学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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「普通に」動くことがすごい

大学ほか学校に関わる事務的業務により接して、改めて思う。刻刻と環境が変化する中、「普通に」物事が動くことがすごいことなんやなあって。つまり、変わらないものを変えていくことがすごい(こちらのすごさは別の話として)のではなく、変わっていくものを変わらないようにしていることが大変なことなんだなと思わされるのだ。

例えば、教員の配置。毎年みんな一つは歳を重ねるから、やがて定年を迎える方も出てくる。あるいは色んな理由で中途離職する方もいるだろう。こうした方の補充を考えなければならない。この他、病気になる人、研修に出かける人、教育実習を担当する人、仕事に制限のかかっている人など、様々なことがありうる。誰が替わりに入るのか、どんな形で支援してもらうのか。

こんなあれこれの間隙を縫って、教室や体育館でおおよそ普段どおりの授業がなされること、この表舞台を支える舞台裏での奔走があってこそのものであること、が今さらながらよくわかる。華々しい「改革」や「改善」が仮になされなくても、放っておけば何も起こらない仕掛けをおおよそ動かしている人の力はすごいものだなと思わされる。

当たり前に学校が開き、予定されていた授業や行事が行われ、生徒たちが帰宅する、こんなリズムが「普通に」見えるために費やされている膨大な労力が、より有意義なものとなりますように、そして学校に関わる人たちに、いっそうの達成と満足が得られますように。
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by walk41 | 2014-04-30 13:33 | Comments(0)

やっぱりわからない

ある中学校で授業を見せてもらった。

授業後、別の教員と話をする。「中学生であれだけ手が挙がるのは珍しいですね。ちょっと驚きました」と向けると、「いやあ。手を挙げると平常点が考慮される、といったことが言われているとも聞きます」と返ってきた。

なるほど。それならばわからなくもない。以前の大学で、「挙手した回数を評価に含める」と社会実験をした同僚が、「すぐにたくさん挙がるようになる」と話していたことがあるから。外的動機づけはけっこう効果があるようだ。

授業者のことや授業方針、それへの生徒の反応など、部外者が知らないことはあまりに多い。かと言って、それなりに知ることもままならない。だから、授業場面を見てもわかること、ましてや意見できることなど、極く限られていると見るのが現実的だ。

傍からは見えない、わからないものが授業の基本と踏まえた授業論、そして教育実践論が構築されなければならない。「見える化」を図るべき、PDCAを回すべきと、十年一日のような説教は止めにしてね。
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by walk41 | 2014-04-28 18:09 | 授業のこと | Comments(0)

自己言及

ある対象を観察しようとすると、その存在に対象が影響を受けて、それまでとは姿を変えてしまうこと、この結果、本来見ようとしたものが見られない様を、自己言及(self reference)という。

Web上の読売新聞に、「授業参観で娘が泣きました」(http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/0425/655124.htm?g=05) という投書があった。小学校1年生の子どもの授業参観に出かけたら、母親を見つけた娘が授業中に泣き出したというのだ。

泣くほどの影響を受けるかはともかくも、普段はいない存在がその場に影響を及ぼすことは十分に踏まえてよいだろう。ましてや、評価される場面ではなお一層で、医者の前で血圧が上がる(白衣効果)、面接の際に「上がる」(緊張して赤面、声が上ずるなど)、といったことは日常的である。

だから、授業を「正しく」観ようとすれば、観察者である自分の存在が知られないようにしなければならないが、多くの小中学校で行われている研究授業や公開授業は、それとは反対の趣きを持っている。すなわち「観に来てるよ」メッセージをさかんに発しており、端から「本来の」授業の様子を観るつもりのないことがわかる。

なのに、事後研究会と称するところでは「あの発問は」とか「あの生徒の様子からすれば」とか、まるで星の観測をするかのような、観察者の存在が対象に影響を与えないかような前提を置くから、な-んも意味の無い、時間つぶしのお喋りに終始するのだ。だから、私は何十回でも言う、「こんなこと、さっさと止めよ」って。

「だいたいこんな感じ」というきわめてユルユルの精度しか追求できない対象、しかも刻々と姿を変化させる対象、こうした授業や学校教育という対象の特性にふさわしい「観る/観られる」を踏まえること、はたして、教育技術や教育方法というものが存立しうるのかを含めて、考え、整理すること-こうした作業なしに「より良い」教育実践など、あるはずもない。だから私は「机上の有論」が大切と主張するのだ。
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by walk41 | 2014-04-27 06:09 | 授業のこと | Comments(0)

曖昧さを楽しむ

大型連休とニュースは伝えるが、こちらはあまり影響なし(普段が、「連休」状態かも(^^;)。5月にうかがう高校で生徒たちに話をする授業資料を作っている。

その中で改めて思わされたのだが、教職って本当に曖昧なもので、これに我慢できないようでは、長くは勤められないのだろうな、ということ。だって、順接することも逆接することも、無関係なこともあって、「~すれば、~になる」と言えないことがほとんどの世界を生きなければならないから。

「褒めれば子どもは喜ぶ」?⇒子どもとの関係によるね。
「叱れば子どもは反省する」?⇒そうなるかもしれないけれど、どうかなあ。

褒めると叱るという教育の基本形ともいうべき段階で、私たちは躓いてしまう。「どうすればいいのか、わからない」って。

だから、「より良い」教育を目指すには、曖昧さに耐えられる、さらには楽しめることが大切だろうと、この齢になってようやく言える。「よくわからないから、おもしろい」って。

このことは、対人関係にも、さらには「生きる」ことにも通じるのではないかな。相手の都合、自分の眼差し、予想外の出来事の連続、と悩まされることばかりだけれど、「答え」があるはずなのに見つからない、というのが悩む理由だとすれば、発想を逆転させること、「答え」があるはずという前提を疑ってみるのも、自分を救う一つかもしれない。

ダライ・ラマ14世がどこかで語られていた。「解決の方法が分かっているのならば悩む必要はない。その方法がわからないのならば、また悩む必要がない」という昔の教えが好きだと。この言葉をわかったとは未だ言えないけれど、その方向で日々向かいたいと思う。
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by walk41 | 2014-04-26 09:52 | 身体 | Comments(0)

経験のなせる技かしら

大学で初めて授業を担当したのが、助手(いまの助教)の3年目、1991年だったから、ほぼ四半世紀、授業をしてきたことになる。目指すべきロールモデルもなく、何となく「学生が発言する授業」がいいなと考えて、とりわけ100人以上の大人数授業であれこれ試みてきた次第だ。

およそ30歳代は不格好なことばかりだったように思う。学生を班分けするだけで1コマが終わったり、授業の感想を返す段で学生を批判したり、レポート期日が間に合わない学生が数人いると聞くと、日程を変更してしかもそのことを全体に伝えずに不満を抱かれたり、良かれと資料を作りすぎて混乱を招いたり、といったように。

それが40歳代に徐々に形をなしていったように思う。4人くらいの班を組み、進行役を決めてメリハリをつける、資料はA3で2枚までに留める、色画用紙を配って学生の名札を作らせる、授業の感想を次回のレジュメに紹介するとともにコメントや補足を加える、講義と学生が話す時間とのバランスを図る、学生が話している間に教室を回り、あわせてゴミ拾いもする、感想用紙を受け取るときほか、一人一人にできるだけ声をかける、課題や最終レポートおよびそれらに対する学生間でのコメントもスムースにまた漏れ少なくできるように手順を整える、と。

そして現在。彼らの父親よりおそらく年長となり、場を支配する強さもさることながら、厳しいけれど楽しい、教室の空気を保つことにおおよそ成功しているように思う。課題を忘れてきた学生が数名、昔ならば、「どの専攻? 名前は?」と自分で名簿を探してあたふたしていたが、今ならば「この紙に書いて」と学生に任せる。他の学生の時間を取ることなく進められる。学生の感想をレジュメの1ページ目に載せて最初に数分間読ませるので、多少の遅刻ならば気にせずに授業を始められる。また、丁寧に学生に接しているつもりが功を奏してか、感想用紙を両手で差し出すような学生、あるいは去り際にお礼を伝える学生までいてくれる。嬉しい循環が起こっているように感じる。おおむね楽しく授業ができていると思う。

こう辿れば、しかるべき時間というのは少なからず意味があるのだとも思わされる。もちろん、長く経験すればよいとも限らないけれど、それなりの長さが必要でもあるのだろう。とりわけ(今より)若い時に私の授業を受けた元学生のみんなには、へんてこな授業となっていたこと申し訳ない。

過去と現在を整合的に繋いで「合理化」しようとする訳では決してないけれど、今のありようを過去の経験にも求めるならば、との話。不細工な自己開示を失礼しました。
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by walk41 | 2014-04-25 08:07 | 授業のこと | Comments(0)

ドキュメンタリーって難しい?

「世界の果ての通学路」を観た。地面を掘って汲みとった水の入ったポリバケツを持ち、象を避けて学校に向かうケニアのきょうだい、山道を歩き、トラックをヒッチハイクして向かうモロッコの女の子たち、馬に乗り、学校を目指すきょうだい、そして下半身不随のきょうだいの乗る車いすを押しながら引きながら進む男の子たち、と日本ではおよそ考えられない「通学路」(といってよいのかどうかすらわからないが)、を辿る作品だった。

この映像がどのように撮影されたのか知るよしがないが、象に追いかけられ、転びながらも走り続けるきょうだいのシーン、道中、大型車がタイヤ交換のために道を塞いでいたところおじさんたちが車いすを運ぶシーンなど、確かにこんなこともあるのだろうなと得心はさせられるけれど、「自然に」撮ることができたのだろうか、と少し疑問にも思う。

実際に、車が道を塞いでいたとして、男たちが車いすを運ぶ段になった時、撮影スタッフはどのようにカメラを彼らに向けたのだろうか。もし、「こちら側を歩いて」とか「こんな感じで運んで」などと指示や依頼していたならば、すでに問題だろうが、そこまでには至らずとも、カメラ目線へと意識させるような振る舞い、雰囲気はなかったのだろうか。

「おおよそこのくらい」であることに疑問はないけれど、「本当の姿」をつかまえることの難しさはことほどさようだと思う。だから、人間と人間が作り出す社会を厳密に捉えることはできず、極めることができないという前提に立って、どんな眼差し、論理、そして行為を問うかが議論されるべきなのだろう。

こんなにも過酷な中、学校に通い、夢を実現させたいと励む子どもたちに幸い多きことを願うと同時に、事実の切り取り方、つかまえ方について、いっそう考えるべきことと思わされた。
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by walk41 | 2014-04-24 08:57 | 映画・ドラマ | Comments(0)

気持ちの切り替え

授業の合間に会議や打ち合わせが入る。大人同士の議論の直後に授業で中学生と接するには、うまく気分の切り替えができんとあかんなあと思わされる。しかも、会議が時間内に終わらず、いわば後ろ髪を引かれる感じで部屋を出たときにはなおさらだろう。教職員関係も生徒関係も気になり、とても授業に全力投球とはいかないのではないか、と傍目には感じる。

教員の多忙が多忙感と区別されるならば、それは切り替えるべき場面の多さに由来するかと思う。対同僚、対保護者、対その他関係者と自分の役割が変わり、それぞれでふさわしく振る舞うことが求められるという慌ただしさ、忙しさが「忙しいなあ」感を募らせているようだ。生徒ほか対人関係労働で、かつそのゴールが決して明確ではないという教職の特性を踏まえた負担ー分担論がどのようにありうるのか、改めて考えたいと思う。
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by walk41 | 2014-04-23 12:35 | 身体 | Comments(0)

一緒に学ぶということ

このテーマに関わる第一報をいま準備中なので、詳細は書けないのだけれど、ドイツでとても興味深い学校教育の事例が見られる。

私の知る限り、これまで「一緒に学ぶ」「ともに学ぶ」とは、教室にいるメンバー全員を想定して語られてきたのではないだろうか。「盛り上がりのあるクラス」「みんなで高まる」といった言い方もこの類だろう。

これに対して、私が注目している学校教育の発想は、グループさらには個人を基本とする学習であり、必ずしもクラス全体とは考えない点で特徴的だ。たとえば同じ自然科学系の授業時間と言っても、それぞれの生徒が取り組んでいる課題は多岐にわたり、決して同じことではない。その課題に応じて個人で臨んだり、数人のグループで進めたりする。

また、何をしたかの記録を自分のノートに残し、自己評価あるいはフィードバックを促すことで、次に自分で何をするかを考えさせる点もユニークだと思う。私の勘違いだろうか、アンケートでよく尋ねられる「生徒による授業評価」は、「わかりやすい説明でしたか」「よく発言できましたか」といった教員や生徒の行為やその受け止めが主で、「どんなことを学びましたか」「次にどのようなことを学ぶことを考えますか」といった問いかけではないように思われるから。

ともあれ、「ともに学ぶ」や「学びの共同体」といった言葉が、断りなく学級全体を指していることがあるとすれば、それは怠惰な思考の表れである。「何となく」そう思い(価値観の投影)、「クラスをまとめる力が必要」と立論し(論理化)、この行為を求める(行動)という乱暴なことが生じるからだ。

クラスに一緒にいる、だけど全員が同じことをしている訳ではない。教員も全員に一斉に話しかけるようなことはほとんどない。そして各々の学習を保証するためにびっくりするほど静かな教室であることが規則として定められている。こんな学校の具体をもっと知りたいと思っているのだ。
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by walk41 | 2014-04-22 06:52 | ドイツのこと | Comments(0)

極めるつもりがあるの?

研究関係の集まりに出席した。

報告者からの発表を聴いたあとの議論の時間、ある年配の人の手が挙がった。その趣旨は、「こうした活動をなさってきて、その効果というか、結果についてはどのように見られていますか。それが示されなければならないのでは」。

思わず、「冗談言わんといて」、って声を上げそうになったわ。「本気でそんなことができると思って発言してるん?」って。

学校にとって不可欠だが、学校教育の理念や目標に従うとは限らない、百歩譲って協力的かどうかすらわからない、児童・生徒の存在を抜きに語れないのが、学校教育の特徴である。くわえて昨今は、「学び論」が文部科学省以下、喧伝され、児童・生徒の主体性が全面的に認められているのがトレンドだ。教員についても「学び続ける教師」と言われているのだから、その結果がどうなるかは彼らに委ねられていると見るのが論理的だろう。

よしんば、時代の思潮が「学び」偏重でなくとも、そもそも教育の結果を個人レベルでつかまえるなど無理な話である。教育を受けたことは何より、自分なりの再構成-納得、妥協、合理化を通じて内面化されるのであり、どのように教えたかが直截的に影響する訳ではない。ましてや、この報告での対象は学校教員である。彼らがいずれの意味でも、おしなべて「素直」でないことは明らかだろう。

こんなことは、何十年とこの分野の勉強をしてきた人間ならば踏まえておくべき点で、その歳になって何を言っているのかと呆れる。はたして、教育と学習の違いを理解していないのか、事実がどうであろうとも「べき論」を述べることが「研究者」らしいと勘違いしているのか、はたまた、何げなくお喋りをしたいだけなのか、いずれにせよ、嘆かわしいことに変わりはない。

自戒を込めて思う。問いに答えられるかどうかを見極める気概もなく、「ないものねだり」に自覚的であるかどうかすらもよくわからないような言動は、「教授」という肩書きの人間に似つかわしくないことを。より良い観察眼を持つための怒りも不満もなく、のんべんだらりと過ごしていることを露呈するなど、不細工なことは止めるべきということを。
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by walk41 | 2014-04-20 00:20 | 研究のこと | Comments(0)

保護者の所得と子どもの学業成績

よく知られているこの両者の相関について、私はP.ブルデューが生み出した「文化資本(cultural capital)」という言葉で説明してきたが、今回、http://toyokeizai.net/articles/-/35374?page=4 を読んで、それは、いささか擬似相関ではないかと思ったのだ。

つづめて言うと、「お金持ち」の家の子どもは「賢い」傾向にあるという事実をどう解釈するかである。お金持ちは参考書や学習塾、あるい家庭教師などを購入しやすい位置にいる。これに対してそうでない保護者の場合は…、という論理が示される。しかし、これはもっともな説明だろうか。

そのイメージは、可処分所得の多さ、人的ネットワークの強さ、情報収集とその活用力の高さなどであるが、上記のブログから学んだのは、どちらかと言えば固定的な側面ではなく、以下のようなことだ。

医師や弁護士ほか、専門職で高収入と見なされがちな仕事に就く保護者は、かつて得た知識や技能に留まらず、環境の変化にともなって新たな発想、情報、技術が求められることを知っており、しかもそれに応じた行動が取れる、つまりセルフマネジメントができる。

過去に獲得したことに安住するのではなく、学習棄却(unlearn)や脱構築(de-construction)を通じて、学び直しの機会を多く持ち、変わることを恐れない、常に自身を更新しようとする姿勢、態度、能力を持ち得ているということ、そして、こうした保護者の様子を陰に日向に見ている子どもが、「親の背中から」学び、自身のスタイルとして徐々に身につけていく、このように先のブログの記事を読んで教えられ、思わされたのだ。

さらに同記事は、教育費を子どもに対してではなく、保護者自身に投じるべきことを主張する。自身の能力を高め、長期的には社会的上昇を見込めるとともに、学ぶ姿を子どもに見せることによって子どもにも影響を及ぼしうる、一石二鳥だという。

「関心・意欲・態度」をどのように育てることができるのかはわからないけれど、この指向性の高さが生涯にわたる学習の基盤を築く、と捉えれば、子どもの周りにそのような人がたくさんいることは有益だろう。

つまり、自分と自分を取り巻く社会的・経済的・文化的な「遺産」で喰いつなごうとする姿勢とは反対の、驚き、喜び、怒りと世の中に対して新鮮なこと、過去に拘泥しない謙虚なこと、といった辺りがヒントかと思う。そんな人たちに囲まれて過ごしたい、また自分も是非そうありたいと願う。
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by walk41 | 2014-04-19 09:46 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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