学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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校内研究を支えるものは?

校内研究の在り方に関する研究会に出る。学校種の違い、これまでの学校ごとの経緯など、それぞれに校内研究が行われていることがわかり、とても勉強になる。この点は確かだ。

それと同時にこうも思う。教員みなさんの実感として、あくまでもケーススタディ、この子どもだから、このクラスだから、あるいは、自分との関わりだから、こんなふうになったのではないかとわかっている。また、授業で起こっていることは多分に自分の解釈に留まる、と承知してなお、授業研究をするエネルギーの源は何なのだろうか、と。さらには、原理的には自己言及して、行為ー結果の関係を説明できない、自身の発言、そして児童の声や様子を、ICレコーダやビデオレコーダを駆使までして記録を取り、また文字起こしまでする動機は何なのだろうか、と。

授業は一回きりの出来事であり、日々変わっていく子ども、そして教員自身の関わりとして、偶然のものである。もちろん、机や椅子のあるなし、生徒一人ずつの教科書の有無、あるいは教員の学校歴の長さが、授業の成否に影響することは考えられるから、どんな教室や教員でもいいとは言えないけれど、授業研究として操作できる範疇に、学校改変のようなことは含まれないから、そもそも議論の対象にならないのだ。

授業時間を短く、あるいは長くしてみる、男女別に授業をする、板書やプリントなしで授業をする、といった冒険ができないのなら、試みられることはしれている。ちょっとしたこと、発問の工夫、資料の提示の仕方のアクセントの付け方、「一人学び」の時間の確保、グループワークの導入、生徒の活動を促す、といった類だろう。

大胆な授業改変が、学校教育政策や行政の判断を待たざるを得ないのであれば、残される授業研究とは、創意工夫の域を出るものではないだろう。これはどんな点で研究なのだろうか。そして、それにおしなべて懸命な教員のエトスとは?





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by walk41 | 2014-09-30 18:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

取組

以前から疑問に思っていた。

どうして教育委員会経験者の文章に、「取組」とあるのだろうかと。それが今回の会議で氷解したのだ。

お役所関係の文章の適切な表記として、「取組」であるべきこと、「取り組み」や「とり組み」ではいけないという説明があったから。

ひやあ、参ったなあ。ただですら、音読みと訓読み、書き下しと複数のモードとそれに伴う遣い分けがある言語で、そこまで統一的であることを求めるか、って。

ちなみにgoogleで検索すると、「取組」で挙がるのは、約488万件、「取り組み」は約4700万件。後者は前者のおよそ9倍である。なるほど、「取り組み」が普通に見えても、おかしいことではないだろう。

なのに、正しい表記と強調して、何を整えようというのか、普段の言葉遣いとは必ずしも合わない用法を求めて、いたずらに拘るなど、いったい何のためなの? 「取り組み」と「取組」の違いがわからないとでも? 報告者あるいは閲覧者をずいぶんと軽く見た話だね。

ただでも忙しい学校関係の最前線、いかに労力を減らすかに心を砕くこと、それこそ、雇用側の責務でもある、労働環境の保全というべきである。なのに、ああ、こうして貴重な時間が浪費されていく。
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by walk41 | 2014-09-29 21:07 | ことばのこと | Comments(0)

「誤用」というのは誤り

「どうする国語力 学校手探り」(日経、20140925)を読んだ。

敬語などを適切に遣えない子どもたちの様子に、文部科学省などが国語力の低下に危機感を抱いているという。

同様の意見をこれまで述べてきたけれど、こうした見方は二つの点で妥当でない。その一、変わることが言葉の特性なのだから、言葉が変わらずにいてこそ、というのは「ないものねだり」ということ。文化庁の調査では、「煮詰まる」や「天地無用」を例に、正しい用法となっていない場合の多いことを挙げているが、古くは「こんにちは」が、「今日はご機嫌いかが」をつづめた言い方として成立したことを考えれば、「正しい言葉遣い」が結構あやしいことに気づける。

なかでも戦後に爆発的に増えたカタカナ語に至っては、はたして何が正しいのか皆目見当がつかない。いまは「ナイトゲーム」と称される夜間の試合も、私が子どもだった頃は「ナイター」が市民権を得ていたし、恋人や夫婦を指す「カップル」は今風だが、かつては「アベック」(フランス語のavec, 何と英語でwith に相当する前置詞である)と言われた。言葉とのつきあいは、実に大らか(いい加減)である。

この点でその二。正しく言葉が遣えないのが、なにげに子どもたちと想定されがちだが、これも妥当ではない。というのも、同日の毎日新聞記事では、電子レンジで加熱することを「チンする」という表現がいずれの世代でも9割前後で定着していると報じられているが、これは電子レンジの擬音語だから、この機械に緣のない世代には「チンする」など宇宙人の言葉だろう(もとより、外国人にも伝わらない)。つまり。かつての人々にとって、今いる人々は「正しく」言葉を伝えておらず、これは子どもに限らないということだ。「近頃の若者は…」と誰が好むのか、この言い方は、多分に教育問題化させる。こう言った方が、潤う業界があるのだろう。

かくも、言葉の用法については、話題に事欠かないが、言葉は変わるものと知りつつ、変わることに対して抵抗感を示すという、私たちの矛盾した信条をいかに捉えるか、その分析を興味深く思う。
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by walk41 | 2014-09-28 21:44 | ことばのこと | Comments(0)

ベルギー

齢を重ねるほどに、自分が知らないことの多さに愕然とさせられますが、そんなことが今回もありました。

ベルギーという国、個人的には電車で通過しただけですが、ドイツとも国境を接しており、多少は知っていても不思議ではないはず。なのに、ベルギーの公用語は何だと思いますか、と生徒から問われて、ちゃんと応えられませんでした。フランス語、オランダ語、ドイツ語の三つが公用語、首都ブリュッセルは、フランス語とオランダ語の二言語制ということです。恥ずかしいなあ、何となく、ベルギー語があるように思っていたので。

外国で長く暮らした生徒が、父母の故郷で住み始めるというケースは、日本でも珍しくありません。そんな経験をした生徒たちがどんなことを感じ、考えているのか、スピーチ発表会に参加して、知らされたことの一つでした。国際化、グローバル化と声高ですが、ならば、こうした生徒がより気持ち良く過ごすことができる学校づくりに励むことも、その主張者の責務と思うのです。
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by walk41 | 2014-09-27 23:22 | Comments(0)

いつの間にか

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近所のお寺です。ちょっと苦手だなあという人もいる、あの匂いがしたので、下を見て上を眺めたら、イチョウの木から銀杏が落ちていたのです。

ご丁寧にも、持ち帰り用の袋まで置いてくださっています。好物の方もおられるでしょう。残暑とも言いますが、次第に秋が深まっているのですね。




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by walk41 | 2014-09-26 09:44 | Comments(0)

朝礼は楽しくないもの?

学校の種類にもよるのかもしれないが、ときどき行われる朝礼って、どうして重苦しい空気が漂っているのかな。

緊張感を持って学校生活に臨むべきことを示すもの、という説明はある意味でもっともだし、これがなければ学校が成り立たないとも言える。けれど、それだけでなく、ワクワクするとか、面白そうという感触を得ることも大切じゃないかな、って思う。

朝一番の時間をどのように過ごすことが、良いスタートになるか。昔、朝礼で君が代を聞くと気持ちが萎えると、投書だったかで言った自衛官がいたけれど、その場の雰囲気やムードは大事だよね。

真面目とクソ真面目、ふざけと悪ふざけ、両者の線引きは難しいけれど、多少はこの間を往き来できるたくましさやしなやかさを持った人になってほしいな、と生徒たちを目の前に思う。



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by walk41 | 2014-09-24 21:45 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

システム

過日、ある研究発表を聞いた。教職員人事に関するものだったが、そこで再三再四、人事管理システムと出てきたので、改めて引いてみると、文科省の用語にこの言い方がある。これに、いわば素朴に乗って話してはったのだ。

人により辞書は違うから、大上段に振りかざすつもりはないけれど、システムというのは、蓋然性に左右されにくい仕組みだと最大公約数にできるのであれば、人事管理がこれにかなっていると考える時点で、制度の設計としては失敗だろう。

教職員、とくに児童生徒と最前線で出会う教員の職務は、子どもという蓋然性に影響されやすく、また彼らに影響されるように仕事を進めなければならないという関係の元に置かれている。生徒の発言に頷いたり、演出的に異論を挟んだりと、彼らと相互作用を伴いながら、「いい授業」ができるのだから。

かくも、どだい無理なものにシステムという言葉を与えた途端、そのように作動しなければならないという観念が台頭する。そして、そのようにはならない、つまり「出たとこ勝負」でもある事実を「問題」として批判、指弾し、想定しているようにならなければならないと、説教がのたまわれる。意識改革が必要だと叫ばれるのだ。まったくもって、迷惑な話である。

この頃、こんなことばかり書いているけれど、何となく滑り込んで、あたかも自然かのように現れる教育に関する言葉を疑ってみる意義はここにある。そもそも、無茶いうてへん? って。罪なことをしたらあかんで。
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by walk41 | 2014-09-23 11:13 | ことばのこと | Comments(0)

漢字の覚え方

小学校2年生の授業を見に行く。まだまだかわいい子どもたちだ(この子たちが、なぜ中学生、高校生になると「憎たらしく」にもなるのだろうか。自分もそうだったのだけれど(^^))。

授業は、漢字を組み合わせて別の漢字を作ることができるという段。山と石で岩、日と月で明など。

そこで感じたことは二つ、その一つは、「一」と「二」で「三」、「木」と「林」で「森」を見つけた児童がいたこと。すごいなあ。漢字で代数をやっているやん。

もう一つは、すでに習った漢字をばらして捉えることは意外に難しいのだなあということ。「野」は知っているのに、これを「里」と「予」に分けることはできない。「予」はまだ知らない漢字なのだ。

すでに書くことができているのに一つの漢字として知らないということのあること、文字の認識のあり方としてとてもおもしろく思う。これを敷衍すれば、すでに知っていることなのに、知らないでいるつもりのあることが想像できる。「知らない」のは、実は「知っている」ことに含まれている場合もあるということ。

「知る」とは、新しい知識を吸収することだけでなく、すでに知っていることの組み合わせを変えることで姿が現れることでもある、と確かめたのだった。
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by walk41 | 2014-09-22 14:19 | 身体 | Comments(0)

「まずは、やってみよう」

久しぶりに学会の例会に参加、学ぶ点が少なからず、行って良かった。

なかでも興味深く聴いたのは、高校で5年間、新たな取り組みに臨んだ校長の振り返りだった。前年度踏襲、これまで通り、新たなことはしない、校長の言うことにはなんでも反対、という学校の雰囲気が支配的な中、生徒のため、保護者のため、良かれと思ったことは、校長の職務命令という「伝家の宝刀」も時に抜きながら、進めてきたことが伝わる報告だった。

このように書くと、一人突っ走った人のようにも伝わるが、私の見るところバランス感覚にも優れておられ、何が良いかわかっている訳でもないのですが、と説明に断りが入る。丁寧に考え、行動されているのだなあと思わされる。

「まずは、やってみようよ」と声をかけ、その結果、今ひとつと判断すれば止めても構わない、というスタンスを強調されていたのも、清々しかった。必ず上手くいく、とは言えないのが人間とその社会の理だから、実験精神で挑戦してみようというのは、まったく合理的だと思う。「やってマズかったら」という不安もあるだろうが、やらないことのマズさも合わせて考えるべきだろう。もちろん、思料することは、とても大切だけれど。

新たなことは、面倒くさい、と思ってしまいにくい、心と身体のあり方についても考えさせられた。栄養、運動、休息、そして自分との上手な付き合い方についてーまさに、毎日が課題である。
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by walk41 | 2014-09-20 17:44 | 身体 | Comments(0)

知らないことばかり

中学校の管理職と話す。ある学級で生徒や保護者に対応するケースが多いのではという話から、そもそもどのようにクラス替えと学級担任が決まっているのだろうか、と尋ねたのだ。

学校によって一様ではないだろうが、そこでは学年で話をして、学級担任に応じて生徒を割り振りしている面がなくはない、つまり、どのクラスもある意味で均一あるいは同様ではなく、「偏り」を否めない、ということだった。なるほど、あんまり考えたことのないテーマやったなあ。学校経営を看板に仕事をしているはずなのに知らない。恥ずかしいことである。

思うに、もちろん担任にも生徒の得手不得手や相性もあるだろうから、こうしたことがまったく考慮されなくても構わないとはいわないけれど、だからと言って、はなはだ乱暴な言い方をすれば「花一匁」と「あの子がほしい」に近いようなことが行われてもまずいだろう。クラス間の「偏り」があると、教科担任制をとる中学校の場合、クラスによって授業の進み具合や雰囲気が異なり、教科担当の教員が困ることも考えられるからだ。教員によって生徒が反応を変えることは日常茶飯である。学級担任にとっての快適さが第一義に来られてもなあ。

学級担任はどのように決まるのか、クラス替えはどのように行われているのか、その原則や実際はどのようか。漏れ聞こえるに、学年の「自律性」が発揮されて学校全体、あるいは個々の生徒のことが二の次、三の次になる場合もあるようだ。たとえば、校長のリーダーシップと唱えられても、それが叶わない現実もあることを(リーダーシップを発揮すべきだ、とばかり説教をしていないで)踏まえなければならない。

学校全体とか生徒のためとは、どういうことかわからないけれど、広く判断材料を提供すること、意見を交わすことを通じて、相対的な感覚を得て行動できるように、学校教職員があってほしいなと思う。
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by walk41 | 2014-09-17 13:43 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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