学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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やりがい

大分県教育センターの報告書、『一層やりがいのある校内研究のために』(2012.3)に盛り込んでもらったけれど、「やりがい」が学校教育をけっこう規定するならば、それを促す仕掛けをつもりすることが大切になる。

この言葉に親和的と思われる、充足感、満足、成就感などは、いずれも主観的趣きが強く、必ずしも客観的ではない。ただし、他者からの評価や称賛がなければ、これが成り立ちにくいことも事実である。この両者、自身と他者からの眼差し(自負と威信)との釣り合いが取れていれば、自分の認識と感情の健康を保つことができるだろうが、前者が過度に勝ると自信過剰に、後者が過度に勝ると権威主義が跋扈しかねない。

こうした構図の中で、教職はある程度の威信を保つ(入職基準、給与水準、身分保証、研修機会の提供など)一方、職務が何を生み出しているかが全く不明確なので、最前線にいる教員の自負が優位、さらには暴走する可能性もはらんでいる。職務の結果が客観的であれば、自負が威信とバランスを保つように補正されるが、そうでない条件下では片方が肥大する危険性があるのだ(権威主義も同じである。天皇制という仕掛けは、何がすごいのかはわからないけれど、特定の人たちを皇族として敬うことにしているもので、彼らの人権を相当に制約、侵害している)。

自負についても、見えにくい仕事ゆえに、過小あるいは過大に評価されやすいから、そこに一工夫して、誇りという言葉を置いてみよう。この言葉は、自分の中に他者の眼差しをうまく挿入してくれるように思う。自負だけでない多少は客観的な視線を「飼い馴らす」ことで、思い込みや決めつけを免れ、流動的な自分を保つことができる。

曖昧な仕事において「プロ」であるとは、確固としたものを自身の中に築き上げることではない。「絶えざる革新こそ伝統」に倣えば、固まらない(わかったつもりにならない)という原則を確固たるものにすることこそ重要である。そうしたトレーニングを自身に課すことを通じて、簡単には満たせない、やりがいや充足感が垣間みえるのではないだろうか。
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by walk41 | 2013-06-30 07:46 | ことばのこと | Comments(0)

大仏の頭

週末の空港はごった返している。しばらく並び、預ける荷物のせキュリィチェックの番が来た。マニュアル通りに「ハサミ、カッター…などは入っていませんか」と話すスタッフに、「びっくりするようなものが入っていたりすることはありますか」と話しかけたところ、「大仏の頭とか入っていることがあります」と即答されて、こっちも驚いた。

こんな仕事の邪魔にもなりかねないようなお喋りをしようとするのは、一つに、マニュアルから離れた言葉を聴きたいから、もう一つに、自分とは違う仕事の断片を垣間見たいから。

まあ自己満足なのだけれど、ちょっと新鮮って、何か楽しいのだ。
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by walk41 | 2013-06-29 11:50 | Comments(0)

二つの世界

卒業して、教員としてぶじ働いている君と会う。

幸いにも、とても楽しい学年メンバーとのことで、それは良いのだけれど、夕方からお菓子を食べる、気分転換にちょっと卓球したり、ふと気づくと夜も9時になっているらしい。

確かに、子どもが帰るまでは、その対応以外のことはできないだろうし、夕方からは、じゃあ仕事だ、という雰囲気は十分にわかる。その上で、でもそれでは勤務という感じではないのではと話をふると、「そうですね、二つの世界を生きているのかもしれません」と返ってきたので、そうかもしれないと思わされたのだ。

大人だけという一元的な関係ではなく、子どもと大人(同僚や保護者など)という二つの世界を行き来する社会に過ごす教職として、ぜひ留意してほしい。その特性から、自分はどんな仕事をしているのかが曖昧になりがちなことを。だから、できるだけ終業の時間で帰宅して、少しでも自身の様子を眺める余裕を持つようにと。

その一方でこうも思う。卒業して間もない君ですら、飲み込んでしまう学校の最前線の磁場の強さを。学校を変えることは容易ではないと。
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by walk41 | 2013-06-29 00:15 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

遊び感覚で

日経新聞、暗い職場にならないために、OBを活用した「よろず相談員制度」の試み、おもしろい。

この他にも、ホワイトボードに、「あなたの幸せ度を教えて」と本人のマグネットを貼り付ける、Happiness Door、という取り組みも興味深かった。あまり幸せでないという辺りにマグネットを貼り付けた人には、自然を声を掛ける人が増えるのだという。

 …「幸せかどうか」。こんなことを直接、聞くのも聞かれるのも抵抗があるもの。特に真面目で口下手が多いとされるIT人材はそんな傾向がある。Happiness Doorは言葉なしでも確実にコミュニケーションが取れる社会との扉と言える。…と記事。

組織改革と、あまりに堅く、真面目に考えすぎるから、あかんと思うんやな。もっと楽しく、おもしろいことを、と発想すること。聞いていて辛い、しんどいでは、いかに重要なことでも元気が出ない。だから、もっと人間の生理にかなった方向で、どんなアイディアも歓迎、そしていい感じで仕事をしようよ、というムードづくりがとても必要なのだと思う。

とくに真面目ゆえに不自由な学校で働く人にとっては。遊び心がなかったらあかんやんね。「子どもに力をつける」と必死の形相をしないで。
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by walk41 | 2013-06-28 17:48 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

自分が変わる

研修や講演で話をさせてもらう中で、最近いっそう感じる。「どうして、これまでの学校教育って、子どもの変化、ってことばかり話をしてきたんだろう?」って。

曰く、「〜する子どもの育成」「子どもの学び合う姿を求めて」。いずれも着眼がもっぱら児童生徒で、彼らに働きかけようとする自分たち教員には向いていない。「子どものため」という常套句も後押ししてか、子どもを自分たちが望む姿に近づくように「〜させる」ことに躍起になる。公開授業研究会が近づくと、「あんたら、今の調子やったら、研究発表の日に間に合わへんで」と子どもに檄を飛ばす勘違いな教員もいると聞く。

ところが、相手の意に沿いたいと思ってすらなかなかそうはならないのが世の常でもあり(いい夫、いい母親、いい上司でありたいと思っても、そうなることは決して容易ではない)、ましてや、すべての子どもが学校に協力してあげようと思っている想定など夢物語なのだから、児童生徒の変容を直接的に求める思惟そのものが「無い物ねだり」なのだ。なのに「教育実践の研究とはそういうもの」と思い込みんでいるから、ドン・キホーテのような姿が毎日のように見られることになる。

そうではなくて、追求すべきは、また追求できるのは、教員である自分たちのありようだ。何気なく振る舞い、口にしている、ともすればルーチン的な発想や言動を振り返りの、どんなことなら変えられそうか、難しそうかの見極めが問われるのである。なぜなら、これまでの取り組みにもかかわらず、満足すべき結果が得られていないことへの疑問や悩み、謎があってこそ研究が始まるのであり、その鍵は自分たちの考え方、行動に見出すしかないのだから。あなた任せ、他人任せの考え方に、どんな期待が持てるというのだろう。相手は相手の事情や都合があるのだ。

にもかかわらず、改変の矛先が自分たちになかなか向かずにきた、ということを大学教員も含めて、猛省すべき時期を迎えているように思う。自分を変えるのに誰に気兼ねをする必要もないし、特段の説教も要らない。一番手を付けやすく、効果も見込める。ただ、ちょっとの勇気が必要だ。「このまま後進に道を譲っていいのか」ーそう自問できる態度が問われている。
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by walk41 | 2013-06-27 22:57 | 身体 | Comments(0)

「私は学校経営方針に反対です」

研修中の話、そう教頭に言ってきた50歳直前の小学校教員がいるという。当の教頭は、二度三度と話をしているそうだが、本人の意見が変わった様子は見られないらしい。さて、その是非を判じる前に、これをどんな問題と捉えればいいのか考えてみたい。

①校長の校務掌理権(学校教育法第37条)から言えば、この教員は学校教育の制度について理解していない。ただし、教育委員会と各学校との関係でいえば、たとえば「学年×10分の家庭学習」といった教育委員会の方針が妥当だったのかの検証と行政能力の評価が伴うことも、無論である。
②学校経営方針がどれほど具体的なのかはわからないが、子どもの都合もあって、実際の職務遂行は相当に幅があり、他の多くの業種・業態では当然なマニュアルのレベルまで規定できないから、この物言いは議論のための議論である。
③「では、どうしたらいいか」と生産的な議論に進まない物言いならば、内容にかかわらず、職場でのコミュニケーション不全を示している。いたずらに「対立」を煽り、人的資源を浪費している。

①は法制的、②は経営・運営的、③は人間関係的、と言える。児童生徒と向き合う最前線においては、③②①の順にストレスが強いことだろう。やりがいのある職場生活のために、関係者が問題をどのように捉え、何を変えうるのか。「まず行動」と言う前に、事実を解きほぐし、問題を立てるというステップを一つ踏むことが大切だと思う。
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by walk41 | 2013-06-27 09:58 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校の威信、期待

研修の休み時間に聴く。

海辺の学校に赴任した教員、朝、玄関の扉が開かないと思い切り押したら、ウニやカニが入った発泡スチロールが積み上がっていたとか。そう話して下さった方も、「僕は山の学校にしか勤めたことはないんですが、置かれたジャガイモで扉が開かないことがありました。おじいちゃんやおばあちゃんからが多いんですけどね。」

他でも似たような話を聞いたことを思い出した。女性教員だったが「以前、担任した保護者がやっている美容室に行くのだけれど、私が帰ることを見計らって、おばあちゃんが奥からお米を持ってくる」と。

昔よりは減っただろうけれど、こんな学校の威信が残っている場合もある。こうした影に日向に期待している人たちに、学校あるいは教員は懸命に応えているだろうか、と思わされもした一瞬だった。
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by walk41 | 2013-06-26 16:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(2)

4列目はなかった

スチュワーデスさんと話したいという訳でもなかった(訳があった?)けれど、ちょっと尋ねてみたのだ。

「見たところ座席に4番の列がないのですが、9番はありますよね。ここからは見えないのですが、13番の列はあるのでしょうか?」

すると、膝をついて聴いてくれていたスチュワーデスさんは、首を少し傾げて「見て参ります」と確かめに行ってくださった。「ありませんでした」と戻ってこられたので、「やっぱり文化の問題ですかね」とか「機体によって違うんですか」と、どうでもいいお喋りをして、スチュワーデスさんの仕事の手を止めてしまった〔もちろん、手が空いてらっしゃるように見えたから声をかけたのだけれど)。

一見、システム的、没人格的なようにも見えるジャンボジェット機だけれど、意外にも迷信やこだわりが刻印されていたりする、って面白くないだろうか。存外に何となく、世のあれこれのことは大らかに出来上がっているのではないだろうかと。
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by walk41 | 2013-06-25 23:24 | ことばのこと | Comments(0)

教員がやらせたいだけ?

平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション力とは何か』(講談社、2012)を読んでいる。コミュニケーション力のあるなしは、どんな問題なのか、話せばコミュニケーションなのか、会話と対話との違い、冗長であることなど、これまで読んだものと重なりを見せながらも、おもしろい。

過日のある会議でも、小学校の教員たちが見つけた児童の「問題」が報告されていた。発言が乏しい、のだそうである。私も一度だけ訪れた学校だが、全校児童が130人ほど、各学年単級の、しかもクラスあたり20人あまりの小さな学校である。子どもたちも幼い頃からよく知り合っている仲だろうし、そばにいれば雰囲気を感じることもあるだろう。

そんな場で、授業中の発表回数を増やすとか、お話タイムを設けるとか、あいさつ大賞を渡すといった取り組みを進めていると聞いたので、思わず「話さなくてもわかっている(つもりの)子どもたちの行動が合理的なものとも考えるべきでは」と発言したところ、指導主事の一人が「教師がそうさせたいだけなんでしょうね」と返したのが印象的だった。

このところ、私の書きぶりは教員批判をいっそう強めているけれど、それは期待と希望の現れ、と捉えて欲しい。コミュニケーションとはどういうことだろうかと悩むことなく、子どもが何か話せば、また続けて話せば、「つながることば」なんて露骨なロマン主義に酔ったままの観察眼で、どんないい仕事ができるというのだろう。さっぱりわからない。黙ってるのも、立派なコミュニケーションやん。

教育実践を良くするなど、自分が変わることに他ならない。にもかかわらず、子どもに〜させる、保護者にちゃんとやったかチェックしてもらう、といった他人任せの様を、いったい、いつまで続けるつもりだろう。教員のみなさんからの反論をぜひ伺いたい。忙しいなどと言っていないで。
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by walk41 | 2013-06-25 17:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

属人風土

岡本浩一ほか『職業的使命感のマネジメント-ノブレス・オブリジュの社会技術』(新曜社、2006)、以前に読んだ本なのだけれど、さっぱり記憶に残っておらず、今読み返している。そこで紹介される、属人風土(属人的組織風土)という概念がとても興味深い。

私たちが情報を受け取って判断(意志決定)するとき、その情報じたいと、その情報が誰によってもたらされたかの2つの側面が考慮されること、そして、前者よりも後者が強く判断に影響する状態を属人風土が強いと称し、「”誰が"情報」とも呼ぶこと、さらに、属人風土は組織規模が小さいほど強くなり、また属人風土が強いところでは組織違反が起こりやすい、という調査研究の報告である。

これまで、講演や研修で、教育労働の特徴として、「誰が言うか」と「何を言うか」とを分けることが困難な点があり、だからこそ、たとえば学校管理職など、自分が「誰」すなわち、どのような人と思われているかを踏まえてコミュニケーションを考えなければならない、とは話してきたのだけれど、上の指摘は、「誰」であるかが組織で重みを過度に持つと、同時にシステムでもなければならない組織を阻害する可能性が高まる、という点で刺激的だ。

この理解にもとづけば、組織においてリーダーシップがあまり発揮されないことが望ましいという結論も導ける。属人的なリーダーシップは、法令違反や不正隠蔽などももたらしうるからだ。たしかに、カリスマが存在すると規則は蔑ろにされる。極端な例だろうが、かつてのオウム真理教などを想起すればいいだろう。

またこの視点は、「仲良しの職場」にも疑問を投げかける。過度な同調傾向が不健康なことは、私も述べてきたが、特定の個人の影響力が強い状態では、組織的原則が軽視されたり、遵守されない可能性も高まるというこの本の指摘は十分に得心できる。

過日、教育委員会関係の人と飲んだが、彼が「学校では民主的云々とよく言われるけれど、それは特定の博愛主義者の影響が強いという意味」と話したことばの謎解きも以上からできる。つまり、それは民主的なのではない、属人風土が強くて、他の人が影響を受けすぎており、ときに行政組織として守られるべき職位制、権限と責任、服務等が軽視される危険性を伴っている状態なのだ、と。

少し前のブログにも書いたが、学校は職場であり、労働の場である。そこでまず求められるのは、専門主義にもとづく、ときとして差別的ですらある状況下で職務を遂行する「プロ」としての矜持である。間違ってルーズな仕事をしている同僚を庇ったり、さらにはそれでいいんだと強弁するようなことは、専門主義では許されない。

そんなとき、「民主的な職場」と言った表現は、属人風土が強いことを指すに過ぎない。民主的とは、出自、性差、財産、思想や職業などによって異なった扱いを受けないこと、一人一人を尊ぶことこそが根幹であり、たとえば法治主義などは、民主的手続きとして担保されるべき重要な原則である。そうした社会の実現と維持に向けて、学校教育がどんな貢献をできるかが問われるべきであって、学校の法的位置づけを強い属人風土のもとで危機にさらすのは、非民主的とすら言える。民主主義は大切である、だからこそイメージ先行、思考停止の状態にあって、民主主義という言葉を弄んではならない。
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by walk41 | 2013-06-25 07:49 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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