学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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集合的な関係は授業で活かせているのか

マンツーマンで教えてもらう機会に接すると、つくづく思わされる。

状況や課題は人によって様々なのだから、どれほど教える側が熱心にまた配慮豊かに臨んでも、複数の児童生徒を与件にする学校教育で、彼らの興味関心の示し方や理解の仕方が違ってくるのは、自ずと明らかだ。にもかかわらず、「無理を承知で」このスタイルをとるのは、マンツーマンで達成できることを犠牲にした上で目指す何かがあると考えるのが合理的だろう、ということだ。

歴史的にはベル=ランカスター法のように、一度にたくさんに教えることで、基礎基本あるいは「最低限の学力」を担保しようとしてきたのだろう。「安上がりで効果の高いやり方」として、学校教育は成立したと言える。

日本でも最初の学級編成の上限は80人、実際はもっと多かったとも言われるが、少ない教員で多くの子どもに対応してきた。「個に応じた指導」などあり得るはずもなく、おそらくそんな期待もされていなかっただろう。何しろ、労働の場から開放されて学校に来られるだけ、さらには後には食事まで出るほどに恵まれたことが有り難かった子どもも少なくなかっただろうから。それが、子ども数が今や激減。単純な割り算をすれば、小学校では教員一人あたり児童数は16人台までに減っている。

こんな状況のもとで、ありうる学校教育はどのようなものか。立場によるが、児童生徒一人あたり100万円というコストは、もはや「安上がり」と言えないとすれば、より「個に応じた指導」を目指せるだろう。ここでの意味は、文字通り、一人づつ指導することである。もちろん、合唱や合奏、多くの集団スポーツなど、複数を必要とする活動については、ここでの話から除かれる。

たとえば多くの座学、そこでは一人づつ(ずつ)教え、他の子どもにはおさらいや練習をさせる。寺子屋のイメージだ。「それでは、騒いで収拾がつかない」ときっと言われるだろうが、そこは課題や作業の事前準備に賭けよう。「お客さん」状態にさせないこと。それに、目を光らせているつもりの一斉指導スタイルでも、すでに崩壊しているのだから。

そして、限られた個人への指導時間に、集中して「これまで」と「これから」を架橋するのだ。こうした発想をしてなお、「みんなで授業をやる」ことの意味を考えてほしい。どんな意義があるのか、それはどんな犠牲の上に成り立っているのか、そして「みんなでやる」ものに果たしてなっているのか、と。

繰り返しめくが、一人一人の経験、理解、態度などが違うのだから、個別に接して教えるのが適切、という論理を上回る何かが、長い学校教育の経験から導かれているのだろうか。それとも、そんな論理はないのだけれど、これまでやってきたから何となく続けたい、という程のものなのだろうか。どなたか教示してほしい。
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by walk41 | 2013-11-30 15:58 | 授業のこと | Comments(0)

「ず」と「づ」

拙ブログを読んでくださっている方から、誤記ではないかとの指摘を受け、恐縮している。

「礎」のふりがなについて、「いしづえ」は間違いであって「いしずえ」とのこと。遅ればせながら調べたが、確かに仰る通りである。かくも、私の日本語が(も)不自由なゆえだけれど、悩むところも少なくない。

たとえば、躓く。これは、爪+付く、あるいは、爪+突く、から来ていると考えて「つまづく」と書くと間違い。正解は「つまずく」。どうしてかしらん。

あるいは、力尽く。これは文字通り、力が尽きるだから「ちからづく」かと思いきや、「ちからずく」が正しいようだ。なぜだろうか。

自分の子ども時代を振り返れば、「はなじ」と「じしん」、それぞれの主張はあるのだろうけれど、同じ発音ならば、もっとおおらかでもいいかな、と思わなくもない。

そもそも、たとえば「おはよう」などと発音している人はおらず、ほとんどは「おはよー」なのだから。こうした見方に対して、「いや、正しい表記があるのだ」というみなさんの意見、ぜひ伺ってみたい。

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by walk41 | 2013-11-28 21:35 | ことばのこと | Comments(3)

寒くなりましたね

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ねこフリークのみなさま、こんにちは。お久しぶりです。

galantさんから「癒やされる」と過分なお褒めの言葉を頂いたので、久しぶりに拙宅ねこをアップロードしなければと思った次第です。

右はきなこ、15歳を越えましたが、変わらず元気にしています。えさが無くなると朝方に「はよ、してえな」と私の顔をなめにきます。痛いんやけどネコ舌は、きなこ。

左はあずき、この仔ももうすぐ14歳です。いくつになっても甘えん坊で、必ずといっていいほど、ネコ、人間を問わず誰かにくっついています。甘え上手なタイプですね。

みなさんのお家ではストーブが点きましたか。こちらでも朝と夜は使うようになりました。長い夏が終わったと思ったら、秋はほんのわずか、早くも冬ですね。

くれぐれもご自愛のほどを。
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by walk41 | 2013-11-28 13:47 | ねこのこと | Comments(4)

「ちょうどから」?

いつの世も、言葉の「乱れ」に関するお喋りは喧しい。「正しい日本語を」と主張される向きも少なくない。まあ、そんなものは元々ないのだけれどね。

さて、最近の一例を求めれば、「1000円からお預かりします」という言い方があると思う。これは間違い、「1000円をお預かりします」だろう、いや、「1000円からお支払いいただきます」の意味では、と賛否あることだろうが、今日きいた言葉にはちょっと驚かされた。

金額ちょうどを手渡したら、店員さんが「ちょうどからお預かりします」と言ったのだ。「ちょうどから」どないしたんや、って突っ込みたくなったけれど、はいはいと終えた。

何かを指して「こちらになります」(←ならへんやろ)という指摘もあるけれど、どんどん変わっていくから言葉はおもしろい。漢字の略記もその一つだけれど、過日も学生と話した。「省庁の庁、の旧字って書ける?」って。私もおぼろげにしか知りませんでした、「廳」という字、今はわずか5画だけれど、これって25画もあるんですね。「正しい言葉を」と言う人は、こんな旧字もしっかり書いてほしいな。
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by walk41 | 2013-11-26 13:31 | ことばのこと | Comments(0)

実証に絶えない授業研究

九州で指導主事のみなさんと議論する。授業研究と教材研究との違い、授業の結果を検証するといったことについて。

その中で次のような例を引く。新薬が効くかどうかを確かめるために採られる方法は次のようだ。同様の患者さんたちを二分して、片方のグループには新薬を、もう片方のグループには偽薬を与えて、新薬を与えたグループに効果が認められ、そうでないグループには認められないという両方が確かめられて初めて、新薬に効果があるかもしれないという話になること。また、与える医療関係者の態度に患者が影響されないように、投与する側もどちらが新薬かはわからない状態で実験が行われる(二重盲検)こと。

この基準と比べれば、学校教育で議論される授業研究などまったく実証性がなく、ほとんど印象批評の域を出ない。〜したら〜となった、ことを証明するには、〜しなかったら〜とならなかった、ことを合わせて示す必要があるにもかかわらず、後者が確かめられることは、不公平だ、人権に関わるなどと理由付けされて、皆無に等しいからだ。

そもそも、同じような子どもが2グループいるという条件を満たすことが至難である。家庭環境、保護者の学歴、通塾率など、揃えようもない。

さらには、ある方法を教員が児童生徒に気づかれることなく、さらには教員自身が知らずに用いることはあり得ないから、実証しようという環境に最初から干渉することになり、ある方法の効果を独立して取り出すことに成功しない。

かくも無理無理づくしなのが、授業の研究というものである。こんな対象を実証しようとすること自体が、ハナから無茶なことは明確だろう。だから、授業について理解を進めたいのならば、授業の実証や検証とは異なる方向に向かわなければならない。私はそれを、授業像の収束ではなく拡散、極めるのではなく裾野を拡げる方向、客観性を追うのではなく主観性を前提に見方を交差させる方向、と提案している。

ありうるはずもない授業「研究」にこだわって、いたづらに資源と労力を失うことなく、やりがいのある楽しいものへと認識、論理、価値観を改めることが大切である。すでに多くの教員はそのことを直感的に気づいている。だから、研究主任になりたくないし、校内研修の時間を辛いと感じている。その直感をまずは論理化してみること、そのための学力が教員に求められているのだと思う。
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by walk41 | 2013-11-25 19:05 | Comments(0)

「ガラケー」の効用

NHK朝のニュース、ユニークな経営の取り組みを見た。

中小企業の社長、スマートフォンが普及したことで、休憩時間もその画面に釘付け、お喋りをしなくなった社員の様子に危機感を覚え、スマートフォンを手放した社員に月5千円の手当を出すようになったという。

するとガラケーに替える社員が増え、また社員のコミュニケーションも盛んになってきたとのこと。このくらいの費用ならば大きな負担にならず、数十年後の競争力にきっとつながる、と社長は見る。

外的動機づけが人の行動を変え、会社の様子を変える事例として興味深かったし、こうしたアイディアが湧く社長こそ、リーダーシップを発揮していると思ったのだ。

新しいことを考え出し、実際にやって見て、その結果を確かめるということ、学校でも色々できると思うんだけどな、なぜか返ってくるのは「忙しい」という言葉ばかり。忙しいからこそ変えなければならないことがあるのではないだろうか。
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by walk41 | 2013-11-25 08:21 | Comments(0)

クリスマスシーズンはじまる

 
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これからのおよそ1ヶ月、とりわけ物珍しい外国人にとってのドイツでの楽しみは、クリスマスマーケットに出かけることです。

もう17年前になりますが、私が住んでいたLudwigsburgという街のコンセプトは、バロック調。街には19世紀の初めから建築された城があり、それはフランスのヴェルサイユ宮殿を模したもので、ルイ王朝の華美さとシンメトリーの美しさが強調されているからなのです。クリスマスマーケットもこのイメージで演出され、静かで上品、かつゴージャスな雰囲気が漂っています。これに雪が少し積もれば、言うことなしかな。

ムードいっぱいになるのはやはり夕方からですが、昼間でも所狭しと居並ぶ店が開いており、買い物と簡単な飲食を楽しむことができます。子どももやってきますが、青年から大人、年配の方まで幅広く訪れることのできる場所であること、「お子ちゃま」っぽくないところがとてもいいなと感じるのです。ホットワイン(Gluehwein)もしっかり身体を温めてくれますし。

ことしは11月26日から12月22日まで。175のスタンドが立つとのこと。クリスマスツリーに飾り付けるガラス球、イエスキリスト誕生のシーンに出てくるフィギュア、蝋燭、観光地でもよく見かける木製のパイプ男、あるいは温かなソックスや屋内用シューズなどが売られるとのことです(https://www.ludwigsburg.de/,Lde/start/tourismus/weihnachtsmarkt.html から。写真も同じ)。この頃はすっかり中国製や台湾製の商品が増えましたが、地元産も変わらず出回ってほしいな。

フランクフルトやミュンヘンといった大きなところとは二味ほど違う、少し小ぶりなクリスマスマーケットにもぜひ一度、お出かけあれ。




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by walk41 | 2013-11-24 11:11 | ドイツのこと | Comments(0)

身近な異文化

毎日新聞、20130726 の記事「雨宮処凛の憲法生活」に紹介された、大阪は鶴橋のコリアンタウンに出かける。

駅から歩いて10分少し、駅前に広がる商店街を抜けてコリアンタウンの入り口に着く。右側には御幸森天神宮、無信仰者だが一応お参りをする。その先はすっかりコリアンの雰囲気。キムチ、チヂミ、宮廷菓子、豚足、ホルモンなどと食べ物屋が多いが、その間に化粧品、タレントグッズ、マッサージ店も軒を連ねる。

東西に600メートルと聞いたが、結構な店数があるのではないかな。歩いているうちにすっかり香辛料が身体に付いたように感じた。帰りは鶴橋駅に向かいつつ、韓国料理の店に飛び込む。韓流スターのポスターが所狭しと貼られている店内で、生ビールと香辛料の漬物を複数、海鮮チヂミ、豚料理といただき、満喫した。中央に脂が集まる仕掛けになっている鍋も楽しかったし、チシャ菜やエゴマも美味しかった。まだ早い時間で接客の余裕があったのか、日本語がまだまだかな、という感じの、来日して10年という店員さんともお喋り。「ありがとう」は「カムサムニダ」と覚えたからね。

ちょっと異文化体験、楽しゅうございました。
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by walk41 | 2013-11-23 18:29 | Comments(0)

笑いがあってこそ

NHK,地球イチバン、世界で一番”陽気な”お墓-ルーマニア、を観る。

墓標に、亡くなった人の悲しみあり、笑いありを描く絵と文章が綴られている。「妻に逃げられた」「酒びたりだった」と、ところ違えば不謹慎極まりない言葉が並ぶが、本当のことなので、その家族も怒ることはない。そんなことを含めて、その人の生を認め、生きる賛歌となっている。

どうも人には、ええかっこしいとそうでないところの両方があるようだ。ええかっこしいも大事だけれど、その人らしさが出てこない。「立派な成績で卒業し」「素晴らしい家族に恵まれ」「数々の業績を残した」なんて、本当なのかしらん。

「まあ、そういうことにしておこう」と皮相なところで終わりにするから、誰も本気で聞くことはない。演出、ショーと割り切るだけである。でも、それって、亡くなった人を弔っていることになるのかなあ。

かくして、人を全体として捉えて認めることは、笑いが伴ってこそ可能なことがわかる。開き直りの強さとも言えるだろう。ある人を想うとは、より丸ごとでもあるはずだ。その心づもりや覚悟があってはじめて他者を、さらに自分についても理解できるのかもしれない。
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by walk41 | 2013-11-22 21:34 | 笑いのこと | Comments(0)

空間を制する

教育学という看板で仕事をしてきたが、仕事以外で学ぶ身に自分を置くと、気づかされることがいくつもある。その一つが、教える立場を取るというのであれば、自分が制する空間で学ぶ立場の人間と向かい合うのが合理的、ということだ。

学びにそちらに行く、そこでは教える立場の人が待っている-この格好が取れてこそ、教育-学習という関係が成り立つ。相手のフィールドに身を置く落ち着かなさ、不安や怯えすらもありうる、弱者にならざるを得ない。これで初めて教えてもらう格好になる。教えを請うという表現は、これに適うものではないだろうか。

にもかかわらず、多くの場合は、先に児童・生徒がいるところに(文字通りの、ホームルームにである)教員が訪れる形を取る。これでは教員はお客さんであって、その空間を制することはできない。ホームルームで寛いでいる彼らに優位な立場に立つことは難しい。もっとも、教えるというスタンスを取らない関係もありうることは無論だ。

ずっと昔から違和感を感じていたこと。こんなホームルームにいる彼らに、日直あたりの掛け声で「起立、礼」をさせるという学校の不思議な儀式が、かくも緊張感の欠片もない、だらだらとなることの理由が垣間見えるだろう。立ち上がったり、礼をしたりというのは、寛げない緊張を要するところでこその所作である。だから、そうした振る舞いを求めるのであれば、これにふさわしく空間を設計しなければならない。なのに、ホームルームでそんなことをさせるという、ちぐはぐである。

人間の行動に叶うものとして学校が設計されていないということ、これが児童・生徒や教職員という当事者の、不適応や不満足あるいは不快感につながっていると捉えるのは、現実的な説明だろうか。
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by walk41 | 2013-11-21 20:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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