学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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嬉しかったこと

九州で仕事、それが終わってから知人と合流する。とはいえ、夜も9時になろうとする時間からだ。

知り合って5年ほど、多くの話と酒を交わして来たが、その彼が何を思ったか、こう呟いた。

「(榊原と)話をしていると、安心できるんですよね」。その真意をまだ理解している訳ではないけれど、とても嬉しく聴いた。意味ある他者として、この時間を共に過ごせたことを有難く思った。
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by walk41 | 2014-05-31 09:05 | ことばのこと | Comments(0)

外からからも変えにくい学校

教育委員会や教育センターなどの機関が、学校の革新を促すべく、開設される講座への参加を教職員に求める。このほか、各学校に赴いて、関係者と話をする中で少しずつ改善や改革の気風を生み出そうという事業も行われている。

指導主事ほか当該の学校にとっての第三者が、「岡目八目」ゆえに見えるところを指摘し、また遠目ゆえに見間違えている指摘も受けながらと、互いにキャッチボールをして、その学校なりに変わっていく刺激たることが期待されているのだろう。

そこに、正しい見方そして正しい進め方なるものは存在しない。児童生徒の前という最前線にいるからこそ見えること、見えにくいことがあり、第三者と遠いからこその得手不得手もある。互いの強みを活かし、弱みを補う上で、フィールドとの距離が異なるメンバーで観察、解釈、議論する意味は大きいと思う。だから、第三者はいわば江戸末期にやってきた「黒船」であり、これを機に各学校で議論が起これば十分である。まちがっても、「ありがたいお言葉」を述べるような立場ではない。

このように踏まえれば、勢い第三者の立場はいささか上に位置づけられはするけれども(学校にとっては、もちろん、目の上のたんこぶ、鬱陶しいことだろう)、「現場を一番知る」立場として当事者が反論し、批判することが期待されて然るべきだろう。また、外部からの指摘を受けてまずは自身を振り返るだけでも効用を期待できる。多少の傷つけあいは覚悟の上、互いを鍛え、復元する力を高める機会とすれば良いと思う。

にもかかわらず、その学校で見た事実をいかがなものかと、第三者としてやんわり指摘するだけで、どこからかは知らないけれど、取り消せ、あるいは修正せよと声が上がりかねない。さらには、関係機関が自主規制からか掲載しないといったことも起こりうる。

こうした動きが生じるのは、指摘が的を射ているからなのか。ピント外れならば捨て置けばよいものを、なぜ一意見に過ぎないものにかくも拘るのだろう。そもそも、学校内では上がらないだろう声を第三者ゆえに指摘できることが、この類の事業の意義なのだから、耳に痛いのは望ましいことですらあるはずだ。決して正しい見方でもないのだから、参考意見として聞けばいい。むしろ、第三者のものの見方を批判し、自らの教育実践のもっともらしさを強調してほしいくらいである。

かくして、外部からの辛口の指摘は忌避、排除され、「学校はそれぞれに頑張っている」神話が生き延びる。学校は中からは変わらず、外からも変えることができない。学校改革、教職員の意識改革と、声高に叫ばれはするが、その程はなはだ心もとないのだ。自身を批判されたくない、あるところを批判すると思わぬところから横槍が入る、という保身が常に頭をもたげる。

嫌われてもやるという覚悟、この欠落がこうした事態をもたらしているのだと思う。私は徒労感、絶望感に襲われる。
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by walk41 | 2014-05-30 08:44 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

これまた伝わっていなかった

夕方から始まるゼミ、教室に行くと突っ伏している学生もいる。「どよーんとしてるね」と話しかけて、ふと気づいた。ゼミ生でもある留学生にこの意味が伝わっているかしら。

たずねると、ああやっぱり、わからないという。じゃあと、「とことん」「ぐっちゃぐちゃに」「ぽかーんと」などと続けると、やはりわからない。こちらでも、「なんと、伝わってなかったのかあ」である。

遠慮や恥ずかしさ、あるいは別の思惑から、わかっていないということを相手に伝えない場合がある。その結果、表向きは「わかっている」感じになる。ところが実際はそうではない。しかも、そうではないことに気づかずのままである。

昨今の学校では、言語能力やコミュニケーション能力の育成と喧しいが、それがどれほどなされているのか、そもそも伝わっているのか。さらには、いかにわかってもらっているのかを診断する術を、私たちはどれほど持っているのだろうか。

相手に伝わって初めてコミュニケーションは完了するために、発信側だけではそのいかんを判断しえない。こんなあやふやな中で、教育-学習という活動が行われている、自分の例でも改めて感じたことだ。
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by walk41 | 2014-05-30 07:26 | ことばのこと | Comments(0)

授業者は自分を捉えられない

大人数での授業が終わり、後かたづけをしていたら、学生がひとり、遠慮がちに声を掛けてきた。

失礼なことですが、と言う。留学生の一人だ。その言葉に内心驚きながら、どうしたのと尋ねると、「先生の関西弁、わかりません」と言われたのだ。え-、そんなにいっぱい方言を発していたかしらん。

緊張した空気を生み出さないように、敢えて方言を遣っていた節はあるけれど、さほど多用した覚えはない。けれども、本人はそれが理由でわからないと言うのだから、気をつけなければならない。ごめんなさいね。

授業者は自分を観察できない、だから、どのように授業について研究を進めるのが生産的か、という論文を先月末に書き上げたところだが、それを地で行くようなエピソードになった。

だからいっそう思う。授業をしながら自分を観察するなんて至難の技ということ、また、だからといって他の教員が授業を見に来たら、本来の授業に干渉してしまうこと、じゃあどうすればいいのかについて、互いに知恵を出し合おうよというメッセージが真っ当だろうことである。
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by walk41 | 2014-05-28 14:57 | ことばのこと | Comments(0)

選挙が終わる

この5月25日は、ドイツのバーデン-ヴュルテンベルク州にてヨーロッパ議会ほか、市町村ほかの地方選挙が行われた。今回分はまだ明らかではないようだが、ナチズムの反省に立ち「政治教育」(politische Erziehung)が長きにわたって進められてきた彼の地ではあるものの、投票率は70-50%台と決して高いとは言えない状況でもある。

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さて、私が18年前に1年間滞在した、Ludwigsburgという街でも市議会選挙がおこなわれた。下の写真は、新たに選挙されたメンバーを紹介する「緑の党」(Gruene)のページ。友人の一人が元気よく写っている。さらに5年間、眼張ってね。

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by walk41 | 2014-05-26 22:46 | ドイツのこと | Comments(0)

眼差しを変えることば

「義足、強い、美しい」(毎日新聞、20140522)を読んだ。

この記事では、パラリンピックに出場している義足の選手ほか、義足の方11名を撮影した「切断ヴィーナス」という写真集が紹介される。障碍者を手助けしてあげなければならない、と思っていた写真家が、義足で動く彼女たちの様子を見て「かっこいい」と、考え方が180度変わるほどの衝撃を受けてできた作品だという。

この記事を読んで思い出した。TED(Technology, Entertainment, Design)に登場したエイミー・マリンズのことだ。生まれて間もなく両足に義足をつけ、ずっと義足とともに暮らしてきた彼女は、12足の義足を持っている。

義足を着せ替えできる彼女は、背の高さも思い通りに変えられるので、ある日、長身用の義足を装着して友だちに会いに行った。いつもとは彼女の背の高さが違うことに気づいた友人が叫んだという。「エイミー、それはアンフェア(ずるい)」と。

「本来の」足を持たないことが可哀想だという眼差しが、そうでないからこそ、色々な足を楽しむことができる素晴らしいことだと、彼女を語ることばを通じて変わることが、とても興味深い。こうした言葉の変化、眼差しの変化が、義足であること、ひいては障碍を持つことが、反対により自由を持ちうることでもある、と人々の意識を変えていくだろう。

ある事実がそのまま「素晴らしい」や「可哀想」を決める訳ではない。その事実の価値づけが眼差しとそれに伴う行動を規定する。だから、これまでとは違う行動をするには、ある眼差しを支えている価値づけ、それを表現していることばを問いなおすること、こうした回り道とも思われる作業を通じて、少しずつ世の中が変わっていくのだろうなと思わされる。
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by walk41 | 2014-05-25 19:00 | ことばのこと | Comments(0)

昔は…

「マナー低下を嘆く」(毎日新聞、投書、20140519)を読んだ。

藤棚で有名な神社を訪れる見物客が、屋台などで買った食べ物のガラをその辺に散らかして帰ったあとを、地元の中学生がボランティアで集めていた姿を見た投稿主、こう曰く。「昔から行楽地では持ち込んだゴミは、持ち帰るようにしつけられてきたが、境内にはゴミ箱が設置されているのに捨てに行こうともしない人が少なからずいるのはショックだった」。私と同い年の人が、こんなに貧しい発想をするなんて…。

私のいつものトーンなので、聞き飽きた方もおられるだろうが、繰り返したい。こうした言い方がさも何かを語っているかのように、まずは書き手自身が勘違いし、そして読み手も勘違いする-この問題が繰り返されることは、法則的なようにすら思われる。人間は変わらない面も強いなあって。

「昔から」とはどれくらい前のことを言うのだろう。たとえば、50年前は「昔」かもしれないが、50年遡れば「今」である。その50年前からさらに50年前、100年前を指せば「昔」だが、今から見れば両方とも「昔」になる。あるいは、明治時代後期、進取の西洋志向を「ハイカラ(high collar)」と呼んだが、今や死語になってしまった。私が大学に入った1980年代初め、若者は理解不能な「新人類」と呼ばれた。同時期、「ニュー社会党」がアピールされたが、そのあと党自体がなくなってしまった。

かつての「新」は今や「昔」であり、今の「新」もやがて「昔」になる。だから、「昔から」「昔は」と言おうとする時点で、「何となく」しか語っていないなあと気づかなければならない。なのに、こんな乱暴なことを脳天気に書いてしまいかねない癖を人は持っている、ということを知っておくこと、「そういう傾向がある」と学ぶこと、「これが答えだ」ではない学び方の一つとして、知る必要があると思う。
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by walk41 | 2014-05-24 10:35 | ことばのこと | Comments(0)

相乗される振る舞い

食事後、教員に言われる訳でもなく、食器を片づけていく生徒たちの様子から、主に学校外で習慣的に獲得された振る舞いが見られることをお伝えした。そうした言動が学校の外だけで規定されているものでもないなあと思わされる。

全員分の食事が揃うまで、食べ始めるのを待つ、一緒にいただきますをする、食べ終わったらお喋りをしながら他の人が終わるのを待つ、そしてお皿やお椀を重ねて、片付けやすいようにする、さらには全体でごちそうさまをした後も、テーブルを立つ時に手を合わせる。

こうした学校外から持ち込まれる彼らの振る舞いが、同調圧力と合いまって学校内で相乗され、個々を強化しているだろうことを感じる。この点で、学校の教育力とは、学校の方向に親和的な価値観と行動をゼロから作り上げるのではなく、素地とも言うべき既に獲得しているものに基づき「集団の教育力」を通じて高める、強めるのだろうと。

だから、この素地のある児童や生徒に向かう場合とそうでない場合とでは、雲泥の違いがあり、たとえば教員の授業力や指導力なるものではおよそ太刀打ちできないのではないか、とも感じさせられる。そこを何とかするのがプロというものでしょうと返ってくるだろうが、「先取り」されている状態をどれほどまで巻き返せるのか、疑問なしとしない。

生徒たちを見ていて、そんなことを考えさせられる。
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by walk41 | 2014-05-23 12:02 | 身体 | Comments(0)

委ねられる環境づくりを

消える明かり、「すき家」、バイト反乱で営業不能(日経ビジネスSELECT, 20140520)を興味深く読んだ。

一店舗に店員一人のみ、会計、掃除、接客、洗い物、仕込みまでを一人でこなさなければならない「ワンオペレーション」が5割程度の店舗で行われている同グループでは、労働のハードさ、強盗に襲われる危険などから、バイト単価が決して低くはないのに人が集まらず、営業停止に追い込まれているという。

こうした最前線の問題を経営陣は必ずしも把握しておらず、客を呼び込みための鍋定食がさらに業務量を増やし、結局は短時間営業、営業停止にも至っているとのこと。経営陣とて「精神論でやれ」とまでは思っていなかっただろうに(思っていたのかしらん)、こうした業務不信、イメージダウンは大きな痛手だろう。

翻って学校、特に小学校と高校に挟まれる中学校は、義務教育の一方で生徒からの不満が起こりやすく、かつ進路ははっきりせず、また生徒が学校外から背負ってくるあれこれに苛まれやすい、業務量が増えがちな構造になっている。もちろん、学校事情によるが、変化しやすい多様な情報や状況が押し寄せ、短い時間で判断、行動しなければならない点はおおよそ共通するだろう。

先の「ワンオペレーション」のような状況が常態化しているのが中学校でもあるとすると、その職場が人気を失う危険はいつも隣り合わせである。若手教員の離職などこれに関連しているかも知れず、「わいせつ」などの社会的逸脱との関係も検討する必要があるだろう。とはいえ、幸いなことにまだ教職は人気のある仕事の一つと思われるし、何よりも生徒の様子、そして保護者から信頼が教職員のやりがいを大きく支えているゆえに、続けられる点が大きいように思う。

学校行政関係者や学校運営に携わる者は、これら「やりがい」に依拠するだけでない、「健康な働き方」により心を砕くこと、物理的、客観的な条件を通じて彼らをおおまかに方向づけることが、大きな責務になるだろう。

この点で、かつて喧伝された「学びからの逃走」などといったピント外れの言葉遊びに興じている場合ではない。思慮、検討すべきは、教職員が「学校からの逃走」となりかねない状況が、比較的簡単に生み出されうるという学校の組織特性とそれを踏まえた議論である。
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by walk41 | 2014-05-22 10:04 | 身体 | Comments(0)

想像力

沖縄のひめゆり平和祈念資料館を訪れた。以前にも来たことがあるが、また感じるものがあった。

沖縄戦の最終局面、陸軍司令官牛島中将は次のように「解散命令」を出したという。「…軍司令官の指揮困難と成れり爾後各部隊は各極地に於ける生存せる上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と。

自らは自決を決めながら、残る者には死ぬまで戦えという無茶振り、しかも兵士だけでなく動員された市民をも事実上、拘束した当時、その命令がどんな更なる悲劇をもたらすかは、火をみるより明らかだったはずである。にもかかわらず、後は野となれ山となれと、他者を死に追いやった「軍人精神」に眩暈を覚える。

馬鹿げた命令にテンデンコと逃げた出した場合もあっただろうが、素直にこれに従おうとした人もいただろう。前者とて逃げるところはなく、後者とて、もはや戦いようもなかったのだから、いずれにせよ悲劇以外にはありえなかったのだけれど。

想像力の重要性は「見えにくい」社会科学ではよく引かれるところだが、自分がいなくなるからといって世の中がなくなる訳ではない。先を見通すことは決して容易ではないけれど、イマジネーションを膨らませようとすること、ひいてはわかろうとすること、こうした態度と能力を持つことも、一つの誠実さではないか、と自戒を込めて思う。
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by walk41 | 2014-05-21 18:46 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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