学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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丁寧さと命令口調

ある校長と話した。学校を案内してもらった後、「教職員の皆さんの、子どもさんへの接し方が丁寧ですね」と感想を申したら、「嬉しいです。その旨をみんなに伝えます」と応えて下さったのだが、これには経緯があったという。

昨年春にこの学校に着任した校長が気になって、真っ先に職員に指導したと仰るのが、子どもの呼称だったとのこと。「呼び捨てで始めると、その後がどうしても命令口調になりますよね」、「これに対して、さん、くん付けで始めると、続きが、〜はどうかな、〜してくれる?」と優しく、問いかける調子になります」と。

その通りだなあ。くん、さん付けで児童生徒を呼ぶことが、丁寧な物言いに繋がるとは拙論文に書いた通りだけれど、命令調から依頼や呼び掛け調にもなるとは、しっかり捉えていなかった。この校長先生から教えられた。

とりわけ呼称は、見事なほどに発話者の、話しかける相手への眼差しを映し出す。それ以下に続く内容よりも、その眼差しに不満や反発を覚えて、話すー聞く格好が取れないことも確かだろう。あまりに日常的だからこそ、見落としていることで、かつ教育ー学習に大きな影響を及ぼしているようなことが、もっと沢山あるように思う。


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by walk41 | 2014-01-31 13:48 | ことばのこと | Comments(0)

スペック

就活や婚活などの際、自己紹介の一環として、まま用いられる。製品の仕様書や明細書、specification が訛ったもの。

タテとヨコの学歴(学校に通った長さとその入学難易度)、勤務先の規模や有名度、収入や肩書き、さらには身長と体重、持ち家のいかんや健康状態などが、その人をそれなりに説明する面はあるが、多くの製品のスペックが変化しないのに対して、人間の場合は変化しないことの方が珍しい。

学歴は新たに通わなければ変わらないだろうが、たとえばある大学を卒業したことが20年、30年後まで意味を持つことは少ない。同窓会くらいの意味はあるだろうけれど。これ以外では、身長くらいだろうか、変わりにくいのは。

その他はけっこう危なげだ。勤務先は潰れるかもしれず、そうならずともリストラや早期退職、窓際に追いやられるかもしれない。いま収入の多いことが先も保証するとは限らず、働きすぎが健康を害するかもしれない。体重はもっとも変化しやすい要素である。同じ体重でも見た目は相当変わるのがおおよそのケースだから当てにはできない。不動産は地価の変動の影響を受けるし、カッコいい自動車も服や靴もいずれなくなる。何より自分に似合わなくなる。

こんなにも怪しげなものを、スペックと称するご当人の「軽さ」と共に、何かしっかりしたものに寄りかかりたい「不安」の現れも感じられる。豊かなはずなのに/だからこそ? 不安なのだろうか。ひるがえって自分のたとえば二十代、バブルな世だったからかもしれないが、「あんまり先を考えてもしゃあない」と開き直りもあったように思う。結婚時は学生で収入はパートタイム労働のみ、翌年ラッキーなことに職を得たが、年収はきっと300万円代の前半だった。語るスペックに乏しかったなあ。
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by walk41 | 2014-01-30 17:48 | ことばのこと | Comments(0)

協働の基盤

特別支援学校にお邪魔した。教育実習で学生がお世話になっているので、お礼を兼ねての訪問だ。

図らずも、学校案内をしてくださり、お忙しい中、申し訳なくも大変嬉しく頂戴する。気がつけば二時間以上も見学させてもらっていた。

高等部まである大きな学校で、教職員のみなさんが忙しく動いておられる様子を見せてもらう。作業活動の時間は、2月に迫っているひな祭りに合わせて販売する作品づくり、生徒それぞれが役割を担っている。縫い子、木工、陶芸と、作品に仕上げるべく、スタッフが打ち合わせ、準備、時間中の分担と、否が応でも協力的にならざるを得ない。

小学部では、十数人の子どもと十人ほどのスタッフが歌って、動いてと元気いっぱいだった。進行役、BGM担当、ある子どものフォローと、分業そして協業して臨まなけれならないのは、明らかだ。

学校において個業性が高いというのは、多数の児童生徒が在学する「普通」教育におおよそ当てはまることではある。ただし、こうした学校を見せてもらうと、一つの形、完成といったものが目指されれば、分業ー協業されやすくなる(そうしなければ事が進まない)ことがよくわかる。多くの学校でも、学校行事では、同様の傾向を見せることからも、この点は説明できるだろう。

個業性が優位しがちな学校で、スタッフ間の不干渉や無関心が跋扈しないように努めるには、時々であっても「共同作品」に臨む機会をより設けることだろう。それは必ずしも学校行事でなくても良い。それぞれの持つ「物語」を開陳し、交差させ、少しストーリーを更新させていくこと、その仕掛け人がミドルリーダーと呼ばれるスタッフや管理職ではないだろうか。
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by walk41 | 2014-01-30 13:15 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

組織としての健康

我が意を得たりという番組を見た。クローズアップ現代20140128、"健康経営”のすすめ~はじまった企業・自治体の挑戦~、である。

ビッグデータも活用しながら、夜の会議が多い会社には肥満が、職場に甘い清涼飲料水の自動販売機が置かれている職場では高血糖がよく見られるといったことを発見し、職場の改善、さらには企業の成長へと繋げていく発想、つまりは健康はコストではなく投資という発想が注目を浴びているという内容だ。

榊原禎宏「『健康な学校』と学校経営論のリデザイン」『京都教育大学紀要』115号、2009、では、組織としての健康問題をドイツを例に取り上げているが、職員が健康であることは、教育効果やそれぞれのやりがいにも関わる大きなポイントだと改めて思わされる。

にもかかわらず、「教育は人なり」と喧伝しながら、その適正な管理に心を砕いている訳ではないというのは、一体どうしたことだろう。学校管理職は文字通り、職員を管理することが業務なのだから、肉体的・精神的・社会的な健康を視野に入れて、おしなべて元気で快活に、「いい仕事」ができるように環境を整えることが課題になる。

そこで踏まえるべきは、個業性が高く、業務上の裁量や余地が大きな教職の特性である。業務命令で「運動+生活改善講座」に参加させる企業と違って、それぞれの判断にほぼ任されている学校という職場の特性をいかに踏まえた手立てを考えられるか。管理職をはじめ、スタッフの知恵が問われるだろう。勤務時間と内容の管理だけでなく、学校評価や教員評価をいかに活用すればよいだろうか。

榊原禎宏「教員の労働環境としての学校」『日本教育行政学会年報』38、2012、にも書いたが、教育の場としてだけではなく、当たり前に職場としても学校を捉え直すこと、その重要性がいっそう明らかになっていると感じる。

我田引水ばかりの一文、お許しを。


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by walk41 | 2014-01-29 13:44 | 身体 | Comments(0)

丁寧さが伝播する

中学校に伺う。いわゆるコミュニティ・スクールで、保護者と学区地域の人々が集まる会議が開かれているのだ。

赴任した直後、生徒を呼び捨てやニックネームで呼ぶ教員に違和感を感じた校長に、「くん、さん付けをするようにしては」と私から提案、それから2年以上経った今、改めて様子を尋ねてみた。

校長の言うには、「部活動では〜ちゃんと呼ぶ場合もあるようですが、授業中はまず、さん付け、時々くん付けが入るくらいになりました」、「そうすると、続く言葉が丁寧になり、呼びかけられた生徒も、なんじゃ、とは返せずに、丁寧に応じるようになり、さらには、保護者との電話でも、以前は下の名前で呼び捨てしていたことから、要らぬ軋轢が保護者とも起こっていたけれど、そういうこともなくなったようです」とのこと。

ほらね。我田引水すれば、私の著した「叱るときこそ丁寧に」の論文の通りになっているでしょう。生徒を呼び捨てすれば、面白くない気分の生徒は反発する、保護者も不快に思う。けれど、丁寧に呼ばれれば、乱暴に返しにくくなり、また呼びかける方も心穏やかに接することができる。丁寧さが伝播して、温かな空気が流れるようになる。

こんなちょっとしたことでも現実を変えうるならば、注目すべきは「なんとなく」やっている行動を見つめて見ること、そしてちょっとの勇気で、それを変えてみること、まずはそれを確かめてみることではないだろうか。
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by walk41 | 2014-01-29 02:21 | ことばのこと | Comments(0)

子どもの「みとり」

授業とは何か、について同じことを何度となく繰り返しているが、学生のレポートを読んでいて、こうした話題もあったなあ、と思い出されたので、以下に読んでいただく次第だ。

…「児童がわかったかどうか、教師はどのように確認することが可能か」という議題に対し、班のメンバーは小学生の頃、挙手した回数を数え、自主申告で教員に報告するという取り組みがあったと話をした。その中には回数を稼ぐために、答えのわからない質問に対しても、わざと教員に見えないように小さく手を挙げ、当てられなかった場合はほっと胸をなで下ろし、それもカウントしている子もいたという話を聞いた。この話から私は改めて、積極性とは何なのか考えさせられた。…

いかがだろう。子どもの学びは「見ればわかる」とか「態度に現れる」といった発想が、いかに素朴でそれゆえに誤っていることに気づきにくい、ということを。

こうした「何となくそう思う」ことがまま間違っており、にもかかわらず、それに乗っかって教育実践や教育論議があまねくなされていることの不経済、つまりムダをどう考えるか。ムリ、ムラ、ムダは経営上、避けるべき柱でもあるが、学校教育の世界ではこの禁じ手を濫用していることをどう振り返るか、が問われている。ただでも多忙というのであれば、こうした資源の無駄遣いこそ、いの一番に改めることこそ、学校改善なのだから。
 

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by walk41 | 2014-01-27 11:10 | 授業のこと | Comments(0)

研究授業再論

何度となく、研究授業のあり方や授業研究という名での「仮説-検証(実証)」がおかしいと述べてきたが、学生の最終レポートを読みながら、「ああ、やっぱり、変なんやなあ」と思わされたので、紹介したい。

…(この後期の榊原の授業で)一番印象に残っているのは、授業参観の話だ。日頃の勉強の様子を他の先生や保護者に見せるのが目的だと思っていたが、それは違うということに気づいた。私が小学生の時、参観授業の前の時間に担任の先生が、「たくさんの人が見に来るし、先生に協力して、いっぱい発言してね」と、クラス全体に呼びかけていたことがあった。当時は納得して、みんなで協力してスムーズに授業が進むように頑張った覚えがある。しかし、いま思い返してみると、あの授業は普段の授業とは全く違うもので、「つくられた授業」であった。そう思うと参観授業の必要性に疑問を抱くようになった。…

いかがだろうか。教員とくに小学校の教員の皆さんに尋ねたい。研究授業や公開授業って、何のためにやっているの。「たとえば、こんな感じでやってます」という紹介を越えて、「なぜ、あの子にあのように質問したのか」とか「あの児童は、こんなに学んでいたのが明らかだ」なんて、他者からの眼差しをまったく計算に入れないような話が、まことしやかになされているって、根本的に間違っていない? って。

重ねてお願いしたい。この質問に応えずに、この春からもまた「○○のように指導すれば、××ように子どもは変わるだろう」といった、およそ人間を理解しているとは思えないような命題づくりに奔走し、しっかり疲れるような仕事に臨むのでしょうか、と。


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by walk41 | 2014-01-26 21:27 | 授業のこと | Comments(1)

授業のやりがい

この時期、週末は学生のレポートを読むのに、おおよそ費やされる。先に受講学生の間で40分間くらいかけて、コメント交換(私は「赤ペン先生」と名付けている)をし、その後で私が読むという順番だ。

いま読んでいるレポートの授業では、この最終レポートに至るまで、「ミニワーク」と称した授業間の課題を学生間で「赤ペン先生」しており、学生もどのようにコメントすれば良いか、つまり紙上で対話をすればよいかを心得ている。

はじめは「手抜き」だったものも、クラスメイトの熱心な記述を読んだり、真剣なコメントを返されることで、次第に良いものになっていくように感じる。自然科学の分野ではこうしたことは難しいかもしれない(「真理」が取りあえずあると措定されるだろうから)が、教育学ほか社会科学の学修においては、それぞれの経験や一家言が、つまり各々の眼差しが論理と行為を形づくっているので、学生の児童・生徒体験や学校体験が、学校や公教育を考察する際の重要な材料となる。これらを活用し、交差させ、違う見方へと誘うことが授業で可能であるし、さらには、そうしなければ、彼らが教員として働く基盤を構築-脱構築させる契機を提供できない。マニュアル化を図るのは高校まで、大学からは疑い、考えるトレーニングが課題である。

さて、そんな授業のまとめとなる最終レポートを読んでいて、次のような嬉しい感想に出会うことがある。「こんなのばかりではないでしょ」と言われることを承知の上で(学生みんながこう思ったら怖いことでもあるし)読んでいただければと思う。大学でも「授業のやりがい」は、学生が変化することと合わせて、授業者が承認されることによって支えられると感じる。

…私はこの授業で、学校経営、教育というものがとても複雑で奥の深いものだということを学んだ。この授業を通じ、まずミクロ・メゾ・マクロに分類して考える思考を得て、アンビバレンス、ジレンマなどの用語も知った。…(中略)…また(榊原の論文である)Web上のテキストも初めて自ら進んで読んだ。ここまで興味惹かれる授業は初めてで、教育学専攻を受験すれば良かったと後悔するきっかけともなった。…考えれば考えるほど、私の中の常識が覆されていった。全体を通して私が教師になる前にもっと学ぶべきだと感じた。…
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by walk41 | 2014-01-25 10:06 | 授業のこと | Comments(0)

調べる

職業柄というべきか、学生のレポートを読んでいると、自分で紡いだ言葉ではなく、どっかから引っ張ってきたもんやな、とすぐにわかる。まず間違うことはない。もちろん、ある文献からの引用をレポートに示すことはまったく構わない(むしろ、望ましいことである)のだが、問題は自分の文章かのようにカギ括弧も付けずに記述していることだ。

そして、レポートを返却する際に、やんわりとその旨を指摘すると、「調べてきたんです」と言う。うう~ん、調べるっていうのは、自分なりに理解して表現することであって、ネットでコピペすることとちゃうんやで、部分的であれ。

ほんなら、と試しに「ここはどういう意味なん?」と尋ねると答えられない。ほらね、文字を引っ張ってくるだけでは「調べた」って言わへんの。自分なりに咀嚼して、稚拙であっても説明できなあかんねん。

自分で説明できひん文章を連ねて、それを指摘されたことを授業の感想用紙に「ちょっとショックでした」って…。あのね(汗)なんやけど。それとも、当の学生はそう信じているのだろうか。「調べるっていうのは、ようわからへんでも、それらしいところを引いたらええねん」って。

小学校くらいからやってるらしい「調べ学習」、教員は子どもにその意味をちゃんと伝えてくれているのだろうか。


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by walk41 | 2014-01-23 21:07 | 授業のこと | Comments(0)

お通し

立教大学の学生たちが、居酒屋で出される「お通し」について調べたというニュースを聞いた。おもしろい着眼だと思う。

頼んでもいないのに断れない、値段が知らされていないと不透明なもの、これがたいていのお通しだろう。店側からすれば、テーブルチャージ代わりというところだろうか。

居酒屋あるいはレストランでも不透明なものと言えば、ビールの量である。「これが中ジョッキ?」と思われる店はいっぱいで「小ジョッキやろ」と突っ込みたくなる場合すらある(自分ではまず頼まないが、この点では瓶ビールの方が良い。グラスワインもおおよその範囲に収まる)。

すでにお伝えしているように、ドイツではこの点とても厳密で、メスシリンダーのごとく500ミリリットルを示す線がグラスに引かれ、そこにビールが達していなければならない。だけど、食事後のチップ(Trinkgeld)は曖昧、客任せではあるけれど、払わない訳にはいかないという感じかな。

客も店も「まあ、いいんとちゃう」と曖昧さを認めていること、その一方でチップの習慣がなく一円単位でやりとりされているという厳密さ。どちらの方が多いかは分からないけれど、どこでも両方の世界を跨いでいるのが常で、場に応じて人はつかい分けて(割り切って)いるのかもしれない。
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by walk41 | 2014-01-23 09:54 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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