学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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劣等感の裏返し?

ポッピーママさんから近況を伝えてもらった。相変わらず、「アウエイ感てんこもり」だそう、とても残念なことである。

教頭らしい、なぜこんな風になってしまったのだろうかと想像するに、かくも強がる必要があるほどに、劣等感が強いからなのかなと思う。

先日の授業で学生にこんな話をした。「自分が目指すべき姿になっているのであれば、ことさら教える必要は生まれない。たとえば、自分が楽器を弾けるのならば、それを見せることで、あんな風になりたいと他者を動機づけることができる。スポーツや技術者などもそうだろう。おしなべて芸事について、教えられるのではなく師匠から盗めと言われるのは、このことを指している。目指すべき姿を目の当たりにできるのだから、それをよく見て研究しなさいということだ。」

「翻って、たとえば社会の教員は、こんな大人になれたらいいなあと自身をモデルに示すことが難しい。社会の成り立ちや仕組みをひとつ説明することはできても、自分のような社会人になればいいんだなあと思わせることはできないから。このために、国語や道徳、数学などもそうかな、教える必要が出てくる。道徳を教える人が道徳的かどうかは必ずしも直結しない。この点で、教えることの多い教員は、生徒にとって自分はどんな位置を占めているのかを確かめることが大切だ。」

違う角度から。語りたがることと教えたがることは別物である。また、他者の声を受けて語りたがるかと、そうでなくでも語りたがるかも別物だろう。自分の知らないことを知っている、自分がしたことのない経験をしている、と他者に眼差しを注ぐことができれば、広い意味で尊敬の念を抱けるならば、まず他者に尋ねたくなる、そして話を聴いて「おもしろい」と思えるはずだ。それを受けて自分の経験や意見をかみ合わせることができる。対話の魅力はこの辺りにある。

つまり、教えたがる人が気をつけなければならないのは、1.自分のありようが他者に憧れを抱かせるものになっているか、この反対ではないか、を振り返ること(他者を追いかけてまで教えたがる人も、いなくはない)、2.教える前に他者から学ぶべきことはないか(どう考えても、自分は一人だが他者は無数である)、を確かめること、ではないだろうか。その際、劣等感が強いと、1.自分を見つめることを怖がり、2.他者を見つめる、つまり自分との優劣が気になる、ために、いずれのアクションも取れなくなるのだろう。

優越感を持てばいいとは思わないけれど、劣等感を持つことは一つの病である。自分がいかに「落ちこぼれ」か、恵まれないかと感じながら生きることは、回りを不健康にする。他者との関わりを、駆け引きや損得の問題におとしめるだけでなく、自身を満足させるために他者を利用する態度に陥ってしまう。

とりわけ、年齢を重ねるほどに、「わかったようなことを言わなければならない」立場にも置かれる。そこで「わからない」ということは、ちょっと勇気の要ることだけれど、「わからないということをわかっている」と開き直る強さの現れでもあると、自分を励ましたい。

というか、尋ねれば応えてくれるかもしれない人が近くにいること、そこから新たに学べることを、どうして幸運と思わないのだろうか。そんな人たちとの関わりの中でこそ、自分が生かされるということに気づいていないのだろうか。もったいないことだと思う。
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by walk41 | 2014-10-31 09:25 | 身体 | Comments(0)

盲人、象をなでることすらなく

日本教育方法学会編『授業研究と校内研修』(図書文化、2014)を読んだ。タイトルから期待なくはなかったので読みかけるも、外れだった。がっかり。

○調べるまでもなくわかるようなこと-授業研究は小学校、中学校、高校の順に取り組み頻度が高い、そんなこと、みんな知ってるって。

○まあそうやねえ、と反応せざるをえないようなこと-教師の専門性は、明確な「ヴィジョン」と強い「動機」と結びつき機能するなかにこそ見いだされるのでは、と。それって、どこが「教師」ゆえの専門性なん? さっぱりわからん。

○自画自賛、さらには礼賛のもの-21世紀型の学校教育への転換を促進する学びの共同体の学校改革は国内のみならず、…アジア諸国において注目され、学校改革の中心的勢力を形成している、のだそう。すごいね。その割には、「授業がつまらん」とぼやく中学生が、今もなんでこんなに多いんやろうか。

唯一、すでにそう言われていたのかと勉強になったのは、石井英真「授業研究を問い直す-教授学的関心の再評価」の末尾に、「ルーマンによれば、授業という営みは、本質的にはテクノロジー欠落の状況でありながら、まったくの偶然に委ねられているわけでもない。学習者の自己準拠にぶつかって原理的には因果関係が想定できないにもかかわらず、教師は『因果プラン』(主観的に想定された因果関係の図式、厳密に言えば常に誤りであるが、複雑性の縮減という行為の必然的前提をつくり出すもの)を想定し、それに従って行為している」という一文である。なるほど。

とはいえ、この論文は次のように終わる。「教えることに関わる知の『因果プラン』としての性格を自覚した上で、どのような形式で知を記述し共有していけばよいのか。…(中略)… 教えることと学ぶこととの関係の歴史的変遷を踏まえた上で、その先をどう構想するか。終えるという行為の構造的な困難を認識した上で、教えと学びの関係をどう再構築していけばよいのか。これらの原理的問題の検討を通じて、あらためて『教授学』としての教育方法学の成立可能性を問うていくことが求められる。」(以上、pp.46-47)

やっぱり、そんなところか。この先はまだわからん、って。これまで、どんな研究をしてきたん?

こんな辺りが研究の現状というのなら、大分県教育センター『一層やりがいのある校内研究のために』(2012年)、『一層やりがいのある校内研究のための手引書』(2014年)の方が、はるかに現実的で提案もなされている、良い作品やんかと思う。なのに、なんでこの本ではさっぱり言及されてへんのや。この学会という所では!? えっ、そんな風に言う態度がまさに自画自賛的やって? 
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by walk41 | 2014-10-30 15:46 | 研究のこと | Comments(0)

半分、半分

文化祭ほか、この間の学校行事が無事、成功裏に終わったことから、教職員のお疲れさん会が開かれた。

合唱コンクールに向けた、あるいは劇発表に至るまでの練習、はたまた各教室での展示の準備とこれらを巡る諸々のトラブル-そこでの葛藤、衝突と仲直り-を経ただろう生徒達の成長と活躍を喜ぶスタッフの様子を見て、良かったなあと感じたのだ。

一人の教員が話してくれた。「日頃の授業でわかった、と生徒が言ってくれることも嬉しいですが、こうした行事で生徒の大きな変化が見られることも、教師冥利に尽きます」と。「普段の授業と学校行事の教育課程上の時間配分は、九対一くらいですが、後者の重みも大きいですか」と問うた私に対して、「それはそうですが、気持ちの上では半分、半分ですね」と。この発言に、とても得心が言った。

教育課程上の、つまり授業時間や日数上は、確かに9:1くらいだろう。もっともこれは、「本番」の時間数を示しているのに過ぎない。しかし、たとえば文化祭の準備に掛ける労力は、学校としてそれに充てている時間数を大幅に上回るものだから、その比重はたとえば、7:3くらいかもしれない。そして行事当日に得られる達成感、充足感、満足といったものの大きさを勘案すると、その比率は5:5、つまり、半分ずつくらいになるのだろうな。

そんな風だとすると、特別活動関係の時数は表向きは限られているけれど、そこに投入する労力、そして実感する重みは、教育課程上のそれとは大きく違っている可能性を考えるべき、ということになる。

「授業は生き物」とも言われる中、そうではない学校の場が、ライブ、出たとこ勝負、意外でもあるがゆえの感動に囲まれ、それゆえに瞬間の、持続しない、儚いものでもある事実から成り立っていること、この事実を踏まえて学校について議論する必要がある。

「どうなるかわからないからこそ、おもしろい」「ハプニング続出の中、みんなよく頑張ってくれた」という感想が尊ばれるフィールドにおいて、大切にすべき、またそうしうる観察、評価、議論の作法とはどのようなものだろうか。

「衣服に身体を合わせる」のではなく、「身体に衣服を合わせる」方向へと舵を切ること、そんな今更ながら当たり前のことを確かめることから、議論を交通整理しなければならない。

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by walk41 | 2014-10-27 22:41 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

相関関係

山谷えり子国家公安委員長は24日の衆院内閣委員会で、「日教組(日本教職員組合)組織率と学力テスト結果は相関関係がある場合もない場合もある」と述べた。山谷氏は野党時代の2010年10月に国会で質問した際、「日教組の支配が強い所は全国学力調査をやれば下の方に並ぶ」と発言していたが、打ち消した。民主党の泉健太議員の質問に答えた。

山谷氏は10年10月の参院内閣委で、北海道、大阪、三重、高知、沖縄の5道府県を例に挙げ、日教組の組織率が高い地域は学力が低いとの見方を示していた。【田所柳子】 毎日新聞 2014年10月24日
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複数のケースについて、変数Aと変数Bの関係が認められる場合に、相関関係がある、と言うのであって、この県では相関するが、あの県では相関しない、とは言わない。その場合、二つの変数には相関関係が認められない、と言うのが正しい。

たとえば、ラーメンの価格とその味の良し悪しについて、「この店では、価格と味が相関するが、あの店では相関しない」と言えば、この人、おかしなことを言うてるなあ、と見られるのは間違いない。この場合、「ラーメンの価格と味に、相関関係は認められない(店によって、いろいろ)」というのである。

なのにこの御仁、こんな恥ずかしいことを発言するなんて。「私はいかに相関関係という言葉を理解してないか」を公言するものだ。ご自身の学力が低いことをまず確かめ、その上で何を議論するのかを整理しようね。
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by walk41 | 2014-10-26 16:56 | ことばのこと | Comments(0)

合唱

中学校の文化祭で生徒たちの合唱を聴く。

難しい課題曲だったようだが、どのクラスも懸命な練習の成果がいかんなく発揮されたものだった。また、自由曲はそれぞれのクラスの好みというか味のある選曲と演奏が行われた。いずれも充実した発表だったと思う。ちなみに、ピアノ演奏のできる生徒、指揮棒を振ることのできる生徒が、ちゃんといるというのも、すごいなあと関心させられる。これは中学校で普通のことかしら。

さて、プログラム最後に成績発表。金賞を受賞したクラスが2つ選ばれた。クラス名を呼ばれた瞬間の生徒たちの喜びよう、盛り上がりは結構なもので、涙ぐんでいる生徒も少なからず。頑張りが報われたと大いに感じたことだろう。

この成果をどのように言語化、数値化、客観化するのか。そんな野暮なことを言うでない。言葉にならない、数値で表現できない、主観的な受け止めと、移ろいやすく、儚い瞬間ともいうべき時間の出来事に価値があるのだから。

授業という日常的世界にPDCAサイクルは回らない、ただし、特別活動関係の非日常的世界ではそれが適用可能なところもある、とこの頃、話しているけれど、後者とて、客観化うんぬんできるのは、教育しようとするについてのみ。文化祭を経験した生徒たちが何を感じ、どう思ったかを掴まえることは無理な話である。そして、この部分こそ、生徒にとって意味のあることだ。「子どものための学校」を標榜するならば、この点を見て見ぬふりして学校論、学校経営論を語ることができない、と重ねて心しなければならない。
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by walk41 | 2014-10-24 16:18 | 音楽 | Comments(1)

仲間づくり

とくに小学校教員の文化ゆえだろうか。この言葉をときどき聞く。

言葉が論理を作り、論理が行動の指針となることを考えれば、用いている言葉のゆえんや背景、あるいは根拠を確かめることが大切なはずなのだけれど、先に言葉ありきというか、分析的でない場合が少なくないように思う。

仲間を、興味や利害の一致する集団と捉えるならば、これを義務教育段階の学校、なかでも学級に求めることは難しい。なぜなら、学級は同志の集まりでは決してないし、そこで経験することも普通教育が中心だから、何かを追求するものとしてイメージされにくいからだ。運動会や合唱コンクールなど、学級間や学級内で競争的環境が生まれることはあるだろうが、それとて一時的なもので長続きはせず、じきに雲散霧消である。成し遂げるべき課題が基本的に存在しない場で、どんな仲間づくりが可能というのだろうか。

言葉が成立する基盤を欠いているのに、それがあるはずだ、なければならない、と論理化するのは本末転倒、逆立ちした認識である。これは当人を悩ませる不幸の源泉で、時間と労力を著しく奪いかねない。なるべく避ける方が賢明だろう。

こうした「なんとなく」いいんとちゃう、ええことやね、あるいは反対に、いけないこと、だめだよそれは、と学校教育の世界に滑り込む言葉を疑うこと、どんな事実や観念として説明できるかを問うこと、そんな学力が、まさに学校を「生きる力」として、教員に求められる、と強く思う。


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by walk41 | 2014-10-21 08:06 | ことばのこと | Comments(0)

手の動き

NHKニュースは、小渕経済産業大臣の政治資金問題を特集。アナウンサーの横に取材担当の記者を座らせ、フリップボードを使って説明を続けている。

ところが、話をする記者が手に持ったサインペンを絶えず回しているのが、私には気になって仕方がない。まったく落ち着かないなあ。

テレビの前で緊張しているからなのか、普段からこんな感じの記者なのかわからないけれど、報道内容よりも気にさせてしまいかねない、おそらく本人はさほど気にしていないだろう手の動きがある。意外なものがコミュニケーションの道具になっているなあと思わされたことだ。授業中、手振り身振りが大きいとも言われる自分も、話す内容以上のことを学生たちに伝えているかもね。

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by walk41 | 2014-10-20 08:49 | 身体 | Comments(0)

玉入れ

こういうことは、運動会以外でなかなか経験できないのではないだろうか。

小さなカゴに紅白の玉を何個入れられるかを競う、玉入れゲーム。始まったと思ったら、あっという間に終わる。えー、もう終わりなの? である。

ある人からヒントをもらった。みんなが投げるのではなく、拾う人と投げる人を分業して、コントロール良さそうな人に玉を渡すという役割にも徹するのだ。落ちている玉を拾うために、腰をかがめる時間を節約できるし、腰をかがめ、姿勢を立て直して玉を投げ入れるために生じる、不確かさをきっと回避できるだろうと思ったから。

いざ本番、玉拾いに徹しようとする、も、拾った玉をなかなか渡せない。連携プレーが肝心だ。こうして雲ひとつない秋の一日が終わった。まずまず楽しかったかな。





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by walk41 | 2014-10-19 18:30 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

仲間づくり

教員研修にて演習の様子を見学する。

自分の意見を伝えることが苦手、という児童の状況に対して、あるグループが示した分析は、「安心して発表できる仲間づくりが十分ではない」というものだった。そのあと、少し話をする時間をもらったけれど、こうした教員の論理的な間口の狭さが、新しい実践を生み出す上での障壁になっていると強く感じる。

実践は論理によって支えられている。〜だから、〜でしょう、という理屈が、それぞれの行為を導くのである。だから、新しい実践をするには新しい論理が必要になる。それなくしては、借り物のhow-toに過ぎず、自身の実践を変えることに繋がらない。付け焼き刃の状態である。

たとえば反対の発想、仲間の前だからこそ、知り合っているがゆえに改めて発表しようという意欲が生まれないのでは? 同調圧力が発言を抑制しているのでは? と論理を立てることで、これまでの仲間づくり一辺倒から、異学年交流や異文化交流が重要なのでは、とアイディアが生まれる。これが新しい実践のヒントになるはずだ。

だから、教員間の議論で「そうだよね」「わかるわかる」となるのは、危険でもある。これまでの論理だけが幅を利かせて、他の論理的余地を与えない可能性があるからだ。「わかりやすい」授業が必ずしも良くないのと同様、「わかりやすい」話し合いは新しい論理を抑制する。これまでと同じ論理だから「わかりやすい」のだから。

つまるところ、教員の実践力なるものは、その論理力であることがわかる。「机上の有論」を大いに広げて、実践的にも「引き出し」のいっそう多い教員になってほしいな。





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by walk41 | 2014-10-17 15:45 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

迎合

四半世紀経っても今なお恨み節なのだから、己れの未熟さも極まれりだが、人が伸び伸びと、そして楽しく生きるための一つのヒントになるように思うから、以下、記したい。

大学院生から助手になる頃、長野の方にスキーに出かけた。そこで下手くそゆえ、恥ずかしながら、左足を骨折してしまったのだ。幸いにも単純骨折で、すぐに松葉杖なしで歩ける状態になったのだが、当時の私はいかに(自分で作り上げた部分を含めて)権威に弱かったか、迎合していたか、というのは、骨折したことを助手採用に関わる教授にすぐさま連絡したのだから。いま考えればまったく不思議なことだが、それに加えてなぜかお詫びまで申し上げたのだ。

法規違反をして警察のご厄介になったのならばいざしらず、スキー場で自分ひとり転けて骨を折った、それだけである。誰に当たったわけでもなく、器物損壊もなかった。また、学生の身分だったから職務上の問題などあろうはずもない。なのに、助手に採用される立場だからと、保身が働き、上のようなことをしてしまったのである。なんと愚かなことだったか。訳わからん。

こうしたあんぽんたんな大学院生に対して、当の教授はどのように振舞ったか。「骨を折ったそうだが、普通に歩け、クルマの運転もできるんだよね。じゃあ、仕事を始めるに何の問題もないよ」と答えるのが、今なら普通だとわかる。ところが実際はまったく反対だった。「謝って済まされる問題ではない。君の採用は一ヶ月遅らせることにしたから」と御仁は返したのだ。当時の大学人事は大らかで、教授の胸三寸のようなところがあったのだろう。4月と予定されていた採用がなんと5月に変更されたのだった。

くわえてこの教授は、「採用時期に関わりなく、4月1日から来て仕事をするように」と言い、また「(3月末で大学院を退学したことを指して、一ヶ月が空白になるので)次の半年の学費くらい払っておいたらいいのに」とも宣った。後者については、放っておいてほしいとカチンと来たものの、前者については、そんなもんかなと思っていたのだから(これはパワハラそのものなのにである)、己れの阿呆さ加減も大概にしろである。何しろ、一ヶ月間を無給で働いたのだから。どんだけあんぽんたんなことやろ。労働者の権利、なんて口にしていたのに。

その後、人事記録に残る「5月採用」を折に触れて思い出すに、苦い思いが戻って来たし、それから17年後、3月から教授に昇任と決まった時には「これで取り戻した」(なんのこっちゃ。まさに子どもである)と感じたことだった。あーあ、情けない。

だから、いつも思う。偉そうにしたらアカン、威張ったらアカン、って。歳を重ねるほどに社会的地位は上昇するし、そうでなくても年長者を尊ぶべきという規範が働きがちだから、「オレはエライ」と勘違いする者が現れやすい。年上だから、先輩だから、教授だから、とエラくなったかのように思い込む輩が出てくるのだ。他者に無茶を言い、無理を通し、自分大好き病に陥る。哀れである。何より傍迷惑である。

この頃は、むしろこうとも思う。 年数を経るほどに、社会的地位が高くなるほどに、人は世の理の難しさを知るべきなのだろうと。以前はわかったつもりだったものが、そんなわかりやすい話じゃないなあと分かったり、昔を知るからこそ、想像できなかったほどに今は変わってしまったなあと無常を知ったりと、これこそ年長の味と言うべきだろう、と。

経験の豊かな者、思慮の深い者こそ、わからないということをわかっている、とは、まさに実るほど首を垂れる稲穂かな、である。そんな「年寄」を目指して、楽しく学ぶ日を過ごしたいし、私の近くにいる人たちが、いたずらに恐縮したり、さらには迎合するようなことが決してないように努めたい。

ましてや自分のフィールドは大学である。そこで自由闊達な議論やわからない楽しさを味わえないなど、論理矛盾ではないか。大学をダメにするのは文部官僚だけではない。自身もその一部たりえると戒めなければならない。本当に。



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by walk41 | 2014-10-16 08:54 | 身体 | Comments(1)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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