学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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手作りとマニュアル

民放、がっちりマンディ、今回はご飯処、大戸屋を取り上げる。

新鮮さの溢れる食事が提供できるのは、それぞれの店でキャベツ、ナスを切り、さらに豆腐もそこで作っているからこそ、と紹介された。どこかのセンターで一斉に加工して各店に送れば、手間暇を省けるが、それでは店の「売り」がなくなる、という考えからだとか。そして、この仕組みを支えるのが、盛りつけの仕方まで明示された事細かなマニュアルだ。料理には素人の番組ADさんが臨んだが、それなりの格好に料理が仕上がった。すごい。

登壇した同社長が話す。「手作りだからこそ、マニュアルが大切」と。なるほど、手作り→それぞれのやり方でなされがち→これに対応するために、精緻なマニュアルが必要、という論理なのだ。恥ずかしながら、二つ目の矢印のことは、考えてこなかったなあ。

①同じようなものを提供する→集中管理、②手作りのものを提供する→最前線でバラバラ、という認識に、自分が留まっていたことを知らされた。この先を考えれば、①では、だから最前線ではマニュアルは(あまり)要らない、とも展開できるし、②では、だから、最前線に即したマニュアルが必要、とも話を続けられる。

かくして、自分の怠慢さに気づかされた番組だった。反省しきりである。さて、この考え方は学校経営にいかに活かすことができるだろうか。「児童生徒はさまざまだから、手作りのそれぞれに留まざるをえない」という考え方の先を辿ることはできるだろうか。
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by walk41 | 2014-08-31 16:39 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教育の目標と目的

いささか幼い議論だが、仕方がない。いわゆる学力テストの結果が公表され、分析と議論が一部では熱心になされているが、さっぱり腑に落ちないので。

「理解」の問題であろうが、「活用」の問題であろうが、いずれも問題を解けることそのものは、教育の目的ではない。現下の教育の目的は、第三次産業、つまり非物質生産労働である対人サービス労働に主として就く人々を育成することなので、コミュニケーション力というように、捕まえようのない、特定できない能力を求める。

ところが、それだけでは話が進まないので、その能力を投影していると見なせる問題を設定して、これがどれほど解けるかを調べようとする。これが、教育の目標だ。とはいっても、目的により近づく教育になっているかどうかを推定するのは容易でないために、目標そのものが自己目的化する。教育目的のいわば近似値として教育目標が置かれているにもかかわらず、たとえば「エンプロイアビリティ(employability)」を高めることに繋がっているかどうかはよくわからないから、教育目標が目的かのように姿を表すことになるのだ。

かくして、学力テストでの得点が一人歩きして、とくに、なぜそんな話になるのかさっぱりわからないのだが、平均を上回ったかどうかが注目される。自分の県が平均を上回れば、平均以下の県が代わりに一つ入るだけということがなぜわからないのだろうか。

第一次産業や第二次産業とは大きく異なって、第三次産業は、環境の変化が著しく「これを知っておけば良い」を措定することが難しい領域だ。だからこそ、教育の目標と目的が乖離しやすく、目標を実現することが目的だと勘違いされる。両者のズレは否めないのだけれど、だからこそ、学力テストで高いスコアを得ることが、たとえば民主的な態度や能力と果たして繋がっているのか、平和的にことを進める上での意欲や姿勢とどう関わっているのか、といったことが吟味されるべきだろう。
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by walk41 | 2014-08-30 16:55 | ことばのこと | Comments(0)

既読スルー

LiNE 上で送られたメッセージに対して、読んだことが明らかだが、これに対して返信しないさまを、既読スルー、あるいは既読無視と称するらしい。

元々は、家族などの親密な関係上、メッセージに対する返事のいかんにかかわらず、まずは安心な状態かどうかを知る術として実装された機能だという。それが、LINE仲間が広がる中、当初の思惑とは異なる機能を果たすことになっているようだ。

読んだが敢えて返事をしないというコミュニケーションとして、あるいは、返事をしないという思いやりとして、はたまた、返事をしなければいけないというLINE疲れに至るまで、この仕掛けが利用者、なかでもヘビーユーザーと見なせる中高生に与える影響は大きいとされる。

だから、なおさら思う。「若者におけるコミュニケーション能力の低下」なんて、お喋りはいったい誰が言い出したことなのだろうか、と。彼らのコミュニケーション能力は群を抜いており、その細やかさ、注意力、表現の仕方のいずれも、相当に高度なものである。メッセージに応えない、沈黙するという非言語のコミュニケーションも駆使しながら、多くの関係者と実に長時間つきあっているのだから。

かくも、現代若者論や教育論といった類の話は、眉唾を幾層にも付けるのが大切なこと、にもかかわらず、「わかったようなこと」を言いたがる大人、とりわけ評論家、ときに「研究者」がいることを踏まえるべきと教えられる。SNSを駆使する彼らのどこがコミュニケーション能力不足なのか、そんな愚論が彼らに相手にされていないという点から、自分たちのコミュニケーション能力が低いことに気づくこと、話はそれからだろう。
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by walk41 | 2014-08-28 22:21 | ことばのこと | Comments(0)

こういう人もいるかもしれないけれど

17歳少女に売春させた疑い、小学教諭を逮捕(読売新聞、2014年8月26日、一部改変)

 愛知県警は26日、少女に売春をさせたなどとして名古屋市立小学校教諭(24)を児童福祉法、売春防止法違反などの容疑で逮捕した。発表によると、同容疑者は、インターネットのサイトで知り合った愛知県内の無職少女(17)が18歳未満と知りながら、名古屋市中区の路上で自営業男性(36)に引き合わせ、同区のホテルで売春させるなどした疑い。同容疑者は「間違いない」と容疑を認めているという。名古屋市教育委員会によると、同容疑者は昨年4月に採用され、現在は5年生を担任。市教委は「事実とすれば、許せない行為で大変遺憾。事実を確認し、厳正に対処したい」としている。
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教員の健康のあり方として「わいせつ」問題をこれまで取り上げたことがあるけれど、今回のようなケースは含まれていない。論文で扱ったのは、自身が類する行為を行う範囲についてであり、他者にさせる行為は想定していなかったからだ。

日本の学校教員は約100万人、弁護士はもちろん、警察官、自衛官、医師の数を大幅に上回り、看護師と並ぶほどの大きな職業規模である。だから、こうしたことに関わる人もありうるとは思うけれど、残念さも否めない。「何か変やなって、引っかかるものがなかったんかな」って。

教員だから、マスメディアにことさらに注目されているとの指摘もできるけれど、自身の感性のようなものを確かめられることが大切なんだろうな、と思わされる。それがまさに健康的な証とすれば、健康であること→感性がまっとうなこと→健康であるからこそ、と、論理的にトートロジー(同義反復)、「鶏と卵」のどちらが先に来るのかはわからなくなってしまい、「わからない」から抜け出せなくなる。どうしたら健康的に働けるのか。

あれこれの課題や山のように押し寄せる文書作成で、多忙感や焦燥感で「疲れている」のかしら。自分ではどうしようもないこともあるだろうけれど、段取りほかやり方で対応できる部分も少なからずと、私は思っているのだけれど。

メールに早く返事するなどすぐに対応を決めること、整理する(捨てる)こと、いたずらに紙を増やさないこと、終わりを決めて仕事をすること-できるところからやるだけでも、使える時間、かかる負荷、自分の気持ちと変わってくるように思うのだけれどなあ。学校では難しいのかしらん。
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by walk41 | 2014-08-26 17:24 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

心ふるえること

広島土砂災害:殺処分寸前だった救助犬「夢之丞」1人発見 (毎日新聞 2014年8月25日)

 広島市北部で起きた土砂災害の捜索現場では、多くの災害救助犬が活躍している。かつて捨て犬だった雑種の「夢之丞(ゆめのすけ)」(雄、3歳)もその一匹。殺処分寸前だったところをNPOスタッフに引き取られ、訓練を重ねてきた。初めての災害現場となった今回は、20日に押し潰された家屋から1人の遺体を見つけた。奇跡的に命を助けられた犬が人命救助を担っている。
 多数の死者、行方不明者が出た安佐南区八木地区で20日、ぬかるんだ地面の臭いを嗅ぎながら、夢之丞が勢いよく駆けていった。倒木に押し潰された民家のそばで立ち止まると、訴えかけるような表情でハンドラー(操作者)をじっと見つめた。「ここに人がいるかもしれない」。捜索隊が確認すると、中から男性の遺体が見つかった。
 2010年11月、生後3〜4カ月だった夢之丞は、広島県動物愛護センター(同県三原市)のガス室前にぽつんと置かれたケージの中でおびえていた。ガス室が満杯になり、殺処分が延期されたところだった。偶然センターを訪れていた、国外の紛争や災害の人道支援をしているNPO「ピースウィンズ・ジャパン」(PWJ)のスタッフ、大西純子さんが腕に抱いた。すると自分の番が来たと直感したのか、小さな体が約30分間小刻みに震え続けたという。
 NPOスタッフは他にも数匹の子犬を引き取っていたが、夢之丞だけは人間を避けるように部屋の隅でじっと過ごすことが続いた。だが、スタッフが食事や睡眠を共にするなど心のケアをしながら訓練を始めると、徐々に打ち解けていった。訓練でも好奇心や粘り強さを発揮するようになり、昨冬には、雪山で行方不明者を捜索する訓練もクリアした。
 大西さんによると、初出動を終えた夢之丞は使命感に満ちあふれた表情に変わったという。被災地では今も、行方不明者が救出を待ち続けている。大西さんは「一刻も早く見つけてあげたい。命の大切さを知る夢之丞がその力になれれば」と話している。今回の災害では、23日までの4日間で延べ約80匹の救助犬が活動しているという。【宮嶋梓帆】
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ねこ好きを大いに自称するけれど、犬も好きです。16歳まで頑張ったハスキー交じりの雑種の仔と過ごしたことがあるから。

人間の我が儘なことはわかっているつもり。なぜ、犬やねこ、ウサギやインコ、馬くらいまでは「コンパニオン・アニマル」なのに、牛や豚、鶏はたいていの場合違うのかという、手前勝手な線引きに対する批判はわかる。その通りだろう。

でも、その上でなお、ねこや犬が身近にいてくれる動物として、人間にとって有り難いことも認めなければならないと思う。どれほどの長さ、彼らと人間が一緒にいたかは知らないが、それなりの長きにわたるからこそ、今もなお大切にされるほどに、人類の経験値が蓄積されていると実感するから。

この夏の各地における甚大な被害と救助の陰に、こうした犬たちの活躍もあることを心に刻みたい。
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by walk41 | 2014-08-25 22:12 | 身体 | Comments(0)

議論に堪えない言葉

「中学校に警察、賛否」(毎日新聞、20140820)を読む。

教師の胸ぐらをつかむなどの暴行が中学生に相次いでおり、学校が警察を呼び、逮捕に至ったケースが今年ですでに5件あるという。

これに対して、「識者」と紹介される評論家の尾木氏がこう語っている。「生徒の評価権という絶対的権限を持つ教師が、さらに警察権力を使うのは安易ではないか。学校の自殺行為でとんでもない話だ。背景には教師の力量不足があり、他生徒への『見せしめ』もあるのだろう。心の琴線に触れるような指導をせずに、生徒が更正するとは思えない」。

彼の言葉を借りれば、こういう語りそのものが「とんでもない話だ」。少ない文字数でまとめられるほどの内容しかないにもかかわらず、まず現状認識に問題があり、また矛盾をはらんでいても、悩むことがないというのは、一つの「才能」ではないかとすら思えてくる。だから、マスコミに重宝されるのだろう。以下、解読しよう。

①生徒の評価権が絶対的であれば、やんちゃな生徒といえども、教師の胸ぐらをつかむはずがない。つまり、絶対的な権限などないと(少なくとも生徒には)見なされている、と捉えるのが事実をより説明する。また、権限と権威を混ぜて話をする辺りも、問題をうまくつかまえることができない同氏を例示している。

②学校の自殺行為とは、教えるべきことが教えられていない状況(教師の胸ぐらをつかむなど、してはいけないよと教育しなければならないのに、の意)を指してだろうが、警察という権力を例に、「君たち、大人に逆らうと痛い目に遭うよ」と教えることになる、すぐれて教育的な話と見ることもできる。これは、教員の説明だけでは伝わりにくいから、教具・教材を用いる、デジタル教科書を使う、外部講師の話を聴く、と類似する。教員たちが自分たちだけでは対応できないと判断すれば、警察を呼ぶのは一つの方略である。何が問題なのだろうか。

③なんの根拠も示さずに「教師の力量不足」と言ってのける厚顔無恥さ。自分だけでは関係が決まらないという、対人関係の相互性を踏まえれば、学校という場が「聖性」を帯びていなければならないという、社会的な圧力が弱まっていることを指摘はできても(「モンスター保護者など)、教員の力量うんぬんを論じることは無理な話である。そもそも、力量が低下しているといったその尻から、「心の琴線に触れるような指導を」と言うのだから、無茶苦茶である。そういう指導ができなから、警察に頼っていると見るのが事実に対して整合的なのにもかかわらず。

ましてや、「昔の学校」ですら、「昭和3年(1928).3.6 富山県高岡市の県立高岡中学校で、5年生(満17歳前後)数人が卒業式の直後に教員室に押し入り、校長と教師1人を殴った。日頃から校長に素行を注意されていたのを怨み、卒業証書を持ったまま復讐したもの。卒業式の来賓が大勢いた前での犯行。3.9には高岡中学校卒業生数人が登校の教師1人を待ち伏せて殴ったが、教師は逆に殴り返して重傷を負わせて中学校に逃げ込んだ。」(少年犯罪データベース、戦前の少年犯罪、http://kangaeru.s59.xrea.com/senzen.htm)のあったことを知ると、教師の胸ぐらをつかむことがどれほどの問題なのかとすら思われてくる。

かくもいい加減なお喋りを、まちがっても「ご高説」と勘違いしないように。一見、勢いのある発言は注目されがちだが、丁寧に分析することで見えてくることがある。メディアリテラシーの問題でもあるだろうが、何となく鵜呑みにしない力をいっそう得るべき、と学ぶことができる。
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by walk41 | 2014-08-21 20:20 | ことばのこと | Comments(0)

もやもや

学校事務職員への研修があった。学校で扱う教育、さらには学習の曖昧さ、不安定さと、同時に官僚組織でもある学校に求められる正確さ、手堅さの両方を理解できる境界(インターフェイス)として学校事務職は位置づいているのではないか、と提案するのが、私の基調だ。

研修の終わり、グルーブごとに一日を振り返ってもらうと、「もやもやした気持ちになった」と声が上がり、学生たちへの授業と同じ感想を聞けたことを嬉しく思った。

スッキリと反対のモヤモヤは、どっち付かずで、威勢には欠けるが、丁寧に観察してこの結果に至るのならば仕方がない。どっちかに与して、こうだと断言しても、現実が追いついて行かないのだから。これまで、たとえば、「組織として客観的な現状分析と数値目標を含む計画の策定、予定に即した実施と点検、修正、評価が肝要である」と声高に叫んでも、実際にまずこうはならないのだから。

モヤモヤは確かに座りが悪い、落ち着かない。これに耐えられる力が思考体力であり、安易に思考を放棄してしまわない我慢強さ、慎重さが求められる。これに耐えられない者が、我慢できずに、また投げ出す格好で、一見わかったようなことを言うのである。わからないことに向き合える強さを自分のものにしたいと思う。
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by walk41 | 2014-08-18 18:01 | ことばのこと | Comments(0)

学校のハレとケ

集中講義をしながら思わされる。学校の活動を、その9割近くを占める授業という「ケ」(地味な日常)と1割少しほどの行事という「ハレ」(派手な非日常)に分けてみると、後者については、PDCAサイクルや目標管理といった発想に馴染む余地があるのではないか、と。

たとえば、運動会や修学旅行、行われる日は決まっているし、行われるべき内容もそれなりに客観的だ。いつ頃から準備を始めればいいかも見当はつけられるし、終わりもほぼわかる。「ケ」の時間に戻らなければならないから。また、一人だけで行事はできず、それぞれが全体の一部を分業、そして協業しなければ成立しない。つまり、捉えるべき事実の範囲がある程度まで明確だから、議論も行いやすい、という特徴を帯びる。

これに対して、「ケ」の代表格である授業は…と続くのだが、この「ハレ」に注目した学校の組織論や運営論は、完成品をほぼ前提にしている多くの業態に似せて議論できるように思う。もちろん、これが当てはめられないだろう圧倒的な時間や場が学校にはあることを一方に見据えながらではあるけれど。
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by walk41 | 2014-08-16 12:44 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

Robin Williams氏を悼む

俳優のRobin Williams氏が亡くなったと報じられた。とても残念に思う。

彼の出演した映画を何本か見たが、中でも、「いまを生きる (Dead Poets Society)」(1989)、「パッチ・アダムス (Patch Adams)(1998)、は印象に深い。

前者はエリート男子校の教員に赴任した彼が、後輩でもある生徒たちに、学校批判を通じて世の中に目を向けさせる物語であり、後者は、実在の人物もいるが、精神的疾患に罹った自身が笑いを通じて人が癒やされる素晴らしさに気づき、笑いを取り入れた医学を志す物語である。いずれも、常識に囚われない革新的な人間を演じており、大きな勇気をもらったことを覚えている。

その彼が病んでいたとも報じられているが、自身で命を絶ってしまったことが残念で仕方がない。長い人生には、健康なときもそうでない時もあるけれど、映画を通じて届けてくれたメッセージのように生きてほしかったとも思う。

彼に励まされた一人として黙祷を捧げる。お疲れさまでした。そしてありがとうございました。
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by walk41 | 2014-08-14 13:17 | 映画・ドラマ | Comments(0)

嬉しかったこと

教員免許更新講習が始まって、何年が経ったことだろうか。おそらく、政治家も文部科学省も、教育委員会も学校もそして教員も止めることを望んでいるだろうに、なぜかなくならない不思議な制度である。しかしながら、個人的にはたまには大学に来てもらって、毛色の違う話に触れてもらうのも一興だろうと思い、講習を担当している。

今年あたりから、知り合いを受講者名簿に見つけるようになった。彼らは、五十代半ば近く、四十代半ば近く、三十代半ば近くの教員だ。その中に、大学時代とてもお世話になった人がいた。

もう30年以上も前、大学に入学間もない頃から、何かと気にかけてもらい、大いに助けてもらった人である。そのお陰で、大学生活での良い「離陸」ができた、恩人でもある。卒業してからはほとんど会うことがなく、私が京都に帰ってからある会で少し話すことがあったが、それは大学以来、四半世紀以上が経ってからだった。

講習での私の担当は、150分間。終わって片付けをしていたら、その人がやってきて、「おもしろかった」と一言。「他の大学でも受講して、それなりに工夫してはっても、時々はくらっと眠気に襲われたけれど、まったくそんなことがなかったわ。とてもおもしろかった」と話してくれた。

この言葉に接して、とても嬉しく思った。元気なだけで論理はおぼつかず、他者の気持ちも忖度できず、乱暴だった当時の自分(いまでも多分にそうである)に、大学にはこんな先輩がいるんやと思わせてくれたその人から、褒め言葉をもらったことに対して。これで少しは恩返しができたかな、と感じたのだ。
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by walk41 | 2014-08-12 16:12 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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