学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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裾野を広げる交流を

嬉しいコメントもらった。いま、アフリカのブルキナファソで活躍する卒業生からだ。

確か体育も専門にしていた彼は、かの地で子どもたちとサッカーボールでも蹴っているのではないかと思う。まずは元気な便りをもらえて何より。

最貧国と言われる地で、学校は何ができるのかを考えたいとメッセージを受けたが、身体に気をつけて多いに励んでほしい。「豊かな国」日本での事実を解きほぐすことを通じて、他の世界の出来事を解釈すること、また日本のこれからをイメージすること、「与えるー与えられる」関係ではなく、見方を交わす、交流する関係として、互いに学ぶことができると思う。





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by walk41 | 2014-11-29 10:39 | Comments(0)

スクールバス

他者と話すと楽しいな、おもしろいなと思わされるのは、そうなんや、なるほどー、と学ぶことがたくさんあるから。

学校統廃合の話に及んだ時、こう仰った。「バス通学になると、子どもの体力が落ちるんですよ。」

がーん、そうだわなあ。本当に驚かされました。なるほどと思わされました。聞くと、体力低下を懸念する校長が、学校の1キロ手前でバスから子どもを下ろし、学校まで歩かせるというようなこともあったとか。

日々、学ぶこと多しです。まったく。



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by walk41 | 2014-11-28 09:34 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)

活動

学校教育の世界は、活動という言葉が好きだ。

話し合い活動、操作活動、言語活動、読書活動と活動のつく言葉を挙げれば、きっと枚挙にいとまがない。いっぱい遣われるほどに中身がないとも言える。

話し合いと話し合い活動の違いが何かと尋ねると、教員は何と答えるだろう。操作と操作活動も同様だ。

活動と言えば、何かまとまったことをしている、意図的で計画的なものである、という観念が滑り込む。こうした言葉が遣われるほどに、学校で起きている事実がそうではない、ということである。

事実が伴わないのに、大仰な物言いが跋扈しがちなのが、学校教育のお喋りである。子どもが何気に口を開けば、自分の言葉で表現する、という表現に化ける。自習と言えば済むのに、一人学び、といった言葉になる。ちなみに、手指を動かしているさまを、手遊びという習慣も学校にはある。

ともすれば二文字漢字を遣いがちな学校、何となくのイメージで語ることに対して、いかに抑制的でありうるか。児童生徒に対してコミュニケーション力の育成をというのであれば、教員が自身の言葉をいかに吟味できるか、がいっそう問われると思う。


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by walk41 | 2014-11-26 10:01 | ことばのこと | Comments(0)

教員のニーズ

もう四半世紀以上は続いているインカレゼミ、他流試合をすべく、今年は90名を越す7つの大学の学部生、院生、教員らが集う。

教育センター等での集合研修あるいは学校での校内研修が、教員のニーズに合っていないのではないか、という問題関心から、いかに両者をマッチさせるかという発表を聞いた、小学校教員5年目の感想が哀しくも面白かった。

…教員から言えば、どちらかと言えば「させられる」研修に対するニーズはなく、そうした研修を減らしてほしいというニーズがあります…、と。

なるほど、教員養成や研修のスタンダード志向は、やりたくないかもしれないけれどやらなければならない、と設定されるもの、これに対して、ニーズ志向は、それぞれの状況を受けて、やらなくてもいいかもしれないけれどやりたい、やるべきだと設定されるもの、と区分けすればわかりやすいかもね。

〜の課題に応える、と「与えられる」研修が増えているようにも見える昨今、「得たい」研修へといかに教員を促すことができるか、彼らの働き方を含めてさらに考えてみたい。

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by walk41 | 2014-11-24 09:07 | 研修のこと | Comments(0)

挙手

何年にもわたって留学生、とくに中国からの学生を受け入れているが、このことは知らなかった。

榊原・西村・森脇「児童・生徒の言葉は教員にどのように響いているのか」(2013)のレポートを受けて、議論をしていたところ、いささか脱線して、非言語の話に及んだときに、「えー、そうだったの?!」と知ったのだ。

いま中国各地から留学生が3人、ゼミに来ているが、彼らが同様に言うには、彼の国では、まず正しい姿勢というのが両手を机に載せて、腕を組む直前のような格好を取ることであり(右手の指は左手の肘に当たるくらいに、左手の指は右手の肘に)、次に、その状態から挙手をするとは、右手の肘を軸に右90度回転させる、つまり机に対して垂直に立てることだという。右手を机から離してはならず、机がない場合には、左手を机に見立ててまで、肘を据えるのだとか。「ひやー、それって、ウルトラマンのスペシウム光線やね」と思わず呟いてしまった。

日本では言わずもがな、腕の付け根から真っ直ぐに手を挙げること、できれば耳に右手がつくほどに垂直であることが望ましいとされている。同じ挙手という言葉なのに、こんなにも具体が違うなんて…。

非言語の世界の豊かさ、そして、言葉になっているから同じことを指すわけではないという言葉の問題、とても面白く感じたことだった。
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by walk41 | 2014-11-20 15:16 | 身体 | Comments(0)

年甲斐もなく

この頃、あれこれと業務が入ったこともあり、免疫力が落ちていたためか風邪を引き、それでもこなす業務はあるので…と気づいたら、すっかりお疲れモードです。

休日の今日も日がな職場、ふと気づけば明日が給料日ではありませんか。労働の対価としての給料というけれど、ふだん以上に嬉しいことだなあと。何十年もそうしているのに、改めて思います。働けること、給料を受け取れること、本当に有難いことです。

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by walk41 | 2014-11-16 18:45 | Comments(0)

教育ー学習の特性にかなった学校の発表会を

ある形式が定められていることは安心でもあるが、「例年どおりで」と怠惰の隠れ蓑にもなりうる。多くの小中学校で行われる校内研究の発表会は、その好例だろう。

なぜ授業の場面を見せようとするのか、普段の授業とは明らかに違うにもかかわらず、あたかもそのようかのように演出する。教員の発問を通じて生徒の態度や行動が変わるというモデルを説明しようとするために、そのように見せる工夫がなされる。これらは「やらせ」、あるいは見世物である。この気色悪さは、相当に演出されているのに、そうではないかのように見せられる点にある。中途半端と言ってもよい。

その気色悪さから抜け出すために、発表会は見世物だと割り切ってみよう。普段はいない人々に見られる条件を外せないのならば、正面切って、演出された発表にするのだ。今年度の取り組みの結果、どのような生徒が見られるようになったのか、体育や技術・家庭・美術や音楽などではイメージしやすいだろう。生徒の動作、活動、作品などを見せればよい。

また、国語や算数・数学、理科や社会といった座学が多い科目についても、学習発表会という形式は適っている。美しい書写をその場で見せてくれても、既に書かれたものを展示しておいても構わない。詩の朗読を聞かせてくれてもおもしろい。幾何の証明を生徒が聴衆の前で行うという感じでもよい。あるいは、生徒たちによる調査の結果を展示するとともに、そのブースに来た人とやりとりする、ポスターセッションを開くこともできるだろう。もちろん、教員の取り組みの記録をポスターや映像で見せる、テーマを定めて参加者と議論する、あくまでもやり方に拘るというのであれば、参加者を生徒に見たてて、模擬授業をやってもよい。

なぜ、授業という形にこだわらなければならないのか。授業の自己言及的性格、そこでの観測や測定の困難などを考え合わせると、授業でなくても、というよりも、授業という形で発表会をすることの問題がむしろ多い。学校での発表会に授業という形式は邪魔ですらある。

もっと、教育や学習の性質にふさわしい発表の仕方を考えよう。一回授業を見たからと言って何が変わるわけでもまた分かるわけでもないのだから。たとえば一年近くかけて取り組んだことが研究の軌跡であり、それを分析、解釈したものが発表なのだから、研究と発表を分けて捉えよう。「研究発表」と繋がっている言葉を切り離してみよう。そうすれば、自分たちがやりたくなる研究と発表になるはずだ。やりたくない、研究主任になりたくない、と思う自分の感性を信頼して、新しい校内研究とその発表をイメージしてみよう。それこそが、昨今かまびすしい「思考力、判断力、表現力」を教員について問うものでもあるだろう。

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by walk41 | 2014-11-16 06:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)

「江戸しぐさ」

江戸時代、100万人を数えたという人口密集地域だった江戸で、他者への気遣いとして成立していたという「江戸しぐさ」。wikipediaによると、1981年の読売新聞で初めて紹介されたというが、このマナーの存在を裏付ける資料が、見つかっていないことから、創作あるいは捏造ではないかとも評価されている(一つだけ挙げれば、秘密結社のマナーであったがゆえに資料が残っていないとしながら、それが人々に定着していたというのはまったく矛盾する)。なおこの夏、原田実『江戸しぐさの正体-教育をむしばむ偽りの伝統』(海星社新書、2014)という本も出版されている。

実証されていないのに、あったかのように語るとすれば問題であり、ましてや「研究者」と目される人が述べる際には細心の注意が必要だと、自戒を込めて思う(矢野智司編著『マナーと作法の人間学』東信堂、2014、では、香川大学の毛利猛が「江戸しぐさ」があったとして、同大学附属中学校の生徒向けの朝礼で話をしたと記している)。「わかりやすい話」は実は根拠の薄弱な場合がある、という教訓は得られるだろう。現実は自分たちの思っているものとは多分に異なっており、「わかりやすい」のは自己流に解釈するが故のことでもあるからだ。

それにしても、「江戸しぐさ」の一つとされている「時泥棒」はおもしろい。「昔、江戸では『時泥棒は10両の罪』といった。10両は今のお金で100万円ぐらいに当たる。10両を盗むと死刑になった。時泥棒はそれほどの重罪と認識されていた。なぜ、江戸の人は時間を大切にしたか。日頃、できることから地道に積み上げなければ相手に迷惑をかけるし、やがて自分も信用を失うことを実感していた。定刻より5分前を合言葉にしたい。」(NPO法人、江戸しぐさHPより引用)だそうだ。

でも考えてみよう。江戸時代、人々はどのように時間を知ったのか、腕時計をしていたのか。そんなことはあり得ない。街中では交替で鐘がつかれていたが、それでも約2時間に1回である。夜の10時か12時か、はたまた夜中の2時かを区別するのは難しかっただろう(油をともす余裕のなかった庶民はさっさと寝ていたから、どの時間でも関係なかっただろうけれど)。「明け六つ」「暮れ六つ」など、掌が見えるかどうかで昼と夜を区分していたほどの大らかさ、また時刻は不定法だったから、昼の長い夏至の昼の一刻はいまの160分、これに対して夜は80分に当たるほどの幅広さだ。

つまり、時間の観念がこれほどアバウトだった時代に、M.エンデの『モモ』よろしく時間泥棒は想定が難しいこと、そもそも時間間隔が季節によって少なからず違っていたのに「時間を守る」は不可能に近かったこと、がわかる。にもかかわらず、こうしたトンデモ話が、まことしやかに「何となく」持ち込まれる怖さを知らなければ、と強く思わされた。

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by walk41 | 2014-11-11 16:16 | 身体 | Comments(0)

分業できないからこそ

中学校の教員と話す。早く帰ってくださいと学校管理職が口酸っぱく言っているのに、なぜそれが教員にとっては難しいのだろうか、というのがきっかけだ。

民間会社にも勤めたことがある彼は、このテーマの開口一番、「教職って、分業ができない仕事ですからね」と私にとっては端的に、そして我が意を得たりという発言をした。まさしくそうだと思う。

分業が難しいから、ある固まりの仕事を誰かが担うことになる。業務を細かく分けて、構成員になるべく均等になるように配分することが、なかなかできないからだ。仕事の固まりが大きいと、担った人の負荷は大きくなり、担わない人との差が顕著となる。また、分業できないとは担当者の裁量が大きくなることも意味するから、人によっては他の人から見て「そこまでしなくても」ということも生じる。自分なりの納得や得心がより大きな位置を占めるようになるのだ。かくして、学校では、「優しく」「丁寧な」あるいは「要領の悪い」教員の場合、いっそう業務量が拡大し、多忙や長時間労働が慢性化する、と説明できるのではないだろうか。

くだんの教員はこうも話した。「高度にプライバシーが含まれる内容なので、なかなかアウトソーシングができないです」。これももっともだ。児童・生徒の人格に関わる仕事、つまり、家庭の事情、本人の性格や行動あれこれを知ってこそ、関われる仕事でもあるから、「この部分は頼むわ」と、なかなかならないのだろう。

適正な労働時間の実現は、学校教員についても久しく言われている喫緊の課題である。だからこそ、教育という労働はどのように行われているのか、これにふさわしい業務のあり方、さらにはその評価のあり方はどのようか、について丁寧に観察、考察する必要があると思わされる。
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by walk41 | 2014-11-10 10:33 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

実技だったら、なおさら学習発表会にしよう

研究発表授業のあり方について、前の拙ブログで、実技系の授業ならば、いま専らのスタイル、公開授業としてありうるかも、と記した。

この続きを考えているのだが、生徒の変化を客観的に観察、測定できる余地の多い実技系ならば、なおさら、授業という形に拘ることなく、生徒の活躍の様子を見せる学習発表会でいいではないかと思う。お客さんに見せたい成果が、どのような発想、指導、練習などを経て、今日の晴れの舞台を迎えることができているのか、を見せるのだ。

一連の競技会、試合は、いずれも日頃の積み重ねの成果を発表する場として位置づけられている。試合の場で、コーチや監督がどのように生徒を指導しているのか、これを受けて生徒がどんな反応をしているのか、を見せるようなことはない。それらの結果として、試合当日があるのだから。

だから、ある指導方法が有効ではないかと言いたいのであれば、その具体を経緯を含めて映像やポスターなどにまとめ、これと並行して生徒たちによる発表の時間を設けるという組み合わせがよいだろう。教員によるスピーチなんかもあればいいな。

内容にもよるだろうが、おそらく一回の授業だけで結果や効果の確かめられることは少なく、見学者も授業を観ながら、これまでの経緯を冊子から読み、また想像するのだろうから、発表当日をふだんの授業のような格好で行う意味がどれほどあるのだろうか。大いに疑問だ。

かくして、座学系は言うに及ばす、実技系の教科についても、いつもの授業かのようなスタイルで公開する意味は乏しく、むしろ「やらせ」になる点で弊害が大きい。「これまでこのスタイルでやってきたから」と、前例踏襲ではなく、新しい方向へと革新していくこと、「21世紀を生きる子どもたち」とか「グローバル社会における日本」といった大仰な言い方を好むのならば、教員自身がいかに旧態依然から脱しているかを見せることから始まるというべきだろう。

それとも、こんな小さな勇気すら、多くの教員は持っていないということなのだろうか。
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by walk41 | 2014-11-09 17:34 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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