学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2013年 05月 ( 45 )   > この月の画像一覧

「社会」と「世の中」

NHK,「100分de名著」、5月は老子。人名かと思いきや、どの人かははっきりしないのだと、初めて知った。

この最終回、作家・詩人でもあるドリアン助川さんが登壇、赤塚不二夫さんの作品「天才バカボン」のパパに即して解説してくれたのが楽しかった。

番組の後半、助川さんが語る、世の中と社会の違いについて。「社会」は人間の作る世界、でも、「世の中」はそれよりも遙かに広い世界で、人は(人に限らず万物が)世の中で生きていることに気づければ、物の見方が変わってくるのではないかと話してくれたのが印象的だった。

「わかってはいるつもり」だけれど、日々気づくことはなかなか難しい。自分の知らない世の中があまりにも広く広がっていて、社会なんて小さなものに拘っている自分が小さく見えるということを。

言わずもがな、社会は、家族、友人、勤め先、あれこれの団体やしがらみ、それらに拘ることも良いけれど、それが全てではないこと、何がどう転じてどうなるかはわからないから、人生これ塞翁が馬と心得ること、一喜一憂しないこと、せっかくもらった命、大切にしたいものだと。でも、なぜか学校では「社会の一員として」とか「社会参加」とは言っても、「世の中に生きる」とはなかなか話をしてくれないものなあ。

バカボンのパパがいつも言う。「これでいいのだ」と。赤塚不二夫さんはすでに亡くなったが、HPは健在だ。http://www.koredeiinoda.net/ 「そんな馬鹿げたことを」とまま揶揄されることを、逆説を承知でまさに地で行った彼が、さらに評価されるべきと思わされる。
[PR]
by walk41 | 2013-05-31 21:47 | ことばのこと | Comments(0)

脳の退化

またぞろ、IT批判の投書を目にした。私とほぼ同世代の男性からだ。

曰く、「今や電話番号など覚える必要もなく端末に一発登録。辞書をめくることも少なくなった。漢字変換や計算も都合良くやってくれる。すべて端末が教えてくれて、記憶もしてくれる。コンピューターという電脳が、人に代わってあれこれやってくれる」、脳の退化が懸念されると。

なんかなあ、こういう論調じたいが、失礼やけど脳を使ってへんなあ、って印象を与える。過日の「電子辞書より紙の辞書を」という投書にも通じるが、自分が慣れ親しんだ方に軍配を上げる癖は、年齢とともに強まるのか、かくも保守的になって、不安な自分を落ち着かせようとするのか、興味深い現象だと思う。

違う見方をすれば、たとえばこうなる。ITの普及によって、人々は細かな数字の羅列や漢字の画数や筆順など煩わしい雑事から、ようやく解放された。昔は手写しするしか仕方なかったものが、写真機、コピー機、スキャンなどの登場によって、その労苦から逃れることができたのである。

これからは、まさに脳を使って、今はないものを考え、作り出すことができる。文字も数字もそれ自体はすでにあるもの、これらを覚えても適応以上のことはできない。適応に留まらず、創造していくこと、そのために既存の組み合わせを変えたり、これらとは別のものを考えることが、脳に期待されるのだ。

どこかに既に書いてあること、記憶されていることを、ことさら個々の人間が覚える必要などまったくない。電車で旅をするとき、マニアを除いて、全国の電車が網羅された時刻表を持ち歩く人などいない。迷ったら駅で時刻表を見たり、駅員さんに尋ねればよいのだ。脳だからこそできることは、創発、ひらめくことである。自分の頭を物置や倉庫にしておくのは実にもったいない。そんなデータベースは外にお願いして、「何を見ればどんなことがわかるか」の見当がつけられるくらいにしておけば十分である。

むしろ、自分で記憶しておかなければならないと考えること自体が、他者とのコミュニケーションを拒絶しているかのようにも感じる。臨機応変にITにも人々にも対応して、手助けしてもらうのが、交流する生き物である人間にふさわしい。紙に書きとめ、写真に撮り、パソコンに記憶させ、詳しい人に尋ねながら、世界と関わるのだ。

もっとも、脳を使うことが幸せにつながるかどうかは別だ。急激な脳の肥大化は脳卒中という病気を不可避にしたともいうし(NHKスペシャル「病の起源」第2集~早すぎた進化の代償~、2013.5)、もっと体感すればよいものを、いたずらに名前を与えて却って混乱させていることもあるだろう。脳を持たないナマコあたりは、こんな議論を馬鹿馬鹿しいと思っているかも知れない。
[PR]
by walk41 | 2013-05-31 10:00 | 身体 | Comments(0)

論文を書くためのセンス

学生、とくにゼミ生には「論文を書くとは」とよく話をする。ゼミ開きの際には、「論文の書き方講座」も開く。

けれど、すぐに伝わる訳ではない。より正確には、一回ではほとんど伝わらない。教育って無力やなあと思わされる場面でもある。なぜかしらん。昔は一部を除いて、およそ書き方など教わらなかったことに比べれば、はるかに「かゆいところに手が届く」状況のはずなのだけれど。

昔のことはみんな知らないという、時間差バイアスに甘えて、自分が学生だったころを勝手に語ってみよう。私の限られた経験の限りで言えば、まず、①学校教育に関する認識論が扱われなかった。次に、②学校教育の方法論が極めて曖昧だった。

つまりこうだ。①学校教育とはどのような事象なのか、それはいかに規定され、被規定されるのかについて、あるいはどれほど普遍的で、一過性なのかについて、あまりにも包括的あるいは乱暴な話を免れることがなかった(「近代公教育体制」「国民の教育権」といった)。当時はそうした大括りな語りが好まれたこともあるのだけれど(この言葉が遣えれば、世の中がわかったと勘違いさせるにふさわしい言葉だった)。そもそも、学校教育をどのような道具でつかまえようとするのか、についてすら「見ればわかる」以上の発想はなかった。

あるいは、②学校教育は人為的なものである一方、どれほど慣性の法則が働きうるのか、いわゆる教育実践は児童・生徒に対するいかなる働きかけであり、それは教育-学習という関係でどのように作用するのか、について、「教えたら、学ぶ」を超える発想をほぼ持ちえなかった。かといって、どのような教え方が有効なのか、についても、迷いのある時期だった。

すなわち、学校教育はどのように捉えられるか、に関する説明に乏しく、また、学校教育で何をいかにすることが、何をもたらすのか、に関する考察を基本的に欠いていたのだ。

その次の世代として去勢を張れば、上記2点について、その限界や制約を確かめた上で、ありうる認識や方法を提案するところまでに至っているように思う。もちろん、後には次の世代からの批判に甘んじなければならないけれど。

さて、次の世代のみなさんへ。こうした整理を記しておくので、それらを踏まえてどんな命題づくり(問いつくり)が面白そうかを、大胆に試してほしい。「いったい何について、どんな作業をしたり、どんなことを考えるのが、論文なのだろうか」と、さっぱり見当のつかなかった頃に比べれば、今はずいぶんとわかりやすい、つまり、論文執筆を進めやすい道が敷かれているだろう。

問題意識というエンジンと、調査データというガソリンをうまく組み合わせて、目指す方向へと駆けていってほしい。これらを通じて、論文のセンスが養われるように思うから。
[PR]
by walk41 | 2013-05-30 22:43 | 授業のこと | Comments(0)

「同窓会」とのつきあい方

自分に限らないが、人は少しずつ変わっていく。私の場合、昔は昔なりにだけれど、どちらかと言えば今の自分の方が好きなので、昔の自分を知っている人にあまり会いたくないということがあるのかもしれない。つまり、「同窓会」なるものが苦手なのだ。

ところが、これが好きな人もいて、「ちょっとくらい無理をして来てくれ」とか「みんなが待ってる」とか、まるで不登校の子どもの家にクラスメートが押しかけるかのようなメッセージを発する幹事役もいる。そんなんしたら、余計に行きたくなくなるやん。

ある時も誘いがあって、用事があるから欠席のメール返信をしたら、それを見ていなかったのか「返事ぐらいしろ」とメールが来た。もう返信したって再送したら、「あっ、そう」て返事。もう行かへんって思ったな。自分が送ったんやから返事が来て当たり前というセンスに呆れたんや。それって、甘えてない?

当時は当時、充実した時間をもらえた。良かったと思っている。感謝もしてる。けれど、それがウン十年経っても、みんな同じと思うのは勘違い。そんなことないねんで。

勝手知ったるつもりの人間関係を大切にするのもええと思う。それと同時に、どんどん新しい人とも出会っていきたい。自分がもっと変わっていくと思うから。
[PR]
by walk41 | 2013-05-30 20:04 | Comments(2)

事大主義

教員研修を担当した自治体から、礼状が届いた。中身はひな形通りで事務的なものだが、封筒に手書きされた私の名前の漢字が間違っている。まあ書き損なうこともあるわなあ、気にならない。

そういえば、研修や講演先で、司会から「さかきばら さだひろ先生です」と紹介されることがある。タイミングが合えば「よしひろ です(^^;)」と口を挟むのだけれど、まあどっちでもいい。「京都大学 教育学部の」と伝えられることもある。こちらには、研修が始まってから「京都大学にも教育学部はありますが、京都教育大学の榊原です」と自分で言い直す。進行役の人はすっかり赤面だが、まあ大したこっちゃない。受講者やオーディエンスが、講師はどこの人かなんて覚えているとも思わへんし。

ある中学校への訪問に先立って、職員向けニュースで複数回にわたり、「京都大学から榊原禎宏教授が見えます」と書かれていたこともある。ちゃうちゃう、ワシは分析的・批判的な教員が育ってくれることを喜びにしているから、京都教育大学でなかったらあかんねん。これも校長にやんわりと、「ちゃうんですけど」って言って終わったぞ。

と、決して「ええかっこしい」やなくて、そんなもんやろと思っている人なので、どこぞの校長がある文書について、「自分の名前が間違っていた。だれがチェックしてるんだ」と憤慨した、という噂話を聞くと(私が書いたんとはちゃいますよ。念のため)、失礼ながら「暇やなあ」「ちっこいなあ」って思ってしまう。ええやんそんなこと、どっちでも。

「あんぽんたん」とでも書いてあったら別やけど、間違いに悪意がうかがわれへんねんやったら、そのまま流したらええやん。そんなことに拘って気分を害するだけ、疲れて損やし、周りも暗く、しんどなるし(校内で校長に「待った」をかけられる人はなかなかいいひんよ)、もったいないことこの上ない。短い人生、もっと大事なことに時間つかいいなあ、って言ってあげたくなる(でも、その人には大事なことなんやろね)。

何よりも、そんなことでいちいち大騒ぎする校長なんや、って安物に見られるのは避けたい、ってなんで考えへんのが不思議や。どんと構えてたらええやん、ってワシは思うんやけどなあ。そんなんで、冷静な判断とかできるんやろか、校長として。

大学教員仲間で以前、喋ったことがあった。既存のルールや秩序に馴染んで、それを擁護する立場に付きたい人は、小・中・高校の教員になり、それに「なんでやねん」と疑問や不満を抱く人は、大学教員になるって。もちろん、みんながみんなやあらへんけど、当たってることもあるなあ、って改めて思わされたわ。

文字なんて人間の作ったたまたまのもん、そんなもんに縛られて、どないして自主的な人間を育てる、なんて言えるんやろ。ほんま変やな、ガッコのセンセて。笑いがないもんなあ。笑い飛ばす元気がないんかもしれん。
[PR]
by walk41 | 2013-05-29 18:49 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「いい子」の対応

学生のコメントあるいはミニ・レポートを読んでいると、おもしろい記述によく出合う。それは、4~5年遡れば彼らが中学生であり、さらに数年戻れば小学生だったことから、子どもの頃の記憶が十分に鮮明で、まだその立場からのものの見方ができるからだろう。

この学生のコメントも興味深い。感情労働に関わる議論のあとで書かれたものだが、その趣旨は次のとおり。「いい子は、先生や親がしてほしいことを返してくれる子どもであることが多い。明るい、素直、元気、積極的など、それが実は大人がその子に感情の制限を加えた結果だとすれば、いい子への見方も変わるだろう。…たとえば感想文で思った通りのことを書いていいとされても、教師や親が書いてほしい常套句は、楽しかった、すごいと思った、感動した、自分もやってみようと思ったなど、であり、誰がそう言った訳でもないが、暗黙の了解のようなものがあるように思う。感想文なのに、自由に書くことが許されていないのは、子ども達の感情をコントロールしている一例ではないだろうか。」

いかがだろう。「~の働きかけをすれば、~な子どもになるだろう」なんて、脳天気なおしゃべりを教員がしている他方で、教員のつもりのわかる、健気な子どもたちは、すっかり先回りをして、教員たちを喜ばせるように振る舞っている。この方が、自分の利益にもなることを知っているのかもしれない。

かくも、教育-学習関係は、因果関係が不明確で、自己言及的(この場合、子どもの振るまいが教員の機嫌を良くし、教員の振る舞いを変えてしまうということ。そうしたラポールがすでに成り立っていることは、教員の努力や人柄のなせるものかもしれないが、それは授業以前の問題である。つまり、授業だけを取り出して議論しても、仕方がないのだ)であることが確かめられるだろう。教室はこんな必ずしもアテのないものに大きく左右される。そこでは、何となくの空気や「暗黙の了解」が支配的なようである。
[PR]
by walk41 | 2013-05-29 11:25 | 身体 | Comments(0)

数値化と専門性

今回の授業は、メゾレベルの公教育経営として数値目標をどのように考えるかがテーマ。学生たちは、前回の課題であった、Web上のいずれかの学校評価を参照して、なぜ、何を、いかに数値化しているかを読み取り、授業の臨むように求められている。

授業では、講義をはさんで班内でそれぞれが報告、映像資料も見せて、数字と評価との関係を深めようとした。授業後の感想文を読みながら、改めて気づくことがあった。それは、カンやコツといった科学的ではない(再現性はない)かもしれないけれど、「何となく」ではあれ判じていたものが、鈍くなり、いわば数値に任せ、委ねてしまうことが起こるのではないかな、ということだ。

つまり、数字を用いずに説明しようとすれば、とりわけ質的なデータを自分の捉えたエピソードで語らねばならない。しかし、数値に委ねてしまえば、「昨年度より、○ポイント変わりました」と評価の基準を第三者的に述べることができる。これは、教職の専門性の後退ではないだろうか。

そういえば、今でもこうした議論はあるのだろうか。医者が検査の値や計測器の値にばかり注目して、眼前の患者を診ることが少ない、人間を全体として捉えなければならない、という主張についてである。

医学以上に人間を細分化して捉えることが難しい学校教育において、領域・項目と小分けして各スコアーの変化をあげつらうことにどれほどの意味があるのだろうか。そして、それに意味がないことは、教育委員会ほか学校の当事者がよくわかっており、学校教育法第42条があるから、「仕方なく」だましだましやっている、というのが実際に近いのだろう。このことは、場当たり的な対応を強化するだけでなく、数値化/見える化/言える化/には馴染まないけれど、おおよそ適切に捉えられるという専門性を弱体化させてしまう。

これが、専門性と民主主義との葛藤である。情報公開や説明責任が、ナイーブに「誰にでもわかってもらうべき」と捉えられるとき、専門性は危機にさらされる。こんな状況で教職の「高度化」なるものは、どれほどの現実味を持っているのだろうか。実践的にこうすればいいといい加減な指南をするのではなく、論理的にかくも絡まった状況を解きほぐすこと、その作業に傾注する意義は大きいと思う。
[PR]
by walk41 | 2013-05-29 00:40 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

順番の不思議

ゼミに学生たちに話したことがきっかけだった。日常生活で使われる単位は一様ではないのではと。

念頭にあったのは、ドイツでの天気予防の際の風速の表現、彼の地では、風速を時速で表すのだ。25㎞/時間、という感じね。これに対して日本は、いわずもがな6㍍/秒、時速に換算すると21.6㎞になる。また、中国では「級」で表すそうで、0級は無風を意味し、5級くらいになると結構な強さらしい。ところ変わると言い方も変わっておもしろいなあ。

そこから話が(雑談的に)進んで、上位-下位と数値との対応関係の話になった。学業成績を示す5段階評価の場合、日本では「5」が一番よく、「1」が拙い、ドイツではこの反対だよと話してからふと気づいた。算盤や書道、剣道などを考えれば、「級」については数値の大きい方が下位で、小さい方が上位、つまり、1級の方が6級よりも上位だということ。これに対して、同じ習い事なのに、「段」については、逆になる、つまり、6段は2段より上位になる。あれっ、論理はしっかり逆転しているのに、私は違和感をこれまでまったく感じなかったなあ。

研究の種になるかどうかは、ちょっと心細いけれど、遊び心があってこその閃きや気づきが起こるということ、何事も楽しく考えようという話でした、はい。
[PR]
by walk41 | 2013-05-28 22:16 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

小学校で身につけるべきことでは

ミニ・ワークと称する、学生が書いた千字くらいまでに収まる文章を読む。私の授業は授業間の課題(宿題ですね)がよく出されるので、これから履修するつもりの学生は覚悟すること。

さて、学部1回生の文章はついこの間まで高校生だったので、文章修行のスタート点という感じが多分にするが、何よりも、小学校で教えられたであろう、改行について多くの学生が適切に扱えていないことに、毎年のように驚かされる。

①内容の展開に即して、改行を行うこと、つまり段落を作ること、②改行の際には、基本的に接続詞を用い、段落間の関係を示すこと、③改行したことを明示するために、最初の一文字分は空白にしておくこと、といった、読み手のことを考えた形になっていないものが実に多い。写真のようなものを出されると、もう読む気が起こらないと言っても、決して過言ではない。

後期、いわゆる有名私立大学でも2コマ、非常勤講師をするが、そこで出会う150人くらいの学生もおおむね同じ状況だ。「勉強のできる子」たちが多いはずの大学でこんな感じだとするなら、平均的な高校生の文章はどのようなものだろう。普段、「学力なんてわからへんやん」と言っていることと矛盾するのだが、「基礎学力」として不安にもなる。

この点、小・中・高校の教員にたずねたいのだが、生徒の文章をいかに加筆、修正、指導しているのだろうか。もちろん、国語担当の教員に限られない。あらゆる教科、領域で生徒の文章を見ると思うのだが、ほったらかしにしているのか。ひょっとして、文章を書かせてはいないのか。疑問は募るばかり。

それとも、高校まではできたのだけれど、大学入学と時期を同じくして、剥がれ落ちてしまったということだろうか。そんなことはないとすれば、どの時点で獲得され、また獲得されなかったのだろうか。どなたかヒントを下さらないだろうか。

b0250023_14464018.jpg

[PR]
by walk41 | 2013-05-27 14:48 | ことばのこと | Comments(0)

授業によって感謝されること

授業そのものよりも、授業間の学習が大切、と学生に話しているように、授業の終わりに、次の授業までの課題を出すことが多い。

この授業でも、指定したテキストのある章を読んだ上でコメントを求める、こんなミニ・ワークをA4版半分くらいの量でまず準備させる。そして、それらを一度集めて掻き混ぜて、これまた授業間などにクラスメイトのコメントにコメントをさせ、一度、コメントした学生から本人に直接返したあとで私に提出させる。それを今、読んでいる。

生硬いもの、木訥にすぎるものも見られる学校、そんな彼らの文章の中に、ときどき、はっとさせられるものがある。ちょうど今、読み終えたものにも、そんな一文があり、いいセンスしてるなあ、と思わされたのだ。

曰く、教員としてのやりがいにかかわって、ある学生が、「子どもからの感謝の気持ちや…」と書いたことに対するコメントなのだが、「私は授業の後に感謝の気持ちを感じたことがありません。どのような授業のときに、感謝の気持ちが生まれるのでしょうか。進級や卒業といった節目以外で実感がなかったので、疑問に思いました」。

なるほど。確かに、授業を受けて「ありがとうございました」と自生的に思うことは、ほとんどないかもしれない。それは、児童・生徒(さらには学生も?)に学習への需要(ニーズ)がない状態で行われていることの証左になる。だからこそ、授業論は教科や領域を問わず、「いかに意欲を高めるか」から始まるのだろう。

多くの業界では、顧客にニーズのあることは前提であり、「こんなものを欲しい人にいかに提供するか」が課題とされる。だから、その形状や機能に即した議論ができる。あるいは、需要の掘り起こしは、広告・宣伝という別部門が、接客以前の段階で対応すべきとされている。こうした前提が学校教育にはなく、「どんな格好で教室にいるのか必ずしもわからない」相手に、「望ましい授業」を提供することが求められるのである。

これは相当に難しい、さらには不可能なことですらあるだろう。だから、数学や英語あるいは体育のある内容を「いかに伝えるか」よりも以前の段階、「どうすれば関心・意欲を持ち、態度に示すか」が常に問われる。この点からも、教育の方法や技術に焦点化させた議論には至らず、「うまくできた」こともたまたまの幸運だったから、教員と生徒とのラポールができていたから、と解釈されざるをえない。

だから、私は、(学校)教育の方法学なるものは成立しない、と主張する。授業の方法が「教育方法」と呼ばれ、学校の方法が「学校経営」と呼ばれるのであれば、これら「学校(教育)方法」を議論することの意味は、「こうすれば上手くできる」いわば掟を教授することではない。そうではなく、「こうすればいい」「このようにして成功した」とどこかで常に語られる言説を俎上に載せ、その認識、解釈、知見を批判し、形をなそうとするものを分解、解体すること、もって、特定のやり方が権力を持つことを抑止する点にこそ、意味があるのだ。
[PR]
by walk41 | 2013-05-26 14:36 | 授業のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
地毛は大切?
at 2017-08-21 10:30
「言い切れる正しさ」
at 2017-08-21 09:34
「子どもらしさ」と感情の表出
at 2017-08-19 16:13
人一倍
at 2017-08-18 12:45
Platoon
at 2017-08-16 23:25
〜しか〜ない
at 2017-08-15 19:34
7月4日に生まれて
at 2017-08-14 22:54
耐えられる能力
at 2017-08-13 16:29
negative capab..
at 2017-08-13 12:45
悲しいとき〜
at 2017-08-12 13:43
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧