学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2013年 10月 ( 35 )   > この月の画像一覧

l と r は難しい

授業後の学生の感想文を読む。problem を probrem と書いてあり、書き間違いだろうと判じたが、二度も同じスペリングが出てきたので、これは間違って覚えているかもと思った次第だ。

r と l は日本語の発音に違いがないので、英語に限らず覚えるのは容易でない。ドイツ語でも混乱することがままあり、けっこう困る。

Reise 旅行 ⇔ leise 静かな、Laune 雰囲気 ⇔ raunen ささやく、Aura オーラ ⇔ Aula ホール、といった一文字違いもさることながら、「r やったかな l やったかな」と迷う場合もよくある。Brille 眼鏡、Blitz 閃光、Bilanz 結果、と、しばらく書かないと/打たないと、rとlを間違うこともしばしば。

発音がちゃんとついて行っていないので、視覚的に補うしかないのだけれど、なかなか悩ましい。そういえば昔、日本語を学ぼうとしていたドイツ人が「ね」と「れ」だったか、同じ発音じゃないの? と話していたことがあったなあ。 
[PR]
by walk41 | 2013-10-31 12:58 | ことばのこと | Comments(0)

なぜ教員は喋りすぎるのか

中学校で授業を見せてもらう。

他の授業でも感じるが、どうして教員ってあんなにたくさん喋るの? あれでは生徒が考えたり、それを交わすことで、変わる機会がないじゃない、と強く思う。今回ではないが、教科書の説明より下手な話を聞いた段には、ちょっと待ってと声を荒げそうになる。

こんな感想を知り合いの指導主事にぶつけたら、「それは自分の発問に自信がないから、沈黙の時間に耐えられないんですよ」と返ってきた。なるほど。私は、喋っていないと仕事をしていないと感じる教員の、サービス精神ゆえかと思っていたのだけれど。

「立て板に水のごとく」流れるような授業を褒める人もいるけれど、大方においてそれは間違いだろう。なぜなら、授業の目的は生徒がいかに変わるかにあるのであって、そのために教員が喋らなくてはいけない場面もあるだろうが、その眼目は彼らに活動させ、考え気づかせて、長期的に変化させる点にある。喋ることが一番に来るわけではない。むしろ、生徒の学びにとって教員のお喋りは障碍ですらある。

にもかかわらず、熱心な教員はよく喋るとか、よく板書するとかといった思い込みがあるとすれば、問題だろう。何のために話すのか、なぜ子どもの発言を書き出すのか、一呼吸を置ける思考体力を持った教員であってこそ、分析的、批判的に新たな事態に対応できるというべきである。何気にやっていることを疑い、問い直せる能力、これこそが教員の資質・力量と呼ぶべきではないだろうか。
[PR]
by walk41 | 2013-10-30 17:15 | 授業のこと | Comments(0)

なぜ論理を問うか

教員研修会にて、こんなボールを投げさせてもらった。

今回のような集合研修に限らず、何かを学ぶのは行動が変わることを目指すもの。誰しもある価値観を持っていて、それが論理(理論ではない!)を構成し、その理屈にもとづいて行動している、とおおよそ説明できるならば、行動を変えるには、論理を変えることが大切であり、その前提となっている価値観を揺るがすことが求められる。

たとえば、①生徒を呼び捨てする、②教えられる立場なのだから、呼び捨てされても構わない、③教員は生徒を教え導く存在だ、という流れを変えるには、③について、本当にそうなのか、それ以外はありえないのか、なぜそう言えるのか、を問う機会を設けることである。仮に今思っている通りだとしても、そう価値づけることが、生徒の反発を買い、うまく教えられない事態を招いているのなら、不本意であっても変えなければならない。

こうした価値観の衝突や葛藤、妥協や優先順位の付け方を問題にするという姿勢が、言いたい放題や「私の勝手でしょ」を抑制するとともに、違う論理へと誘い、別の行動へのヒントにつながる。かくも人それぞれが価値観、論理、行動を構成しており、目に見えない教育に関わる場合は、いっそうその傾向が強いと踏まえることが大切だろう、と。

この話がどれほど伝えられているかは、心許なしとしないけれど、自分としてはほぼすっきりした感触を得ている。だから、「机上の有論」が問われるのだと。もっともらしいだろうか、説得的だろうか。吟味いただければありがたい。
[PR]
by walk41 | 2013-10-29 12:54 | ことばのこと | Comments(0)

「経営」らしくない学級経営

ポッピーママさんのコメントを読んで思わされた。「だから、教員は学級経営には懸命だけれど、学校経営は管理職の仕事、って考えがちなんやな」って。

授業の基盤は学級経営にある、と少なくない教員は口にするけれど、じゃあ、どうすることが学級経営なのかと問われると、ポッピーママさんが仰るように曖昧模糊である。規律やルールの徹底、受容的・共感的態度、仲間づくりと、いわゆる人間関係をつくる、ラポールを得るという辺りに落ち着くのだろうか。

そうだとすれば、そこで言われる経営がおよそ「経営」らしくないことは明らかだ。たいていは子どもたちの話し合いで書き出す「学級目標」が担任教員の学級経営方針とどう関わるのかわからない、一学期なり一学年なりが終わった時に、立てた目標はいかに実現できたのか、またどうしたら改善できるのか、と言った話にもならない、そもそも、どれほど実現できたかを測ることもままならない、という具合なのだから。

こうした特性があまねく学級で観察されるのならば、その経営とは皿回しのようなスリリングなやりとりということがわかるだろう。どの皿がどんな動きをしているのかを逐一見ながら、しかも「子どもたち」は独立しておらず、むしろ関わりを求められる点で影響しあっているから、偶然さもなおいっそうのもとである。

かくも制御が難しく、経験則も万能ではないシロモノを扱っているのが、とりわけ義務教育学校ならば、上手な「経営」とは臨機応変さとこれを支えるしなやかさ、囚われの少なさと導ける。「こうでなくてはいけない」と「教育的信念」を持ちすぎると、児童生徒のみならず、教員も不幸になるのである。誤解を恐れず言うならば、いい加減さが要諦だ。

いい加減であるとは、大いに笑えることでもある。そうも捉えられるなあ、そう考えるのも面白い、と応えられる人は、柔軟で拘りが少ない。笑いの効用はここにもある。けれど、歳を重ねるほどに、身体が固くなるのと軌を一にして精神も固くなっていくのか、なかなか大変なのよ、管理職の研修で笑ってもらうのは。普段からよく笑いましょうね、いい仕事をするためにも。
[PR]
by walk41 | 2013-10-28 08:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

物(ぶつ)がない

学校教育の議論をしていると、つくづく思う。学校教育って、忙しいとか大変とかといったお喋りが絶えないけれど、その結果、何ができたかって言えば、何も明確なものはない。形として捉えられるもの、物がない。敢えていえば、思い出だろうか。それすら、それぞれの受け止めに委ねられるから、同じものにはならないし、そもそも狙って作れるものでもない。

だから、こうも言える。生きる力やなんとか力を児童生徒に育成したいとあれこれ取り組んでも、どのようにすればそうなるのかはわからず、設計図と完成図を描いたり、そのためのプログラムを用意することもできないので、そんな風に考えなければいけない、という発想じたいがなくなる。このために生じるのが、言いたい放題、放談である。

「〜の子どもの育成」って謳っても、じゃあ、どんな資源がどれだけ必要なのか、それらは上手く組み合わせられるのか、衝突したり不具合は起こらないのか、どれだけのサイズやコストを見込むのか、何にもわからない、わからないことだらけである。

教育や学習がこうした特徴を持つことを認めるならば、成果物があるかのような目標管理やPDCAサイクルの議論がこの領域に当てはまらないことは明らかだろう。いや、そんなことはない、と仰る方はぜひ考えていただきたい。形のない、物のていをなしていない、形状も重さも変化の速度も何も捉えられない教育や学習の「成果」をどのように設計したり、計画するというのだろうかと。

そして、PDCAサイクルの必要性などと最前線のスタッフに説教をし、そうならない様を彼らの努力や力量の不足と判じることの責任についても考えてほしい。

私もかつてそのような発言をしたことがある。その反省を込めて機会あるごとに話をさせてもらう。教育学を含む社会科学は、説教ではなく説明にこそ存立の意義があり、色々な説明が可能なゆえに、それぞれがどんな論理を構成しているかを分析し、つなぎ直してみる、つまり、脱構築と再構成の作業に秀でることが大切。そのためのトレーニングにお互い励みましょう、と。
[PR]
by walk41 | 2013-10-27 19:59 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「やらせ」授業を成立させる力量

Kojiさんからの拙文へのコメントを読んで、なるほどと思わされた。

教員が事前に「こういう風に頷くんだよ」とか「○○くん、ここで当てるから喋ってね」といった「やらせ」の授業、見世物の授業が成立するには、教員の学級経営の力量ともいうべき、児童・生徒とのラポールや、大げさには信頼関係がなければ難しいという指摘だ。

そういうことになると、研究授業などと見せているのは、授業の内容や方法に関わるというよりも、教員と児童生徒との人間関係がいかに上手く出来ているかであって、それは授業以前に(今のところは)成立していることを確認する作業ということになる。「こんなに私たち、いい感じでしょ」って。

だから、「学級崩壊」しているクラスで研究授業をするなどは、何よりも教員が嫌がるだろうから、難しいだろう。見てもらってもとりあえず安心というクラスでなければ、授業どころではないだろうから。

これを言い換えれば、人様に見せられるくらいの学級作りをしなさい、というメッセージを浸透させるツールとしての、研究授業ということにもなる。教育行政機関が学校に教育課程の方針を浸透させるために、指定研究を用いるのと、同様の構図だったのか。なるほどなあ、ならば、「研究授業」は教員評価の一つの道具として位置づけられているとも言えるね。

かくして、授業研究と謳いながら、授業の研究にはさっぱりならない。もっとも、①客観的に測定できる、②観察者効果を及ぼさない、③安定しており移ろいやすいものではない、といった研究の対象としてクリアしなければならない条件を、授業は基本的に欠くから、授業研究は元々できないのだけれど。
[PR]
by walk41 | 2013-10-26 15:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)

「教育問題」はどこにでも

ユニセフ報告、子どもたちは幸せを感じていない

ベルリン発-ドイツの子どもたちは、学校に喜んで通っているが、心の中ではまったく幸せを感じていない。こうした結果がベルリンでいま紹介され、ユニセフから2013年のドイツの子どもの状況として報告されている。彼らの自己評価について尋ねたところ、11歳から15歳の子どものおよそ半数は、学校での自分の成績が良くないと捉えており、女の子の二人に一人、男の子の三人に一人は、自分を太っていると見ている-実際にはそうではないのにもかかわらず-。比較すれば、ドイツの子どもや青年たちは客観的な前提や生活条件が総じて良いにもかかわらず、主観的な満足は、同じ年齢層の他の産業国と比べて低い。

関心は利用できるかどうかに限られている

この報告をとりまとめたミクロ社会学の教授、Hans Bertramはこう説明する。「子どもたちは、リクエストされることや理想を設定されることをもっともだとは、まったく感じていない。」ユニセフは、子どもに対する眼差しはあまりに機能的であり、成績を言語的あるいは数学的なテストで見ている-PISA調査のように-と結論づける。あるいは、新たに保育園を作ることで、保護者がより働けるようにしている。問題は、子どもが保護者にとって、そして、あまりに社会の機能的能力の利用価値としてのみ捉えられていることである。それゆえユニセフは、子どもたちが自身をよく眺め、包み込むように求めている。

調査結果がさらに示しているのは、不利な立場の子どもや青年たちは、長期的には社会的に依存する危険があるということである。2000年から2010年の間に、長期間貧困な生活をしていた子どもは8.6%に上る。これは、こうした子どもたちが7年から11年間にわたって、平均所得の60%を下回る家計のもとで生活しなければならなかったことを意味するのである。子どもたちが幸福を感じたり首尾良く発達するには、保育所や終日学校を増設するだけでは十分とは言えない、とHans Bertram教授は話す。家族に対してできるだけ早期に社会的なチャンスとネットワークを支援することが必要だと。ユニセフはドイツ連邦政府に、連邦基本法の子どもの権利をしっかりと据え、連邦レベルでの子どもの権利のための課題を設定すべきことを求めている。
(以上、Stuttgarter Zeitung 20131024、から。原文は、http://www.stuttgarter-zeitung.de/inhalt.unicef-bericht-kinder-fuehlen-sich-nicht-wohl.)
----------
いかがだろうか。ドイツでも子どもの幸福感や自尊感情、さらには貧困が問題になっていることがわかる。

この中で、私が鋭い指摘だなと思ったのは、子どもを道具的に捉える傾向がドイツにもあるとするユニセフの見方だ。どこかの国でも「学力向上」に今や血道をあげているが、それは子どものそれこそ幸福の先取りであり、社会の維持・発展のためという名目で子どもを活用しようとするもの、という見方は的を射ているのではないだろうか。

どこにでも「教育問題」はあること、ただし、通り一遍ではない見方ができることで、問題を掘り下げ、あるいは広げていけそうなことを、この記事を読みながら感じた次第だ。
[PR]
by walk41 | 2013-10-25 16:46 | ドイツのこと | Comments(0)

私語にどう対応するか

非常勤講師として授業に出かけているところで、次のような文書が配られていた。曰く、学生の私語が著しいので、申し訳ないが毅然と対応してほしい、とのこと。

担当しているのは、教職の授業でもあるので、教育に関わる資料として学生たちにたずねる。この文書の文法は「私語には注意を徹底する」という表現で、「AとBという変数の関係」を示している、つまり、A…私語を注意する、B…私語がなくなる(あるいは減る)はずという論理だが、これは支持される仮説だろうか、あるいは棄却されるだろうか、それとも判断不能だろうか、と。

たとえば、榊原の授業で、いまペアで話をしているのは私語だろうか、とたずねる。学生たちはこれは違うと応える。じゃあ、問題になっている私語ってどういうこと? あるいは、そもそも何が問題なの? と「何気なく」つなげてしまいがちな文法すなわち論理を解きほぐし、違うものとつなげてみようと思えるかもしれない。授業者の問題? 人数の問題? 座席の問題? …と。

大学では議論の作法を学ぶことが、とりわけ初学者の課題だと思う。「手の冷たい人は心が温かい」「動物が好きでない人は優しさに欠ける」と、どんなお喋りにも「AとBの関係」が含まれている。そうでないもの、「AはAだ」(朝、ごはんを食べたら、朝食と言ってよい)」と同義反復を聞いても何も面白くないもの。

そして、AとBの距離(学生には論文指導の際に、飛び越えるべき「川幅」と言うけれど)があればあるほど面白い論理になる可能性がある。「貧困と肥満は正に相関する」「すぐに挙手するのはわかっていない証拠」などと言われれば、きっと驚くだろう。なぜって、それは「これまでの常識」とちょっと違うから。これが面白い研究につながるのであって、「まあ、そうやわなあ」では知的興奮を呼び起こさない。だからといって、素っ頓狂なことを言えば良いのではなく、事実を違う切り口から取り出して新鮮な見え方を提示すること、これが学ぶ喜びをもたらすのである。

さて、私語の話に戻ろう。この文面の限り、この大学は私語対策につながるような仮説を未だ持てていないように見える。「注意の徹底」で「静かになる」って、学生も教員も大学も変わらない、表面的なレベルを越えていないから。

私だったら、自分の授業を例にいくつか言えるけれどなあ。仮に大人数でも、ペアを作って、毎回、新しいペアにする。講義ではなく、テーマに即したボールを投げて、学生たちに考えさせる(聞かせるでは、寝てしまう)、考えたことをペアで意見交換する、紙に書く、交換させると活動を組み込む、授業と次の授業との繋がりが分かるように、学生の感想文を紹介するとともに、それを踏まえたレジュメを作る。シラバスはあくまでも目安と、その場で生まれる意見やアイディアを活かすライブに務める、学生に1時間あたりウン千円の授業であること、納税者の期待も込められていると浪花節を伝える-こんな感じで、けっこう対応できると思うんやなあ。私の授業を見にきてもらってもいいですよ。私語がないというか、いっぱい学生はお喋りをしているし、私もあちこち回って話をしていますが。
[PR]
by walk41 | 2013-10-24 19:51 | 授業のこと | Comments(2)

実践的研究ならば…

小学校にうかがったり、義務教育教員とくに小学校教員に対して教育センターなどで話す機会に、次のようなことを言うとけっこう驚かれる。こちらとしては、驚かれることに驚くのだけれど(>_<)。

小学校から次のような報告がされる。たとえば、「時間を守らせるために、班でみんなが席に着いているかチェックさせることを徹底すると、ベル着100%ができるようになった」と。そして、「だから、この方法は有効だ」と。

ちょっと待ったあ。この論理は、そうしなかった場合に予想した結果が起こらなかったことを合わせて初めて、「こうしたら、ねらいが達成できる」と立論できることを等閑視している。つまり、そうしなくても、ねらうような効果が達成されるかもしれないという論理的余地を残したまま、話を進めているのである。

「~したら、~となった」と主張するためには、「~しなかったら、~とならなかった」ということとセットで述べなければならない。そうでなければ、どっちにしても「~となった」かもしれない、という主張を排除できない。すなわち、意味のある論理となりえない。

なのに、学校で「研究」と称されるものはまず間違いなく、片方しか見ておらず、もう一方を取り上げていない。したがって、この手続きでは実証されたと言えない。にもかかわらず、なぜか「成果と課題」と「研究」は終わってしまう。

はなはだ失礼ながら、こんなことを繰り返しているので、いつまで経っても新しいことは見つからない。「注意を徹底したら、従う」とか「きれいなノートを取らせるための、チェック項目を作る」といったことに明け暮れる。そんなとりまとめ役の研究主任に誰もなりたくないのは当然である。

つまるところ、論理力の面で教員の「学力向上」が必要なこと、また、「やりたくないけど仕方がない」と諦めがちな教員の「関心・意欲」をいかに高めるかが学校管理職や教育委員会の課題として問われること、を導けるのではないだろうか。
[PR]
by walk41 | 2013-10-23 10:51 | 研究のこと | Comments(0)

学校教育のサイズ

いま始めつつある研究なので、内容はまだ秘密だけれど(^^;)、ドイツの文献をあれこれ読んでいる。

その中で、異質性Heterogenitaet という概念が学校教育の論点の一つとなっており、それが理念的なものに留まらず、物的・空間的な条件との関わりでも述べられている点を、とても興味深く思う。

たとえば、ある説明に拠れば、異質性は次のように述べられている。「多様であるのは現実である。多様性に対する価値判断は、様々な人からなる社会で、人々が共生する上の基礎となる。その際、とりわけ個々の強みが理解され、評価され、経験されるべきである。そこには、障碍を持った人や移民の背景を持つ人々も、もちろん含まれる。」

こうした価値を実現する上で、大切になることの一つは、ある程度の学校規模であるべきという指摘だ。これには、はっとさせられた。ところが言われてみれば、多様性や異質性を担保するには、児童生徒やその保護者あるいは地域住民ほか、学校の関係者がそれなりに必要であり、数が限られていては、違いもあるいはその交流も確かめようがない、という観点は今更ながら、重要と思わされる。

しかるに、日本でも少子化が進む中で、学校規模や学級規模が縮小し、学校統廃合も各地で取りざたされている昨今、学校規模の適正化という議論はあるが、「多様であるためには、然るべき規模が不可欠」といった指摘はあるだろうか。私見の限り、まったく心許ない。「小規模校でめお地域に根ざした良い学校だ」あるいは、「人数がある程度いなければ、集団での活動が成り立たない」といった認識の水準のように思われる。さらに問題は、どのような人間の関わり方なのかだけれど、私の歪みゆえだろうか、日本のお喋りはもっぱら「集団」という言葉に回収されているのではないだろうか。

ドイツの教育論に対しては、まま理念的な側面への着目が強いが、あわせて物的な条件への注目もなされていることを見逃してはいけないだろう。具体的にしてかつ抽象的な思考は、ドイツからも学べるかもしれない、と感じさせられる。
[PR]
by walk41 | 2013-10-22 23:53 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
nation
at 2017-10-17 12:45
好みの幅広さ
at 2017-10-15 12:43
スクールソーシャルワーカー
at 2017-10-14 10:59
「奏を功する」
at 2017-10-12 20:20
付いた力は自分ではわからない
at 2017-10-11 23:31
まずは良かった
at 2017-10-09 19:14
Fiasko/fiasco
at 2017-10-08 10:40
青か緑か
at 2017-10-06 09:39
丁寧な言葉遣い
at 2017-10-05 10:26
目標を実現することが即、教育..
at 2017-10-02 22:05
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧