学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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できあがりました

大分県教育センターの所長さん以下、多くの指導主事さんの総力を集めて、ようやくできあがりました。

『「一層やりがいのある校内研究」手引書』2014.3
http://kyouiku.oita-ed.jp/edu-c/issouyarigai.pdf

そのままダウンロードしてもらえます。「一層やりがいのある校内研究に向けて」2012.3の改良+具体版です。

冒頭に所長が記してくださいました。誰も読まないような研究紀要を作るのはもう止めようと。まったく同感です。

論理的に成立しないような学校的「仮説-検証」スタイルから離れ、「こんな授業もできる」と収束ではなく拡散を目指す校内研究の方法を具体的に提案しています。もちろん、これからも実践の様子をうかがいながら、また考えながら改訂を重ねるつもりです。

まずはお読みください。そしてご批判をどうぞよろしくお願いします。
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by walk41 | 2014-03-31 17:30 | 授業のこと | Comments(0)

だから疑ってほしい

広島市立小学校の50歳代の女性教諭が今年2月、担任するクラスの1年男児2人に対し、6~7日間にわたって床に座らせて授業を受けさせたり、給食を食べさせたりしたとして、市教委が文書訓告の処分にしていたことがわかった。


 市教委によると、処分は3月27日付。教諭は2月5日と6日に、授業中にいすを前後に傾けるなどしていた2人からいすを取り上げ、机だけ残す指導をした。2人は以後、授業や給食の時間中もひざ立ちをして机に向かったり、床に座ったりして過ごしていたという。

男児の1人から「足が痛い」と聞いた親が2月14日に学校に訴え、市教委は「長期にわたり、肉体的、精神的に苦痛を与えた不適切な指導」と判断した。教諭は2人の自宅を訪れて謝罪したが、「授業に集中してもらうつもりだった」などと釈明しているという。(読売新聞、20140331)
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何度も紹介して恐縮だけれど、ぜひ次の論文を読んでほしい。榊原禎宏ほか「授業中の『ペン回し』がもたらすもの-非言語コミュニケーションに見られる教室の非制度-」(2011、ネット上に転がっています)。授業中に椅子をぎっこんばったんする生徒の話が出てくるから。

仕事だから仕方がないと思える大人と違って、よくわからないままそこに座らされる子ども、とくに児童にとって毎日の授業はけっこう辛いはずだ。大人ですら座り続けると、病気になると言われているほど不健康なことでもあるのだから。

ときどき失敗して後にひっくり返ることもあるから、安全上、留意する必要はあるけれど、「授業に集中していない」と教育的な文脈で解釈するのではなく、あのぶらぶら感が心地良いと解すれば、あるいは考える上でちょうどリズムに合うと考えれば、教員の対応もまた違ってくるのではないだろうか。

見たままに現実が存在するのではなく、自分の解釈を通じて「世界」が見えてくるということを、教員こそよく知り、また実践してほしい。

この春から私の立場も少し変わる。中学校の先生たちとの長くなりそうな会議の時は、立ってやってみようかなとも考えている。だって、長く座っているって本当に身体に悪いと思うから。



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by walk41 | 2014-03-31 10:57 | 授業のこと | Comments(0)

返ってくる自分の言葉

35ページ中16ページ論文盗用、教授を停職 読売新聞、20140330
 名古屋外国語大の学科長の教授(58)が論文を盗用していた問題で、同大は29日、盗用を認定し、同井戸教授を停職6か月の懲戒処分にしたと発表した。同教授からは31日付で退職願が提出され、受理された。発表によると、同教授が2012年3月に発表した論文「日本の財務報告と会計規制をめぐる課題と解決策」の35ページ中、16ページが高知工科大の村瀬儀祐教授(69)が11年7月に発表した論文の盗用だった。末尾の注54か所中41か所も同一だった。名古屋外国語大の亀山郁夫学長は「研究業績に対する過度の焦りが倫理の喪失を招いた。再発を防止すべく全学的な指導体制を整え、倫理意識の徹底、規律順守、論文投稿手続きの見直し等の方策を講じる」などとコメントした。(一部改変)
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下品と思いながら、大学内の同教授のページを覗いてみた(明日にはもう見られないだろうし)。いくつかの言葉が並ぶ。

○学生に期待していること- 「そしてお互いに切磋琢磨しあって青春の真ん中で、悔いなき生活を過ごし、社会人となる準備をして欲しいと思います。」

○入学してから卒業までに目指してほしいこと-「真摯な態度で事前準備をして下さい。怠りない準備の前に大きな成果が期待できるものと信じています。」
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大学に務めるとは研究者でもある一方、教育者でもあること。学生に期待したり、彼らを鼓舞するのであれば、その分、自分にも返ってくることだと何度も踏まえたい。年度さいごの日に、改めて思う。


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by walk41 | 2014-03-31 09:32 | Comments(0)

FFP

こういう言葉として定式化されているとは、恥ずかしながら今まで知らなかった。

研究者倫理として、やってはならない不正行為(ミスコンダクト)の主たるものとされる、捏造(Fabrication)、偽造(Falsification)、剽窃(Plagiarism)、これらの頭文字をとってFFPと言われるということを。

捏造ーないデータなのに、あるかのように作り出すこと
偽造-あるデータを、別のものに作り変えること
剽窃-他者のデータや文章なのに、自分が生み出したように示すこと

人文・社会系の分野は、データの客観性に乏しく、むしろ、ある論理に依拠した解釈としての記述が多いが、その上で、主観にもとづくものであれ客観的に存在する資料に拠って議論をしているか、引用や解釈はそれなりに納得できるものか、他者の調査、解釈を自分で紡ぎ出したように述べていないか、あるいは重要な先行研究を意図的に外していないか、という点はいずれも重ねて確かめられるべきである。

このことは、研究論文に限らず、教育・研究履歴もこれに当てはまるだろう。学歴の詐称、存在しない研究論文の列挙は、箔を付けたい故だが、それだけにメッキが剥がれることも覚悟しなければならない。つまるところ、コツコツやるしかない。「研究とは体力勝負」だと、ずいぶんと昔、誰かから聞いた。それに叶うように自分をマネジメントしたいと思う。



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by walk41 | 2014-03-30 10:42 | 研究のこと | Comments(0)

自己言及的な学校の「研究仮説」

「クレタ人の嘘つき」という自己言及のパラドックスの例がある。ギリシャのクレタ島の住人がこう言ったというが、これは真か偽か、堂々めぐりをしてわからなくなるという話である。

発言の中に、発言者のことが言い及ばれていること、自己言及性は、人間と人間が作り出す社会が基本的に帯びる特徴である。たとえば、「最近の大学生は勉強しない」と嘆く教員もいるが、そんな状態を作り出しているかもしれない大学のあり方に思いを馳せれば、自身の発言が自身の振る舞いによってもたらされていることに気づける。それを承知の上で、より純化して語ろうとすることが、学問を志す、つまり、より説明的であろうとする立場にとっての良心だろう。

翻って、とくに小学校で熱心に取り組まれている校内研究(校内研修)の「仮説」を見てみよう。「よりよいグループや集団活動の在り方を工夫すれば,豊かに関わることができ,生き生きと運動に取り組む子どもを育てることができるであろう」(長崎県、小学校)といった、学校関係者には見慣れた文章だが、これは自己言及そのものである。

「~を工夫すれば、」の主語は授業をする教員だろう。その教員がこの文章を綴っているということは、「私が~すれば」と私が語っているということである。つまり、その一文は説明的ではない。なぜなら、「私が~すれば」は「私」を離れて存在せず、「私」のありようは予期的ではない(先のことを語れない)から、説明的ではない。つまり、どうなるかはわからない。しかも、「工夫をすれば~」という文言である。今まで工夫をしてこなかったのか、どんな工夫を新たにするのか、わからない。わからないことだらけの文章が「研究仮説」として公表されているのである。

まずは、これまでそんな工夫をしてこなかったのか、そうだとするならばなぜやってこなかったのか、これまでやってこなかったのにこれから何故できると思うのか、それとも、またできないと思うから、「〜すれば」とすでに逃げを打っているのか、さっぱりわからない。

こうした教員の「学力」状況、あるいは思想的怠慢もしくは無自覚さが溢れる一方、「学力向上」を叫ぶ学校のナイーブさに、打ちのめされそうになる。学校の知的水準、ホンマにヤバイのとちゃいますか。


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by walk41 | 2014-03-30 09:51 | 授業のこと | Comments(2)

授業研究の倫理(2)

先の拙ブログの続き、授業研究の倫理規定は成立しうるか。

結論、成立しない。どうしてって? なぜなら、「この時間から、こんな感じの新しいスタイルの授業をしようと思うんやけどええかな?」って生徒に尋ねた時点で、生徒は「そうなんや。何かちゃうことするんや」と身構えるし、肯定的ならば「先生がそうするっちゅうんやから、こっちも頑張ろ」と反応するかも知れず、否定的ならば「他のセンコーが様子を見に来るっちゅうてるから、むちゃくちゃにしたろ」と考えるかも知れない。いずれにせよ、影響を及ぼすことは避けられない。だから、どうしても「やらせ」に近くなってしまう。

児童・生徒という「子ども」という存在が、この特徴を生み出すのかもしれない。大人ならば、分別がある(と見なされる)ので自分の権利や責任で、調査されることを「割り切れる」だろうし、かたや、人間は含めずに考える自然界の生き物は、調べられることを意に介さないか、たとえ嫌がったとしてもそもそも尋ねようもないから、人間の発明である倫理に馴染まない。

「子ども扱い」「子どもじみた」とも言われるのは、子どもが大人ではなく、かといって、もちろん人間であると言う、両者の「中途半端さ」に由来するのだろうか。

大人と比べて子どもの方が、弱い立場ゆえに周りに敏感で、大人からすれば思いも掛けない反応をするかもしれない。そんなあやふやな存在を対象に研究するなど、どれほどの覚悟をもって研究者や教育実践家と呼ばれる人は臨んでいるのだろう。



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by walk41 | 2014-03-29 08:03 | 研究のこと | Comments(0)

授業研究の倫理

関係する論文を探していたら、次の一文に出会った。

「教師が同意すれば子どもたちはその研究から逃れることができない無防備な脆い存在です。つまりインフォームドコンセントという研究の同意を事前に得ることは年齢が小さければ小さいほど難しくなりますし、学校という場では子ども個人は研究されることを拒否することが難しい状況に置かれているのです。」それゆえに「育ちゆく子どもを傷つけないような配慮とまなざしという倫理観をもって研究をしていく必要があります」(秋田喜代美・藤江康彦編『教育・学習編』(秋田喜代美・能智正博監修,2007)

なるほどと思う。と同時に、これはどれほど可能なのだろうか、とも思う。「〜すれば、〜となるだろう」という命題など、当の子どもに「そんなことしても構へん?」と尋ねることなど、まったく念頭にないことがわかる。子どもは、教育実践の対象、操作の対象だから、その意向をうかがう必要などあるはずもないと考えてきたのだから。

だから、授業研究の領域、ひいては学校教育の領域での、研究倫理とは何かについて、まずは議論が始まるということは望ましい。たとえ、倫理的な学校研究がこうすればできる、という結論に至らないとしても。
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by walk41 | 2014-03-28 13:37 | 研究のこと | Comments(0)

民主主義を担う人間を育てる

ドイツのニュースを読むにつけ、日本の「学力向上」の議論がとても皮相に見えて仕方がない。だって「学力向上」は何かの手段であるはずなのに、それ自体が目的化されている趣が強すぎると思うから。

たとえば、次のニュース(Stuttgarter Zeitung,20140227)をどう読まれるだろうか。
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学校会議における三者は等価-保護者と生徒の権利を強化

バ-デン=ヴュルテンベルク州政府は、学校における保護者と生徒の発言権を強めることを決めた。学校会議においては、これから三者は等価の原則にもとづくのだ。つまり、教員、保護者、生徒は同会議において同じ割合を占めることになる。これまでは学校指導部と教員がより多くを占めていた。これからは一つのグループだけで他のグループの意見に反対を貫くことはもはやできなくなる。このための学校教育法改正の提案に向けて、意見聴取が始まった。

学校会議は学校全体の機関である。そこでは学校教育法に示されるように、「学校にとって本質的に重要な事項」について議論する。学校会議は、市町村への財政手段に関する要求といった事柄についても決定できる。学校会議は、たとえば「共同体学校」(Gemeinschaftsschule)への学校種の変更や、生徒の退学といったことを検討する場合も、開催されなければならない。

学校会議の構成は学校の規模による。教員が少なくとも14人いる学校であれば、今後は教員、保護者、生徒の代表はそれぞれ3人となる。これに学校長、保護者会代表、そして生徒代表が加わるのである。文部大臣Stoch(社会民主党)は「参加者数を同じにすることは、学校生活をより民主的なものとする」と閣議決定後、説明した。

保護者と生徒もこの決定を歓迎している。州保護者会の副代表Reesは「本当に三者の等価が実現されることは、学校と保護者との教育的パートナーシップがいかに重要かを示すもの」と評価する。州生徒会も代表Staerkはこの改正を大きな勝利と見る。「生徒の関与を尊重するということが、あまりに長く引き延ばされてきたのです」と。
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by walk41 | 2014-03-26 09:36 | Comments(0)

手間

経験や年齢とともに、身体の遣い方も変わってくるなと思わされる。

「若い」ときは、一つを出来るだけ早くこなそうとして、うまく出来るときはいいけれど、そうでなければ二度目のやり直し、三度目のをやり直し。何をしていることやら、という場合が多くあった。

場数をこなすに連れて、多少は手際良くできるようになったかもしれないけれど、この頃思うのは、手際良くできなくても、暇をかければ、回数を重ねれば、まあまあのものができるだろうから、慌ててやっても、一回で終わらせないで、またやろうとしていることだ。「慌てず、じっくりと」ではなく、「慌てて、じっくりと」、「広く浅く」を何度も塗って行けば、それなりの厚みになるだろう、ということだ。

だから、何度もできる気力と体力が却って大切になるかもしれない。短距離走と中長距離走との違いという辺りか。それにつけても、身体のことを気にすること自体が「老い」なのかもしれないね。いやはや。
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by walk41 | 2014-03-25 10:47 | 身体 | Comments(0)

作法

むらいさんからコメントをもらった。学生に対するレポート指導のなさが、回り回って、今回の小保方問題にも至ったのではないか、と読んだ。

教員養成の議論にも通じるけれど、大学での予定調和という考え方、つまり「まあ放っておいたって(放っておいてこそ)、学生は自分で学ぶもんや」という意見は今なお残っており、「学士力の質保証」といった立場からは「とんでもない」と言われるだろうが、一理あるとは思う。「この勉強が終わったらこっちやで」など、おおよそ成人相手に言うセリフでもないだろうし、学生の主体性や欲求を促す前にあれこれ指図するのは、結局のところ彼らを育てないことにもなるのだから。

「放ったらかしはあかん」かといって「がんじがらめもあかん」となると、どうしたらええんや、という話になるけれど、「作法を教える」という方略はあるかなと思う。

守破離の考え方をなぞると、まず型を伝える。レポートは常体で、始めの一マスは空ける(小学校で扱っているはずなのに(-_-))、段落の始めはおおよそ接続詞から、論理を組み立てるとは、口語と文語との違い、量的データと質的データのバランス、キーワードを決める、引用は「 」を付けて、文献の示し方、といった具合だ。

論文指導ならば、論文とは何か、研究するとはどういうことか、どんな手順を踏むのか、観るとは何をすることか、データの整理の仕方、表現の仕方、先行研究との対話とは、仮説とは何か、解釈と論理、調査上のマナー、といったことを伝えることである。

これらを作法と言うならば、考える、観る、記録する、整理する、推敲する、表現する、といった一連の作業や手続きがあることを教え、基本的にその「枠内」でまずはやらせること、その経験をきっかけに学生が学ぶということになるだろうか。

それにしても、レポートが返ってきたことを今なお覚えてくれているのは嬉しいことだ。と同時に、気をつけなければいけないとも思う。いま対している学生からも同じように先々、「良かったな」・「何やったんやろあれ」と、肯定的・否定的に評されることを忘れずに、と。



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by walk41 | 2014-03-24 06:34 | 授業のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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