学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2014年 07月 ( 17 )   > この月の画像一覧

予想外

森田果『実証分析入門』(日本評論社、2014)に、面白い研究が紹介されている。離婚法制の変化は離婚率に影響を与えるか、というものである。

同書では、離婚条件の緩和が離婚率の上昇をもたらすと発表した研究について、分析の仕方が妥当でなかったために生まれた知見と記されているのだが、今のところの結論としては、離婚条件の緩和は、婚姻の継続に向けた努力を人々に促すことになり、却って離婚率が低下するのだとか。制度の予期が実際とは異なることを示す好例だと思う。

学校教育でも同じようなことが起こるのではないだろうか。「こうすれば、こうなるのでは?」と児童生徒に働きかけても、彼らそれぞれの受け止めや思惑が働くから、必ずしも順接する訳ではない。

喜ぶだろうと褒めたら、馬鹿にするなと不機嫌になった、ひとりぼっちでは寂しいだろうと仲間に入れてあげてと声をかけたら、先生に贔屓されているのかお前はといじめの理由になった、文化祭の発表を子どもたちの自主性に任せたら、何も進まずとんでもないことになった、と「どうしたら良かったんだろう」と反芻するのがおおよその常だろう。働きかける対象(客体)は主体でもあるのだから、片方のつもりだけが貫徹すると考えることが、どだい無理な話なのだ。

にもかかわらず、教育しようとする側の発想や願いが届くはずという、何気ない素朴な発想が支配すると、「予想した通りにならなければいけない」という倒錯が起こる。「あんたら、こんな調子やったら、研究発表会に間に合わへんで」と、公然たるヤラセ授業(見世物授業)も生まれるのである。

「こうなったらいいな、でもどうなるかな」くらいのつもりで臨まなければ、子どもたちに迷惑だし、また教員自身をも苦しめる。「議論をしていても無意味、実践しなければ」と思う教員がいるだろうから、その実践を支えている発想と論理を疑うことこそが新しい実践を生み出すために不可欠であり、だからこそ悩み、考え、議論するために大学が存在する。「机上の有論」が大切だと私が主張するのは、こうした訳である。
[PR]
by walk41 | 2014-07-31 08:45 | 身体 | Comments(0)

口頭/口答でのテストを

大学の前期授業が終わった。残すは試験期間のみ、教育学の領域で紙媒体を通じた試験をすることに違和感を拭えない私は、この20数年間、試験をしたことがなく、大人数授業はいつもレポートである。最終回の授業で学生の元に返す。

この一方、演習や少人数の授業の場合は、口頭の試験をすることが多い。予め大まかな問いを示しておき、それに即して答えるもの、あるいは授業や自身のありように対する評価を求めるものと分かれるが、いずれにせよ、授業者と受講者学生に対して数分間の報告を求めるのだ。

過日もそうした機会があり、緊張した面持ちの学生もいたが、おしなべて落ち着いて話し、授業者としては彼らの声を然るべき時間、聴くことで思うことが少なからずあった。「そんなところまで考えてるんやなあ」「なるほど、おもしろい指摘や」「もう少し自分の言葉が出てこないかなあ」と、それぞれに特徴があり、興味深い。

紙媒体による試験は、客観性や維持性が高いために重宝されるのだろうが、他面、口頭試験のような「間合い」を含めた他者とのやりとりがないので、(カンニングを含みうる)「丸暗記」の表出に過ぎなかったり、何よりも、当該の科目や領域を学んだことの「喜び」に乏しい、という問題があるように思う。

もちろん、入試や入社試験などは、選別することが目的なのだから紙媒体でもよいが、学校での試験はとりあえず絶対評価にできるし、学ぶべき領域への意欲や関心を高めることが課題でもあるのだから、形式的に問いがちなこの方法を第一義に考えるのは、怠慢とも言うべきではないだろうか。

そこで問われるのは、「そんな時間のかかることをいつやるの?」ということ、先日みせてもらったドイツの中等学校では、他の生徒がそれぞれ勉強する中、教員が個別に10分弱の口頭試験を行っていた。つまり、授業中にこれをやるのだ。

その是非は改めて考えなければいけないけれど、「テストってこんなもの」と思いがちな教員そして生徒たちをブラッシュアップする効果も、学校改革と見なすならば、何事もやってみるという姿勢は大切かと思う。「忙しい」と嘆いてばかりおらず、どうすれば変わるかと実践してみること、子ども達に「自ら進んで」と求めるのであれば、教員自身がそうなければならないのは自明だろう。
[PR]
by walk41 | 2014-07-30 06:45 | 授業のこと | Comments(0)

子ども/子ども

文部科学省が2013年、省内の文書では「子供」と統一して表記することとした、と報じられていたことを知らなかった。

http://www.j-cast.com/2013/09/01182664.html?p=all

学生の頃から、子供は、供え物、添え物というイメージが強いために、子どもと表記するのだと聞かされ、すっかりこれに馴染んできた。

ところが、子供は熟語であり、子ども、あるいは、こどもはおかしいという指摘を受けると、なるほどそうなのかとも思わされなくはない。自分が親しんでいるがゆえに、子供と書いてあるのをみると指摘したくなる、という構図なのかもしれない。

「障害」を「障がい」と書いても仕方がないだろうと言う一方(もっとも、障碍と書けばよいとも同時に述べているけれど)、「子ども」でなければだめ、「子ども」と書かなければというのは、いささか矛盾しているのではないか、と自分のことを顧みさせられた次第だ。

ちょうどこの週末まで、学生にレポート読みに浸っていたとはお伝えしたところだが、何人かが「子供」と書いていた点に、矢印を引っ張って「ども?」と赤ペンを入れたところだったので。「子供」という表記の何が問題なのか、差別的だとしても、表記を変えることで(音は変えないままに)「意識」を変えることができるのか、考えてみたい。
[PR]
by walk41 | 2014-07-28 09:22 | ことばのこと | Comments(0)

呼び捨ては止めよう

この週末は、別の授業のレポート読みに費やしています。おしなべて頑張って提出されたレポート、こちらもそれなりに応えなければと「老体に鞭打って」読んでいるところです。ふう。

設問の後半は、学生の自己評価に相当します。どのように彼らが授業を受け止め、現段階で咀嚼、評価しているかという、授業者にとっては他にも増して興味のある部分、そんな中に、次のような趣旨の一文がありました。我が意を得たりと、我田引水をしますね。

「この講義では教師になる上では当然すぎて見過ごしがちなことや、教育に関する新しい視点を学ぶことができた。その中でも、児童・生徒の呼び方については一番考えさせられた。…『なんか下の名前で呼ばれるの、いややわあ』と漏らしていた友人も実際にいたので、教員の主観的な考えで教室内の不安要素を増やすよりも、『〜さん』に統一したほうがよいというのにも納得できた」

どうでしょうか。大学生も数年遡れば、中学生や高校生の時期、彼らからの教育評価が今になって聞こえるとも言えるのではないでしょうか。

だから、学校での行為の基準の最大公約数として、私は主張するのです。相手が嫌がるかもしれない呼び捨ては止めようと。ぜひ皆さんと議論したいテーマの一つです。
[PR]
by walk41 | 2014-07-26 17:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

それぞれの教員の流儀

夏休みが始まったということは、各地の教育センターの研修がいよいよ書き入れ時に入ったことでもある。忙しいながらも子どもたちは夏休みだが、多くの教員にとっては研修のスタートの感なきにしもあらずだろう。

そんなことで出かけた研修先で、「かくも、教員それぞれのやり方があるのだなあ」と思わされたエピソードに接した。話の発端は、「見えにくい」学校教育ではそれぞれの辞書が作られやすく、誤解や勘違いも生まれやすい。これまでに経験した、学校での勘違いにはどのようなものがありますか、という問いだった。

ある男性教員が話してくれた。その学校では毎年、学級担任が替わるそうだが、新しい年度に入って体育の時間、運動場で児童を待つも来ない。どうしたのかと教室をのぞきに行くと、子どもたちが待っていたという。聞くと、前の担任は、体育の時間、教室で待たせて、そこから整列して運動場まで行くというやり方だったからだそうだ。

ほらね、こんなにも自分のやり方、流儀が台頭しやすい職場で、「学校教育目標実現のために、職員が一丸となって取り組むように、リーダーシップが発揮されるべき」なんて能書きを垂れても、何の意味も無いってことがわかるでしょう。学校はそんな風に動かないし、それは教員の意識改革でどうこうなるものでもないもの。

勘違い、見て見ぬ振り、前例踏襲、いずれも批判されるべきことだろうが、にもかかわらず、そのようになりがちなのが学校だという事実(それはある意味で合理的な結果でもある)から議論を始めるべきだろう。「私がそうすべきと言っているのに、そうならないのは職員の力量不足のためだ」なんてピンと外れのことをいう輩をさっさと外して。
[PR]
by walk41 | 2014-07-25 18:20 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

嬉しかったこと

150名を超える授業、何時間かかったかしら、出されたレポートを斜め読みして、コメントを数行書いて、「見ました」ネコスタンプを押した。そして、きょうはレポートの返却と若干の講評、そして大学による授業評価。終えてほっとする。

厳しい成績となった君もいたが、全体として非常に良い出来映え、大学で学び始めて間もない頃としては十分な達成と、授業者としては満足している。

そんな気持ちもあったのか、「これで終わります。ありがとう」と言ってから手を打ったら、初めは少しずつ、徐々に大きく、学生たちの拍手がしばらく続いたので、驚いた。笑顔で拍手をしてくれる姿が、とても嬉しかった。

まあまあの授業ができたかな、って思わされた瞬間だった。
[PR]
by walk41 | 2014-07-24 13:01 | 授業のこと | Comments(0)

なれなれしさ

めったに行かないのだが、久しぶりに患者として病院に行った。

診察を待っている間、壁を見ると「感謝状」とあるので、何だろうと読んでみると、患者に名前確認に協力してもらっていることへの感謝を院長名で記しているではないか。今どきの患者目線に立った取り組みやなあと見ていたら、看護師が問診票の挟まれたバインダーを私に手渡しながら、声をかけて来た。

「これまで、診てもらったことある?」「今日はなんで来たのかな」「熱はある?」と言葉を継いだので、一呼吸置いてこう答えた。「あなたと私の関係って、何でしたか?」すると、何かに気づいたのか、看護師は名乗り、「この問診票を書いてもらえますか」と口調を改めて返した次第だ。

確かに、砕けた口調がラポール形成に寄与することもあるだろう。しかしながら、相手がそれを受け入れるつもりができていないのに、こう迫られては不愉快極まりない。

と同時にこうも気づかされた。自分が学生に接するとき、ぞんざいな態度を示してはいないだろうか。相手から声が聞こえてこないゆえに、知らないことが少なからずあるにではないだろうか、と。
[PR]
by walk41 | 2014-07-23 14:26 | ことばのこと | Comments(0)

段落づくりを忘れないで

ここしばらく、学生のレポート読みに文字通り明け暮れている。二つの授業に出されたレポートは、およそ250本、斜め読みだが(学生のみんな、ごめんね)、最後に三行ほどのコメントも書くので、時間はかかる。

そんなレポートの中で、毎年のことなのだが気にかかることがある。それは、改行がなく、段落が構成されない、つまりは接続詞の遣い方が鋭くないものが、決して少なくないということだ。

小学校の時に、最初の一文字は下に(横書きの時は一マス右へ)と書き始める、改行をする時は適切な接続詞を用いる、と教えられて来ただろうに、それが見事なまでに剥がれ落ちてしまうのはなぜだろう。

何よりも不思議なのは、中学校、高校とそれなりの文章を書いて来ているはずなのに、この間、6年間、誰からも指摘されなかったのだろうかということである。いくらケータイメール文化が席巻しているとはいえ、国語のほか、社会、あるいは英語などで日本語のレポートを作る機会はあっただろうに、添削はなかったのだろうか。あるいは、にもかかわらず生徒が改まらなかったということか。わからない。

懸命にレポートを書いているから余計にそう思う。A4サイズで1枚、ときにそれ以上、改行なしで読むことは事実上ムリと知ること、段落は、レポートの構造を示すものと心得ること、自身の推敲上もわざわざ難しい作業にしていること、とってももったいないことだから。
[PR]
by walk41 | 2014-07-22 13:26 | ことばのこと | Comments(0)

乱暴な言葉

全国に1万校ほどあるから、いろいろな中学校のあることはわかる。だけれど、生徒に対する乱暴な言葉遣いがなされていないと、胸を張れる学校はどれほどあるだろうか。

およそ、ここでは書けないような罵詈雑言を発する生徒指導担当教員、あるいは落ち着いた物言いながらも、そのまま文字にしたら怖いやろうという教員の言葉遣い、生徒の人権をちゃんと尊重していると言えるだろうか。

私の研究者仲間であり、同時に思春期の子どもを持つ保護者の立場から、複数聞く。もっと子どもの状況を踏まえてほしい、杓子定規にいかないことを前提に話してほしいと。

話せばそれなりにわかる年齢、けれど大人の言葉には追いつかない、こんなエアポケットとも言うべきところが中学校あたりと考えれば、教員の甘えがこの時期に集中する可能性も考えようと。教育に関わる者、奢らず焦らず、ゆっくりと臨めればと願う。
[PR]
by walk41 | 2014-07-21 00:02 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

架電

世に多くの言葉があり、そのほとんどを未だ自分が知らないということは、何となく分かっています。とはいえ、一般紙の記事を読んでいて、意味がわからないという経験はあまりありません。そんな中、この言葉を知りませんでした。

…「素晴らしい社会貢献」とすぐさま架電、「協力できることがあれば…」(日経、20140719、「更正へ導く職の道標」)

ネットで引くと、電話をかけること、とある。電報を打つのが打電であるのに対して、電話は架ける、なるほど。ローマ字変換でも「架電」と出てきますね。

優等生ぶるつもりはないのだけれど、日々まさに勉強です。
[PR]
by walk41 | 2014-07-20 08:30 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
地毛は大切?
at 2017-08-21 10:30
「言い切れる正しさ」
at 2017-08-21 09:34
「子どもらしさ」と感情の表出
at 2017-08-19 16:13
人一倍
at 2017-08-18 12:45
Platoon
at 2017-08-16 23:25
〜しか〜ない
at 2017-08-15 19:34
7月4日に生まれて
at 2017-08-14 22:54
耐えられる能力
at 2017-08-13 16:29
negative capab..
at 2017-08-13 12:45
悲しいとき〜
at 2017-08-12 13:43
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧