学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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メッセージ

引き続き、録画していたBSプレミアム、ザ・プロファイラーを観る。今度は「ベートーベン」。

苦悩から歓喜へと辿ったベートーベンの曲は、「100%の集中でこれを聴け」というメッセージ性を強く持っていたことがよくわかった。それが、一部の貴族に専有されていた音楽を、広く人々のものとすることにも繋がっていったのだろう。

日本でもお馴染みとなった第九交響楽は、今やヨーロッパ共同体(EU)の「国歌」ともなった。Alle Menschen werden Brueder.(すべての人々が兄弟になる)というベートーベンのメッセージは、少しずつ、でも確かに形になっているようである。

音楽を通して平和をと伝えてくれているベートーベンに、ほんの少しでも応えられるように、自分に与えられた場で「より良い」ものを生み出せるように、励みたいと思う。

今年一年、拙ブログを読んでくださり、ありがとうございました。どうぞ良き新年をお迎えください。



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by walk41 | 2013-12-31 10:54 | 音楽 | Comments(0)

リーダーシップ

NHK、BSプレミアム、ザ・プロファイラー、「勝つために何をすべきか、山本五十六」を観る。

明治政府に抵抗したため「賊軍」と呼ばれた新潟の長岡に生まれた五十六の、勝負師としての一面がよく描かれているように思った。

1.私利私欲を捨てて、2.科学的・数学的思考にもとづき、3.機の訪れるのを待つ、という原則を打ち立てた五十六は、アメリカとの早期講話を展望して真珠湾奇襲攻撃を行った。しかしその意に反して、アメリカは戦意を喪失せず、かたや日本は果てしなき戦争拡大を目指すことになる。

今もなお、リーダーシップとは思い切ったことを言ったり、誰かに何かをやらせたりすることと捉えられる節があるけれど、こうした作品に接すると、実はそうではなく、考えられうる先を見通そうとする、想像力、構想力なのだと、改めて気づかされる。

先をより見通すためには、判断材料がより多く必要になる。1930年代にアメリカに赴任した五十六は、日本とアメリカの国力の文字通り桁違いの有り様を見て、長期戦になれば日本が戦争に勝つことはできないと知ったという。

どれだけの前提条件を掌握しているかが、ある判断を下す上で不可欠であること、そして、判断を下すまでに見極めなければならない「がまん」がすぐれて重要なことを、山本五十六は「男の修行」として書き残したように思う。

威勢の良さや話の単純さで人々の歓心をかうのではなく、思慮深いこと-よく悩むことのできる体力を持っていること、そして悩む材料を持っていること-が、他者に責任を負う人間が持つべき姿勢や能力なのだろう、と教えられた。


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by walk41 | 2013-12-30 22:43 | 身体 | Comments(0)

力を抜くことの難しさ

教えるという仕事とは反対に、学ぶ立場に身を置くと、いろいろと気づかされることがある。その一つが、力を抜いて下さいと言われても、なかなかできない自分の身体だ。

ものの本によると、あるパターンで身体を使うことを学習すると、それ以外の使い方に馴染めなくなるのだという。以前聞いた話を当てはめれば、江戸時代はナンバ歩きと言われる、手と足の向きが同じだったが、明治時代に輸入されたスウェーデン体操などを通じて動きが反対に、つまり、左足を出す時に右手が出るというように変わったというようなことだろうか。学習するとは良いことばかりではない。

これからゆっくり考えたいが、たとえば学校では、「力いっぱいに」や「全力を尽くして」と、力加減を調節することを教えず、力を出せば出すほど良いというメッセージを送るに偏しているのではないだろうか。

この結果、力を入れたり、抜いたり、またそれらを身体の部分ごとに調整するトレーニングは扱わず「不自由な」身体を作ることにもなってしまう。自分の身体なのに、思うように操れない場合もあること、これも学習の効用と限界だろう。
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by walk41 | 2013-12-29 19:53 | 身体 | Comments(0)

起き上がり腹筋

身体の常識も変わるものだと思わされる。

いわゆるウサギ飛びが、身体を鍛える効果のないばかりか、損傷すら与えかねないことはかねてより聞いていたけれど、誰かに足首を持ってもらって起き上がるという腹筋運動、起き上がり腹筋も、他の筋肉の介入を招くだけでなく、腰を痛めすらしかねないということを、遅ればせながら初めて知った。

日々接し、駆使している身体なのに、あるいは、だからこそ、気づきにくいのだろうか。とても不思議に思う。「何気なく」そうしていること、その意義や問題を考える機会が、意外にも少ないのかもしれない。

自分のことは自分が一番わかっているはず、なのに、身体を置いてきぼりにして、頭でっかちになって「わかったつもり」なことが、他にもあるとは思われませんか。
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by walk41 | 2013-12-28 23:20 | 身体 | Comments(0)

不正論文

東京大学生物学系の研究所から発表された論文51本に、不正の疑いがあるとのこと(朝日新聞、20131227)。それが確定的となった場合、関係者の学位の剥奪や研究費の返還請求もありうるという。

以前の拙ブログに書いたが、こうした自然科学の研究作法と異なって、社会科学の場合は、再現性が担保されないから、とても皮肉なことに、こうした理由で責任を追及されることがない。この意味では、自然科学はまさに科学だなあと思わされる。真理を追究する分野では、白黒はっきりつけるのが不可欠だものね。

この点で社会科学は、まあいい加減なことだ。大昔では「早晩、社会主義革命が日本に起こる」と講義した教授も、私が学生だった頃では「ポスト資本主義社会の今日、学校教育ではなく生涯学習がこれからの基調だ」と言った教授も、そして昨今では「フィンランドの教育を見習うべきだ」と叫んだ教授も、誰も何の責任を問われることはない。言いたい放題、放談の連続である。自らの言でひょっとして惑わせたかもしれない人に対する責任は問われないまま、こうした物言いをした面々は、どのように総括をしているのだろうか。そもそも、こうした反省をしなければならないと思っているのだろうか。それにすら気づくことなく、すでに鬼籍に入った人もいることだろう。

こうした社会科学からの自然科学に対する憧れの眼差しを云々してもしかたがない。では、社会科学の端くれである教育学では、どんな研究的責任を負うべきなのかと話を進めよう。

私の考えでは、教育学の価値は再現性、ひいては普遍性の追求にあるのではない。それはまさに無い物ねだりである。教育関係は時代と地域によって様々、それらは刻々と変化する。昔の教育実践を誰も参考にしないこと、そして、校内研究ほか○○研究が何ら蓄積をしえないことはその証左だ。

だとするならば、研究という言葉が示すような究めるとは正反対の方向、広げる、解釈を繰り返すこと、つまりは問うこと(問いを学ぶ-学問)、と考えるのが生産的ではないだろうか。つまり、自分の論文が何を批判し、どんな新しい解釈(把握)を示すものなのか、そしてその見方はどのような新しい指摘によって批判、凌駕されるものなのかと、よりメタ的に自身の限界を述べながら示すことである。

時代や地域によって、見ている教育(-学習)関係は一様でなく、その解釈も多様である。その世界で物を言おうとするものが踏まえるべきは、自身の解釈を支える認識上の特徴とそこから構成される論理(重ねて、理論ではない!)の意義と限界を論文の中で提示することである。それらがしっかりと整理されているならば、やがて次の世代に、批判的に取り上げてもらえる栄誉に浴することができるだろう。


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by walk41 | 2013-12-27 21:03 | 研究のこと | Comments(0)

学校は言語の世界

「ネットしすぎ 学力に影響」(読売新聞、20131226)、小学校6年生と中学校3年生の全国学力テストの結果分析を紹介している。

「算数・数学とも、インターネットやテレビゲームをする時間が長くなるほど低く、新聞やテレビのニュースを見る時間が高くなる傾向が浮かんだ」とする一方、後段では「テレビやインターネットでニュースを見る頻度と平均正答率との関係は」よく見る子が好成績と記しており、この記事担当者の論理力の弱さをうかがわせる。集合論のイロハを踏まえてへんやん。

それはともかく、本をたくさん読む子の成績は良好、学校の復習を全くしていない子の成績は低い、授業で様々な考えを引き出す質問や発言や活動の時間を確保した授業であるほど正答率が高い、と文章が並ぶものの、これらはどれほど論理的な話だろう。ほとんど同義反復(tautology)ではないか。雨傘を差している人が多いから、今日は雨って言って良い、という感じのね。

学校では、述べなさい、書きなさいと、読む書く、話す聞くことがあまねく問われる。これは、文脈に依存しない人間関係と、言語化によって了解できるという前提を置くものである。つまり、「言わな、わからんか」という批判を排除し、「書いてある通りや」というゴリ押しをする世界なのだ。

こんな世界に浸りすぎると、「言わなくても、わかる」、そして「文字通りに取ってはいけない」という、人間関係上の大切なことを等閑視し、「事物や感情は言葉で表現できる」、「言ったこと、書いてあることが同じならば、同じ内容を指す」という、偏ったものの見方を獲得させることになる。

言わずもがな、世界はこれ以外にも多く存在する。感じること、沈黙すること、口以外で表現すること…。これらがむしろ「人間らしい」と思うのは私だけだろうか。高学力が大事という人は、子どもたちがどんな人間になることを期待しているのだろうか。
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by walk41 | 2013-12-26 11:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(2)

この時期のお菓子

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嬉しいことに、ドイツの友人からクリスマス・プレゼントが届きました。ねこフリークの私にはぴったりですね(^^;)。あわせて、今年誕生した赤ちゃんの写真も添えてくれています。

手前に見えるのが、Stollen(シュトーレン/シュトレン)と呼ばれる、ドライフルーツやナッツなどを入れた、この時期ならではのお菓子です。フルーツの香りが染み込むので、後で食べるほどに美味しいとも言われ、知り合いのドイツ人に言わせれば、2月、3月までかけて食べるとか。

白く包まれるこのお菓子は、子どものキリストをくるむ産着を想起させるとのこと。日本でもすっかりお馴染みになりましたね。

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by walk41 | 2013-12-25 06:02 | ドイツのこと | Comments(0)

クリスマスイブ

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ドイツの友人から、電子メールでクリスマスカードが届きました。自宅で飾っているKrippe(キリスト生誕のシーン)や天使の写真を添えてです。

私の知るところ、ドイツでは街中にも結構大きなKrippeがしつらえられ、クリスマスの雰囲気を盛り上げます。12月25日の救世主誕生を待ち望む、という構図ですね。

この時期の挨拶の一つに、frohe Weihnachten und besinnliche Feiertage! といった表現があります。楽しいクリスマスと観想的・穏やかな休日を、という感じでしょうか。

彼の地でも、このシーズンはWeihnachtsstress(クリスマス・ストレス)とも言われるほどに、贈り物ほか買い物、あれこれの準備と心穏やかならずの様子ですが、ろうそくを灯してこの一年とこれからの一年を考える時間を、とも伝えています。

みなさんのこの一年はいかがでしたか。私には新しいことを始めた、新鮮な一年でした。見える世界も広がったように思います。拙ブログを読んでくださっている皆さんに、そして元気に生かされていることに感謝して、次の年に進みたいものです。
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by walk41 | 2013-12-24 10:33 | ドイツのこと | Comments(0)

「満足してしまう自分がこわい」

小学校で教員として働いている卒業生と話す。「校内研究ってどんな感じ?」

まだまだ若手なので、学校のことがわかっているとは限らない(あるいは、若手だからこそ、問題をより見抜くことができるとも言える)が、次のようなことを話してくれた。

…授業を実証すると言いながら、何がわかったのか、明らかになったのか、さっぱりわからないのに、研究授業をして、事後の話し合いを経たら、何かを成し遂げたように感じられて、満足してしまう自分をこわいとも思います…

ベテラン教員のみなさん、いかがだろう。私にはこの若手教員の見方が、的を射ているように思えるのだけれど。

「~の研究を続けてきました」「研究の蓄積の上に立って」などと表現されるけれど、学習指導要領はおよそ10年間で替わり、時代ごとの重点や学校内外の眼差しも少なからず変化する。私が生徒だった頃、過度な勉強は「人間性を歪める」と批判されたが、今や学力向上に躍起になるのが主流であるように、思潮も大きく振り子を揺らす。

これほどにも変化の速い学校教育と授業について議論するには、「極める」(収束させる)のではなく、「解放する」(拡散させる)方向がより生産的である。

ともすれば、「~でなければならない」「~はこういうものである」とわかったつもりになることを避けて、よりメタ的に、つまり自身の眼差しの絞りを操作できる能力を身につけること、もって、自分の価値観、論理、そして行為に疑問を投げかけ(内省するだけでは、自己満足や合理化に留まる。自分を批判することが重要である)、新しいものの見方、考え方、そして行動ができるように、自分を自由にしていくことが、教職にも意義あることだろう。

はたして、今の校内研究はこうした職能上の、また職業上の要請に応えるものになりえているだろうか。そして、これをどのように変えることができるだろうか。
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by walk41 | 2013-12-23 09:18 | 授業のこと | Comments(0)

「フィンランド信仰」者は何と言う

日本経済新聞Web版の海外リポート、「国際学力調査で日本不在、アジア3都市トップ固める」(2013年12月7日付 英エコノミスト誌)を読んだ。

OECDによるPISA調査について、同レポートは次のように始まる。

 「10年前の2003年調査は、数学的リテラシーを初めて重点調査対象とした。この時、各分野のランキング上位にはフィンランドの青十字旗がはためいていた。
 フィンランドの生徒たちは科学的リテラシーと読解力ではトップだった。数学的な基礎知識でも優れていた(2位)。教育改革論者は、フィンランドの教育システムを魅力的なものと考えた。このシステムは機会均等で子供に向上心を持たせる、ストレスも少ないものだ。 以降3年ごとに、世界中の15歳の生徒がPISAテストを受けてきた。2012年のPISAテストには、世界65カ国・都市の50万人が参加した。12月3日に発表されたその結果は、欧州の元チャンピオンにとって非常に屈辱的なものだった。
 フィンランドは前回の2009年調査に比べて、数学の平均点が22ポイント下がった。読解と科学でも(数学より下げ幅は少なかったが)それぞれ12ポイントと9ポイント下がった。フィンランドのニュースサイト「フィンベイ」は、「黄金時代は終わった」と嘆いた。」

ヘルシンキではその分析に躍起になっており、数学教師とカリキュラムが子どもたちにやる気を起こさせることができなかったのが原因とする者や、平等主義的な性質が潜在的な問題かもしれない、すなわち一部の優秀な生徒がないがしろにされているためでは、と指摘する者もいる、という。

片や優秀な成績を収めたアジア、とりわけ上海、香港、シンガポールなどについては、もはや早期からの詰め込み教育ではない、とする一方で、学校以外での勉強の負担が非常に大きく、塾や家庭教師による支えが功を奏していると同時に、生徒たちへの精神的負担の大きさも認められる、とも指摘する。

こうした記事を読むにつけ思わされる。「フィンランドは素晴らしい」と散々に語られて、つまり言説が消費されて、やがて消え去る(『競争やめたら学力世界一』朝日新聞社、2006、という、論理矛盾な本もあったなあ)。ブームは一時的である。そして、次の物語がやってくるということを。そして、ある結果を正当化するための論理(理論ではない!)が紡ぎ出されるものの、その妥当性が検証される前に次の事実が生じるということ、そのため、誰の説がもっともだったのか否かははっきりと分からず仕舞い、いっとき脚光を浴びた人が儲けておしまい、という展開を遂げることを。

同レポートには次の一文もある。「PISAテストの成績を見ても、学んだことをその後の人生でどれだけ生かせるかはわからない」。

学力は大切である、ただしその測り方は時代や地域に左右されるし、そもそも測ることができるという発想そのものも疑問の俎上に載せられるほど、あやふやなものである。それを踏まえて、問いかけること、そして議論すること、こうした作業がまずは教育関係者の学力を向上させることになるだろう。
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by walk41 | 2013-12-22 12:32 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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