2013-03-29 20:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

シカも「学ぶ」

久しぶりに奈良公園を散策する。桜の満開まではあと少しだったかな。

鹿せんべいを売っている、少し年配の女性が詳しい話をしてくれた。

曰く、「私が子どもの頃は、鹿がおにぎりを食べるようなことはなかったのだけれど、だんだんと人の食べるものを口にするようになったというか、この頃はお客さんの食べているハンバーガーも、肉は食べないでしょうけれど、パンは食べたりもしますね。」

おもしろい。馴化されるのは人間だけではないのだなあと。そういえば、思い出した。ドイツに少し住んでいた頃、近所のネコに日本から持ってきた海苔をやろうとしたけれど、見向きもしなかった。たとえば拙宅のネコなど、奪うようにほしがるのだけれど。ネコもドイツ型と日本型に育つ、つまり「学ぶ」のだろうなあ。
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by walk41 | 2013-03-29 09:38 | 身体 | Comments(0)

給食ができる条件

ドイツからの友人が滞在している。久しぶりにあれこれと話す。

学校関係者でもある彼女に、給食指導の様子について、教員になった卒業生たちが話していることを説明すると、「一緒にみんなで配膳から始まる食事をするなんて、ドイツではまったく考えられない(unvorstellbar)」と言う。どうしてと尋ねると、「ドイツでは子どもがうるさくて、落ち着きがない。とても無理だ」と。

なるほど、なにげに提供されている給食も、ところ変われば難しいのかもしれない。そういえば、アメリカで子ども時代を過ごした知り合いが、回転寿司を指して、「アメリカだったら、寿司にいたずらされるから、このスタイルはとても無理だろう」と話していたことを思い出した。

ここでの話の限り、日本の子は「お行儀がいい」ということだろうか。「マナーがなっていない」と嘆く大人も少なくないけれど。
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by walk41 | 2013-03-27 09:34 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

自殺と社会変動

東日本大震災後、被災3県をはじめとする東北地方の男性の自殺率が極端に下がったことが、山形県地域医療対策課の大類真嗣主査の調査で分かった。震災復興に伴う雇用増や景気改善が影響している可能性があるという。ただ、1995年の阪神大震災の時も、いったん下がった自殺率が2~3年後に上昇したという研究もあり、大類主査は「自殺対策の手を緩めてはいけない」と話している。(20130326 読売新聞、一部改変)
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人はなぜ自殺をするのか。その古典的作品は、デュルケーム『自殺論』(1897)だろう。デュルケームはそこで、「自己本位的自殺」「集団本意的自殺」「アノミー的自殺」の3つに類別する。

たとえば、権威や規範が弱体化し、無秩序状態になったことで起こるとされる「アノミー的自殺」論を援用してみよう。2011年の震災以後、「絆」と社会的つながりが強調され、また地震、津波、原発被害と、人々がつながらなければ生きにくい状況が生まれたこと、これにより、アノミー的状況が減少したゆえに、自殺率が低下している可能性が考えられる。

もちろん、他にもさまざまな説明が可能だろうし、最終的にはケースバイケースで一様な説明は無理とも言える。本人ですらその理由や背景がわからないことすら十分に考えられるのだから。その上でなお、自殺という文字通り、生死という個人にとって究極の問題が、個人を超えた社会的背景から説明される余地を残す、ということに気づいた広く社会学の功績は大きい。はたして、これ以上のパラドックス(逆説)があるだろうか。かくも衝撃的な発見である。

学校教育も同様に、個人の問題でありながら、社会的な問題でもある領域だ。これを捉える際に注がれる視線、認識枠組みが、「事実」を少なからず規定しており、丁寧に観察する以前にすでに結論を導き出している危険性を顧みることが大切、と改めて思わされる。そもそも、出来事じたいが見えづらい学校教育という領域についてはなお一層、である。
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by walk41 | 2013-03-26 12:43 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「ゆるキャラ」は組織を強くする?

NHK、朝のニュースでは、「ゆるキャラ」を取り上げる。

「可愛い」とばかり注目されがちな「ゆるキャラ」だけれど、その裏には企業の生き残りも関わっていることがよくわかった。

徳島県のしいたけ栽培会社。「しいたけ侍」というキャラクターを使って、商品の知名度を上げようと努めてきたが、それが社員の商品への愛着を強めることにもつながり、商品の質も向上、売り上げアップにも貢献しているという。

こうしたゆるキャラはシンボルの一つだが、これが関係者の帰属意識や拘りを生み出すことを示すものだろう。

ひるがえって、私の職場のマスコットキャラクターは、禅の教えにある「啐啄同時(そったくどうじ)」からきた「そったくん」。オープンキャンパスの際など、等身大の着ぐるみが学内を歩く。このキャラも、私たちの大学そして職場への愛着を高めてくれているだろうか。

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by walk41 | 2013-03-26 08:47 | 笑いのこと | Comments(0)

出会いに感謝

世は卒業シーズン、あちこちで花束を持った人を見かけますね。こちらもその例に漏れず、きょう卒業式を迎えました。

いろいろな思いを抱き入学した学生が、全員という訳ではないけれど、4年後ぶじ卒業に至ったこと、何よりと喜びたく思います。

今年の卒業生はとくに凝った演出をしてくれ、大学ではあろうことかと言ってよいでしょうか、今や卒業式の定番となった、「白い光のなかに山並みはもえて」を歌ってくれました。しっかりと聴きました。ありがとう。

これからいろいろなことがあるだろうけれど、傲慢なほどの自信を励みに、大いに挑んでいってほしい。君たちには「だいたいこんなもん」と、わかったような気になる余裕も諦めもまだ見えていないはずだから。
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by walk41 | 2013-03-25 21:40 | Comments(0)

どんな分析がなされているのか

高1女子の頬を平手で1回、拳で2回…体罰謝罪
 愛媛県立高校の50歳代男性教諭が、授業中に1年生の女子生徒を殴るなどの体罰をしていたと、同校が明らかにした。教諭は昨年10月2日、授業中に手紙を書いて机に隠した生徒を見つけ、髪をつかんで体を起こそうとし、頬を平手で1回叩き、拳で2回殴った。生徒にけがはなかった。翌日、生徒は学校を休み、父親が担任に体罰があったと連絡。教諭が家庭訪問し、父親に謝罪した。生徒は2、3日間は教諭の授業を受けず、その後は出席しているという。
 同校は家族の理解を得たと判断し、県教委に報告していなかった。今年2月、県教委が生徒や保護者を対象に行ったアンケートで、生徒が体罰があったと記載したため、同校が今月、県教委に報告した。教諭は「授業態度が悪く、指導のためだったが、やり過ぎた。反省している」と話したという。同校は「体罰はどんな理由でも許されない。再発を防ぐ」としている。(2013年3月24日 読売新聞 一部改変)
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子どもの見取りなどと観察することが強調されてもいる学校であるはずなのに、「再発を防ぐ」ためにどうすればよいのか、そのためには、なぜ「体罰」が起こるのかが分析されているのか、短い記事ゆえなのかもしれないが、はなはだ心許ない。

たとえば、①なぜ授業中に生徒は手紙を書いていたのか、②それは「学ぶ」上でどんな問題だったのか、③なぜ教諭は「物理的有形力の行使」をしたのか、といったことが観察、省察されているのか。

①では、授業がつまらないから、急ぎの用事があったから、友だちつきあい上、などが考えられるし、②では、聞かなくてもすむような授業だったかもしれない、教員の「プライド」にとって重要だったのか、③後先を考えた行動だったか、その結果はどうなったのか(学校を休んだと報じられているが、それがねらいだったのか)、などと考察もできる。でも「現場」では、そんな理屈づくりよりも実践、行動が先だものね。「とにかく、何かやるんや」と「這いまわる経験主義」に依るのだ。

こうした分析がなされないから、ことあるごとに「再発の防止」や「指導の徹底」としか言えず、結局は似たようなことを繰り返すことになるのだろう。

ちなみに、同校のHPに載せられている学校評価(2011年度)では、「90%以上の生徒が授業に真剣に参加できていると感じるよう、授業中の指導を充実させる」について、学校の自己評価は「C」、課題があることは示されている。しかし、改善策については「授業中の指導を充実させるために、教科会の充実及び教科内における人材育成力の活性化を図る」である。鬼の首を取ったようで上品ではないけれど、こんな形式をとっても(とるがゆえに?)実際には変わらない、と見るべき事象ではないだろうか。
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by walk41 | 2013-03-24 09:56 | ことばのこと | Comments(0)

世界の周縁から愛を叫ぶ

「宇宙人の存在」(「あすへの話題」日本経済新聞、20130322)を読む。

「400年以上前は、地球が宇宙の中心であり、われわれは特別な場所に生まれた”選ばれた民”と思い込んでいた。それが地動説の登場で、宇宙の中心は太陽になり、地球はその周りを回る惑星に(中略)、こうして太陽は1000億もある星の集まり・銀河系の周辺に位置する平凡な星の一つに過ぎないことがわかった。いまや宇宙にはどこにも中心がなく、銀河系のような星の集団(銀河)でさえも、宇宙には1000億以上あるとされている。その意味で、天文学は人類が何ら特別の場所に生まれたわけではないことを明らかにしてきたといえる。」

この文章は、世界を知るとは自分がなんら特別ではなく、ごく平凡な存在であることに気づくこと、と言い換えられるだろうか。これに高校の生物で知った「個体発生は系統発生をくり返す」(ヘッケルの反復説)を援用すると、次のようになる。個人も万能感(自己肯定感?)あふれる姿から、ごく平凡な存在だと気づくことが成長や発達である、と。

生きた時間の長さによって人は姿を変えていく、そして、その認識や感情は祖先がくり返し経験したことを繰り返す、と仮説すれば、「自分らしさ」をあまり追い求めることは「青い鳥」状態を招きかねないし、見つからない自分に苛立ちも増大する。

頭はたいてい1つ、手と足はだいたい2本ずつ、だから考えること、感じることも大して特別ではないと見てみること、それが世界を知るということではないだろうか。この点で、「世界の中心から愛を叫ぶ」(2001)という小説(のちに映画化)をもじれば、私たちは中心ではなく、周辺から声を上げるのだ。
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by walk41 | 2013-03-23 10:51 | ことばのこと | Comments(0)

冗談はやめてもらいたい

長野県=教員不祥事の再発防止策を検討する「教員の資質向上・教育制度あり方検討会議」は、最終会合を開き提言案をまとめた。不祥事を巡る教員や校長の責任の厳格化や、新たな研修体系の構築が柱。(中略)
◆検討会議の主な提言◆【倫理向上】▽わいせつ行為や体罰をした教職員に対しての厳罰化。【採用・人事】▽人間性を見極めるための面接方法の研究。【評価】▽児童生徒や保護者による教員や校長への評価を実施し、教員評価の客観性や透明性を担保する資料として活用する。(毎日新聞 2013年3月22日 一部改変)
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「まじめに?」という内容。もちろん、「なんとか会議」は事務局である教育委員会の意向を受けてのものだから、それから大きく外れる提言が出るはずもないことは承知の上だが、それでも酷い。

わいせつや体罰をした教職員への厳罰化、って、罰を恐れたらそうしなくなるという理屈なん? はあ、飲酒運転の厳罰化とちゃうで。酒を飲む飲まへんはほぼ自分で決められるけれど、「相談に乗っているうちに好意を抱いてしまい」とか「"人間として許されない"と思って」と生じることとは全然違う。児童・生徒との関係があって生まれる事案なんや。自分だけでは決められへん。

人間性を見極める面接方法の研究? 本気でゆうてるのん? 周りに影響を受けへん人間はまあおらへんのやから、ある人の人間性が悪いのは、その周りが悪いから。「ええ人やなあ」と周りが囲んであげたら、(それなりに)ええ人になる、それが人間なんとちゃうのん? 「どんな人間や、あんたは?」みたいな冷たい視線を注いどいて、「ええ人」を見出せるはずがないやんか。あんたらそんな目で見られてみ、いても立ってもおられんはずや。そんで「落ち着きのない人間」って評されんねんで。

教員評価も同じ。どんな風に授業や学級で教員がいるんかは、子ども、保護者、同僚の関係で決まる面も大きいんやで。もちろん、ぜんぶがそうやとは言い切れへんけれど、反対に、すべてその人だけで決まる訳でもさらさらない。たとえば、「貧しいから犯罪を犯しやすい/犯罪に合いやすい」は、部分的になら説明できるけど、反面そうとも言えへん。さらに、貧しいのはその人のせいかもしれへんし、そうでないかもしれへん。こんな風に割り算していったら、その人やからこそこうなんや、の説明はどれほどできるんか、心許なく思うやろ。

座長を調べると地質学研究者、そうした観察経験豊かな人やのに、こと話が人間になったら、驚くほど想像力の欠落した考察しかでけへんねんなあ。勉強になるわ、悲しいことやけど。
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by walk41 | 2013-03-22 22:10 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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