学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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変わらないのは、変わり続けていること

民放、ガイアの夜明け、格安航空会社の客争奪戦を追う。

番組の最後、HIS(エイチアイエス)の西久保社長の言葉が印象的だった。

一つのビジネスモデルが永遠に通用するなどとは全く思っていない。あるビジネスモデルが成功した時期があっても、それは必ず変わることを求められる、と。

HISは、世界最大の旅客機A380、1機あたり400億円するそうだが、これを6機購入して、国際線に参入しようという計画なのだという。それは、エコノミー席を持たない、ビジネス席をローコストで提供するという新しい発想にもとづくものだ。

「変わらないことは、変化し続けるということ」とも言いうるような環境にあって、①「~すれば、~になる」という文法からまず離れること、②そして、これまでにない新しい発想と行動を促すような働き方を考えること、このいずれもが学校教育に当てはまるように思う。

にもかかわらず、少なくない学校教員は「前年度踏襲」を重んじ、「~すればうまくいく」ハウツーを求める。こうした習慣を重んじる教育委員会の下支えのもとで、である。

教育目標に到達していなくても進級、卒業ができ、不登校の場合さえ卒業証書を受け取ることができるという、「押されっぱなし」の学校教育に関わる教職員が、誇りと喜びをもって働き続けられるためには、新しい世界を作る「わくわく感」が要るのではないだろうか。過去のことに拘らない、経験則に依存しない、革新的なアイディアで人を惹きつけてこそ、まず何よりも働いている人にとって幸せなことであるし、そしてその世界に誘うやりがいをもたらすことだろう。

「公共事業はそんな風にはいかないのよ」とも言われるだろうけれど、だとしたら、やりたくなるような公共事業にすべく、教育委員会が頑張らなければならない。ましてや学校教育は見えにくく曖昧な仕事、教育委員会や学校という一番の当事者が喜びを感じることなしに、どのように「いい仕事」が期待できるというのだろう。大学教育も含めて、このことがまさに問われているのではないだろうか。
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by walk41 | 2013-07-31 13:32 | Comments(4)

「愛されない人はかわいそうな人」

NHK、プロフェッショナル。209回目は、うなぎ職人の金本さん、85歳。

養殖うなぎに替えざるを得なかった時代、白ワインを店に導入するようにもなって初めて、「今まで自分は何に縛られていたのだろう」と振り返るシーンも印象的だったが、最後の一言が、なお重かったように思う。

プロフェッショナルとはと問われた氏は、いくつになっても追求心がなければと語ると同時に、「もう一つ言うなら人柄ね。愛される人間にならなきゃ、かわいそうな人間になると思う」と。

ここで、愛される人間を、生きることへの謙虚さ、ひたむきさ、あるいは健気さが伝わる人と置き換えられるだろうか。ならば、「わかったようなこと」を言わないで、「実るほどに頭を垂れる稲穂かな」と自分を疑い、懸命に「イデア」(理想)を求めるとともに、突き放して眺める相対感覚も大切ではないだろうか。

翻って、歳を重ねたから、職位や給料が上がったから、なんとか委員になったから、と自分を勘違いする人もいるように思う。笑顔乏しく傲慢で、心ない言葉と振る舞いで周りを傷付ける。これが「愛されない人」ではないだろうか。

いろいろなことがあるけれど、とにかく楽しく生きること。楽しくあれるように、「子ども力」-おもしろい、不思議、へえ、と思える感性、身体を保つこと。わからないことが一杯で楽しみに思えること、その結果、一日が一年が長く感じられること、こんなことが大切なように思う。「幸福論」でアランはこうも言っている、あなたが楽しくあることは義務である、と。
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by walk41 | 2013-07-31 07:10 | 身体 | Comments(0)

嬉しかった感想

前期の授業もほぼ終わり、ゼミ形式の授業は「この授業で学んだこと、考えたこと、これから考えていきたいこと」と題して、学生たちに一人あたり数分ずつ、私と他の学生の前で口頭発表させることで、〆としている。

感想ごとにこちらが喋ったりするから、予定の90分間をいささか越えてしまったが、学生の話はいずれも興味深く、また嬉しいものだった。曰く、「大学に入ってから、これホンマに要るんかな?と思う授業が多かったけれど、机上のことが教育実習にも繋がる授業だった」、「現職教員や教育委員会の人の実際的な話に引っ張られそうになる中で、この授業は、その方向に自分が染まるのを阻止してくれた」、「このように学校教育を捉えたらいいという発想に終わらないで、こういう風にできるのではと方略まで考えることができ、授業での議論が楽しくなりました」という具合だ。

こうした感想の後ろには、学生たちの頑張りも見過ごせない。一度は担当した発表の回だけでなく、発表者でない回については、授業での議論の概要とそれに対するコメントをA4用紙、1枚程度にまとめて翌週に提出するということを繰り返した。最初の数回の講義を除いて、提出されたのは9回、いずれも赤ペンで誤字脱字、改行と接続詞、標記上の問題をチェックしたほか、若干のコメントを付してそれぞれに返却した。少しは文章修行にもなったと思う。

すべての発表が終わったあと、私から二つのことをまとめに話した。その一つは、教員養成大学での授業として、教員になりたい人には一度は、教員になるのを止めようと思う授業を、また教員になることに関心がない人には、教員もいいかなと思えるように、つまり、揺れる授業を自分としては目指していること、また、学校の最前線にはいないからこそ掴まえられる事実や構成しうる問題があり、この点で机上の空論もあるだろうが、自分としては「机上の有論」を目指していること。

もちろん測定はできないけれど、春から比べて、より思慮深く、表現豊かに学生が変わっていると「感じられる」ことを、とても嬉しく思う。
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by walk41 | 2013-07-30 19:30 | 授業のこと | Comments(0)

教職キャリアの再設計?

大阪市では、教頭志望者が激減している状況を受けて、対象となった教員には原則的に教頭試験を受けるように指名する、という異例の方針を決めたという(毎日、20130727)。

これが特定の自治体だけのことなのか、それとも似たようなことが広範に見られるのかはわからないけれど、もし後者だとすれば、それは教職のあり方に少なくないインパクトをもたらすように思う。

なぜなら、教職はもともと職位が少なく、職階も限られている。これに対して、職業威信のみならず職位威信を高めるべく、歴史的には主任制度が設けられ、近年では「新たな職」と副校長、主幹教諭、指導教諭を置くことができるようになり、手当(1日あたり200円だけれど)の支給、新しい給与号俸を創設が図られてきた。

もちろん、職位や給与の上がるだけが職業人生じゃない、とは言えるけれど、経験や年齢に即した処遇を求める人もいるだろう。何より大切と思われるのは、立場が変わることによって自身を振り返ったり、新しい課題を見出す契機を得ることが多い点だ。大学院の授業で小学校長を長く務めた方と数年間、ご一緒したことがあるが、「校長になる器がもともとあるのではなく、校長をやる中で次第に校長らしくなっていく」と話されていたことを思い出す。ある立場に置かれることが、変わるきっかけをもたらすのだろう。

「指導力不足教員」のおよそ8割が40、50代ということを合わせ考えると、業務やその結果の見えにくい教職にあっては、いっそう自身を問い、変態していくことが望ましいと考えられるから、その一つとして学校管理職を志すこともあってよいだろう。その方向を取る人が減ることは、どのように自分の教職キャリアを描くのか、全体としていかに健康的に働くのか、学校内外での発想と方略が問われることになる。

児童生徒への課題として、キャリア教育論が喧しいけれど、その前に、あるいはそれと並行して問うべきではないだろうか。「教職に就くあなたのキャリアをどのように展望しますか、また、そのためにどんな準備や取り組みを進めるつもりですか」と。
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by walk41 | 2013-07-30 12:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

こんな教育効果なら見えやすいのだけれど

「しぶきを上げろ 全米で水泳教室」(日経、20130728)。義務教育に水泳がないアメリカでは、地域による水泳への熱心さの違いが泳力に大きく影響しており、北東部や内陸部では、プールのない学校が大半、習い事での優先順位も低くなりがちだという。その結果。黒人の子どもの7割、ヒスパニックの子どもの6割は泳げず、溺死の割合は実に白人の3倍に達するのだとか。

日本では水泳が学校教育に位置づけられており、小学校の学習指導要領には、「水遊び」「浮く・泳ぐ運動」「水泳」と2学年ごとの内容も示されている。「何気に」プールや海で遊んでいたこと、臨海学校があったり、夏休みに学校プールに通ったことが、結果的に命を守ることにもつながっているのだなあと思わされる。

こうした大量の量的データをもとに導き出せる事実から、教育内容について議論することはできる。ただし、それはあくまでも大量の量的データという但し書き付きだ。1つのクラスや学校ほどの量では論じるのが難しいことも、同時に確かめるべきだろう。

ところで、北海道での研修で対応下さった指導主事のお一人が体育教員で、お昼ご飯を食べながらお喋りをしていたら、こんなことを言われたのがおもしろかった。「そういうことだったのですか。北海道では野菜や果物を育てるビニールハウスでイメージしてもらうような形のプールが一般的なので、本州の人から『夏、プールによく行って、皮がむけた』と聞いてもピンとこなかったのです。」イメージするプールが違っていました(^^;)。総務省統計局「統計でみる都道府県のすがた」(2013)ほかデータによると、公立小学校プール設置率(対公立小学校数)で北海道は第47位、寒いところですものね。
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by walk41 | 2013-07-29 09:30 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

暑いとこう寝る

ねこフリークのみなさま、こんにちは。何とかの一つ覚えですが、お暑うございます。

拙宅のねこたちも、ひたすら寝る、眠る、果てる、状況で、ほかに何もしようがない感じです。

Milkyもご多分に漏れず、この有り様。剥製になってるんとちゃいますよ、こんな風に固まって寝ているのです(カメラを向けたら、ちょっと目を開けましたが)。

寝なやってられんなあ、とネコどもは、あちこちに転がっている次第です。はい。

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by walk41 | 2013-07-28 14:48 | ねこのこと | Comments(0)

「責任のないところで、人は学べない」

ある研究会での報告者の言葉だ。教育実習にたとえ長く行かせても、あれこれ知ることはできるものの、学ぶことは難しい、と聴いた。

くだけた表現に替えさせてもらえれば、お客さん扱いしないことが学ぶ上で大切、とも言えるだろう。当事者性を強める、役割を与える、居場所を作る、他にも言いようがあるだろうが、与えられる立場ではなく、参加する立場を取り得てこそ学ぶことができる、というのは有力な仮説のように思う。

前期の大人数での授業、100人余りの学生たちとの初回に「出席ではなく参加」「原則としてすべて参加」と強調、それを了解の上で履修するかを確認できなければ去るようにと話したのにもかかわらず、「内職」、ケータイいじり、居眠りを阻止できなかった。バイト疲れの苦学生もいるが、グループの班長の役割を果たさず、緩慢な雰囲気を生み出したことも否定できない。レポートの最後には100点満点で授業への参加・貢献について自己評価させたけれど、それにたどり着くプロセスは曖昧だったとも思う。

10月からの後期授業、「この授業が学び多いものになるために、受講者としてどんな責任を負っているか」と学生たちに問いかけてから、始めてみよう。
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by walk41 | 2013-07-28 11:09 | ことばのこと | Comments(0)

学力向上

久しぶりに参加した研究会で、外国の学力向上政策に関する報告を複数、聴く。

限られた時間の発表でもあり、自ずと制約はあったが、それ上でも、隔靴掻痒の感が否めなかった。それは、学力、向上、政策、と3つの確かめるべき言葉が重なっており、丁寧に議論するにはあまりにも漠然としていると思われたからだ。

問題意識としてはこのようだとしても、課題設定の段では、抽象と具体をより往復できるように、それぞれを限定する必要がある。例えば、言語に関する学力について、これまでにない観点で顕在化させるような、市町村という地方政府が策定しうる政策について、議論するというようにである。

そして、議論を進めるには次のような作業が必要になる。まず、言語の力をどのように捉えるのか、「コミュニケーション不足」「挙手が少ない」と語られるが、これはそのように変化してきたのか、以前からそうなのか。次に、向上とは、これまでになかった部分を伸ばすことなのか、かつてあった力を復活させることなのか。さらに、政策として行いうる資源の投下、指導助言のあり方は、どのようなものなのか。

こうした手続きを経てようやく、学力向上政策のごく一端から、問題意識を深め、広げることができる。しかし、一端だけかと嘆く必要はない。ここからアリの一穴のように、問題を掴まえ、あるいは問題自体を瓦解させることもできる。「全体」を何となく撫ででいても、捉えられることは限られる。焦点を持ってこそ、問題に迫れるのだ。

さて、言語に関する学力とした場合、問われるべきは、読み書き上のあるいは話す聴く上での、論理的構成なのか、情緒的表現なのか。何を取り上げるのか細分化する中で「向上」の意味も変わってくるだろう。「黙っている子が多い」は、話さずともわかっているのか、無関心なのか、はたまた言いたいけれど言えないのか。これら交通整理のあとに、政策や経営として何をなしうるか、が見えてくるのだろう。

似たようなことを何度も言っているけれど、「何をなすべきか」の前に「どう捉えるのか」が重要であり、このための自分たちの言葉を問い、ブラッシュアップする訓練が毎日の課題になる。「何気に」遣っている言葉を常に解釈、更新することは、研究を志す者の責務である。
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by walk41 | 2013-07-28 09:14 | ことばのこと | Comments(0)

暴走しないために

スペインで起こった高速鉄道の脱線事故、人為ミスだったのではないかと指摘されている。

時速80キロで走行すべき箇所を、200キロで走ったと乗務員の一人がfacebookに書き込んだと報じられており(毎日新聞、20130726)、大幅な速度超過が繰り返し行われていた可能性が出てきた。もしもこの通りだとすれば、文字通りの暴走であり、80人もの犠牲者を出した、とんでもない誤りになる。

これを学校教育に当てはめてみると、人間に対する影響は、まずどんなものが望ましいかという価値の点で決め難く、また、仮にある価値を志向してもその実現度合いは測り難いので、誤りかどうかの判断もほとんどできない。この学習指導要領は間違いだった、総合的な学習の時間数は適切でなかった、主幹教諭をこの学校に配置したのは不適切だった、生徒へのあの言葉かけは良くなかったと、議論はあっても、結論は得られない。だって、証拠(エビデンス)がないもの。

誤りと判じられるのは、明確な法規違反、怠慢や注意不足による事故、(時代と場所によって幅のある)「常識的に考えて」不適切と見なされる場合であり、ある程度までは個々の裁量に属する(教員の場合は「教育上の自由」が担保されることになる)。何をしなかったから批判を浴びるかについては、かなり鷹揚な話で、だからこそ学校経営や学校教育実践のマニュアルを作ることができない。

このため、たまに暴走する教員が現れる。誰の目にも明らかな暴行や暴言ならばまだしも、「どうかなあ」と思われるくらい、あるいは「見て見ぬ振り」で済まされるようであれば、暴走が問題になる頃時には、大きなダメージを与えるものになっていること、確かだろう。

ガイドラインやマニュアルが乏しいもと、どうすればいい仕事ができるか。それを支えるのが、自身への分析的・批判的な眼差し、辛口も辞さない交友関係といった、健康的なセルフマネジメントであり、これこそ専門職を自負するにふさわしい能力ではないだろうか。だから、「忙しくて本を読む暇もない」「自分のやり方に批判的な人は嫌いだ」「事件は現場で起こる。一番わかっているのは自分だ」といった姿勢は、十分に暴走モードに入っているのである。
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by walk41 | 2013-07-27 09:23 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

実証性では勝負しないからこそ

研究者によるデータの改ざんや捏造が相次いで明らかになっている。朝日新聞記事によると、 国内で発覚した主な論文不正として、
<2005年5月> 大阪大チームによる医学論文で、実験の画像データを操作する捏造(ねつぞう)が発覚。論文は取り下げ、指導責任を問われた教授2人が停職処分に

<同年9月> 東京大大学院工学系研究科の教授らが発表した論文12本でデータ捏造の疑いが指摘され、同大が調査。教授と助手を懲戒解雇

<11年3月> 名古屋市立大の准教授による19本の論文で、画像の不正使用を大学が認定。懲戒解雇に

<12年2月> 東京医科歯科大の助教が3本の論文でデータを捏造、いずれも取り下げられ、懲戒解雇に

<同年6月> 東邦大の元准教授の麻酔科医が、約20年間に発表した論文約170本で捏造が認定された
…と挙げられている。

翻って、教育学、そのメインといってよい学校教育を対象にする研究領域は、優秀なことにこうした件におそらく一つとして該当しない。学校教育に関する研究では、厳密なデータ測定と報告がなされているがゆえ。…ではないのだなあ。話はまったく逆さまで、学校教育はそもそも実証性をアテにされていない、だからこそ、一連の問題にも引っかからないのである。

万が一、社会科学の領域についても実証性が担保されているか、と調査が行われたならば、懲戒免職者は累々たるものになるだろう。曰く、「校長のリーダーシップが発揮されれば、学校の活性化が促されることであろう」←根拠なし、「教員養成の高度化は、学校改善のカギであることは明らかだ」←データの捏造、という具合である。

自然科学のような実証性、そして再現性が学校教育について担保されないことは、言わずもがなであり、初めからそのような前提に立っていないことは、当たり前すぎるほど当たり前のことなのだ。だから、この点については社会的に指弾されることはない。

もちろん、このことは学校教育に限らない。「民主党政権でこう変わる」とぶち上げた政治学、経済学の面々、自分の首は洗っているだろうか。それとも政権交代したから今度は、「自民党が変える日本」とか、看板を付け替えたお喋りをしているのだろうか。「いいじゃん、世の中が変わったんだから」て。

このように、学校教育については実証性が予定されていないのだから、何をもって学校教育を研究する意味があるかについて説明しなければならない。むろん、「~すれば、~になる」という文法にしたがう仮説-検証型の授業研究も同様である。実証できないものに仮説を立てることのナンセンスさは、何度となく確認されるべきだが、話は校内研究に終わるものではない。

「~することが重要だ、なせなら」とまことしやかに語る大学教授やなんちゃら研究所かんとか調査官なども、実に罪である。まあ、立場上、言わなければならない面もあるのだろうけれど、煽って申し訳ないとは思っていてほしい。かつての大学教授の遺産はもっとすさまじいもので、「真の教育改革が求められている」「本当の意味で子どもを思うならば」「校長はエンジンであり」などと、放談だらけのまったく酷い時代であった。そのツケを今払わされている気分ですらある。

愚痴はこのくらいにしなければ(でも、思い出されるし、今でも同類はいるから、尽きないのだなあ)。では、学校教育の研究とは何をすることなのか、これを次に問うてみよう。
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by walk41 | 2013-07-26 23:01 | 研究のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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