学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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公教育に「契約」を

過日、幼稚園教諭の免許状に関わる研修があった。一日で90分の授業を5コマ、受講者のみなさん、大変お疲れさまでした。

授業は公教育の経営について。公教育といっても、私の場合はそのほとんどは学校教育についてだが[看板に偽りあり](^^;)。そのマクロ、メゾ、ミクロの各点に即して問いを立てて、受講者に投げかけること。たとえば、学校設置者の立場から、保護者の立場から、そして子どもの立場から、といったようにである。

この中でも多くの話が出たのは、保護者との対応についてだった。受講者の多くはすでに教育関係職に就かれている方々だったが、いわゆる「モンスター両親」の問題を含めて、「どこにでもあるのだなあ」とエピソードの聴けたことが興味深かった。

子どもの数の、乱暴にいってほぼ2倍の保護者がいるとすれば、広義の学校関係機関の抱える負荷はいかほどかと想像する。それぞれの保護者の思想信条や行為規範が子どもの数以上にあると考えれば、それらへの対応を求められる学校が相当の負荷を求められることは明らかだろう。

この大きな負荷、あるいは問題は、学校という場での権限と責任が極めてあやふやなことが災いしていると思う。たとえば、ハンバーガーショップに行って、他の客について文句を言う客が珍しいのに対して、学校では、教職員の対応に留まらず、生徒同士のトラブルまでも問題の範疇に含まれがちだから。

学校生活というように、学校が児童生徒をほぼ全面的に受け止める格好で向かわざるを得ないというのが、基本的に問題を複雑にしていると思う。公教育である学校とて、限りのあるスタッフほか資源で経営されている場である。「いつでも、どこでも、だれでも」対応出来るわけではない。なのに、夜も8時に近いのに、「~先生はおられますか」と電話が入り、すでに帰宅していたならば別の職員が「すみません」と詫びるような状況も、決して珍しくはない。

そこで思うのは、形式に過ぎると言われるだろうが、学校と保護者、そして児童生徒の間で書面の「契約」を交わすことだ。学校はこれこれに懸命に臨み、保護者はこれを支えるべく協力や支援を行い、そして児童生徒は両者の期待に応えるように日々を励むというように。

学校教育の「成功」は、教職員だけでは望むべくもない、ということを当たり前の理解として、当事者に協力と頑張りを求めること、こうした緊張と均衡の構図なしでは、学校教育がうまくいくはずがない、という「常識」を置くこと。学校問題の第一歩は、この点で大きな「勘違い」がままあると認めることから始まるというべきだろう。
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by walk41 | 2014-06-30 21:52 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

テクニックではなくてスキル

いつきさんからコメントを頂戴した。ありがとうございます。

>ちなみに、わたしは自分がつくったプリントも生徒にあわせて微調整します。というか、そうしないと使えないんですよね。

という行を興味深く読んだ。自作のプリントですら、生徒に合わせて微妙に変えられるという辺り、いつものPDCA論批判に加えて、教育技術あるいは方法について議論できると思う。

相手に相当に規定される「出たとこ勝負」が授業や生徒指導の特徴であること、このために教育しようとする側だけで計画を立てたり、それに即して実施したり、はたまた評価するという想定がいかに的外れかは、重ねて明らかだろう。

これに加えておもしろいと思うのは、自分なりに考えて用意した教材ですら、生徒の様子や彼らの状況を踏まえて調整される必要があるほどに、「オン・デマンド」なこと、つまり臨機応変さが重要だということだ。この点で、教育の方法というか技術といった代物は、主体や客体あるいは当事者を離れては存在しない。「この場合は…」という但し書きが常に伴うということである。

これが、教育にはテクニックではなく、スキルあるいは技という言葉がより適っていることだろう。テクニックは主体を離れて存在するが、スキルはそれなりに主体に内在化されており、「その人ならでは」の部分がどうしても残るのだ。アートはよりその趣が強い。芸術はコピーできず、その人だからこその度合いがもっとも強いのである。

このように考えると、教員の専門性が「誰にでもできる」ような話に帰結するものではおよそないこと、だからこそ、しなやかで柔軟な主体であることができるような自身とその環境のマネジメントが重要なことを導ける。

管理者には口惜しいことだが、「いつでも、どこでも、だれでも」できる云々という話に学校教育は合致しないこと、そして、いかに短時間での診断や見立てを通じた意思決定の能力を高めるかが問われていることを知るべきなのだ。もちろん、教員それぞれも同様である。
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by walk41 | 2014-06-28 21:38 | 身体 | Comments(1)

思い込み

東京に五日間滞在した、山口県に住む73歳の男性が怒っている。「東京でマナーの悪さに驚く」(毎日新聞、投書、20140626)である。

曰く、シルバーシートに脚を組んで座る男性の靴が、立っている自分の脚に当たった。車内は携帯電話の画面に釘付けな人ばかりで、周りにまったくに無関心だと。「回りに関心を持とう」という、先んじる投書に同意するものだが、こんな風に書くなんておいたわしや、と嘆くべき一文である。

この御仁に限らず、思い込むと人は一部にしか目を向けなくなるし、また目を向けても解釈は異なってくるなあと思わされる。他にも見るべき事実はあるだろうし、また見たとしても違う理解のしようもあるだろうに、である。

たとえば、ほぼ運行ダイヤ通りに電車が動いているということは、無理な駆け込み乗車や列車運行妨害などがないことを示している。「しょうがない、次の電車にしよ」と他者を気遣った行動をとっているがゆえでもある。また、車内で他者に関心を持ってキョロキョロするようなことは相手に失礼だと、敢えて視線を合わせないことがマナー、思いやりでもある。小さい子を連れた親はいないか、席を替わってやれる人はいないかと目を光らせて、親切の押し売りなど、無粋なことはしないのがお洒落なのだ。

こうした他の事実や別の解釈のあることを、おそらく想像だにせず、自分があらかじめ持つ結論に合いそうな事実を少し並べて、さもありなんとわかったような物言いをする、加齢に伴って避けられないものかもしれないが、まさしく「老害」だろう。

この反対を指すのが円熟ならば、熟せるように自身を鍛えられるように心がけたい。ともすればいつでも暴走しかねない自身の認識といかに付き合うか、永遠の課題だと思う。
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by walk41 | 2014-06-27 09:15 | 身体 | Comments(0)

テストの目的・内容・方法

むらいさんから、多くのコメントをもらった。ありがとうございます。

その中でも、とりわけ興味深かったのは、教育内容と定期考査などのテストとの関係について。これまでも指摘されたことではあるけれど、この両者は意外に接合、整合していない可能性があるということ。

たとえば、ドイツの学校修了試験の一つが、330分といった日本から見ればとんでもなく長い時間で取り組むものであることは、このテーマを深める上でとても興味深い。なぜなら、試験時間の長さは試験内容の多さ、深さに関わるからだ。

ここ数日、多くの中学校では、1学期の期末試験が行われているだろうけれど、私の知る限り、授業時間に合わせた試験時間を設定している場合が多いのではないかと思う。つまり、教育課程の形式を延長上したものとして、定期試験が位置づけられている。教育内容に即して試験内容、試験時間が決められているわけではない。たとえば、週あたりの授業時数が違っているのに試験時間は同じといったことだ。

テストの時間がテスト内容の大枠を決めると考えれば、その内容は、一学期の半分くらいの被教育内容(学習内容?)の到達を確かめるには、どの位の時間が必要かと考えるべきでもあろう。にもかかわらず、勢い、学校の時間割上の規定が優位するとすれば、はたして、日頃の授業の結果として生徒の「学力」定着をいかに測ることができるのだろうか、と疑問が生じる。

「学校の教育力」とはどういうこと?、テストの方法(形式、時間、内容など)と普段の授業との関係を問うこと、これらは案外、かけ離れてはいない? こんなところからも、学校のもっともらしさを考え直すきっかけを得られるように思う。
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by walk41 | 2014-06-25 22:20 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教員の養成

他大学に務められている、かなり年長の教授と話す機会を得た。

関西でも雨後の竹の子のように(失礼!)新興の教員養成関係学部が誕生し、「えっ、あの人があそこに」というような採用人事が行われてもいる。そうした大学関係の方から、「一回生から教員採用試験の勉強をさせていますよ」と聞いたので、「はなはだ失礼ですが、そうして『いい教員』が育てられるでしょうか」とたずねると、「駄目でしょうね」とあっさりと返ってきたので、拍子抜けするほどに驚いたことだった。

為政者や行政官は、自身の「存命」期間の長さを知ってか知らずか、最短コースを志向する。つまり、「ムリ、ムラ、ムダ」を避けて、直線的に行為と結果が結びつくように論理をつくる。「~すれば、~になる」といったようにである。

しかし、子どもの成長・発達はそうした当事者の思惑や駆け引きとかなり独立しているので、実のところ、紆余曲折する。ある「成功話」を聞いたからといってそれに肯定的になる訳ではなく、逆もまた然りだからだ。

巨大な公共事業でもある学校教育が、官僚制のもと、説明責任や情報公開、評価といったキーワードに囲まれていては、非直線的な発想の入る余地は少ない。「そんな悠長なことを」との誹りを免れないからだ。そのため、投入した資源に対する効果(費用対効果)、目標管理といった言葉が支配的になりがちである。

しかしながら、その一方、学校教育が、教職員よりも先まで生きる児童・生徒の「幸せ」を問題にするという基本的性格を外せない点で、残念ながら、直線的な発想に基づく論理は現実に対する高い説明力を持ち得ない。

教員を育てるということも、以上のことにまったく重なる。「よりよい」教員を措定することが難しく、また自身が変態する可能性をも考えると、少なくとも養成(教職に就く前の段階である)のあり方を狭めて考えるのは、得策ではないと。

いずれの議論であれ、「どうなるかわからない」と「分からなさ」を強調するだけではいけないけれど、かといって「わかったようなことを言う」訳にもいかない。だから私は言うのだ。「~すべきだ」という語りがいかに無責任かを知って、できるだけ禁句にすること、その替わりに、どこまでの事実を「~である」と説明できるかに心を砕くこと、もって、残される余地こそが教育実践の領域だろうと。
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by walk41 | 2014-06-25 01:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

歯が取れました

ねこフリークのみなさん、こんにちは。梅雨模様が続きますが、いかがお過ごしですか。

けさ、ねこの歯が転がっているのを発見、誰のや、とねこの口を順番に開けて見ていくと、きなこの右上の牙だとわかりました。取れちゃったのね。

この仔はこの夏で16歳、人間に換算する80歳近くでしょうか。元気に過ごしていますが、歯周病のためでしょうね、歯そのものはどうもないようですが、抜けてしまいました。

これからは、楽しみのためだけでなく、栄養をちゃんと摂れるように、缶詰ほか柔らかい餌もやっていかなければいけないと思います。知らないうちに少しずつ、物事が移り変わっているなあと改めて思わされたことです。

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by walk41 | 2014-06-22 11:57 | ねこのこと | Comments(0)

研究発表会ではなく、学習発表会なのだ。

気づくというのは、こういうことかもしれない。気づいてしまえば、「なんや、そう考えたらええのんや」である。

研究発表会に向けての打ち合わせ会を覗く。ごめんなさいね、こんな言い方をして。しかしながら、まったく消耗する。だって、結局のところ、児童生徒に何かに取り組ませること、その大方が、手はず、準備と分担、スケジュールの話だったように思えたから。大学の専用用語だと主張するつもはないけれど、違和感を否めないのだ。「これって、どこが研究なん?」って。

大上段に構える気はないのだけれど、研究とは何か新しいことを見つけることである。その結果として、新たな見方や作品が生まれる。ところが、教育あるいは学校教育の世界は、どうもこれに馴染まない。なぜなら、環境をなかなか制御できず(正しさを担保するために繰り返してみることが叶わない)、また当事者が自己言及的であり(教員がそう言ったからこうなったのか、そう教員に言わしめる様子を先に生徒が示したからなのか、を区別できない)、さらに観測や測定にも馴染まない(授業や生徒指導の測定機の話は微塵も出ない)から、新しいことを少なくとも実践と言われる領域で見つけるのは、困難を極めるのである。再現性を求める研究ならば、なお一層、ほとんど無理な話と言ってよい。

なのに、研究主題、研究仮説、研究授業、研究報告書と、誰が言い出したのか知らないけれど、研究という言葉のオンパレードだから、とっても不細工なことになる。

これまでどれだけのことが分かっているのかと、先行研究の渉猟をすることもなく、独立性の高い変数間の関係を追求するわけでもなく、「あんたら、こんな調子やったら研究発表会に間に合わへんで」と子どもがやらされている授業を見せて、仮説の検証などと銘打っているのに、さっぱりそんな話にならず、まあほとんどの人が読まない報告書作りが続く、といった具合なのだから。

「ウチではこんなことに取り組んできました。この背景や経緯は別記のとおり」と述べたら、あとは教員と児童生徒の様子を見てちょうだい、それをどう受け止めるかは見た人それぞれに任せます。このように場を設定するのがもっとも相応しいと思う、つまり、(教育)学習発表会なのだ。

そこには、仮説も、検証も、一般化も要らない。自分たちはこう考えて、生徒たちとこんな風に取り組んだというケースの話である。その意味や意義は学習発表会を見た人に委ねられる。この方向に大きく舵を切るという提案、学校関係の皆さんはどのように聞いてくださるだろうか。
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by walk41 | 2014-06-21 00:25 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

実証してほしい

ポッピーママさんからコメントを頂戴した。

>やたらまじめにPDCAサイクルの自己評価やら授業評価やら学級経営評価やらを打ち出してくるので、

とのこと。

時間と気持ちの余裕の乏しい、公教育の最前線ではなかなか難しいだろうが、児童・生徒に対する言語活動やコミュニケーション能力の育成と唱えるのであれば、教員において論理的な力量は不可欠と、以下に臨んでいただきたい。

つまり、
①学校教育が各学校という単位で実証できるものなのか、そうではないのか、をまず選んでほしい。
②つぎに、実証できるというならば、どのようなデータをもとに、上のような論理が妥当性を持ち得ているのか否かを吟味、精査してほしい。たとえば、PDCAそれぞれの局面をいかに捉えることができるのか、得られたデータはどのようなものなのか、と。
③その結果、それぞれの学校でPDCAサイクルなるものはいかに回るのか、評価が次の実践にどのように活きるのか、の見立て、そして見極めを踏まえて、この論理の妥当性を評価してほしい。

こうした作業を経て、上の諸論を採用すべきかどうかの判断基準を得ることができる。もう何年も似たようなことを主張しているのだから、そろそろ評価を受けてもよいだろう。

これらの手順を踏んで、「~すべきだ」という論理(なぜか、学校関係者の間では「理論」とも言われる。そんな再現性の高いものは人文・社会系の事実には見出せないのだけれど)を評価できる。その結果、学校で生じる事実を説明する上で不適切な論理だと評価されれば、退場しなければならない。

以上のような、提案、実験、精査、評価を経ることなく、つまり説明されることなく、「~だから、~なのだ」と説教を繰り返すのは、ドグマ、宗教である。鰯の頭も信心から、で結構だが、それは公の世界に持ち込まれるべきではない。個人の趣味に留まる類である。

子どもに科学的思考の育成をとか、自ら判断する力の獲得をと述べるのであれば、塊より始めよと、自戒を込めて強調したい。論理的に思考できている訳ではない教員の、教育委員会の、そして「研究者」(望むらくは私が含まれませんように)の学力問題、本当にやっかいな状況だと思うから。
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by walk41 | 2014-06-20 00:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

人は幸せになるために生きるのか

NHK、朝の6時台に放送される「世界のニュース、ザッピング」、フランスからのニュースは、バカロレア(大学入学資格国家試験)の問題の紹介だった。

バカロレアでは哲学が必修となっており、今年度の問題の一つは、「人は幸せになるために生きるのか」だったという。この問題に、受験生は4時間をかけて取り組んだとのこと。

想像するに、日本でこんな問題を出せば、「正解」の客観性がない、採点者によって得点がばらつく、そもそも4時間もこれに当てることができない、と大騒ぎになること間違いなし。なんたって、試験、とくに入試は、「平等・公平」でなければいけない国だからね。

こんな試験のお陰でフランス人には哲学が息づいているとは早計に過ぎるかも知れないけれど、一つの理屈ではあると思う。憲法9条があるのに「集団的自衛権は成立する」なんてごり押しもたいがいにしいや、という政権が跋扈するような国と比べるとね。

大学までは「正解」主義で我慢するから、大学に入ったら、わからないことを大いに楽しもうではないの。そもそも、大学ってそんな場じゃなかったっけ。
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by walk41 | 2014-06-18 20:24 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

いくら良いプリントをもらっても

大学院での授業、拙論「校内研究における『仮説-検証』問題」(2013)をレポートしてもらう。

授業をどれほどの精度で捉えることができるのか。その観察のあまりに原始的な様を踏まえるに、「だいたいそんな感じ」を越えるものとはおよそなりえないこと、だからこそ、学校教育は仮説-検証にまったく馴染まない世界であることを確かめた上で、議論を始める必要があるという趣旨は、学生たちに了解されたように思う。こちらの勢いに気圧されて、反論できなかったのかもしれないけれど(^^;)

こんな授業中、現職教員の一人が次の趣旨の発言をしたことが、とても印象に残った。「いくら良い出来映えだなあってプリントをもらっても、他者の作ったものはどうしても使いにくい。こういうのがあるんやって、参考にはなるんですけどね」。

私としては我が意を得たりという言葉。なぜって、授業が授業者の(そして児童生徒の)人格を離れては成立しないこと、テクノロジーやマシンとして行為の主体を離れて作動するものではなく、スキルやテクニックとして主体と相まって発揮されるものであることを示していると思われるから。

重ねて思う。教育-学習という行為や出来事は、そこでの当事者を離れては存在しないこと、この教員や児童生徒だからこそのものとならざるをえないこと、これは一回性の強いもので、およそ再現性を期待できないこと、だからこそ、主体やその回りの環境に関わりなく、「~すれば、~になるだろう」という文法を適用させようとすることがそもそも無理なこと、そして、これらの特徴を踏まえて、教育や学習について研究するとは、を考えなければいけないと導ける。

教育基本法第一条にも謳われているではないか。「教育は、人格の完成を目指し、…」と。その人ならではの経験や了解を前提にする教育に、汎用性や一般性があるはずという、ボタンの掛け違いが今に至る不幸の源であると認めること、そんな自省からしか、次の局面を展望することはできない。だから、一番求められているのは、ちょっとした勇気。でも、これがなかなか難しいんだね。
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by walk41 | 2014-06-17 20:47 | 授業のこと | Comments(2)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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